第81話 銀葉商会、今度は正式文書を出す
追加布の作成は、さらに一日延びた。
朝、俺は作業小屋の前で、厚手の布を前にして深呼吸をした。
隣にはシルフィ。
机の上には、ぷる太。
そして、丸、バツ、四角。
条件は読み上げた。
エナだけ。
同等品。
強化しない。
使用記録を取る。
複数配置しない。
身体に固定しない。
異常があれば止める。
俺本人はリーフェン家へ行かない。
全部、声に出した。
それでも、最後に俺は言葉を詰まらせた。
「……良くしようと、しない」
その一文だけ、どうしても胸に引っかかった。
良くしたい。
それは本当だ。
エナの夜を少しでも短くしたい。
エリオの顔も、まだ頭の中に残っている。
眠れない子供がいるなら、少しでも楽にしたい。
それでも、今日はエナのための布を作る日だ。
エリオのためでも、王都の誰かのためでも、銀葉商会のためでもない。
エナが「一枚なら、たぶん平気」と言った、その一枚。
同じように、同じ程度に、同じ場所で使うための布。
俺は布へ手を伸ばしかけて、止まった。
ぷる太が、四角へ寄る。
「ぷる」
「……まだ?」
「ぷる」
シルフィが記録板を見ながら言った。
「師匠、今の顔は『もっと静かにできないか』を考えましたね」
「はい」
「記録します」
「はい」
「今日は、作成延期にしましょう」
俺は、思わず彼女を見た。
「また延期?」
「はい」
「条件は読めました」
「読めました。でも、最後の一文で揺れました」
「少しだけです」
「少しでも、同等品には混ざります」
シルフィの声は、責めていなかった。
ただ、まっすぐだった。
俺は布から手を離した。
「……分かりました」
自分で言って、少し悔しかった。
でも、少しほっともした。
そのほっとした気持ちがあるうちは、たぶん作らない方がいい。
マルタさんが作業小屋の外から顔を出した。
「延期?」
「はい」
「よし。じゃあ朝飯だね」
「今ですか」
「今だよ。作らないって決めたら、食べる。空いた手に余計な善意を握らせない」
言い方が独特だが、妙に納得してしまった。
ぷる太は丸へ寄った。
「ぷる」
食事判定だけはいつも早い。
◇
その日の昼前、王都ギルド経由で一通の厚い封書が届いた。
封蝋には、見慣れた銀の葉。
銀葉商会だった。
ただし、今回は直接馬車で来たわけではない。
夜でもない。
王都ギルドの確認印が押され、騎士団の受領印もある。
表書きには、丁寧な文字でこう書かれていた。
『落ち着き布に関する正式相談書類一式』
俺は、外部対応広場の机の前で、その文字を見つめた。
「正式に来ましたね」
シルフィが言う。
「正式に来たから丸?」
ミナが聞く。
ぷる太は四角へ寄った。
「ぷる」
「正式でも四角?」
「はい」
シルフィは頷いた。
「正式な形で来たから読む。ですが、丸ではありません」
マルタさんが腕を組む。
「丁寧な紙ほど、ちゃんと読まないとね」
「雑な紙より危ないですか」
俺が聞くと、マルタさんは即答した。
「危ないよ。雑な紙は雑って分かる。丁寧な紙は、一見まともに見える」
村長も頷いた。
「整って見える文書ほど、抜け穴が見つけにくい」
シルフィはその言葉をすぐ記録した。
『整って見える文書ほど危ない』
ぷる太が丸へ寄った。
「ぷる」
また板になりそうな言葉だった。
村長は封書を机に置く。
「読む前の確認だ」
全員が自然と姿勢を正した。
最近、この「読む前の確認」が当たり前になっている。
俺は少し苦笑した。
昔なら、届いた書類はすぐ読んで、すぐ答えようとしていた。
今は違う。
読む前に、自分たちを縛る。
それが村の安全になっていた。
シルフィが確認を読み上げる。
「一つ。正式文書でも、その場で返答しない」
「はい」
「二つ。症例資料があっても、落ち着き布提供を約束しない」
「はい」
「三つ。銀葉商会への同情、または怒りで判断しない」
「はい」
「四つ。患者名や家族事情を読んでも、師匠は作業小屋へ行かない」
「……はい」
ぷる太が四角へ寄った。
「ぷる」
「今の返事、遅かったですか」
「少しです」
シルフィは容赦なく言う。
マルタさんが笑った。
「正直でよろしい」
村長が最後に言った。
「五つ。読んだ後、腹が減っていたら飯を食ってから考える」
「それ、正式項目ですか?」
俺が聞くと、村長は真顔で頷いた。
「最近、重要度が増している」
ぷる太が丸へ寄った。
「ぷる」
食事判定は今日も強い。
◇
封書の中身は、たしかに整っていた。
まず、銀葉商会からの謝罪文。
夜間に患者を伴ってリーフェル村へ直接訪問したことについて、村側に負担をかけたことを詫びる内容だった。
続いて、今回の正式相談の趣旨。
商会が支援する患者の中に、夜間睡眠困難と魔力不調を訴える者が複数いること。
そのうち一名について、王都医療院の診断書、保護者同意、担当医療者名、使用観察案を添えて、落ち着き布の適用可能性を検討してほしいというもの。
俺は、少しだけ目を見開いた。
「今度は、ちゃんと揃えてきていますね」
シルフィは文書をめくりながら言う。
「揃えています。ですが、揃えていることと安全なことは同じではありません」
「はい」
彼女は症例資料を読み上げた。
「対象者、エリオ・ハルツ。九歳。王都南区在住。魔力回路の軽度不安定。夜間睡眠困難。発熱を伴う。王都医療院で精密検査予定。担当医療者、リサ・ベルナー。保護者同意あり」
エリオ。
また、胸が痛む。
昨日、王都医療院へ向かった男の子。
布はもらえないの、と聞いた声。
俺の手が机の下で動いた。
すぐに、ぷる太が四角へ寄る。
「ぷる」
「分かってる」
小声で返すと、シルフィがこっちを見た。
「師匠。今、揺れましたね」
「揺れました」
「理由は?」
「エリオの名前を聞いたからです」
「記録します」
俺は頷いた。
もう隠す方が危ない。
マルタさんが、俺の前に水を置いた。
「飲みな」
「ありがとうございます」
「水は丸」
ぷる太が丸へ寄る。
「ぷる」
完全に連携が取れている。
◇
資料は本当に細かかった。
王都医療院の診断書。
睡眠記録。
発熱記録。
魔力回路の簡易図。
エリオ本人の聞き取り。
保護者の同意書。
担当医療者リサの意見書。
ここまでなら、少なくとも読む価値はある。
だが、シルフィは途中で手を止めた。
「危険語があります」
空気が変わった。
ミナが身を乗り出す。
「危険語?」
「はい」
シルフィは文書の一部を指した。
「『落ち着き布は、銀葉商会管理下において保管し、必要に応じて提携医療院へ貸与する』」
ぷる太がバツへ寄った。
「ぷる」
村長が目を細める。
「商会保管か」
シルフィは赤い墨で、その部分に線を引いた。
「バツです」
マルタさんが言う。
「布は医者より商会が持つってことだね」
「はい」
「駄目だね」
「駄目です」
シルフィは次を読む。
「『患者選定は、銀葉商会および提携医療者による審査の上で行う』」
ぷる太が再びバツ。
「ぷるっ」
俺も眉を寄せた。
「商会が患者を選ぶ?」
「はい。商会が前に出ています」
シルフィはまた赤線を引く。
「バツです」
次。
「『提供にかかる費用については、患者家庭の負担軽減を目的として銀葉商会が一時立替え、後日必要に応じて費用回収を行う』」
マルタさんが低く唸った。
「来たね、金」
村長も腕を組む。
「費用回収」
ぷる太は、バツの木片に体を押しつけた。
「ぷるる」
ミナが顔をしかめる。
「ぷる太、すごく嫌そう」
「これは嫌でよい」
村長が言った。
シルフィは赤線。
「バツです」
俺は文書を見ながら、少し戸惑っていた。
「でも、患者家庭の負担軽減とあります」
言った瞬間、全員の視線が俺へ来た。
しまった、と思った。
だが、言ってしまったものは仕方ない。
「いや、えっと……悪い言葉には見えなかったので」
シルフィは責める様子なく頷いた。
「そこが危険です」
「はい」
「負担軽減自体は良い言葉です。ですが、その後に『費用回収』があります。商会が立て替えれば、患者家庭は商会へ借りを作ります。落ち着き布が商会の支配下に入ります」
マルタさんが補足する。
「腹を空かせた人に飯を出すのはいい。でも、あとで高い皿代まで請求されたら困るだろ」
「分かりやすい」
「台所は世界の基本だからね」
ぷる太が丸へ寄った。
台所例えへの信頼が厚い。
◇
読み進めるほど、文書の形は整っているのに、中身の危険が見えてきた。
商会保管。
商会選定患者。
費用回収。
使用記録の商会共有。
今後の症例拡大を見据えた協力体制。
必要に応じた追加作成相談。
どれも、一つ一つは丁寧な言葉で書かれている。
しかし、並べて見ると分かる。
銀葉商会は、落ち着き布を「医療支援の仕組み」に組み込みたいのではない。
自分たちが管理できる流れの中へ入れたいのだ。
俺は、ようやくそれを言葉にできた。
「これ、布を助けに使う話に見えて、布を商会の仕組みに入れる話ですね」
シルフィが頷いた。
「はい」
村長も言う。
「ようやく見えたか」
「はい。遅いですか」
「見えただけよい」
マルタさんが笑った。
「アレンは最初、患者家庭の負担軽減で揺れたもんね」
「はい」
「でも、そこで口に出したのは良かったよ。黙って揺れると危ない」
「最近、そればかりですね」
「そればかりだよ。大事だからね」
シルフィは、赤線を引いた箇所を一覧にした。
『商会保管』
『商会患者選定』
『費用回収』
『使用記録の商会共有』
『今後の症例拡大』
『追加作成相談』
『提携医療院への貸与』
すべて赤い。
板の上が、赤い線だらけになる。
ミナがそれを見て、ぽつりと言った。
「ちゃんとしてる紙なのに、赤いっぱいだね」
「そうです」
シルフィは頷いた。
「ちゃんとしているように見える紙ほど、赤が隠れています」
ミナは真剣な顔で言った。
「じゃあ、新しい板?」
ぷる太が丸へ寄った。
「ぷる」
村長はもう板を取りに行っていた。
◇
新しい板には、こう書かれた。
『きれいな紙でも、赤を探す』
ミナはその下に、小さく書き足した。
『いい言葉の後ろも見る』
マルタさんは、それを見て頷いた。
「うん。これ、子供にも分かるし、大人にも刺さるね」
「刺さる板って何ですか」
俺が聞くと、マルタさんはにやりと笑った。
「効く板だよ」
シルフィは正式表現として、別紙にこう書いた。
『整った形式、丁寧な文面、救済目的の表現があっても、保管権、選定権、費用、記録共有先、追加作成条件を必ず確認する』
長い。
だが、必要だった。
村側名は、ミナ案で、
『いい言葉の後ろも見る紙』
になった。
ぷる太判定は丸。
最近、ぷる太はミナの分かりやすい言葉に甘い気がする。
いや、実際分かりやすいから正しいのだろう。
◇
午後、返答案を作ることになった。
銀葉商会の正式文書を完全拒否するか。
症例相談だけは受けるか。
そこが難しかった。
エリオの資料は、かなり整っている。
担当医療者リサの意見書も誠実だった。
彼女は、商会主導ではなく王都医療院主導のもとで、落ち着き布の適用可能性を慎重に検討すべきだと書いていた。
つまり、相談そのものを丸ごとバツにすると、エリオ本人への道も閉じてしまう。
だが、商会主導を受け入れれば危険だ。
村長は、机に手を置いた。
「相談は残す。商会主導は切る」
シルフィが頷く。
「返答案を作ります」
文面は、慎重に作られた。
まず、エリオの正式資料を受領したこと。
症例相談そのものは拒否しないこと。
ただし、落ち着き布は商会保管不可。
患者選定は商会不可。
費用回収を伴う仕組み不可。
使用記録の商会共有不可。
提携医療院への貸与不可。
今後の症例拡大や追加作成を前提とした協力体制不可。
検討を続ける条件として、
王都医療院が主導すること。
担当医療者がリサであること。
ギルドまたは騎士団が立ち会うこと。
商会は費用支援を行う場合でも、患者選定、布保管、使用記録管理に関与しないこと。
費用支援は寄付扱いとし、患者家庭への後日請求をしないこと。
布を使うかどうかは、リーフェル村、王都医療院、ギルドまたは騎士団の三者確認後に判断すること。
俺はその返答案を聞きながら、何度も頷いた。
エリオを切り捨てない。
でも、銀葉商会には渡さない。
その線が見えた。
「村側要約は?」
ミナが聞く。
最近、必ず聞くようになっている。
シルフィは少し考えた。
「お金は後ろ。医者と本人が前」
マルタさんが手を叩いた。
「いいねぇ」
村長も頷く。
「それを板にしろ」
ミナが嬉しそうに書く。
『お金は後ろ。医者と本人が前』
ぷる太が丸へ飛んだ。
「ぷる!」
「ぷる太、大賛成だね」
ミナが笑う。
俺はその板を見て、胸の中で何かが整うのを感じた。
お金は後ろ。
医者と本人が前。
その順番が、昨日の馬車では逆になっていた。
商会が前に出て、医療者が押し下げられ、本人は期待を背負わされていた。
だから危なかった。
順番を戻す。
それが今回の返答だった。
◇
夕方、シルフィが最終文面を整えている間、俺は外部対応広場の端に座っていた。
目の前には新しい板。
『きれいな紙でも、赤を探す』
『いい言葉の後ろも見る』
『お金は後ろ。医者と本人が前』
板がまた増えた。
問題も増えている。
でも、今日の板は少し違う。
ただ断るための板ではない。
見抜くための板だ。
シルフィが隣に座った。
「師匠、今日は作業小屋へ行きませんでしたね」
「行きたい気持ちはあります」
「エナの布ですか」
「うん。でも、今日この文書を読んで、また少し揺れた」
「エリオさんの件ですね」
「はい」
俺は正直に言った。
「資料が整ってくると、作ってもいいんじゃないかって思いました。もちろん、エリオ用じゃなくて、エナ用を作る日だったはずなのに」
「はい」
「俺の中で、混ざってる」
「なら、今日も作らない方がいいです」
「そう思います」
シルフィは、ほんの少し安心したように息を吐いた。
「師匠が自分で言えたので、丸寄り四角です」
「完全な丸じゃない?」
「作っていないので丸。まだ揺れているので四角」
「判定が細かい」
「ぷる太式です」
ぷる太がどこかから現れ、丸と四角の間へ寄った。
「ぷる」
「本家も認めた」
俺は笑った。
シルフィも、少しだけ笑った。
その笑いの後、彼女は真面目な顔に戻った。
「師匠。銀葉商会は、今度はかなり整えてきました」
「うん」
「次は、もっと整えてくるかもしれません」
「もっと?」
「はい。医療院主導に見える形。保護者同意もあり、症例資料も詳細で、商会は後ろに下がっているように見える形」
「それなら、受ける可能性はある?」
「あります」
シルフィははっきり言った。
「でも、その時も見ます。誰が保管するのか。誰が選ぶのか。誰が記録を見るのか。誰が費用を持つのか。誰が得をするのか」
「誰が得をするのか」
「はい。助かる人以外に、大きく得をする人がいないか」
その言葉は、重かった。
助ける話の中で、得をする誰かが隠れている。
それが、今回の銀葉商会だった。
そして、たぶんその後ろには、もっと大きな誰かがいる。
まだ俺たちは知らない。
でも、気配はある。
◇
夜になる前に、返答書は王都ギルドへ送られた。
銀葉商会へ直接ではない。
必ずギルドと騎士団を通す。
それも、今日の確認事項に入った。
村長は封をして、門番老人へ渡す。
「明日の朝一番で出せ」
「分かった」
「夜に来る者があれば?」
門番老人は、門の板を指した。
「夜は布の話をしません」
村長は頷いた。
「よし」
ミナが得意そうに言う。
「それ、私の板!」
「そうだな」
門番老人が少しだけ笑った。
「よく効く板だ」
ミナは照れたように笑った。
俺は、その様子を見ながら思った。
この村の強さは、こういうところにある。
村長の厳しさ。
シルフィの記録。
マルタさんの台所。
門番老人の短い言葉。
ぷる太の丸、バツ、四角。
ミナの分かりやすい板。
全部が合わさって、俺を止め、村を守り、でも助ける道を閉じない。
俺一人では絶対に無理だった。
たぶん、俺一人なら、銀葉商会の文書を見てこう思っていた。
資料が揃っている。
患者がいる。
医療者もいる。
なら、試してもいいんじゃないか。
そうして、商会保管や費用回収の赤線を見落としていたかもしれない。
俺は、外部対応広場の板を見た。
『いい言葉の後ろも見る』
本当に、その通りだった。
◇
その夜、王都へ向かう封書が門番小屋に置かれた。
明日の朝、ギルド便に渡される。
俺は眠る前に、もう一度だけ外部対応広場へ行った。
作業小屋ではない。
板を見るためだ。
ぷる太もついてきた。
「ぷる太」
「ぷる?」
「エナの布、いつ作れるかな」
ぷる太は少し考えた。
丸へ行きかけて、四角へ戻る。
「ぷる」
「まだ四角か」
「ぷる」
「そうだな」
エナのための追加布。
エリオの正式資料。
銀葉商会の赤い文書。
グレヴィール伯爵家の影はまだ知らないが、何かが近づいている気配。
全部が俺の中で混ざっている。
だから、まだ四角。
焦るな。
急いでる時ほど布じゃない。
俺は、板の文字をもう一度読んだ。
「お金は後ろ。医者と本人が前」
ぷる太が丸へ寄った。
「ぷる」
「うん。いい板だ」
その時、遠くでフクロウが鳴いた。
夜は静かだった。
今夜、馬車は来ていない。
それだけで、少しありがたい。
けれど、静かな夜の向こうで、次の文書が作られているかもしれない。
より丁寧で、より整っていて、より断りづらい文書が。
俺は四角の木片を握った。
「次も、赤を探そう」
「ぷる」
ぷる太は丸と四角の間へ移動した。
見つけられるかどうかは、まだ分からない。
でも、探すことは決められる。
その夜、俺は作業小屋へは行かなかった。
布は、まだ作らない。
助けたい気持ちを、今日も一晩、村に預けた。




