第80話 アレン、助けたい気持ちと向き合う
その夜、俺は眠れなかった。
外部対応広場の板は、昼のうちに整理された。
『夜は布の話をしません』
『急いでる時ほど布じゃない』
『落ち着き布は救急道具ではありません』
『水と休む場所は出せます。布とは別です』
『子供を連れてきても、布は出しません』
どれも必要な言葉だ。
必要だからこそ、何度も読んだ。
何度も読んで、分かったつもりになった。
それなのに、夜になって布団へ入ると、板の文字より先にエリオの顔が浮かんだ。
熱で赤くなった頬。
毛布を握る細い指。
布はもらえないの、と聞いた声。
そして、馬車の中から聞こえた咳。
あれが耳から離れない。
俺は寝返りを打った。
天井の木目が暗闇の中にぼんやり見える。
外では虫が鳴いている。
村は静かだった。
静かな村の中で、俺だけがやけに騒がしかった。
頭の中が。
胸の奥が。
もし、俺が布を出していたら。
もし、短時間だけ試していたら。
もし、それでエリオが少し眠れたら。
そう考えた直後、別の考えが浮かぶ。
もし、合わなかったら。
もし、苦しませたら。
もし、銀葉商会が「使えた」と言って、次の子を連れてきたら。
もし、俺のせいで村がもっと狙われたら。
答えが出ない。
丸にもバツにもならない。
ずっと四角のまま、胸の中で転がり続ける。
俺は布団から起き上がった。
水でも飲もう。
そう思っただけだ。
……たぶん。
たぶん、水を飲むだけのつもりだった。
けれど、足は作業小屋の方へ向きかけていた。
気づいた瞬間、自分で足を止めた。
廊下の暗がりで、息を呑む。
怖い。
自分の足が怖い。
「……行かない」
小さく声に出した。
「今日は、布に触らない」
そう言った直後、足元で何かがぽよんと揺れた。
「ぷる」
「うわっ」
変な声が出た。
暗がりに、ぷる太がいた。
しかも、丸、バツ、四角の木片を小さな布に包んで引きずっている。
「ぷる太……いつからそこに?」
「ぷる」
「見張ってた?」
「ぷる」
「そうか……」
俺は廊下にしゃがみ込んだ。
ぷる太は、まず四角の木片を俺の前に押した。
「行きたいけど行かない、だから四角?」
「ぷる」
「正解なのか」
ぷる太は次に、バツの木片を少しだけ前に出した。
「布に触るのはバツ?」
「ぷるっ」
「強めだな」
最後に、丸の木片を水差しの方へ押した。
「水を飲むのは丸?」
「ぷる」
「ありがとう」
俺は小さく笑った。
笑ったけれど、胸の重さは消えない。
水を飲むために台所へ向かう。
すると、台所には灯りがついていた。
マルタさんがいた。
鍋の前に座って、何かを温めている。
「やっぱり起きたね」
彼女は振り返らずに言った。
「……分かってたんですか」
「分かるよ。あの顔で眠れる方がどうかしてる」
「そんな顔でした?」
「うん。夜に考えすぎる顔」
マルタさんは椀に温かい麦湯を注いだ。
湯気が立つ。
香ばしい匂いがした。
「はい。飲みな」
「ありがとうございます」
「作業小屋に行こうとした?」
俺は椀を受け取りながら、少し黙った。
嘘をついても仕方ない。
「足が、そっちへ向きました」
「触った?」
「触ってません」
「なら丸寄り四角だね」
ぷる太が台所の入口で、丸と四角の間に移動した。
「ぷる」
マルタさんはそれを見て笑った。
「ほら、判定役も同じ」
「俺、完全に危険人物扱いですね」
「危険人物っていうか、善意の暴走馬だね」
「馬……」
「走り出す前に、みんなで綱を持ってる」
俺は椀を両手で包んだ。
温かい。
飲むと、少しだけ喉が緩んだ。
「マルタさん」
「うん」
「俺、昨日からずっと、見たのに助けなかったって思ってます」
言葉にすると、胸がまた痛んだ。
「エリオを見た。咳を聞いた。熱があるのも分かった。でも、布を出さなかった。近づかなかった。俺は……助けなかったんじゃないかって」
マルタさんはすぐには答えなかった。
鍋の火を弱め、俺の向かいに座る。
「じゃあ、昨日したことを一つずつ分けようか」
「分ける?」
「そう。頭の中で全部まとめるから苦しくなるんだよ。できたこと、しなかったこと、これから考えること。三つに分ける」
ぷる太がぴくりと動いた。
そして、丸、バツ、四角を机の上に並べた。
マルタさんが眉を上げる。
「おや、やる気だね」
「ぷる」
「じゃあ、ぷる太先生に任せようか」
ぷる太は少し誇らしげに膨らんだ。
マルタさんは丸の木片を指さした。
「まず、できたこと」
俺は考えた。
「水を出した」
ぷる太が丸へ寄る。
「毛布を出した」
丸。
「休憩小屋を使ってもらった」
丸。
「温石と、スープも」
丸。
「王都ギルドへ連絡した」
丸。
「王都医療院へ繋いだ」
丸。
「シルフィたちが書類を見た」
丸。
「商会付きの治癒師さんが、現時点では布の使用判断不可って言えた」
ぷる太は少し考え、丸と四角の間へ寄った。
「それは丸寄り四角?」
マルタさんが言う。
「その人が言えたのは丸。でも、商会がそれを最初から聞いてれば、もっとよかった。だから四角混じりだね」
「なるほど」
俺は、少しだけ息を吐いた。
思ったより、できたことはあった。
何もしなかったわけではない。
次に、マルタさんはバツの木片を指した。
「しなかったこと」
「布を出さなかった」
ぷる太がバツではなく、四角に寄った。
「あれ?」
俺が戸惑うと、マルタさんが言った。
「それは『しなかったこと』だけど、悪いことじゃないからバツじゃないんだよ」
「じゃあ、どこ?」
ぷる太は四角を押した。
「ぷる」
「危ない助け方をしなかった、だから四角?」
「ぷる」
マルタさんが頷く。
「そう。バツは、やっちゃいけないこと。昨日の村は、やっちゃいけないことをしなかった。だから、バツじゃなくて四角で止まれた」
俺は、四角を見つめた。
しなかったことは、全部バツではない。
それだけで、少し見え方が変わる。
「俺が馬車に近づかなかった」
ぷる太は四角へ。
「俺がエリオに直接水を渡さなかった」
四角。
「俺がその場で『作ります』と言わなかった」
ぷる太は強く丸へ寄った。
「これは丸なんだ」
「ぷるっ」
マルタさんが笑う。
「ぷる太先生、そこははっきり丸だって」
俺は、思わず笑った。
少しだけ。
でも、笑えた。
最後に、マルタさんは四角の木片を指した。
「これから考えること」
「エリオの症例資料が正式に来たらどうするか」
四角。
「銀葉商会がまた来たらどうするか」
四角。
「貴族家が絡んでいるかもしれないこと」
四角。
「エナの追加布をいつ作るか」
四角。
そこで、俺は言葉を止めた。
エナ。
エリオのことばかり考えていたが、エナの追加布の話も止まっている。
作りたい。
でも、今作るのは怖い。
その気持ちはまだ変わっていない。
マルタさんは、俺の顔を見て言った。
「それは明日、みんなで考えればいい」
「はい」
「今夜一人で決めることじゃない」
「はい」
「四角って便利だねぇ」
「本当に」
ぷる太が誇らしげに揺れた。
◇
麦湯を飲み終えた頃、台所の入口にシルフィが立っていた。
外套を羽織り、髪を軽く結んでいる。
眠っていたのか、起きていたのか分からない。
ただ、その目はいつも通りしっかりしていた。
「やはり、こちらでしたか」
「シルフィも見張り?」
「記録係です」
「便利な言葉だな」
「はい。便利です」
シルフィは机の上の丸、バツ、四角を見て、すぐに状況を理解したようだった。
「できたこと、しなかったこと、考えることを分けたのですね」
マルタさんが頷く。
「ぷる太先生の授業だよ」
「良い授業です」
「ぷる」
ぷる太はまた膨らんだ。
シルフィは俺の向かいに座った。
「師匠。私からも一つ、確認していいですか」
「うん」
「昨日、エリオさんを見た時、師匠は『ごめん』と思ったと言いました」
「うん」
「今も思っていますか」
俺は椀の底を見た。
「思ってる」
「何に対する謝罪ですか」
「……分からない」
「分からないなら、四角です」
シルフィはすぐに言った。
「分からない謝罪で自分を責め続けるのは、危険です」
「そう言われても、気持ちは残る」
「残ることは否定しません」
彼女は記録板を膝に置いた。
「でも、責任と気持ちは分けます」
「責任と気持ち?」
「はい。師匠が『ごめん』と思う気持ちはあります。でも、エリオさんの病状は師匠の責任ではありません。銀葉商会が夜に連れてきたことも、師匠の責任ではありません。資料が不足していたことも、師匠の責任ではありません」
「……うん」
「師匠の責任は、危ない布を出さないこと。作るなら安全な条件で作ること。自分一人で判断しないこと」
言葉が、ゆっくり胸に入ってくる。
厳しい。
でも、整理されている。
「それなら、昨日は責任を果たせた?」
俺が聞くと、シルフィは少し考えてから頷いた。
「はい。少なくとも、危ない判断はしませんでした」
「何もしなかったんじゃなくて?」
「何もしなかったのではありません。危ない助け方をしなかった。そして、できる助けをしました」
マルタさんが頷く。
「そうそう。水と毛布とスープは、うちの村が出したんだよ。あれを『何もしなかった』にされたら、あたしのスープが泣く」
「スープが泣くんですか」
「泣くよ。鍋の底で」
変な言い方だった。
でも、おかげで少し肩の力が抜けた。
シルフィも、ほんの少し笑っていた。
◇
台所の火が小さく揺れている。
外はまだ夜だ。
けれど、さっきより少しだけ暗闇が薄く見えた。
シルフィは、今度は声を少し柔らかくした。
「師匠。助けたい気持ちは、悪いものではありません」
「うん」
「でも、師匠の助けたい気持ちは、とても強いです」
「自覚は……最近、少し」
「少しですか」
「かなり?」
「はい」
即答された。
マルタさんも頷く。
「かなりだね」
ぷる太も丸へ寄った。
「ぷる」
「全員一致か」
「そうですね」
シルフィは続けた。
「強い気持ちは、誰かに使われやすいです。銀葉商会も、ロアンさんも、エリオさんのご家族も、全員が悪人というわけではありません。でも、師匠の助けたい気持ちを押せば動くかもしれない、と思われたら危険です」
「昨日、そう見えた?」
「見えました」
シルフィは正直に言った。
「ロアンさんは、師匠の名前が出た瞬間に師匠を見ました。エリオさんを見せました。手順は人を救うためでしょう、と言いました。悪意があったかは分かりません。でも、師匠を揺らす形になっていました」
俺は、胸の奥が少し冷えるのを感じた。
自分が揺れることは、自分だけの問題ではない。
相手がそこを見つける。
押してくる。
そして、村まで巻き込む。
「俺、やっぱり危ないな」
「はい」
シルフィは容赦なく頷いた。
でも、すぐに言葉を足す。
「だから、村があります」
俺は顔を上げた。
「師匠が危ないから駄目、ではありません。師匠が危ないところを、村で守る。師匠の助けたい気持ちを消すのではなく、安全な形にする。それがリーフェル村のやり方です」
マルタさんが椀を片づけながら言う。
「そういうこと。火は危ないけど、火がないと料理できないだろ」
「俺は火ですか」
「火種だね。放っておくと燃える。でも、ちゃんと鍋の下に置けば、スープができる」
「例えが台所」
「あたしの持ち場だからね」
ぷる太が丸へ寄った。
「ぷる」
どうやら台所例えは丸らしい。
俺は少し笑った。
「じゃあ、俺の助けたい気持ちは、鍋の下に置く」
「そう」
「鍋は村?」
「村と手順と、ぷる太の木片だね」
「豪華な鍋だな」
「穴だらけよりいいだろ」
その言葉に、また少し笑えた。
◇
しばらくして、村長も台所に来た。
夜中なのに、全員集まっている。
もう会議になりかけていた。
村長は俺を見るなり言った。
「作業小屋には行かなかったな」
「はい」
「よし」
それだけ言って、椅子に座る。
マルタさんが黙って麦湯を出した。
村長はそれを受け取り、一口飲んでから言った。
「アレン。明日の追加布作成は延期する」
俺は驚いて顔を上げた。
「延期ですか」
「ああ」
「でも、リーフェン家の条件は整っています。エナも待っているかも」
「だからこそ、延期だ」
村長は椀を置いた。
「今のお前さんは、エナの布を作ろうとしても、エリオの顔を混ぜる」
何も言えなかった。
その通りだったからだ。
シルフィも頷く。
「私も同意です。師匠が『同等品』を作るには、まだ気持ちの整理が足りません」
俺は手元の四角を見た。
「どのくらい延期しますか」
「一日」
「一日でいいんですか」
「まず一日だ。明日の夜にもう一度確認する。丸なら作る。四角ならさらに延期。バツなら作らん」
ぷる太が四角へ寄り、それから丸へ少し動いた。
「ぷる」
シルフィが通訳するように言った。
「現時点では、延期は丸寄り四角」
「なるほど」
俺は深く息を吐いた。
作りたい気持ちはある。
でも、延期と聞いて少しほっとしている自分もいた。
それがまた複雑だった。
「エナに悪い気がします」
俺が言うと、村長は首を横に振った。
「悪い布を送る方が悪い」
「悪い布……」
「同等品でなければ、約束違反だ。急いで作ったせいで違うものになれば、それはエナのためではない」
マルタさんも言う。
「焦って焦げたスープを出すくらいなら、明日ちゃんと作る方がいい」
「またスープ」
「分かりやすいだろ」
「はい」
分かりやすかった。
とても。
◇
その後、俺たちはエリオの件について、王都へ送る追加報告の文面も少し話し合った。
夜に患者を連れてこられた場合、村は落ち着き布を出さない。
だが、休憩小屋、水、毛布、軽い食事、王都への連絡は行う。
落ち着き布は救急道具ではない。
この方針を再度共有する。
それから、銀葉商会が使った言葉も記録する。
『手順は人を救うためのものでしょう』
『子供が苦しんでいるのです』
『この子を見ても』
シルフィがそれらを書き出すと、俺は少し苦しくなった。
でも、書いておくべきだと思った。
その言葉で俺は揺れた。
なら、次に同じ言葉が来た時、先に気づける。
「言葉にも札を立てるみたいだね」
マルタさんが言った。
シルフィは頷く。
「はい。危険な言葉の記録です」
「危険な言葉か」
俺は呟いた。
「『助けたい』も危険な言葉になる?」
シルフィは少し考えた。
「使い方次第です」
「じゃあ、『子供のため』は?」
「使い方次第です」
「『今すぐ』は?」
ぷる太がバツへ飛んだ。
「ぷるっ!」
全員が少し笑った。
「今すぐはバツか」
「ほとんどの場合、バツ寄りです」
シルフィも少し笑う。
村長が言った。
「ただし、魔物に追われている時の『今すぐ逃げろ』は丸だ」
「確かに」
ぷる太は少し迷って四角へ戻った。
判定が難しいらしい。
そんなやり取りをしているうちに、台所の空気は少しだけ柔らかくなった。
問題は重い。
でも、重いままでも話せる。
この村に来る前の俺なら、一人で抱え込んでいたと思う。
誰かに「大丈夫です」と言い、笑って、裏でどうにかしようとしていた。
でも今は、夜中に台所で、みんなに見張られながら麦湯を飲んでいる。
格好よくはない。
でも、たぶん前より安全だ。
◇
夜明けが近づいた頃、会議とも雑談ともつかない時間は終わった。
村長は立ち上がり、俺に言った。
「今日は寝ろ。朝の作業は休め」
「でも」
「でもではない」
シルフィが続ける。
「師匠の疲労も記録対象です。疲れている状態で付与や判断をしない」
マルタさんが腕を組む。
「朝ごはんは食べる」
「寝る前ですか、起きてからですか」
「両方」
「両方?」
「夜明け前の麦湯だけじゃ足りない」
ぷる太が丸へ寄った。
「ぷる」
食事に関して、ぷる太はだいたいマルタさん側につく。
俺は苦笑しながら頷いた。
「分かりました」
台所を出る時、シルフィが俺を呼び止めた。
「師匠」
「うん?」
「最後に一つだけ」
「何?」
「エリオさんを見て、苦しかったことは忘れなくていいと思います」
意外な言葉だった。
シルフィは続ける。
「忘れると、次に同じことをされた時にまた無防備になります。でも、苦しかったからといって、すべて師匠の責任にしなくていいです」
「……うん」
「覚えておく。でも、背負いすぎない」
「難しいな」
「はい。だから四角です」
彼女は小さく笑った。
俺も笑った。
「本当に便利だな、四角」
「はい」
◇
部屋へ戻る前に、俺は外部対応広場へ寄った。
作業小屋ではない。
板を見るためだ。
夜明け前の薄い光の中、板の文字が静かに見える。
『夜は布の話をしません』
『急いでる時ほど布じゃない』
『水と休む場所は出せます。布とは別です』
『子供を連れてきても、布は出しません』
そして、昨日から頭の中に立っていた見えない板。
『子供を見ても、すぐ布を出さない』
俺はその前で、そっと四角の木片を置いた。
「できたこと」
丸。
「しなかったこと」
四角。
「考えること」
四角。
ぷる太が隣に来て、丸、バツ、四角をきれいに並べ直した。
「ぷる」
「ありがとう」
朝日が少しずつ昇る。
エリオは、もう王都医療院へ向かっているだろう。
エナは、遠いリーフェン家で眠れているだろうか。
銀葉商会は、次に何を考えるだろう。
グレヴィール伯爵家という名は、まだこちらには届いていない。
でも、何かが近づいている気配だけはある。
俺は怖い。
でも、一人ではない。
助けたい気持ちを消すのではなく、安全な形にする。
それが、今日の答えだった。
部屋へ戻る前に、もう一度だけ板を見た。
急いでる時ほど布じゃない。
今は、眠る時だ。
俺は、ようやく布団へ戻った。
少しだけ目を閉じられそうな気がした。




