第77話 馬車の中の子供と、出せない布
夜明け前のリーフェル村は、白く冷えていた。
空はまだ暗い。
けれど、真夜中の黒さは薄れ、山の稜線の向こうに、ほんの少しだけ灰色の光がにじみ始めている。
休憩小屋の灯りは、まだ消えていなかった。
門番老人は、小屋から少し離れた場所で杖を持って立っている。
火鉢の煙が細く上がっていた。
その手前に、銀葉商会の馬車がある。
夜のうちに降りた露で、車輪が濡れていた。馬も疲れているのか、首を下げて時折鼻を鳴らしている。
俺は、門の内側からそれを見ていた。
村長に言われた通り、休憩小屋へは近づいていない。
落ち着き布にも触っていない。
でも、眠れなかった。
台所で少し横になったが、目を閉じるたびに、馬車の中から聞こえた子供の咳が耳に戻ってきた。
あの咳は、今どうなっているのだろう。
少し落ち着いたのか。
熱は下がったのか。
それとも、まだ苦しんでいるのか。
考えないようにすればするほど、考えてしまう。
「師匠」
背後から声がした。
振り返ると、シルフィが記録板を抱えて立っていた。
夜明け前の冷気の中、肩に薄い外套をかけている。
「寝ていませんね」
「シルフィも」
「私は記録整理です」
「それ、寝ていない言い訳として弱くない?」
「師匠よりは強いです」
「そうかな」
「はい。師匠は、布のところへ行かないように見張られている側ですので」
言い返せなかった。
ぷる太が足元で、ぽよん、と揺れた。
いつの間にか来ていたらしい。
丸、バツ、四角の木片を小さな籠に入れて引きずっている。
完全に携帯判定役になっている。
「ぷる太まで起きてたのか」
「ぷる」
「井戸守りは夜勤もあるの?」
「ぷるる」
よく分からないが、誇らしそうだ。
シルフィは休憩小屋の方を見た。
「夜のうちに、門番さんが二度様子を見ました。商会付きの治癒師が対応しています。水は飲めたそうです」
「咳は?」
「時々あります。ただ、昨夜よりは間隔が空いていると」
俺は胸を撫で下ろしかけて、すぐに止まった。
それは、良いことだ。
でも、だから布を出していいわけではない。
シルフィもそれを分かっているように、静かに言った。
「今の報告は、丸寄り四角です」
「うん」
「安心して走らないでください」
「走らない」
ぷる太が四角へ寄る。
「ぷる」
「信用されてないな」
「信用の問題ではありません」
シルフィは、少しだけ俺を見上げた。
「師匠が走りたくなる理由がある、という話です」
その言い方は、責めていなかった。
むしろ、俺の中の動きを先に認めてくれている。
だから、少し呼吸が楽になった。
◇
朝日が山の端から顔を出す頃、銀葉商会の使者ロアンが門の前へ来た。
昨夜より、少し疲れた顔をしている。
外套の裾には泥がつき、目元には薄い影があった。
しかし、言葉遣いは変わらず丁寧だった。
「昨夜は、休憩小屋と水、毛布をありがとうございました。患者も少し落ち着きました」
村長は門の内側から答えた。
「それはよかった」
「はい。ですので、改めてお願いに参りました」
ロアンは深く頭を下げた。
「どうか、落ち着き布の使用をご検討ください。夜を越えられたとはいえ、根本的な苦しみは残っています。昨夜よりは落ち着いた今なら、短時間の試験も可能ではありませんか」
予想していた言葉だった。
それでも、胸が揺れた。
少し落ち着いたなら、試せるのではないか。
昨夜より条件が整っているのではないか。
頭の中に、そんな言葉が浮かぶ。
俺は四角を握った。
村長は短く言う。
「検討しない」
ロアンの眉が動いた。
「なぜでしょうか。夜間ではありません。患者も昨夜より落ち着いています。書類も出しました」
「足りん」
「足りないものは、あとで補えます」
「あとで補うものを、先に使うわけにはいかん」
ロアンは、少しだけ口調を強めた。
「ですが、実際に患者はここにいます。遠い王都で机上の手順を整えるより、目の前の命を優先すべきではありませんか」
その時、休憩小屋の方で扉が開いた。
商会付きの治癒師らしき女性が顔を出す。
その後ろに、小さな影が見えた。
子供だった。
薄い毛布を肩からかけ、支えられるように立っている。
髪は汗で額に貼りつき、頬は赤い。
年は、十歳くらいだろうか。
男の子だ。
大きな目でこちらを見ている。
その目は、眠れていない子供の目だった。
怖がっているのか、ぼんやりしているのか、どちらともつかない。
俺は、息が止まりそうになった。
ロアンが振り返り、慌てたように言う。
「エリオ、まだ出てきてはいけない」
男の子は、咳を一つした。
「……ここが、布の村?」
小さな声だった。
布の村。
誰がそう言ったのだろう。
商会か。
王都の噂か。
俺の手が震えた。
シルフィが、すぐ隣で記録する。
『患者本人、村を「布の村」と認識』
ロアンは、困ったようにこちらを見る。
「申し訳ありません。子供ですので、聞いた言葉をそのまま」
マルタさんが低く言った。
「その言葉を聞かせた大人がいるんだろう」
ロアンは黙った。
男の子――エリオは、治癒師の女性に支えられている。
まだ立っているのもつらそうだ。
けれど、俺たちの方を見て、か細く言った。
「眠れる布が、あるんですか」
誰もすぐには答えられなかった。
その沈黙が、痛かった。
俺は口を開きかけた。
その瞬間、シルフィが一歩前へ出た。
「眠れると決まった布はありません」
エリオは瞬きをした。
「でも、商会の人が」
「落ち着き布は、ある一人の症例で、眠りを助けた可能性がある補助具です。誰にでも使える眠りの布ではありません」
「……ほじょぐ?」
「少し助ける道具、という意味です」
エリオは、ぼんやりと考える顔をした。
「じゃあ、僕には効かないかもしれない?」
「はい」
シルフィは、はっきり言った。
「合わないかもしれません。苦しくなるかもしれません。だから、すぐには使えません」
ロアンが焦ったように口を挟む。
「ですが、何もしなければこの子はまた眠れない夜を」
マルタさんの声が飛ぶ。
「今、その子に期待を乗せるな」
ロアンは息を呑んだ。
マルタさんは、門の内側から一歩進んだ。
「その子は今、『効くかもしれない』って思ってここを見てる。そこへ大人が『眠れない夜がまた来る』なんて言ったら、断る方が悪者になるだろう」
「私は事実を」
「事実の使い方が悪い」
マルタさんの声には怒りがあった。
怒鳴ってはいない。
でも、昨日よりずっとはっきり怒っていた。
「子供を連れてきて、子供の口で『布があるの』って言わせて、目の前で苦しませて、それで『この子を見ても断れますか』って空気にする。あんた、それがどれだけ卑怯か分かってるのかい」
ロアンは顔を白くした。
「そのようなつもりはありません」
「つもりがなくても、そうなってる」
「商会は、この子を助けたいだけです」
「なら、まずこの子を商売の前に出すな!」
その声は、広場に響いた。
ミナがびくっとする。
ぷる太も水鉢の中で震えた。
でも、誰もマルタさんを止めなかった。
俺も止めなかった。
ロアンは、完全に言葉を失った。
エリオは少し怯えたように肩をすくめる。
それを見て、マルタさんはすぐに声を落とした。
「ごめんね。あんたを怒ったんじゃないよ」
エリオは、ぼんやりとマルタさんを見た。
「……おばさん、怒ってる?」
「怒ってるよ。あんたを連れてきた大人にね」
「ロアンさんは、悪い人じゃないです」
「そうかい」
マルタさんは少しだけ表情を緩めた。
「なら、悪くない人が悪いことをしないように、今止めてるんだよ」
エリオは、よく分からないという顔をした。
でも、その言葉は少しだけ届いたようだった。
◇
村長は、休憩小屋の前まで行くことを許した。
ただし、俺は行かない。
落ち着き布も出さない。
村から行くのは、村長、シルフィ、マルタさん、門番老人。
俺は外部対応広場に残る。
それが決まった時、俺は思わず言った。
「俺も、水くらいは」
「駄目です」
シルフィが即答した。
「水を渡すだけでも?」
「師匠が直接渡す必要はありません」
「でも、子供に」
「師匠が出ると、作成者本人の対応になります」
「俺は医療者じゃない」
「はい。だから出ないでください」
その言い方は、少しだけきつかった。
俺も、それが分かった。
シルフィはすぐに言葉を足す。
「師匠が優しく水を渡せば、相手は次に布を求めやすくなります。『水をくれた人なら、布もくれるかもしれない』と思います」
「……そうか」
「はい。それに、エリオさんも期待してしまうかもしれません」
俺は視線を落とした。
確かに、そうだ。
俺が顔を見せるだけで、何かが始まってしまう。
優しくしたい気持ちが、相手に期待を持たせる。
期待を持たせた後で断る方が、もっと傷つけるかもしれない。
「俺は、どうしても何かしたくなる」
「知っています」
「水も駄目か」
「水を出すことは丸です。師匠が直接出すことは四角寄りバツです」
ぷる太が四角からバツへ少し寄った。
「ぷる」
「ぷる太も同じ判断?」
「ぷる」
俺は、深く息を吐いた。
「分かった。ここにいる」
シルフィは少しだけ表情を和らげた。
「ありがとうございます」
その「ありがとうございます」が、少し刺さった。
俺が何かしたからではない。
何もしないでいることに対する礼だった。
◇
休憩小屋での確認は、距離を取って行われた。
村長たちは小屋の入口まで。
エリオは中の寝台に座る。
商会付きの治癒師がそばにいる。
ロアンは少し離れた場所に立った。
シルフィは、まず確認した。
「患者本人の名前を確認します」
治癒師の女性が答える。
「エリオ・ハルツ。九歳です」
九歳。
エナと同じ年齢。
その情報を外部対応広場で聞いた俺は、思わず目を閉じた。
九歳。
また、九歳。
胸が痛い。
マルタさんの声が聞こえる。
「エリオ。水は飲めるかい?」
「少し」
「じゃあ、少しずつでいい。無理に飲まなくていい」
「おばさんは、村の人?」
「そうだよ。台所の人」
「台所?」
「そう。布より先に、温かいものを出す係だよ」
エリオは少しだけ笑った。
その笑いに、胸が締めつけられる。
ロアンが口を開きかける。
だが、マルタさんが横目で見ると、彼は黙った。
シルフィは治癒師へ質問する。
「症状はいつからですか」
「三日前から眠りが浅くなり、昨夜から魔力の震えが強まりました。発熱は昨日夕刻から。呼吸の乱れは移動疲れもあると思われます」
「魔力回路損傷の診断は?」
「王都南区の診療所で、軽度の乱れと言われています。ただ、正式な精密診断はまだ」
「落ち着き布の適用判断には不足です」
「承知しています」
治癒師の女性は、ロアンよりずっと素直に頷いた。
彼女も疲れている顔だった。
たぶん、夜通しエリオを看ていたのだろう。
「私は、正直に申し上げれば、今すぐ落ち着き布を使うべきか判断できません。商会からは可能性を聞かされましたが、記録を見る限り、症例が同じとは言えない」
ロアンが驚いたように彼女を見る。
「リサ」
「申し訳ありません、ロアン様。でも、医療者としてはそうです」
シルフィは、その発言を記録した。
『商会付き治癒師、現時点で落ち着き布使用判断不可と申告』
マルタさんが小さく頷く。
「ちゃんと見てる人がいてよかった」
治癒師リサは、疲れた笑みを浮かべた。
「私も、本当は王都へ戻したいのです。ただ、商会の判断で」
そこで言葉を切った。
ロアンの顔が硬くなる。
村長は、それ以上追及しなかった。
だが、シルフィは記録した。
『商会判断で搬送。治癒師は王都帰還希望あり』
ロアンが小さく息を呑む。
「その記録は、外へ出るのですか」
「必要なら、王都ギルドと騎士団へ共有します」
「……分かりました」
分かった、とは言ったが、納得はしていない顔だった。
◇
エリオの安全確認は、布を使わずにできる範囲に限られた。
水を飲めるか。
呼吸が安定しているか。
意識がはっきりしているか。
熱で危険な状態になっていないか。
村の薬草は使わない。
付与も使わない。
触診もしない。
リサが医療者として確認し、シルフィが記録する。
マルタさんは、薄い野菜スープを少しだけ出した。
ただし、それも「医療処置」ではなく、旅人への食事として。
シルフィは、そこまで書いた。
『提供物。水、毛布、温石、薄い野菜スープ。医療処置目的ではなく休憩支援』
ロアンは、その細かさに疲れたような顔をした。
「何もかも記録されるのですね」
村長が答える。
「記録されて困ることをするな」
「厳しいお言葉です」
「厳しい夜に来たのは、そちらだ」
ロアンは何も言わなかった。
エリオはスープを少し飲み、ほっとした顔をした。
「これ、薬?」
「ただのスープだよ」
マルタさんが答える。
「薬じゃないの?」
「薬じゃない。野菜と塩」
「でも、あったかい」
「それは大事だね」
「布じゃなくても?」
その問いに、マルタさんは少しだけ黙った。
そして、優しく答えた。
「布じゃなくても、できることはあるよ」
エリオは、しばらく椀を見つめていた。
それから、小さく頷いた。
外部対応広場で聞いていた俺は、胸の奥がじんとした。
布じゃなくても、できることはある。
その言葉は、俺にも向けられている気がした。
◇
昼前には、王都ギルドからの迎えが来ることになった。
夜間連絡鳥が予想より早く届き、マリナさんがすぐに動いてくれたらしい。
王都医療院への搬送手配も同時に進められている。
ロアンは、その知らせを聞いて複雑な顔をした。
「ギルドへ引き渡す、という形になるのですか」
村長が答える。
「そうだ」
「商会としては、この患者の搬送を任されております」
「だからこそ、正式な場所へ戻す」
「我々が責任を持って」
「持てていないから、夜に村へ来た」
ロアンは、唇を強く結んだ。
反論はしなかった。
できなかったのかもしれない。
リサは、ほっとしたように頭を下げた。
「王都医療院へ繋いでいただけるなら、その方が安全です」
「あなたはそう思うのですね」
ロアンの声に、少しだけ責める響きがあった。
リサは、それでも目を逸らさなかった。
「はい。私は医療者ですので」
その一言で、二人の間にあるものが少し見えた。
商会の人間としての判断。
医療者としての判断。
同じ馬車で来ても、同じではない。
シルフィはそのやり取りを記録した。
マルタさんが、俺のところへ戻ってきた。
「アレン」
「はい」
「見てたね」
「見てました」
「何かしたくなった?」
「ずっと」
「何が一番したかった?」
「……スープを渡したかったです」
自分で言って、少し驚いた。
布ではなく、スープ。
もちろん、布を出せないかとも思った。
でも、エリオがスープを飲んで少し表情を緩めたのを見た時、俺は自分も何か温かいものを出したかったのだ。
マルタさんは、少し笑った。
「それはいいね」
「でも、直接は駄目ですよね」
「今はね」
「はい」
「でも、そう思えたのはいいことだよ。助けるって、布だけじゃないって少し分かったんじゃないかい」
俺は、休憩小屋の方を見た。
「そうかもしれません」
「まあ、うちのスープは効くからね」
「薬じゃないんですよね?」
「薬じゃないけど、弱った人には効くんだよ。体にも、心にも」
マルタさんは胸を張った。
それは少しおかしくて、少し頼もしかった。
◇
王都ギルドの馬車が到着したのは、昼過ぎだった。
先頭にいたのは、ギルド職員二名。
その後ろに、王都医療院の治癒師。
さらに騎士団の護衛が一人ついている。
マリナさん本人ではなかったが、彼女からの正式書状があった。
『患者を王都医療院へ搬送し、銀葉商会による直接交渉について確認します。リーフェル村側は、これ以上の医療判断を行わず、記録のみ共有してください』
村長はそれを読んで頷いた。
「よし。引き渡す」
ロアンは最後まで何か言いたげだった。
だが、ギルド職員に事情を確認されると、さすがに強くは出られなかった。
エリオは毛布にくるまれ、医療院の馬車へ移された。
その時、彼は一度だけ村の方を見た。
「台所のおばさん」
マルタさんが近づく。
もちろん、門の内側までだ。
「なんだい」
「スープ、ありがとう」
「どういたしまして」
「布は、もらえないの?」
その場の空気が、また止まった。
マルタさんは、ゆっくり答えた。
「今はね」
「今は?」
「ちゃんとお医者さんが見て、必要かどうか分かって、安全に使えるってなったら、村で考えるよ」
「すぐじゃない?」
「すぐじゃない」
エリオは少し寂しそうにした。
「そっか」
俺は、その顔を見るのがつらかった。
でも、マルタさんは逃げなかった。
「でもね、エリオ。眠れるかもしれないものを、よく分からないまま使うのは怖いことなんだよ」
「怖い?」
「うん。あんたを助けたいから、怖いことはしない」
エリオは、しばらく考えた。
そして、小さく頷いた。
「……分かったような、分かんないような」
「それでいいよ。大人でも難しい」
マルタさんがそう言うと、エリオは少しだけ笑った。
「おばさん、怒るけど優しい」
「よく言われる」
「本当?」
「たぶん」
ミナが横で小さく笑った。
ぷる太も、丸の木片へ寄った。
エリオは、最後に俺の方を見た。
俺は、門の内側で立っていた。
少し距離がある。
彼は俺が誰か分かっていないはずだ。
でも、不思議そうに見ていた。
俺は何も言わなかった。
言えなかった。
ただ、小さく頭を下げた。
エリオも、毛布の中で少しだけ頭を下げた。
それだけだった。
◇
銀葉商会の馬車が去り、王都医療院の馬車も見えなくなると、村には深い疲れが残った。
戦ったわけではない。
だが、誰もが疲れていた。
外部対応広場に戻ると、ミナがぽつりと言った。
「布を出さないのって、すごく疲れるね」
誰も笑わなかった。
村長が頷く。
「そうだな」
「出した方が簡単?」
「その場ではな」
門番老人が言う。
「あとで、もっと困る」
ミナは板を見た。
『助ける道は閉じない。ただし、誰かの欲で広げない』
「欲って、悪い人だけじゃないんだね」
シルフィが静かに答えた。
「はい。助けたい気持ちも、強くなりすぎると欲になります」
「アレンお兄ちゃんのも?」
その問いは、まっすぐだった。
少し痛かった。
でも、俺は頷いた。
「うん。俺のも」
ミナは、少しだけ困った顔をした。
「じゃあ、アレンお兄ちゃんが悪い人になるの?」
「ならないように、みんなで止めてくれてる」
「そっか」
ミナは少し考え、ぷる太を抱えようとして逃げられた。
「ぷる太も止めてる?」
「ぷる」
ぷる太は四角へ寄った。
ミナは頷いた。
「四角って、優しい時もあるんだね」
「うん」
俺は、そう答えた。
本当に、その通りだと思った。
◇
その日の記録会は、いつもより長かった。
シルフィは、銀葉商会の夜間訪問から、エリオの搬送までを丁寧に整理した。
患者を村内へ入れなかったこと。
落ち着き布を出さなかったこと。
水、毛布、温石、スープを提供したこと。
商会付き治癒師が、現時点での使用判断不可を申告したこと。
ギルドと医療院へ引き渡したこと。
アレンが何度も揺れたこと。
村側が止めたこと。
途中で、俺は言った。
「俺が揺れた記録、そんなに要る?」
シルフィは顔を上げた。
「要ります」
「多くない?」
「多いです」
「じゃあ少し削っても」
「削りません」
即答だった。
マルタさんが笑う。
「諦めな。今日の主役はアレンの揺れだよ」
「主役にされたくない」
「でも、大事だよ。揺れたことを隠すと、次にまた同じことで揺れる。書いておけば、『前もここで揺れたね』って止められる」
村長も頷く。
「同じ穴に落ちるな。落ちた場所に札を立てろ」
シルフィがその言葉を記録しようとした。
村長が少し照れる。
「今のは書かんでいい」
「書きます」
「……そうか」
結局、書かれた。
ぷる太が丸へ寄った。
村長は諦めた顔をした。
記録の最後に、シルフィは新しい板の案を出した。
『子供を連れてきても、布は出しません』
その言葉に、少し重い沈黙が落ちた。
きつい。
とてもきつい言葉だ。
けれど、必要な言葉でもあった。
ロアンのように、子供を連れてくれば村が揺れると考える者がまた来るかもしれない。
悪意ではなくても、結果としてそうなる。
なら、先に板にするしかない。
俺は、ゆっくり頷いた。
「必要だと思います」
ミナが小さく聞いた。
「でも、子供がかわいそうって言われない?」
マルタさんが答える。
「言われるだろうね」
「それでも書くの?」
「書く。子供をかわいそうなまま連れてこさせないために」
ミナは、少し考えてから頷いた。
「そっか。連れてきたら布が出るって思われたら、また子供が連れてこられるもんね」
「そういうことだよ」
ぷる太が四角から丸へ移動した。
「ぷる」
新しい板は、立てられることになった。
◇
夕方、門の横に板が増えた。
『子供を連れてきても、布は出しません』
その下に、マルタさんが言葉を足した。
『水と休む場所は出せます。布とは別です』
シルフィが正式な表現に直すか少し迷ったが、村長がそのままでいいと言った。
分かりやすい。
そして、逃げていない。
俺はその板を見ていた。
胸が痛い。
それでも、この板は必要だと思った。
エリオの顔が浮かぶ。
布はもらえないの、と聞いた声。
今は、と答えたマルタさんの声。
あの場で俺が出ていっていたら、どうなっていただろう。
エリオは期待しただろう。
ロアンは交渉を続けただろう。
俺は断れなかったかもしれない。
そして、合わない布で、エリオをもっと苦しめたかもしれない。
そう思うと、背筋が冷えた。
助けなかったのではない。
危ない助け方をしなかった。
昨日マルタさんに言われた言葉を、もう一度胸の中で繰り返す。
完全には納得できない。
でも、納得できるまで繰り返すしかない。
◇
夜、シルフィと二人で外部対応広場の片づけをした。
ぷる太は水鉢で眠っている。
いや、眠っているのか、ただ丸くなっているのか分からない。
ミナはマルタさんに連れられて台所へ戻った。
村長と門番老人は、王都へ送る報告文を確認している。
俺は板を一枚ずつ見ながら、息を吐いた。
「また増えたな」
「はい」
「板が増えるたびに、問題も増えてる気がする」
「問題が見えるようになっているのだと思います」
「見えない方が楽だった?」
「楽だったかもしれません。でも、危なかったと思います」
シルフィは、今日書いた記録を抱え直した。
「師匠」
「うん」
「エリオさんを見て、どう思いましたか」
「つらかった」
「はい」
「布を出したかった」
「はい」
「スープを渡したかった」
「はい」
「何か言いたかった」
「何を?」
俺は少し黙った。
それから、正直に言った。
「ごめん、かな」
シルフィは静かに俺を見る。
「何に対してですか」
「分からない。布を出せないことか、近づけないことか、期待に応えられないことか」
「師匠が謝ることではありません」
「そう言われると思った」
「言います」
彼女は少しだけ眉を下げた。
「でも、謝りたくなる気持ちは記録します」
「それも?」
「はい。師匠は、相手の苦しみを見ると、自分の責任ではないことまで背負おうとします」
「……そうかな」
「そうです」
シルフィの声は強かった。
「今日、エリオさんが苦しんでいたのは、師匠のせいではありません。商会が夜に連れてきたのも、師匠のせいではありません。資料が足りなかったのも、師匠のせいではありません」
「うん」
「それでも師匠は、ごめんと思いました」
「うん」
「だから、師匠が一人で会ってはいけないのです」
俺は、何も言えなかった。
それは、とても正しい。
そして、とても痛い。
シルフィは続けた。
「師匠が優しいから、私は止めます」
「優しいって、危ないんだな」
「使われると危ないです。でも、なくしてはいけません」
「難しいな」
「はい」
彼女は少しだけ笑った。
「だから四角です」
俺も、少しだけ笑った。
「便利だな、四角」
「はい。とても」
◇
その夜、俺は布に触らなかった。
作業小屋の前まで行き、扉を見た。
中には、追加布用に選んだ厚手の布が置いてある。
エナのための同等品。
明日、条件を読み上げ、ぷる太判定を受け、シルフィが記録を確認してから作るはずだった。
だが、今日は作れない。
エリオの顔が残っている。
今作れば、同等品ではなくなる。
俺の中の「もっと助けたい」が、付与に混ざる。
それが分かる。
「今日は、触らない」
声に出して言った。
後ろで、ぷる太が小さく鳴いた。
「ぷる」
いた。
「いつから?」
「ぷる」
「見張り?」
「ぷる」
どうやらそうらしい。
俺は笑った。
「ありがとう」
ぷる太は丸へ寄った。
そして、すぐ四角へ戻った。
今日の俺には、それくらいがちょうどいいらしい。
俺は作業小屋から離れた。
布は出せなかった。
布は作らなかった。
でも、水は出した。
休む場所は出した。
王都へ繋いだ。
危ない助け方をしなかった。
その全部を抱えたまま、夜が更けていく。
リーフェル村の板は、また一枚増えた。
そして俺の中にも、見えない板が一枚立った。
『子供を見ても、すぐ布を出さない』
その文字は、とても重かった。
でも、きっと必要だった。




