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無能だと追放された底辺付与術師、実は世界で唯一の【全自動・神級バフ】持ちでした 〜辺境でスローライフを送るはずが、俺が抜けて壊滅寸前の勇者パーティーが泣きついてきてももう遅い。  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第76話 夜の馬車、銀葉商会が村へ来る

銀葉商会の馬車は、門の外で止まっていた。


 夜の闇の中、馬車の側面についた銀の葉の紋章だけが、手提げ灯りに照らされて鈍く光っている。


 村の犬がまだ低く唸っていた。


 門番老人は、杖を片手に門の前へ立っている。


 その背中は細い。


 だが、不思議と大きく見えた。


「夜分に失礼いたします。わたくし、銀葉商会の使いで、ロアンと申します。リーフェル村代表者様へ、至急お話を――」


「止まれ」


 門番老人の声は短かった。


 相手の名乗りも、丁寧な礼も、夜の緊張も、その一言で切った。


 ロアンと名乗った男は、少し困ったように眉を下げた。


 年は三十前後だろうか。


 商人らしく身なりは整っているが、派手ではない。外套も上質だが、旅の土がついている。


 いかにも「急ぎで来ました」という姿だった。


 それが、また厄介だった。


 いかにも、助けを求めているように見える。


 俺は外部対応広場の入口で、四角の木片を握っていた。


 村長が横に立つ。


 シルフィは記録板を抱えている。


 マルタさんは腕を組み、ぷる太は水鉢の中でバツと四角の間を行ったり来たりしていた。


「用件は紙で出せ」


 門番老人が言う。


 ロアンは深く頭を下げた。


「もちろん、文書は用意しております。ただ、今回は一刻を争う事情がございます」


「夜は布の話をしない」


 村長が門の内側から言った。


 低い声だった。


 ロアンは、初めて村長の方へ視線を向ける。


「あなたが村長様でいらっしゃいますか」


「そうだ」


「では、どうかお聞きください。王都で正式な手順を踏もうとしたのですが、症状が急変しまして。患者はまだ幼い子供です。魔力回路の乱れで眠れず、熱も上がり、通常の鎮静薬も効きません。このまま王都へ戻しては、道中でさらに悪化する恐れがあります」


 幼い子供。


 眠れず。


 熱。


 道中で悪化。


 言葉が、一つずつ胸に刺さる。


 俺の手が、四角を強く握った。


 シルフィが、俺の横で静かに言う。


「師匠、今は聞くだけです」


「分かってる」


「返事は村長です」


「分かってる」


「布には触りません」


「……分かってる」


 少し間があったせいで、ぷる太が四角へ寄った。


「ぷる」


「ぷる太まで確認しなくていい」


「ぷる」


 ロアンは、こちらのやり取りに気づいたらしい。


 だが、それを笑うことはしなかった。


 むしろ、より切実な顔を作った。


「落ち着き布を、今すぐ譲ってほしいとは申しません。ただ、患者の様子を見ていただきたいのです。もし、使用の可能性があるなら、ほんの短時間でも――」


「夜は布の話をしない」


 村長は、同じ言葉を繰り返した。


「村長様」


「同じことを何度言っても変わらん」


「ですが、子供が苦しんでいるのです」


 ロアンの声に、わずかな焦りが混じった。


「あなた方が定めた手順は承知しております。ですが、手順とは本来、人を救うためのものでしょう。手順を守るために救える子供を見捨てるのは、本末転倒ではありませんか」


 その言葉に、外部対応広場の空気がぴんと張った。


 ミナがマルタさんの後ろで、ぎゅっと服の裾を握っている。


 門番老人の目が細くなった。


 俺は、息が苦しくなった。


 手順を守るために、子供を見捨てる。


 違う。


 そうじゃない。


 でも、そう言われると、違うと言い切る声が喉につかえる。


 その時、マルタさんが一歩前へ出た。


「商会の人」


「はい」


「その言い方は駄目だよ」


 ロアンが少し目を瞬かせた。


「駄目、とは」


「手順を守るために子供を見捨てる、って言ったね。そういう言い方をすると、うちのアレンは揺れる」


 ロアンの視線が、俺へ向いた。


 まずい。


 そう思った瞬間、シルフィが俺の前に半歩出た。


「作成者本人への視線誘導を記録します」


「視線誘導?」


 ロアンは困惑したように笑った。


「いえ、そんなつもりは」


「今、マルタさんが『アレン』と言った直後、師匠へ視線を向けました。記録します」


「私はただ、確認を」


「確認も記録します」


 シルフィの声は、夜の空気の中でもはっきりしていた。


 ロアンは、少しだけ表情を硬くした。


 たぶん、ここまで細かく記録されるとは思っていなかったのだろう。


 外部対応広場には、今日決めたばかりの板が並んでいる。


『落ち着き布の件は、ここで止まれ』


『夜は布の話をしません』


 これは、夕方に急いで立てた新しい板だ。


 銀葉商会の夜訪問を見てから、シルフィがすぐに書いた。


 本当に、書いておいてよかった。


     ◇


 村長は門のところまで歩いた。


 だが、門は開けない。


 ロアンとの間には、木の門と、門番老人と、夜の冷たい空気がある。


「患者は馬車の中か」


「はい」


「医療者は」


「商会付きの治癒師が一名」


「王国医療院の紹介状は」


「急な搬送だったため、正式なものは後ほど」


「後ほどは駄目だ」


「しかし」


「駄目だ」


 村長の声は、揺れなかった。


「症例資料は」


「持参しております。ただ、簡易なものです」


「保護者同意は」


「ご家族から商会へ搬送と処置相談を一任されています」


「その書類は」


「……馬車の中に」


「なら、ここで出せ」


 ロアンは少しだけ口を閉じた。


 そして、深く頭を下げる。


「すぐに用意いたします。ただ、その前に、患者の呼吸が少し乱れておりまして。せめて村の中で休ませていただくことはできませんか」


 村の中。


 その言葉で、ぷる太がバツへ寄った。


「ぷる」


 村長は言う。


「村内には入れない」


「では、このまま門の外で?」


「門の外に休憩小屋がある。夜の旅人用だ。水と毛布は出す」


 ロアンの顔に、わずかな安堵と不満が混ざった。


「落ち着き布は」


「出さない」


「診るだけでも」


「村は医療院ではない」


「では、子供が苦しんでいても」


 そこで、マルタさんの声が飛んだ。


「子供を言葉の前に出すんじゃないよ」


 ロアンは、初めて明らかに怯んだ。


 マルタさんは、低い声で続けた。


「子供が苦しんでいるなら、その子をまず安全な場所で休ませる。水を飲ませる。熱を見守る。必要なら王都の医療院へ戻す。それが先だろう。布を出せ、作成者に会わせろ、村に入れろ。子供を連れてきて、そういう話を夜にするのは順番が違う」


「私は脅すつもりなど」


「脅しじゃなくても、圧になるんだよ」


 マルタさんの声は、怒鳴ってはいない。


 でも、強かった。


「うちのアレンは、そういう声に弱い。だから村で止めてる。あんたが本当に子供を助けたいなら、まずアレンを揺らす言葉を使うのをやめな」


 ロアンは、何か言おうとして、やめた。


 夜の風が吹く。


 馬が鼻を鳴らした。


 その時だった。


 馬車の中から、小さな咳が聞こえた。


 乾いた、細い咳。


 子供の声だった。


 俺の体が勝手に動きかけた。


 足が半歩、前に出る。


 すぐに、シルフィが俺の袖を握った。


 マルタさんが反対側の腕を掴む。


 ぷる太が水鉢から飛び出して、俺の靴の前にぺたりと広がった。


「ぷるっ!」


 止まれ。


 全員が、そう言っていた。


 俺は息を止めた。


 馬車の中から、また咳が聞こえる。


 短く、苦しそうな咳。


 頭の中で、エナの言葉が重なった。


 怖い夜が少し短くなった。


 村の人にありがとうって言ってください。


 もし、あの子も眠れないのなら。


 もし、布で少し楽になるなら。


 俺は――。


「師匠」


 シルフィの声が、すぐ隣で聞こえた。


「今、何を考えていますか」


「……布を、出せないかって」


 正直に言った。


 ロアンの目が動いた。


 シルフィはそれを見ずに、記録板に書いた。


「師匠、子供の咳を聞いて落ち着き布提供を考える。村側、即時提供を止める」


 ロアンが小さく言う。


「そこまで記録するのですか」


「します」


 シルフィは顔を上げた。


「師匠の善意が動いた記録です。だからこそ、ここで止めた記録も必要です」


 ロアンは黙った。


 村長が、ゆっくりと俺を見る。


「アレン」


「はい」


「今できることと、今してはいけないことを分けろ」


 俺は喉を鳴らした。


 馬車の中の咳が、耳に残っている。


 それでも、言葉にする。


「今できることは、水と毛布を出すこと。休憩小屋を使ってもらうこと。症例資料と同意書を受け取ること。王都ギルドへ連絡すること」


「してはいけないことは」


「落ち着き布を出すこと。俺が馬車に近づくこと。子供を診ること。今夜、使用を約束すること。村の中へ馬車を入れること」


 言い終えた時、胸の中が痛かった。


 でも、少しだけ呼吸はできた。


 ぷる太が、四角へ移動した。


「ぷる……」


 丸ではない。


 でも、バツだけでもない。


 今の俺には、その四角が必要だった。


     ◇


 休憩小屋は、村の門から少し離れた場所にある。


 昔、夜に峠を越えてきた旅人が門前で倒れたことがあり、その後に村人たちで建てた小さな小屋だ。


 村内ではない。


 だが、雨風はしのげる。


 井戸水と毛布、簡単な火鉢くらいは用意できる。


 村長はそこを使わせることにした。


 ただし、条件つきだ。


 馬車は門の外。


 患者を村内へ入れない。


 落ち着き布は出さない。


 アレンは近づかない。


 商会の者は外部対応広場にも入れない。


 文書は門番老人が受け取り、シルフィが確認する。


 必要なら、王都ギルドへ夜間連絡鳥を飛ばす。


 ロアンは、条件を聞いて顔を曇らせた。


「そこまで厳しくなさるのですか」


 村長は短く答える。


「厳しくしないと、続かん」


「我々は敵ではありません」


「なら、敵ではない者として手順を守れ」


 ロアンは、また黙った。


 その沈黙は、さっきまでより長かった。


 商人としての計算もあるだろう。


 患者のこともあるだろう。


 ここで強く出すぎれば、完全に拒絶される。


 そう判断したのかもしれない。


 やがて、彼は深く頭を下げた。


「承知しました。休憩小屋をお借りします。水と毛布、感謝いたします」


「礼はいい。書類を出せ」


「はい」


 ロアンは馬車へ戻った。


 馬車の扉が開く。


 中の灯りが少し漏れた。


 俺は見ないようにした。


 でも、見えてしまった。


 細い腕。


 毛布の上で丸まる小さな影。


 年は、エナと同じくらいか、少し下かもしれない。


 胸が痛い。


 体が勝手に前へ出そうになる。


 だが、今度は自分で止まった。


 四角を握る。


 強く。


「師匠」


 シルフィが言う。


「止まれています」


「……うん」


「止まれていることも、助ける準備です」


「そうかな」


「はい」


 彼女の声は、静かだった。


 でも、そこに迷いはなかった。


「危ない助け方をしないための準備です」


 俺は、ゆっくり頷いた。


     ◇


 ロアンが持ってきた書類は、思ったより整っていた。


 簡易症例記録。


 保護者署名。


 商会付き治癒師の所見。


 搬送理由。


 ただし、いくつも足りないものがある。


 王国医療院の紹介状はない。


 王国またはギルドの立会いもない。


 使用記録の共有先が商会になっている。


 異常時停止条件は曖昧。


 そして、最も大きな問題は、患者の選定と搬送を商会が主導していることだった。


 シルフィは灯りの下で書類を読み、淡々と問題点を読み上げた。


「症例資料は簡易。王国医療院の確認なし。ギルド経由ではない。使用記録の共有先が商会中心。保護者同意はありますが、商会への一任範囲が広すぎます。異常時停止条件、記述不足」


 ロアンは食い下がる。


「不足分は明日補えます。今夜だけでも、短時間なら」


「今夜は受けません」


「患者は今、苦しんでいます」


「だから、休憩小屋と水と毛布を出しました」


「それだけで助かると?」


 シルフィは、少しだけ目を伏せた。


 そして、顔を上げる。


「落ち着き布を出しても助かる保証はありません」


 ロアンは言葉を詰まらせた。


「師匠が作った布でも、合わない可能性があります。強すぎる刺激になる可能性もあります。症例が違えば反応も違います。だから、今夜、条件不足のまま出すことはできません」


「あなたは、冷静ですね」


 ロアンの声に、少し棘が混じった。


「子供の咳を聞いても」


 シルフィの指が、記録板の端を握った。


 俺は、思わず声を出しそうになった。


 だが、その前にマルタさんが言った。


「その言い方も駄目だよ」


 ロアンは、はっとしたように顔を向ける。


 マルタさんは一歩前に出た。


「冷静に見える子を、冷たいみたいに言うんじゃない。シルフィちゃんが冷静でいてくれるから、アレンが勝手に走らないで済んでるんだ」


「私は、そのような意味で」


「言葉は意味だけじゃない。刺さり方がある」


 マルタさんの声は低かった。


「子供を助けたいなら、別の子を刺すような言い方をしないでおくれ」


 ロアンは、今度こそ黙った。


 シルフィは少しだけ息を吸い、記録板に書いた。


『使者、シルフィの冷静さに対し感情面から揺さぶる発言。マルタが制止』


「それも記録されるのですね」


「はい」


 シルフィは静かに答えた。


「私は、記録されるだけではなく、記録する側ですので」


 その言葉に、ロアンの表情がわずかに変わった。


 彼には、その意味は分からないだろう。


 でも、俺には分かる。


 リュシアさんにも、きっと分かる。


 シルフィは、もう誰かの都合で記録されるだけの子ではない。


 この村を守るために、俺を止めるために、自分の言葉で記録している。


     ◇


 結局、その夜の対応は決まった。


 休憩小屋の使用を許可。


 水と毛布、簡易の温石を提供。


 村の薬草は出さない。


 落ち着き布は出さない。


 アレンは近づかない。


 シルフィと門番老人が、離れた位置から書類だけ確認。


 商会付き治癒師には、患者の状態を記録させる。


 王都ギルドへ夜間連絡鳥を飛ばし、翌朝引き継ぎを求める。


 ロアンは、最後まで何か言いたげだった。


 だが、村長が「これ以上は変わらん」と言うと、頭を下げて引き下がった。


 休憩小屋へ向かう馬車の車輪が、ぎしりと鳴る。


 その音が遠ざかっていく。


 俺は、門の内側で立ち尽くしていた。


 助けられただろうか。


 助けなかったのだろうか。


 分からない。


 水と毛布を出した。


 でも、布は出さなかった。


 子供の咳を聞いた。


 でも、近づかなかった。


 それは正しかったのか。


 頭では分かっている。


 条件不足だった。


 夜間対応は受けない。


 商会主導は危険。


 別症例に布を使うには、資料も立会いも足りない。


 でも、心はそれだけで納得しない。


「アレン」


 村長が声をかけた。


「はい」


「今日はここまでだ」


「……はい」


「この後、ひとりで布のところへ行くな」


 言われる前に、心を読まれた気がした。


「はい」


 マルタさんが続ける。


「台所に来な。温かいもの飲ませる」


「でも」


「でもじゃない。こういう夜に一人で考えると、だいたい悪い方向へ行く」


 シルフィも頷く。


「師匠。今夜の記録を整理します。ひとりで抱えないでください」


 ぷる太が、俺の靴にぴたりとくっついた。


「ぷる」


 ミナは少し離れた場所で、不安そうにこちらを見ていた。


「アレンお兄ちゃん、泣きそう?」


「……たぶん、少し」


「泣いても丸?」


 ぷる太が丸へ寄った。


「ぷる」


 俺は、思わず笑いそうになった。


 でも、うまく笑えなかった。


「ありがとう」


     ◇


 台所の灯りは、外の夜よりずっと温かかった。


 マルタさんが出してくれたのは、薄い野菜スープだった。


 重いものは喉を通らないだろう、という判断らしい。


 俺は椀を両手で持った。


 温かさが指先から入ってくる。


 シルフィは向かいで記録を整理している。


 村長は椅子に座り、目を閉じている。


 眠っているわけではない。


 考えている顔だ。


 マルタさんが鍋の蓋を閉めながら言った。


「アレン、今日したことを言ってみな」


「したこと?」


「そう。できなかったことじゃなくて、したこと」


 俺は少し考えた。


「休憩小屋を使ってもらった」


「うん」


「水と毛布を出した」


「うん」


「王都ギルドへ連絡鳥を出した」


「うん」


「書類を確認した」


「それはシルフィちゃんたちだね。でも、村としてした」


「はい」


「他には」


「……布を出さなかった」


「それは、しなかったことだけど、同時にしたことでもあるね」


「どういうことですか」


「危ない助け方をしなかった」


 マルタさんは、俺の前に座った。


「それは、何もしなかったのとは違うよ」


 俺は椀の中のスープを見た。


 湯気が揺れている。


「でも、子供が咳をしていました」


「うん」


「俺は見ました」


「うん」


「それでも、布を出さなかった」


「うん」


 マルタさんは、頷きながら聞いてくれる。


 責めない。


 急がせない。


 ただ、聞く。


「冷たいんじゃないかって、思います」


「冷たい人は、そんな顔しないよ」


「顔で分かりますか」


「分かるさ。アレンは分かりやすいからね」


 シルフィが記録板から顔を上げた。


「師匠は、冷たかったのではありません。揺れていました」


「揺れていた?」


「はい。揺れた上で、止まりました」


 村長も目を開けた。


「止まるのは、冷たさではない。手順だ」


 ぷる太が、机の上に置かれた四角の木片へ寄った。


「ぷる」


 俺は、少しだけ息を吐いた。


 完全に楽にはならない。


 でも、言葉にすると、少しだけ重さが分かれる。


 マルタさんが言った。


「明日、王都ギルドが来る。商会のことは、そっちへ引き渡す。村は救急医療院じゃない。できることをした。できないことはしなかった。それでいい」


「はい」


「それでも眠れないなら、明日また話す」


「今夜は?」


「今夜も話すよ。だから一人で布のところへ行くなって言ってる」


 俺は、今度は少しだけ笑えた。


「本当に信用がない」


「積み重ねだよ」


「はい」


 シルフィが、今日の記録の最後に一文を書いた。


『夜間訪問。患者あり。師匠、大きく揺れる。村側、手順通り対応。危ない助け方をしなかった』


 その一文を見て、俺は小さく呟いた。


「危ない助け方をしなかった」


 それが、今日の答えだった。


     ◇


 夜更け、休憩小屋の灯りはまだ消えていなかった。


 門番老人が交代で様子を見る。


 村の中からは、誰も近づかない。


 アレンも。


 落ち着き布も。


 馬車も村内には入らない。


 それでも、水と毛布と温石は渡した。


 線を引くとは、全部を拒むことではない。


 その難しさを、村全体が噛みしめている夜だった。


 俺は台所の椅子に座ったまま、外の気配を聞いていた。


 子供の咳は、もう聞こえない。


 遠いからか、落ち着いたからかは分からない。


 分からないことは、四角。


 そう思う。


 分からないまま、抱える。


 今夜は、それしかできない。


 ぷる太が俺の膝の上に乗ってきた。


 ひんやりしているのに、不思議と安心する。


「ぷる太」


「ぷる?」


「今日、俺、止まれた?」


 ぷる太は少し考え、丸と四角の間で揺れた。


「ぷる」


「丸じゃないんだ」


「ぷる」


「まだ揺れてるから?」


「ぷる」


「そうだな」


 俺は、ぷる太の柔らかい体をそっと撫でた。


「明日も、止めてくれ」


「ぷる」


 外では、夜風が板を揺らしていた。


『夜は布の話をしません』


 その板は、作ったばかりなのに、もう必要になった。


 そしてきっと、これからもっと必要になる。


 銀葉商会は引き下がったわけではない。


 ただ、今夜は止まっただけだ。


 馬車の中の子供。


 商会の使者。


 整っているようで足りない書類。


 そして、俺の中に残った罪悪感。


 全部が、明日へ持ち越される。


 俺は四角の木片を机の上に置き、ゆっくり息を吐いた。


 助ける道は閉じない。


 ただし、誰かの欲で広げない。


 その言葉を、本当に守るのは、思っていたよりずっと苦しい。


 でも、村は今夜、それを守った。

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