第74話 カイル、動きたくなるが待つ
王都騎士団の訓練場に、木剣の音が響いていた。
乾いた音。
踏み込みの音。
息を吐く音。
カイルは、相手の木剣を受け流し、半歩だけ横へずれた。
以前の彼なら、そこで前へ出ていた。
一気に間合いを詰め、力で押し切る。
勇者の剣は、それで多くの敵を倒してきた。
だが今は、踏み込まなかった。
足裏で土を噛み、止まる。
相手の肩が動く。
次の一撃が来る。
それを見てから、剣を合わせる。
「遅い!」
指導役の騎士が叫んだ。
カイルの木剣が、相手の胴を軽く叩く。
勝負としては、カイルの勝ちだった。
だが、見ていたグラウス副団長は腕を組んだまま、首を横に振った。
「勝った顔をするな」
カイルは息を整えながら振り返る。
「勝ちましたが」
「相手が一人ならな」
「……はい」
「お前は止まることを覚え始めた。それはよい。だが、止まった後に視野が狭くなる癖がある。待つことと、固まることは違う」
カイルは木剣を下ろした。
「待つことと、固まること……」
「そうだ。待てと言われた犬が、餌だけ見て尻尾を震わせている状態では困る」
「犬ですか」
「不満か?」
「いえ」
「なら続けろ」
周囲の騎士見習いたちが少し笑った。
以前なら、カイルはその笑いに苛立ったかもしれない。
勇者を犬扱いするな、と。
だが今は、革袋の中の木片が妙に重かった。
『急ぐな』
『待』
その二つの文字は、今日も腰にある。
笑われてもいい。
犬でもいい。
アレンにまた負担をかけるよりは、ずっとましだった。
訓練が一区切りついたところで、ギルドからの使いが訓練場へ駆け込んできた。
「グラウス副団長! マリナ様より緊急共有です」
カイルの心臓が跳ねた。
マリナ。
ギルド。
この時期に緊急共有。
落ち着き布の件だと、すぐに分かった。
グラウスは封書を受け取り、封蝋を確認する。
「読める場所へ移る。カイル、ミラ、ガレス、リーナ。お前たちも来い」
名を呼ばれた瞬間、カイルはもう歩き出していた。
いや、走り出しかけた。
ミラが横から腕を掴む。
「歩く」
「分かっている」
「今、走ろうとした」
「早歩きだ」
「嘘が下手」
カイルは口を閉じた。
◇
執務室に入ると、グラウスは封書を机に置いた。
同席したのは、カイル、ミラ、ガレス、リーナ。
それから記録官が一人。
封書には、ギルドの正式印とリーフェル村側の写し印が押されていた。
グラウスが読み上げる。
「リーフェル村より共有。落ち着き布に関する問い合わせ増加。銀葉商会より買い取りおよび流通提案あり。匿名による高額買い取り申し出あり。王都医療院より正式手順確認あり。村へ直接訪問した者一名。妹の症状を理由に即時提供を求めるも、外部対応広場にて聞き取りのみ。資料提出を案内」
リーナが口元を押さえた。
「もう、村まで直接……」
ミラの顔が険しくなる。
「早いわね。王都で噂になってから、まだ数日よ」
ガレスは低く言った。
「金の匂いがすれば、人は速い」
カイルは黙っていた。
胸の奥が熱い。
村へ直接行った者。
妹が苦しんでいる。
即時提供を求めた。
その男に悪意があるかは分からない。
だが、アレンはきっと揺れた。
妹が苦しんでいると言われたら、絶対に揺れる。
あいつはそういうやつだ。
カイルの手が、自然と拳になった。
グラウスは読み続ける。
「リーフェル村、新規外部対応板を設置。『布だけ売りません』『困った人は聞く。布はすぐ出さない』『顔より紙の中身を見る』『買う・会わせろ・今すぐ、はバツ』」
そこで、ミラが小さく吹き出しかけた。
だが、すぐに表情を戻す。
「相変わらず分かりやすいわね」
リーナは少しだけ笑った。
「でも、必要な言葉です」
カイルは、その言葉を頭の中で繰り返した。
顔より紙の中身を見る。
買う・会わせろ・今すぐ、はバツ。
アレンの村は、また新しい線を引いている。
なのに、王都から人が行った。
商人も動いている。
匿名の手紙まで来ている。
カイルの中で、何かが強く鳴った。
「副団長」
「何だ」
「リーフェル村へ向かいます」
言ってから、自分でも早すぎたと思った。
ミラが即座に顔を向ける。
「カイル」
「聞け。今度はアレンに会いに行くわけじゃない。村の門の外で警戒する。商人や仲介屋を止めるだけだ。アレンには会わない。村にも入らない。それなら――」
「駄目」
ミラの声は鋭かった。
カイルは彼女を見る。
「まだ最後まで言っていない」
「最後まで聞いても駄目」
「なぜだ!」
声が大きくなった。
記録官が肩を震わせる。
リーナが少し怯えた顔をしたのが見え、カイルは歯を食いしばった。
木片。
革袋に触れる。
急ぐな。
待。
指先に角が当たる。
それでも、胸の熱は消えなかった。
「なぜ駄目なんだ。村まで直接行く者が出たんだぞ。次は商会かもしれない。貴族家の私兵かもしれない。俺たちが外で止めれば、アレンに負担はかからない」
ミラは、一歩も引かなかった。
「その『俺たちが止めれば』が、もう危ないのよ」
「守ることがか?」
「そう。守ることが危ない時もあるの」
カイルは言葉に詰まった。
ミラは続ける。
「考えて。村の門の外に、元勇者パーティーが立ってるのよ? アレンを追放した私たちが。『守るためです、会いません、入村しません』って言っても、村の人たちはどう思う?」
「……」
「アレンはどう思う?」
カイルは答えられなかった。
ミラの声は、少しだけ柔らかくなる。
「心配してるのは分かる。私も行きたい。行って、商人だろうが貴族だろうが、変な奴は全部追い返したい。でも、それをやったら、アレンはまた私たちの存在を意識する。『来てくれたから何か返さなきゃ』って思うかもしれない。『帰ってくれ』って言うのも負担になるかもしれない」
ガレスが静かに頷いた。
「俺たちが立つだけで、過去を思い出させる」
リーナは、両手を握りしめて言った。
「守りたい気持ちで、傷を触ってしまうことがあります」
カイルは木片を握った。
強く。
指が痛い。
「では、何をしろと言うんだ」
声は低くなった。
「王都で噂を訂正して、掲示板を見張って、商人に釘を刺す。そんなことで、本当にアレンを守れるのか」
ミラはすぐには答えなかった。
代わりに、グラウスが言った。
「完全には守れん」
カイルは顔を上げる。
「副団長」
「王都で何をしても、すべての者は止まらん。道も一つではない。リーフェル村へ向かう者は出るだろう」
「なら」
「だからといって、お前が行くのは別問題だ」
グラウスは、報告書を机に置いた。
「守りたい時ほど、手段を選べ。これは戦場でも同じだ。敵が来るからといって、味方の陣へ無断で踏み込めば混乱する」
カイルは唇を噛む。
グラウスの言葉は正しい。
正しいから腹が立つ。
自分の中の衝動が、行け、今すぐ行け、と叫んでいる。
だが、それはアレンのためなのか。
自分が安心したいためなのか。
分からなくなる。
いや、本当は分かっていた。
両方だ。
アレンを守りたい。
そして、自分も「今度は守れた」と思いたい。
それが混ざっている。
カイルは、木片を机の上に置いた。
『急ぐな』
黒い文字が見える。
「……俺は、行きたいです」
カイルは言った。
「だが、行けばアレンに負担をかけるかもしれない。それも分かっています」
ミラが少しだけ息を吐いた。
リーナも肩の力を抜く。
グラウスは頷いた。
「なら、ここからが相談だ」
◇
相談は長くなった。
まず、王国騎士団としてリーフェル村へ直接兵を送る案は却下された。
理由は、村への圧力に見えるから。
次に、騎士団名で商会や医療院へ通達を強化する案が出た。
これは採用された。
文面は、かなりはっきりしたものになった。
『落ち着き布は販売物ではない』
『リーフェル村への直接訪問、買い取り交渉、作成者への接触は、村側の安全体制を乱す行為として記録対象となる』
『正式相談は、王国騎士団または冒険者ギルド経由の文書に限る』
『症例資料、本人または保護者同意、担当医療者、使用記録、異常時停止条件がない相談は受理しない』
ミラは文面を見て、少し眉を上げた。
「かなり強いわね」
グラウスが答える。
「強すぎれば圧力になる。弱すぎれば抜け穴になる。これはぎりぎりだ」
ガレスが言う。
「街道は?」
「巡回を増やす。ただし、リーフェル村へ向かう道だけを露骨に固めない。通常巡回の名目で、商隊や不審な馬車の動きを見る」
「俺たちは?」
カイルが聞く。
グラウスは四人を見た。
「王都内だ」
「……はい」
「不満そうだな」
「不満です」
「正直でよろしい」
グラウスは薄く笑った。
「カイル、ミラ、ガレス、リーナ。お前たちは王都内で噂の訂正と聞き取りを続けろ。特に冒険者酒場、薬草商組合、医療院、貴族家の使いが集まる宿だ」
カイルは頷いた。
「はい」
「ただし、喧嘩をするな」
「……はい」
「相手を脅すな」
「はい」
「勇者の名前で黙らせるな」
「はい」
「今、少し嫌そうな顔をしたな」
「しました」
ミラが横で笑う。
「顔に出すぎ」
カイルは睨んだが、ミラはまったく気にしなかった。
グラウスは書類をもう一枚出す。
「それから、リーフェル村へこちらから書状を出す」
カイルの顔が上がる。
「アレンにですか」
「違う。村長宛てだ。王都側で噂と直接交渉の抑制に動いていること。騎士団として、正式窓口をギルドと共同で整えること。元勇者パーティーが個人的に村へ向かわないよう、こちらで止めていること」
カイルは息を呑んだ。
「それを書くのですか」
「書く」
「アレンが読んだら」
「村長宛てだ。読むかどうかは村が決める」
カイルは黙った。
それは、たぶん正しい。
アレンへ直接「俺たちは行かずに我慢しています」と伝えると、それも負担になる。
だが、村長に状況を知らせることは必要だ。
ミラが静かに言った。
「私たちの名前は?」
「書く。ただし、謝罪や近況ではなく、王都側での対応者としてだ」
グラウスはカイルを見る。
「よいか。これは手紙ではない。報告だ。感情を乗せるな」
「……はい」
「特にお前は」
「はい」
◇
その日の午後、カイルたちは王都の薬草商組合へ向かった。
すでに通達は出ている。
だが、通達を出すことと、守らせることは別だった。
組合の会議室では、商人たちが集まっていた。
銀葉商会の代理人もいる。
上品な服を着た細身の男で、言葉遣いは柔らかい。
「誤解があるようです。我々は、リーフェル村に不利益をもたらすつもりはありません。むしろ、適切な流通を整え、困っている方々に届けたいだけです」
その言葉を聞いた瞬間、カイルの眉が動いた。
困っている方々に届けたい。
良い言葉だ。
だが、昨日から何度も聞いた危険な言葉でもある。
ミラが横で足を軽く踏んだ。
怒鳴るな、という合図だ。
カイルは木片に触れた。
急ぐな。
待。
そして、ゆっくり言った。
「適切な流通を整える段階ではありません」
代理人は微笑む。
「しかし、試験で一定の結果が出たと聞いております」
「一定の結果であって、治療具ではない」
「補助具として有望なのでしょう?」
「有望だからこそ、勝手に広げない」
代理人の笑みが少しだけ薄くなる。
「勇者殿は、苦しむ方に待てと言うのですか」
その言葉に、カイルの中で火が跳ねた。
まただ。
苦しむ方に待てと言うのか。
以前の自分なら、ここで声を荒げていた。
だが、リーナが一歩前に出た。
「待てと言うのではありません。安全な手順を踏んでください、と言っています」
代理人はリーナを見る。
「あなたは治癒術師ですね」
「はい」
「ならば、苦痛を一刻も早く取り除きたい気持ちはお分かりでしょう」
「分かります」
リーナは真っ直ぐ答えた。
「だからこそ、分からないものを安易に使えません。眠れない人に、量も体質も確認せず薬を渡すことはしません。落ち着き布も同じです」
代理人は少し黙った。
ガレスが低く続ける。
「商会が選ぶ使用者では駄目だ。症例資料がいる。本人か保護者の同意がいる。立会人がいる。停止条件がいる」
ミラが腕を組む。
「それに、布を売ってもらう話じゃないわ。そこを間違えないで」
代理人は、笑みを保ったまま言った。
「では、正式手順を踏めば、商会が仲介する余地は?」
「現時点ではない」
カイルが答えた。
「商会ではなく、医療者と王国またはギルド経由の正式文書だ。利益を挟む話ではない」
「利益を悪と見るのは、少々乱暴では」
「利益そのものは悪ではない」
カイルは言った。
「だが、今の段階で金を前に出すな」
代理人の目が、わずかに細くなる。
「勇者殿は商いをあまりご存じないようだ」
「そうだな」
カイルは素直に認めた。
「俺は商いには詳しくない。だが、アレンが善意で自分を削るところは見てきた。そこに金や名誉や救済という言葉が乗ると、どれほど危ないかは知っている」
部屋が静かになった。
ミラも、ガレスも、リーナも、カイルを見た。
それは、彼自身の失敗から出た言葉だった。
アレンの善意に甘え、当然のように支えを受け取り、見えなくなるまで削らせた。
それを知っているから、今は止めたい。
代理人は、今度は少しだけ丁寧に頭を下げた。
「承知しました。銀葉商会としては、正式な案内が整うまで、直接交渉を控えます」
「記録します」
カイルが言うと、代理人は苦笑した。
「皆様、本当に記録がお好きですね」
「好き嫌いではない。必要だからだ」
◇
夕方、騎士団詰所へ戻ると、グラウスが王都通達の最終文を確認していた。
カイルたちの報告を聞き、彼は短く頷く。
「怒鳴らなかったか」
ミラが言う。
「八割くらいで止まりました」
「七割だ」
カイルが訂正する。
「どちらでもよい。止まったなら」
グラウスは書状を差し出した。
「リーフェル村への報告文だ。確認しろ。ただし、感情的な追記はしない」
カイルは受け取った。
宛名は、リーフェル村村長。
内容は簡潔だった。
王都内で噂が拡散し始めていること。
騎士団とギルドが、落ち着き布を治療具として扱わないよう通達を出したこと。
商会や医療院への正式窓口を整備していること。
直接交渉や村への訪問を控えるよう注意していること。
元勇者パーティーは、個人的にリーフェル村へ向かわず、王都内で噂の訂正と外部圧力の抑制に協力していること。
最後の一文を読んで、カイルはしばらく黙った。
ミラが横から覗き込む。
「いいんじゃない」
ガレスも頷いた。
「事実だ」
リーナは少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「アレンさん宛てではないのが、いいと思います」
カイルは、ゆっくり書状を机に戻した。
「副団長」
「何だ」
「一文だけ、加えたいです」
グラウスの目が鋭くなる。
「内容による」
「『返答は不要』と」
部屋が静かになった。
カイルは続ける。
「村長宛ての報告ですが、もしアレンが読んだとしても、返事を考えなくていいように。こちらは報告だけで、返答を求めていないと明記したい」
グラウスは、しばらくカイルを見た。
やがて、少しだけ口元を緩めた。
「採用だ」
ミラが小さく笑う。
「かなりまとも」
「その言い方はやめろ」
「褒めてるわよ」
リーナも、ほっとしたように頷いた。
グラウスは書状の末尾に一文を加えた。
『本件は王都側の対応共有であり、リーフェル村およびアレン殿からの返答を求めるものではありません』
カイルは、その一文を見て、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
動きたい。
会いたい。
守りたい。
謝りたい。
だが、その全部を手紙に乗せない。
報告だけ。
返答不要。
それが、今の自分にできる線だった。
◇
夜、カイルは訓練場に一人残っていた。
木剣は持っていない。
代わりに、木片を手にしている。
『待』
『急ぐな』
ずっと触っていたせいで、角が少し丸くなってきた。
そこへ、ミラがやってきた。
「まだいたの」
「少し考えていた」
「村へ行く方法?」
「行かない方法だ」
ミラは少し驚いた顔をした。
それから、隣に座る。
「成長したわね」
「何度も言うな」
「だって本当だもの」
カイルは木片を見つめた。
「俺は、まだ行きたい」
「うん」
「直接守った方が、守っている気がする」
「うん」
「王都で噂を訂正しているだけだと、何もしていないような気がする」
「でも、今日だけで何人も止めたわよ」
「止めたのか、遅らせただけか」
「遅らせるのも大事よ」
ミラは膝を抱えた。
「私たち、前は全部急ぎすぎたじゃない。魔物が出た、行く。依頼が来た、行く。アレンが支えてくれる、当然。おかしいって思う前に、次へ行ってた」
「そうだな」
「だから、今は遅らせるくらいでちょうどいいのかも」
カイルは黙った。
夜の訓練場は静かだった。
昼間の剣音が嘘のように消えている。
「ミラ」
「何」
「今日、商会の男に『苦しむ方に待てと言うのか』と言われた時、俺は腹が立った」
「分かる」
「でも、昔の俺も同じことを言っていた気がする」
ミラは何も言わなかった。
カイルは続けた。
「世界を救うためだ。急ぐべきだ。今は我慢しろ。後で報われる。そういう言葉で、アレンにいろいろ押しつけていた」
「……私もね」
ミラの声は小さかった。
「強い魔法を撃てるなら撃つ。前衛が耐えられるなら押す。補助があるなら大丈夫。そうやって、誰がどれだけ支えてるか、見てなかった」
「だから、今は止まる」
「うん」
「腹立たしいな」
「腹立たしいわね」
二人は少し笑った。
重い笑いだった。
でも、笑えた。
◇
翌朝、王国騎士団と冒険者ギルド連名の通達が王都に出された。
薬草商組合。
医療院。
貴族家の使者窓口。
冒険者ギルド掲示板。
宿場の掲示板。
街道詰所。
そこに、同じ文面が貼られた。
『落ち着き布は販売物ではありません』
『治療具としての効果を保証するものではありません』
『正式相談は、症例資料および同意書を添え、ギルドまたは騎士団経由で行ってください』
『リーフェル村への直接交渉、買い取り、作成者への接触は控えてください』
カイルは掲示板の前に立ち、その文面を見ていた。
人々が足を止める。
読む。
首を傾げる。
隣の者と話す。
噂は完全には止まらない。
だが、噂の横に、訂正する言葉が立った。
それだけでも違う。
ギルドのマリナが近づいてきた。
「朝からありがとうございます」
「いえ」
「村へ行かなかったのですね」
カイルは少し苦笑した。
「何度も行きかけました」
「正直ですね」
「隠すと危ないので」
マリナは、その言葉を聞いて少し笑った。
「リーフェル村式ですね」
「らしいです」
「王都にも必要かもしれません。丸、バツ、四角」
カイルは木片に触れた。
「俺には必要です」
マリナは真面目な顔になった。
「今日、村へ報告書を送ります。王都側でも正式窓口を整えたこと、直接接触を抑える通達を出したこと。あなた方が王都内で協力していることも」
「返答不要と入っていますか」
「入れました」
「ありがとうございます」
カイルは、掲示板を見た。
その文字の向こうに、リーフェル村の外部対応広場が浮かぶ。
布だけ売りません。
困った人は聞く。布はすぐ出さない。
顔より紙の中身を見る。
買う・会わせろ・今すぐ、はバツ。
王都にも、似た板が必要なのだろう。
いや、もう立ち始めている。
紙の上に。
掲示板に。
通達に。
そして、自分たちの手の中の木片に。
「行かないことで守る」
カイルは呟いた。
マリナが聞き返す。
「何か?」
「いえ。自分に言っただけです」
カイルは、ゆっくり息を吐いた。
まだ行きたい。
それは変わらない。
だが、今日は行かない。
王都で止める。
王都で待つ。
今のカイルにとって、それは剣を振るより難しい戦いだった。




