第73話 外部対応広場、新ルール「布だけ売りません」
外部対応広場の板が、また増えた。
朝のうちはまだ一枚だった。
『布だけ売りません』
村長が太い字で書いたその板は、広場の入口に立てられていた。
見た者が必ず読む位置だ。
井戸へ行くにも、村長の家へ向かうにも、村の外から来た者が最初に通る場所にも、その文字が目に入る。
ミナは朝からその板を見て、何度も読み上げていた。
「布だけ売りません」
「うん」
「布と何かなら売るの?」
「そういう意味じゃないよ」
俺が答えると、ミナは真顔で考え込んだ。
「じゃあ、布とおまけの薬草茶なら?」
「売らない」
「布とぷる太の握手券なら?」
「ぷる太を巻き込まない」
「ぷる?」
井戸の縁にいたぷる太が、自分の名前に反応して揺れた。
ミナはぷる太へ駆け寄り、両手を広げる。
「握手券、いりますか?」
ぷる太は少し考え、バツへ寄った。
「ぷる」
「ぷる太、商売しないって」
「正しい」
マルタさんが台所から顔を出した。
「ぷる太の方がアレンより商売に向いてるかもしれないね。断るのが早い」
「俺も断れますよ」
「相手の話を最後まで聞いたら揺れるだろ」
「……揺れます」
「ほらね」
反論できない。
昨日の商会の手紙も、匿名の手紙も、俺はちゃんと揺れた。
必要な人に届けたい。
困っている人を助けたい。
その言葉が出ると、どうしても胸が動く。
でも、動いたからといって、すぐ布を出してはいけない。
それを示すための板だった。
『布だけ売りません』
けれど、その一枚だけでは足りないことが、昼前には分かった。
◇
最初に来たのは、王都の医療院からの正式な問い合わせだった。
ギルド経由で届いた封書は、紙も質素で、余計な香りもついていない。
封には王都冒険者ギルドの確認印がある。
シルフィがいつものように確認する。
「封印術なし。追跡術なし。精神誘導なし。内容確認印あり」
村長が頷いた。
「読め」
シルフィは外部対応広場の机で封を開けた。
「王都東区、聖泉医療院より。魔力不調の患者がいるため、落ち着き布に関する正式相談手順を確認したいとのことです」
ぷる太が四角へ寄る。
「ぷる」
「まだ相談手順だけですね」
「はい」
シルフィは続きを読んだ。
「現時点では症例資料の整理中であり、布の提供を直ちに求めるものではありません。必要な資料、本人または保護者同意、使用記録、立会人、停止条件について、リーフェル村側の求める形式を教えていただきたい」
村長が腕を組む。
「これは聞いてよい」
ぷる太が丸寄り四角へ移動した。
「ぷる」
ミナが小声で言う。
「困った人は聞く、布はすぐ出さない?」
「そうです」
シルフィは頷き、板の方を見た。
昨日ミナが書いた言葉だ。
『困った人は聞く。布はすぐ出さない』
医療院の問い合わせは、まさにその通りだった。
困っている人がいる。
でも、まだ布を求めてはいない。
まず手順を聞いている。
これは返答できる。
俺は少しほっとした。
「こういう相談なら、少し安心しますね」
マルタさんがすぐに釘を刺した。
「少し、だよ」
「はい。少し」
「医療院だから全部丸、じゃないからね」
「分かっています」
ぷる太が俺を見て、四角に寄った。
「ぷる」
「分かってるつもり、ですね」
言い直すと、ぷる太は丸に少し近づいた。
判定が細かい。
◇
二通目は、昼過ぎに来た。
今度は村の入口に直接、人が来た。
馬車ではない。
旅装の男が一人。
肩に革鞄をかけ、服装はそれなりに整っているが、貴族の使いというほどではない。商人とも、薬師とも見える。
門番老人が止めた。
「用件を紙で」
「いえ、直接お話しした方が早いと思いまして」
「用件を紙で」
「急ぎなのです。妹が魔力不調で、夜も眠れず苦しんでおります。リーフェル村には、眠りを助ける布があると聞きました。どうか、少しでいい。端切れでも構いません。金は払います」
「用件を紙で」
門番老人は、三回目も同じことを言った。
男は苛立ったように口を開きかけたが、村の門の横に立つ板を見た。
『落ち着き布の件は、ここで止まれ』
その下に、小さくこう書いてある。
『紙に書く。返事は後日。アレンに直接会わせません』
男は顔を歪めた。
「人命に関わるかもしれないのに、紙ですか」
門番老人は動じない。
「紙だ」
「あなたの家族が苦しんでいても、同じことが言えますか」
その言葉が、少し離れた外部対応広場にいた俺の耳にも届いた。
胸が、ぐっと揺れる。
俺は立ち上がりかけた。
瞬間、ぷる太が水鉢から飛び出して、俺の足元の四角木片に乗った。
「ぷるっ!」
シルフィも、俺の袖をそっとつかんだ。
「師匠」
「……分かってる」
でも、分かっていても、きつい。
あなたの家族が苦しんでいても。
その言葉は鋭い。
俺は、門へ行きたくなった。
話だけでも聞きたくなった。
しかし、マルタさんが俺の前に立った。
「行くなら、外部対応広場までだよ」
「はい」
「門じゃない」
「はい」
「相手の顔を見てすぐ約束しない」
「はい」
「相手が泣いても、怒っても、家族の話をしても、布を出さない」
俺は息を吸った。
「はい」
シルフィが記録板を持つ。
「では、外部対応広場で聞き取りのみ。師匠は同席しますが、返答はしません。村長が対応します」
村長が短く頷いた。
「よい」
◇
男は外部対応広場へ通された。
村の中へ深く入れたわけではない。
入口近くの広場。
机を挟んで、こちら側に村長、シルフィ、門番老人。
俺は少し後ろ。
マルタさんは俺の横。
ぷる太は机の上の水鉢に入り、丸、バツ、四角を前に置いている。
男はそれを見て、少し眉をひそめた。
「これは?」
「村の確認役です」
シルフィが言った。
「スライムが?」
「はい」
「……ふざけているのですか」
ぷる太がバツへ寄った。
「ぷる」
村長が言う。
「ふざけていない。用件を」
男は不満を飲み込み、革鞄から紙を出した。
だが、そこに書かれているのは、症例資料というより嘆願書だった。
妹が苦しんでいる。
夜眠れない。
医療院ではよくならない。
リーフェル村の布なら助かると聞いた。
金は払う。
身分は明かせないが、恩は忘れない。
どうか一枚譲ってほしい。
俺は、その文章を見て胸が痛んだ。
妹。
夜眠れない。
助けてほしい。
全部、刺さる。
だが、シルフィの表情は硬かった。
「症例資料がありません」
「妹の苦しみを書いています」
「医療記録ではありません。発熱の有無、魔力回路の状態、診察した医療者、現在の処置、本人同意、保護者同意、使用時の観察体制、異常時停止条件がありません」
男は唇を噛んだ。
「そんなものを用意している間にも、妹は苦しんでいる」
村長が静かに答えた。
「だからこそ、用意しろ」
「なぜですか!」
「合わない布を使えば、もっと苦しむかもしれん」
男は言葉に詰まった。
マルタさんが、少し柔らかい声で続けた。
「眠れない子に、なんでもいいから眠り薬を飲ませるかい? 量も体質も見ずに」
「それは……」
「落ち着き布も同じだよ。布だから安全ってわけじゃない。合わない症状もある。使い方を間違えれば危ない」
俺は、三号布を思い出した。
喉元へ使うつもりで作ったのに、魔力を集めすぎた布。
もし、あれを誰かに渡していたら。
背筋が冷える。
男は、俺の方を見た。
「あなたが作成者ですか」
俺の体が固まった。
シルフィが即座に言う。
「作成者本人への直接質問には答えません」
「でも、そこにいるではありませんか」
「答えません」
「私の妹は、本当に苦しんでいるんです。あなたなら、助けられるかもしれないんでしょう?」
男の目は切実だった。
演技ではないと思う。
本当に、妹を助けたいのだと思う。
だからこそ、きつい。
俺は口を開きかけた。
すると、マルタさんが俺の手首を軽く掴んだ。
痛くはない。
ただ、止めるための手だった。
シルフィが静かに言う。
「その言い方は、師匠の善意に直接訴えるものです。記録します」
男は驚いた顔をした。
「記録?」
「はい。『あなたなら助けられるかもしれない』という表現で、作成者本人へ即時対応を求めた、と記録します」
「そんなつもりでは」
「そう聞こえます」
シルフィの声は震えていなかった。
昔の彼女なら、こういう場で黙っていたかもしれない。
でも今は違う。
俺を守るためでもあり、相手を正しい手順へ戻すためでもある。
男は、しばらく黙った。
やがて、深く息を吐いた。
「……分かりました。では、何を出せばいいのですか」
村長が頷く。
「それなら聞く」
ぷる太が四角から少し丸へ寄った。
「ぷる」
◇
男には、正式相談に必要な項目を書いた紙を渡した。
症例資料。
診察医療者。
本人または保護者同意。
使用目的。
現在の症状。
使用時の立会人。
異常時の停止条件。
結果記録の共有。
アレン本人への接触なし。
即時提供不可。
男は紙を受け取り、苦い顔をした。
「これを全部、用意しろと」
「はい」
シルフィが答える。
「用意したら、布をいただけるのですか」
「いいえ」
男の眉が跳ねる。
「違うのですか」
「資料を受け取って検討します。提供を約束するものではありません」
「そんな……」
マルタさんが言った。
「そこで落ち込むのは分かるよ。でも、最初に約束できないものを約束する方がひどいんだよ」
男は何か言いかけ、やめた。
そして、俺を見ないようにして頭を下げた。
「……資料を用意します」
村長が頷く。
「ギルド経由で送れ。直接来るのは、次からは不可だ」
「分かりました」
男は広場を出ていった。
背中は重かった。
妹を思う兄の背中だ。
俺は、その背中を見て、また胸が痛んだ。
「アレン」
マルタさんが言う。
「はい」
「今、布を出したかったね」
「はい」
「でも出さなかった」
「はい」
「それでいい」
俺は、ゆっくり頷いた。
ぷる太は、丸と四角の間に移動した。
「ぷる」
今日の俺の判定らしい。
◇
その日の問い合わせ対応会は、長くなった。
直接来た男の件を受けて、村のルールをさらに細かくする必要が出たからだ。
外部対応広場に村人が集まる。
村長が板の前に立った。
「今日から、落ち着き布の相談は三つに分ける」
シルフィが横で板に書く。
一、正式手順問い合わせ。
二、症例資料つき相談。
三、買い取り・直接要求・匿名・作成者接触。
村長が言う。
「一は、返答する」
ぷる太が丸寄り四角へ。
「二は、資料を見て検討する」
ぷる太が四角へ。
「三は、断る」
ぷる太がバツへ。
「ぷるっ!」
ミナが手を上げた。
「泣いてる人はどれ?」
村長は少し考えた。
「泣いていても、中身で分ける」
「泣いてるから丸じゃない?」
「そうだ」
「怒ってる人は?」
「怒っていても、中身で分ける」
「お金持ちの人は?」
「金は判断に入れない」
ぷる太がバツへ体を寄せた。
「ぷる」
ミナは真剣な顔で頷いた。
「じゃあ、紙の中身を見るんだね」
「そうだ」
シルフィがその言葉を採用し、板に書く。
『顔より紙の中身を見る』
マルタさんが少し笑った。
「なかなか冷たい言葉に見えるね」
「でも必要です」
シルフィが答える。
「師匠は顔を見ると揺れます」
「はい」
俺は素直に認めた。
今日の男の顔を思い出すだけで、まだ揺れる。
妹を助けたい兄。
その顔を見てしまうと、断ることがすごく悪いことに思える。
だから紙を見る。
条件を見る。
中身を見る。
人の顔を無視するわけではない。
顔だけで決めない。
◇
新しい板が立った。
『布だけ売りません』
その下に、さらに三枚。
『困った人は聞く。布はすぐ出さない』
『顔より紙の中身を見る』
『買う・会わせろ・今すぐ、はバツ』
最後の板は、ミナが書いた。
村長が少し悩んだが、結局そのまま採用された。
理由は、分かりやすいからだ。
ぷる太も強く丸を出した。
「ぷる!」
夕方、シルフィは返答書を整えた。
銀葉商会への返答。
王都医療院への手順説明。
直接来た男への確認事項控え。
匿名手紙の記録。
すべて王都ギルドと騎士団にも写しを送ることになった。
マリナさんへの共有文も添える。
『王都側で噂が広がっているとのこと、こちらでも直接問い合わせが始まりました。外部対応広場にて新ルールを設けました。布だけ売りません』
その一文を見て、マルタさんが言った。
「マリナさん、これ読んで頭抱えそうだね」
「なぜですか」
俺が聞くと、マルタさんは笑った。
「王都で必死に火消ししてるのに、村から『布だけ売りません』って板の報告が来るんだよ。真面目な人ほど、ちょっと力が抜ける」
「でも、分かりやすいです」
シルフィは真顔だった。
「はいはい。分かりやすいのが一番だね」
◇
夜、俺は外部対応広場の板を眺めていた。
今日は、心が何度も揺れた。
商会の流通提案。
医療院の正式問い合わせ。
妹を助けたい男。
匿名の高額買い取り。
どれも同じではない。
全部バツではない。
でも、全部丸でもない。
だから分類する。
板にする。
村の言葉にする。
そうしないと、俺はたぶん、誰かの切実な顔に引っ張られてしまう。
「師匠」
シルフィが隣に来た。
「今日、疲れましたね」
「うん。戦ったわけじゃないのに、すごく疲れた」
「言葉の戦いでした」
「相手が悪人じゃない時の方が、疲れるな」
「はい」
シルフィは少しだけ目を伏せた。
「悪意ならバツにしやすいです。でも、善意や不安や家族への愛情が混ざると、四角が増えます」
「今日の男の人、本当に妹さんを助けたいんだと思う」
「私もそう思います」
「それでも、布は出せない」
「はい」
「きついな」
「きついです」
シルフィは、板を見上げた。
「でも、きついからこそ、仕組みが必要です」
俺は頷いた。
すると、ぷる太が井戸からやってきて、俺たちの足元に置かれた四角の木片へ寄った。
「ぷる」
「今日も四角が多かったな」
「ぷる」
「でも、バツも言えた」
「ぷるっ」
ぷる太は今度、バツへ移動した。
それから、少し考えたように丸へ移った。
ミナが遠くから見ていて、通訳する。
「『バツ言えたのは丸』だって」
「本当か?」
「たぶん!」
たぶんらしい。
でも、そういうことにしておいた。
俺は笑った。
「ありがとう、ぷる太」
「ぷる」
外部対応広場の板は、夜風に小さく揺れている。
布だけ売りません。
その言葉は、ただの拒否ではない。
人を助けたい気持ちを、金や噂に渡さないための線だ。
困った人を聞くために。
本当に必要な相談を残すために。
そして、俺自身をまた誰かの期待に差し出さないために。
村の夜は静かだった。
だが、門の外では、きっとまだ誰かが落ち着き布の噂を口にしている。
次の手紙は、もうどこかで書かれているかもしれない。
俺は板を見ながら、四角の木片を握った。
助ける道は閉じない。
でも、布だけは売らない。
リーフェル村の新しいルールは、その夜、しっかりと広場に立った。




