第70話 落ち着き布、三度目の試験結果
リーフェン家の外縁研究館では、その朝、いつもより早く人が動いていた。
廊下を歩く足音は抑えられている。扉の開閉も静かだった。誰も大声を出さない。けれど、建物の中に流れている空気は穏やかではなかった。
三度目の試験。
それは、ただ同じ布をもう一度置くというだけの話ではない。
初回、エナは半刻ほど眠った。
二度目、前より長く眠った。
そして今日、三回分の記録が揃う。
その結果によって、リーフェル村に追加布を正式に依頼するかどうかが決まる。
リュシアは、静養室へ向かう途中で足を止めた。
窓の外では、整えられた森が朝露に濡れている。どこまでも静かで、どこまでも美しい。
だが今の彼女には、その美しさが少し怖かった。
整っているものは、時に乱れを許さない。
不安も、怖さも、迷いも、余白として扱われない。
リーフェン家は長くそうだった。
そして今日、同じ過ちを繰り返さないために、彼女はこの場にいる。
「リュシア様」
後ろから声がした。
振り返ると、若い森術師エルミアが立っていた。手には記録板を抱えている。
「おはようございます」
「おはようございます。眠れましたか」
「少しだけです」
エルミアは苦笑した。
「自分が試験を受けるわけでもないのに、落ち着きませんでした」
「それは、悪いことではありません」
「そうでしょうか」
「はい。落ち着きすぎているより、ずっといい」
リュシアがそう言うと、エルミアは少し表情を和らげた。
「ノルドは、もう中に?」
「ええ。ヴィオラ様に三回ほど『配置を変えない』と確認されていました」
「三回」
「はい。本人は不満そうでしたが、黙りました」
リュシアは小さく頷いた。
黙ったなら、まだいい。
考えを捨てたわけではないだろう。
だが、勝手に動かない。
それが今は重要だった。
◇
静養室に入ると、エナは寝台の上で起きていた。
前より顔色がよい、とは言い切れない。
頬にはまだ熱の赤みがあるし、指先も少し冷えている。
けれど、目の奥の怯えは初回より薄くなっていた。
ヴィオラが寝台の横で、ゆっくり説明している。
「今日も同じ布です。同じ場所に置きます。身体にはつけません。時間も決めています」
エナは布の包みを見た。
「今日は、三回目?」
「ええ」
「三回したら、あの布は帰るんですか」
ヴィオラは一瞬だけ黙った。
その問いは、予想していたものだった。
それでも、答えるには慎重さが必要だった。
「一度、記録をまとめます。そのあと、もう一枚お願いするかどうかを話し合います」
「お願い?」
「この布を作った村に」
「村……」
エナは少し考えた。
「この布、村から来たんですか」
「そうです」
「じゃあ、森の布じゃないんですね」
ノルドが口を開きかけたが、ヴィオラの視線で止まった。
ヴィオラは柔らかく答える。
「森術の布ではありません。付与術師が作った、補助の布です」
「付与術師って、怖い人ですか」
リュシアは胸が小さく痛んだ。
エナにとって、何かをする大人は怖い存在になっているのかもしれない。
ヴィオラは少しだけ微笑んだ。
「私も直接は少ししか知りません。でも、怖い人ではないと思います」
「どうして?」
「怖がっている人に、無理やり近づく人ではないからです」
エナは、じっと布を見た。
「じゃあ、この布も無理やりじゃない?」
「はい。嫌なら止めます」
「……なら、置いてもいいです」
その一言で、室内の空気が少しだけ緩んだ。
リュシアは記録係へ目配せする。
『本人確認。布設置を了承。理由、無理やりではないと説明を受けたため』
その言葉が記録される。
エナは、それを見て小さく頷いた。
自分の言葉が記録されることに、少しずつ慣れてきている。
それはとても小さな変化だ。
だが、シルフィを知るリュシアには、その小ささがどれほど大事か分かっていた。
◇
三度目の試験は、前回と同じように始まった。
落ち着き布は木台に置かれる。
寝台からの距離も同じ。
窓の開き具合も同じ。
人数も増やさない。
道具も増やさない。
ノルドは部屋の端に立っている。視線は鋭いが、今日は手を出さないと約束している。
ヴィオラが砂時計を倒した。
「開始します」
布は相変わらず、何の光も出さなかった。
ただの布のように、静かにそこにある。
それが、この布の良いところであり、研究者たちを焦らせるところでもあった。
エナは目を閉じる。
最初の呼吸は少し浅い。
だが、前回ほどこわばっていない。
ヴィオラは手元の記録板へ視線を落とし、前回との違いを確認する。
「エナ、今どうですか」
「……まだ、熱いです」
「頭ですか」
「頭と、背中」
「苦しいですか」
「苦しいというより、重いです」
「葉っぱの声は?」
エナは少し黙った。
指先がシーツをつまむ。
「今日は……遠いです。最初から遠い」
ノルドの目が動いた。
ヴィオラも一瞬だけ息を止めたが、すぐに冷静な声で言った。
「記録してください。本人申告、精霊刺激感は試験開始直後より遠い」
エルミアが書く。
リュシアはエナの表情を見ていた。
苦しげではある。
熱もある。
それでも、周囲の刺激に押し潰されている顔ではない。
しばらくすると、エナが小さく言った。
「今日は、怖い夜が短かったです」
室内が静まった。
ヴィオラが、ゆっくり身をかがめる。
「怖い夜?」
「夜になると、葉っぱの声が近くなって、眠ろうとすると頭の中でぐるぐるします。でも昨日は、ぐるぐるする前に少し眠れました」
「それで、怖い夜が短かった?」
「はい」
エナは目を閉じたまま、少し恥ずかしそうに言う。
「夜は長いです。でも、昨日は少し短かった」
リュシアは、胸の奥を掴まれたような気がした。
怖い夜が短くなる。
たったそれだけのこと。
でも、エナにとっては大きなことだった。
ヴィオラは声を震わせなかった。
ただ、静かに言った。
「大事な記録です。書いてください」
エルミアは、慎重に書いた。
『本人申告。夜間の精霊刺激による恐怖あり。前回試験後、眠りに入るまでの苦痛時間が短く感じられた。表現、『怖い夜が少し短くなった』』
ノルドは、その文字をじっと見ていた。
研究者としてではなく、ひとりの大人として。
少なくとも、その瞬間だけはそうだった。
◇
試験中、エナの発熱は残っていた。
体温を示す水晶片は、前回と大きく変わらない反応を示している。
完治ではない。
症状消失でもない。
落ち着き布は、病を消しているわけではなかった。
ただ、呼吸を少し整え、刺激を少し遠ざけ、眠りに入るまでの道を少しだけ平らにしている。
ヴィオラは、その事実を何度も自分に言い聞かせていた。
喜びすぎるな。
断定するな。
けれど、無意味だとも言うな。
その間の言葉を探さなければならない。
リーフェル村がずっとやっているように。
丸と四角の間に立つ言葉を。
試験開始からしばらくして、エナのまぶたが重くなった。
呼吸がゆっくりになる。
指先がシーツから離れる。
眠りに入る兆候だ。
ヴィオラは砂時計を確認した。
予定時間にはまだ少しある。
だが、時間いっぱいまで置くかどうか、迷う余地がある。
その時、ノルドが小さく言った。
「時間まで置けます」
その声には、以前ほどの強引さはなかった。
ただ、観察者としての確認だった。
ヴィオラはエナの表情を見た。
苦痛はない。
呼吸も安定している。
それでも、条件を越えることはしない。
「予定時間まで。ただし、変化があれば即停止」
「はい」
ノルドは引いた。
リュシアは、そのやり取りも記録させた。
強く求める言葉だけでなく、引いた言葉も記録する。
変化は、そういうところにも現れる。
やがて、予定時間になった。
エナは眠っていた。
ヴィオラは静かに告げる。
「布を離します」
木台ごと、布を寝台から少し遠ざける。
室内の全員が息を潜めた。
エナの眉が少しだけ動く。
呼吸が一度浅くなる。
だが、目は開かなかった。
眠りは続いた。
ヴィオラは、ほんのわずかに肩の力を抜いた。
「睡眠継続。呼吸、大きな乱れなし」
エルミアが記録する手が、少し震えていた。
リュシアも、今度ばかりは胸の内で強く思った。
よかった。
◇
エナは、そのまま一刻半ほど眠った。
途中で一度、小さく眉を寄せたが、うわ言はなかった。
目を覚ました時、彼女はしばらく天井を見ていた。
そして、ぽつりと言った。
「今、朝ですか」
ヴィオラは優しく答えた。
「まだ昼前です」
「長く寝た気がしました」
「いつもより長く眠れました」
「そうですか」
エナは、少しだけ笑った。
本当に小さな笑みだった。
だが、リュシアにはそれが眩しかった。
「布、帰っちゃいますか」
エナが聞く。
ヴィオラは慎重に答えた。
「今日はもう使いません。記録をまとめます。その後、もう一枚お願いするかどうか、話し合います」
「お願い、してください」
室内が静かになった。
エナは、布が置かれていた木台の方を見た。
「でも、増やすなら聞いてください。一枚なら、たぶん平気です。いっぱいあるのは、まだ怖いです」
ヴィオラは頷いた。
「分かりました。そのまま記録します」
「はい」
エナは、また少し眠そうに目を細めた。
「村の人に、ありがとうって言ってください」
リュシアは、思わず息を止めた。
村の人。
アレンを知らないエナが、そう言った。
布を作った誰か。
それを送ってくれた村。
遠くの知らない人たち。
その人たちに、ありがとう。
ヴィオラは静かに言った。
「必ず伝えます」
◇
三回分の記録をまとめる作業は、昼過ぎまで続いた。
ヴィオラは、表現に最後まで迷った。
効果あり、と書くのは早い。
治療効果、と書くのは危ない。
しかし、単なる偶然とも言えない。
三回連続で、睡眠に関する改善が見られた。
本人申告も一貫している。
異常反応はない。
補助具としては、明確に価値がある。
ヴィオラは報告書の結論欄に、こう書いた。
『落ち着き布試作品二号は、第三症例に対し、短時間使用において睡眠導入および精霊刺激感の緩和を補助する可能性が高い。発熱および魔力回路損傷そのものを治癒するものではないが、夜間不安と睡眠困難の軽減に有用な補助具として継続検討の価値あり』
ノルドが覗き込み、少しだけ口を開いた。
「かなり慎重な表現ですね」
「必要な慎重さです」
「でも、価値ありとは書くのですね」
「そこは書きます」
ヴィオラは羽ペンを置いた。
「過小評価もまた、不誠実です」
ノルドは、その言葉に黙った。
リュシアは、別紙にエナの申告をまとめていた。
『怖い夜が少し短くなった』
『一枚なら、たぶん平気』
『いっぱいあるのは、まだ怖い』
『村の人にありがとうって言ってください』
この四つは、必ずリーフェル村に届ける。
彼女はそう決めていた。
セラドが後から現れ、報告書を読んだ。
「良い文書です」
ヴィオラが少し驚いた顔をする。
「あなたが素直に褒めるとは」
「私は良い文書は褒めます」
「意外です」
「誤解されていますね」
セラドは肩をすくめた。
そして、追加依頼の文書を取り出した。
「では、次です。同等品一枚の追加作成依頼」
空気が少し引き締まる。
ここからが本当の火種だ。
セラドは文案を読み上げた。
「三回分の短時間試験記録を踏まえ、第三症例に限り、同等品一枚の追加作成について正式に検討を依頼する。目的は、現在の試作品に過度な連続使用を避け、使用間隔を確保するため。強化版、量産、別症例適用、アレン殿本人の移動、直接施術は求めない」
ヴィオラが頷いた。
「よいと思います」
リュシアも確認する。
「『一枚』を強調してください。『同等品』も」
「当然です」
ノルドが少し不満そうに言った。
「同等品でなければ駄目ですか。三回分の結果をもとに、ほんの少し調整した方が」
その瞬間、三人の視線がノルドへ向いた。
ノルドは言葉を止める。
「……同等品で」
セラドが微笑む。
「成長しましたね」
「からかわないでください」
「からかってはいません。半分ほど」
「半分はからかっているではありませんか」
少しだけ空気が緩んだ。
だが、文書の中身は緩めない。
リュシアは言った。
「リーフェル村側は、おそらく『同等品』でも慎重になります。アレン殿が良くしようとして強める可能性を、村が警戒しているからです」
「作る本人が?」
ノルドが聞く。
「はい。アレン殿は、助けたい気持ちが強い方です。良い結果を見れば、もっと良くしようとするでしょう」
「それは良いことでは?」
「良いことです。だから危険です」
ノルドは、すぐには理解できない顔をした。
ヴィオラが補足する。
「薬草でも同じです。効いたからといって濃くすれば、毒になります」
「……なるほど」
ノルドは、少し不満そうながらも頷いた。
リュシアは心の中で、マルタの味噌の例えを思い出していた。
ここでそれを言う勇気は、まだなかった。
◇
エルドランの執務室で報告書と追加依頼文が確認された。
エルドランは、三回分の結果を黙って読んだ。
特に、エナの言葉がまとめられた別紙で手を止めた。
『怖い夜が少し短くなった』
その一文を、彼はしばらく見ていた。
リュシアは、彼の表情を読もうとした。
冷静。
相変わらずだ。
しかし、完全に無感情ではないようにも見えた。
「怖い夜、か」
エルドランが呟いた。
リュシアは静かに答える。
「本人の言葉です」
「そうか」
「はい」
エルドランは、次の文を読む。
『村の人にありがとうって言ってください』
その指が、わずかに止まる。
「これも入れるのか」
「入れます」
リュシアは即答した。
「症例本人の意向です」
「礼を言われれば、アレン殿はさらに作りたくなるだろう」
その言葉に、リュシアは少しだけ息を呑んだ。
たしかに、そうだ。
エナの感謝は本物だ。
だが、それがアレンを揺らす可能性もある。
セラドが静かに言った。
「だからこそ、依頼文の条件を強くします。感謝の言葉を同封する以上、同時に『強化を求めない』『同等品一枚』『作成可否は村側判断』を明記すべきです」
エルドランはセラドを見る。
「お前は、アレン殿の扱いをよく理解してきたな」
「理解しないと文書が通りませんので」
「なるほど」
エルドランは報告書を置いた。
「追加布一枚。第三症例のみ。同等品。強化不要。量産不要。本人移動不要。直接施術不要」
彼はひとつずつ確認した。
「これで出せ」
リュシアは、胸の奥で小さく安堵した。
ここで欲を出されなかった。
少なくとも文書上は。
しかし、エルドランは続けた。
「ただし、内部では別症例への展開案を準備しておけ。外には出すな」
ヴィオラの眉が動く。
「当主代理」
「分かっている。条件を破れとは言っていない。準備だ」
セラドが小さくため息をついた。
「また準備ですか」
「準備を怠るなというのは、リーフェン家の教えだ」
「準備と先走りは紙一重です」
「そのためにお前がいる」
「便利に使われますね」
「法務官だろう」
セラドは一礼した。
不満はある。
だが、今は正式依頼が条件内に収まったことを優先するしかない。
リュシアも同じだった。
火種は消えない。
ただ、外へ出す文書にはまだ柵がある。
◇
夕方、リーフェル村へ向けた封書が用意された。
封筒は二つ。
一つは、三回分の試験報告。
もう一つは、追加布一枚の正式検討依頼。
どちらも王国騎士団と冒険者ギルドへ写しが送られる。
リュシアは、最後に個人的な短い添え書きを入れた。
『シルフィへ。エナは、自分の言葉を記録されることに少し慣れてきました。あなたが会議場で言った言葉は、ここにも届いています』
書いてから、少し迷った。
私的すぎるかもしれない。
だが、入れることにした。
これはシルフィに伝えるべきだと思った。
エナは記録されるだけの子ではなくなり始めている。
それは、シルフィが会議場で踏みとどまったことと、確かにつながっている。
ヴィオラも別紙に一文を添えた。
『落ち着き布は、病を治したのではありません。しかし、エナの夜を少し短くしました。補助具としての価値を認め、同等品一枚の検討を正式にお願いします』
セラドはそれを見て、少し考えた。
「情緒的ですが、今回は必要でしょう」
「あなたに許可されるとは思いませんでした」
ヴィオラが言うと、セラドは淡々と返す。
「エナ本人の言葉が入っていますから。過度な宣伝ではなく、事実です」
リュシアは封を閉じた。
手元に残る紙は少ない。
だが、そこに詰まっているものは重い。
エナの眠り。
リーフェン家の期待。
若手たちの熱。
エルドランの計算。
そして、リーフェル村へ投げられる次の四角。
◇
その夜、エナはまた短く眠った。
落ち着き布は使っていない。
それでも、前より眠りに入るまでの恐怖が少し軽くなっているようだった。
ヴィオラは、寝台の横でそっと記録する。
『布未使用時も、前日までより入眠への恐怖表現やや軽減。ただし発熱あり。経過観察』
リュシアは窓辺に立ち、静かに森を見ていた。
整えられた森の向こうに、リーフェル村がある。
今頃、アレンは何をしているだろう。
三回目の報告を読んだら、どんな顔をするだろう。
喜ぶだろう。
きっと、とても喜ぶ。
そして、揺れる。
同等品一枚の依頼。
エナのありがとう。
怖い夜が短くなったという言葉。
それらは、アレンの善意を強く揺らすはずだ。
だが、彼のそばには村がある。
シルフィがいる。
マルタがいる。
ぷる太がいる。
丸、バツ、四角がある。
リュシアは、そのことを信じるしかなかった。
「次は、リーフェル村の番ですね」
ヴィオラが言った。
「はい」
「彼らは作るでしょうか」
リュシアは少し考えた。
「作りたいとは思うでしょう」
「作るかどうかは?」
「条件次第です」
そう答えて、リュシアは少し笑った。
まるでリーフェル村の人間のような答えだ。
ヴィオラも小さく笑った。
「良い答えです」
森の夜は静かだった。
けれど、静けさの中で、封書を乗せた馬車はすでに出発している。
三度目の試験結果。
同等品一枚の正式依頼。
そして、エナの小さなありがとう。
それらは、リーフェル村へ向かっていた。
小さな成功は、次の判断を連れてくる。
喜びだけでは受け取れない。
拒否だけでも受け取れない。
きっと、あの村なら四角を置く。
リュシアは、そう思った。




