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無能だと追放された底辺付与術師、実は世界で唯一の【全自動・神級バフ】持ちでした 〜辺境でスローライフを送るはずが、俺が抜けて壊滅寸前の勇者パーティーが泣きついてきてももう遅い。  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第69話 王都ギルド、落ち着き布の価値を知る

 王都冒険者ギルドの朝は、いつも通り騒がしかった。


 依頼板の前では、討伐依頼を奪い合うように冒険者たちが集まっている。受付には薬草採取の成果を抱えた若者が並び、奥の換金窓口では、巨大な牙を麻袋から出した男が係員に注意されていた。


「だから、机の上に直接置かないでください。傷がつきます」


「牙だぞ? 傷つける側だろ」


「机が傷つくんです」


「机も鍛えろよ」


「机は冒険者ではありません」


 そんなやり取りを横目に、マリナは奥の記録室へ向かっていた。


 普段なら、少し笑って流せる光景だ。


 だが、今日は笑えなかった。


 手にしている封書が重い。


 リーフェン家から届いた、落ち着き布の第二回試験報告。


 王国騎士団にも写しが送られ、ギルドにも正式に記録として届いている。


 すでに一度、内容には目を通した。


 九歳の症例。


 短時間試験。


 呼吸安定。


 前回より長い睡眠。


 本人申告。


『静か』


 その一文を見た時、マリナはしばらく紙から目を離せなかった。


 良い報告だ。


 間違いなく、良い報告である。


 眠れない子が少し眠れた。


 発熱は残っているにしても、本人が苦しさの軽減を言葉にできた。


 落ち着き布は、少なくとも補助具として可能性を示した。


 だからこそ、危ない。


 マリナは記録室の扉を閉め、机の上に封書を置いた。


 同僚の受付官が顔を上げる。


「マリナさん、例のリーフェル村の報告ですか?」


「はい」


「良かったんですよね? 昨日ちらっと、九歳の子が眠れたって聞きました」


「良かったです」


 マリナは頷いた。


 そして、少しだけ声を落とす。


「良かったからこそ、今日から危険になります」


 同僚は首を傾げた。


「危険?」


「ええ。効かなければ、ただの珍しい布です。でも、少しでも効いたなら、欲しがる人が出ます」


「病気の人が?」


「病気の人も。家族も。貴族も。商人も。研究者も」


 マリナは封書を開き、写しを机に並べた。


「落ち着き布は、治療具ではありません。不調時の補助具候補です。アレン様本人の移動も、直接施術も、量産も約束されていません。そう記録されています。でも、噂になると、そこは落ちます」


「噂になると?」


「『リーフェル村に、魔力病を眠らせる布がある』になります」


 同僚の顔色が変わった。


「……それはまずいですね」


「まずいです」


 マリナは、窓の外の受付広間を見た。


 多くの人が行き交っている。


 冒険者、商人、依頼人、貴族家の使い、薬草商、旅人。


 情報は、人より速く走る。


 そして、情報は走るうちに服を着替える。


 落ち着き布。


 不調時の補助具。


 短時間睡眠。


 補助具として有望。


 その慎重な言葉は、数人の口を通れば、あっという間に変わる。


 奇跡の治療布。


 魔力回路を治す布。


 リーフェル村だけが持つ秘薬。


 アレンという付与術師が作る神具。


 そうなれば、もう止めるのは難しい。


「受付の全員に共有します」


 マリナは言った。


「落ち着き布について問い合わせがあっても、詳細は答えない。リーフェル村の場所を教えない。アレン様の所在を不用意に話さない。症例や試験内容は、正式記録に基づく範囲以外では話さない」


「分かりました」


「それから、商人系の問い合わせは必ず私か主任へ回してください。高額買取、独占契約、病人がいるから今すぐ、という言葉が出たら特に」


「そんなに早く来ますか?」


 同僚の声には、半信半疑の響きがあった。


 マリナは苦く笑った。


「来ます。早ければ今日中に」


 同僚は、少し顔を引きつらせた。


「……分かりました。受付に伝えます」


     ◇


 同じ頃、王国騎士団の詰所でも、同じ報告書が読まれていた。


 グラウス副団長は、執務机に肘をつき、報告書の一文をじっと見ていた。


『前回より長い睡眠を確認』


 短い文だ。


 だが、重い。


 医療記録としては慎重な表現が並んでいる。


『発熱そのものに大きな変化なし』


『治療効果の断定不可』


『補助具として有望』


 しかし、政治的には十分すぎる。


 魔力回路に問題を抱えた子供が、アレンの付与布で眠った。


 それだけで、動く者は動く。


 グラウスは報告書を閉じ、部下を呼んだ。


「リーフェル村周辺の通行記録を確認しろ」


「はい。街道ですか」


「街道、商隊、貴族家の私兵、薬草商、研究者名義の移動許可。すべてだ」


 部下は少し驚いた顔をした。


「そこまで警戒しますか」


「する」


 グラウスは即答した。


「この報告は、価値のある報告だ。価値があるものには、善意だけでなく欲も寄ってくる」


「落ち着き布を求めて、ですか」


「布だけならまだいい。問題は、布を作る人間だ」


 部下の顔が引き締まった。


「アレン殿ですね」


「ああ」


 グラウスは窓の外を見た。


 王都の空は明るい。


 だが、胸の中には重い雲がある。


「アレン殿は、自分から誰かを助けようとする。そこが強みであり、弱みでもある。リーフェル村はそれを分かって止めている。だが外から来る者は、それを利用するかもしれん」


「守りを強めますか」


「露骨に兵を出せば、村に圧力をかけているように見える。まずは情報の流れを押さえる」


「はい」


「王都内で噂が広がる前に、関係者へ釘を刺す。ギルド、騎士団、薬草商組合、主要な医療院。『落ち着き布は正式な治療具ではない』『リーフェル村への直接接触は禁止ではないが、王国側は強く推奨しない』『正式な相談はギルド経由』。この線で文書を作れ」


「承知しました」


 部下が出ていくと、グラウスは椅子に深く座った。


 頭に浮かぶのは、カイルたちの顔だった。


 彼らも、この話を聞くだろう。


 特にカイルは動きたがる。


 アレンを守るため。


 今度こそ役に立つため。


 そういう理由で。


 だが、その気持ちで村へ向かえば、またアレンの境界線を踏む。


 グラウスは小さく息を吐いた。


「勇者の待つ練習、か」


 机の端には、以前カイルに渡した四角い木片と同じ端材が残っていた。


 グラウスはそれを見て、低く呟く。


「今日は、あれが役に立つといいがな」


     ◇


 カイルたちが落ち着き布の話を聞いたのは、その日の午後だった。


 訓練場の休憩時間。


 木剣を置き、汗を拭っているところへ、騎士見習いの一人が何気なく話した。


「聞きました? リーフェル村の付与術師が作った布で、魔力病の子供が眠れたって」


 カイルの手が止まった。


 ミラも、杖の手入れをしていた指を止める。


 ガレスは水筒を口元に持っていったまま、飲まなかった。


 リーナは顔を上げ、はっきりと不安そうな表情を浮かべた。


 見習いは、彼らの反応に気づかず続ける。


「すごいですよね。なんでも、魔力回路の病を治す布だとか。貴族家の医療院でも話題になり始めてるみたいで」


「治す布ではありません」


 リーナが即座に言った。


 普段の彼女にしては珍しく、強い声だった。


 見習いは驚いた顔をする。


「え?」


「治療具ではなく、補助具候補です。短時間の試験で、眠れた可能性があるという話です。治すと断定するのは危険です」


「あ、はい。すみません」


 見習いは慌てて頭を下げた。


 ミラが、少し苦い顔で言った。


「もう変わってるわね。『眠れた』が『治す布』になってる」


 ガレスが低く唸る。


「早いな」


 カイルは黙っていた。


 胸の奥が、熱くなる。


 アレンの力が、また人を助けた。


 それは嬉しい。


 誇らしくもある。


 だが、同時に背筋が冷えた。


 治す布。


 魔力病を眠らせる布。


 貴族家の医療院でも話題。


 その言葉が、アレンへ向かっていく矢のように思えた。


「……まずい」


 カイルは呟いた。


 ミラが彼を見る。


「何が?」


「このまま噂が広がれば、アレンを狙う者が出る」


「もう出てるかもね」


「俺たちが行く」


 言った瞬間、ミラの目が鋭くなった。


「駄目」


 即答だった。


 カイルは彼女を見る。


「まだ何も説明していない」


「説明しなくても分かる。『アレンを守るためにリーフェル村へ行く』でしょ」


「そうだ」


「駄目」


「なぜだ。今度は俺たちが――」


「その『今度は俺たちが』が危ないのよ」


 ミラは立ち上がった。


 訓練場の端。


 周囲には他の騎士たちもいる。


 だが、彼女は声を落とさなかった。


「守りたい気持ちで押しかけたら、前と同じよ。アレンの都合を聞かずに、私たちの気持ちで動くことになる」


 カイルは言葉に詰まった。


 腰の革袋に入れた木片が、急に重く感じる。


『待』


『急ぐな』


 手を伸ばす。


 触れる。


 木の角が指に当たる。


 ミラは続けた。


「アレンは返事を急がないでくださいって書いた。戻るつもりはないって線を引いた。リーフェル村には、アレンを止める人たちがいる。そこへ私たちが『守りに来ました』って行ったら、アレンはどう思う?」


「……」


「助かるかもしれない。でも、苦しくもなると思う。私たちを拒むのも、受け入れるのも、どっちも負担になる」


 ガレスが静かに言った。


「ミラの言う通りだ」


 カイルは彼を見る。


「お前もか」


「ああ。俺も行きたい。行って、門の前に立って、誰も通さないと言いたい」


「なら」


「だが、それは俺のしたいことだ。アレンが望んだことではない」


 リーナも、そっと言った。


「私も心配です。アレンさんがまた、助けたい気持ちで無理をしてしまうのではないかと。でも、だからといって私たちが行けば、アレンさんは私たちにも気を遣ってしまいます」


 カイルは木片を握りしめた。


 指が痛い。


 だが、その痛みで少し頭が冷える。


「では、何もしないのか」


 声が低くなる。


「噂が広がって、商人や貴族が村へ向かっても、俺たちはここで待つだけか」


「何もしないとは言ってない」


 ミラは言った。


「直接行くなって言ってるの」


「同じではないのか」


「違うわよ」


 ミラは息を吐いた。


「動くなら、王国騎士団やギルドを通して動く。アレンに会いに行くんじゃなくて、アレンの周りへ変な圧力が行かないようにする」


 ガレスが頷く。


「街道の監視、噂の抑制、商人への注意。俺たちが直接村へ行かなくてもできることはある」


 リーナも続ける。


「グラウス副団長に相談しましょう。私たちの判断だけで動かない方がいいです」


 カイルは、木片を革袋から取り出した。


 訓練場の光の中で、黒い炭文字が見える。


『急ぐな』


 ひどく腹立たしい文字だ。


 自分で書いたのに。


 だが、今は必要だった。


「……分かった」


 カイルは絞り出すように言った。


「副団長に相談する。今すぐ村へは行かない」


 ミラは、少しだけ表情を緩めた。


「よし」


「偉そうに言うな」


「偉そうにもなるわよ。今のあんた、半分走ってたもの」


「半分どころか、八割走っていた」


 ガレスが真面目に言う。


 カイルは睨んだ。


「そこは黙っていろ」


 リーナが、少しだけ笑った。


 重い空気が、わずかに緩む。


 だが、心配は消えなかった。


     ◇


 グラウスの執務室に四人が来た時、彼はすでに事情を察していた。


 カイルの顔を見るなり、第一声がそれだった。


「村へ行くな」


 カイルは口を開きかけて、閉じた。


 ミラが横で吹き出しそうになる。


「まだ何も言っていません」


「顔に書いてある」


「最近、顔で読まれすぎる」


 カイルは不機嫌そうに言った。


 グラウスは机の上の報告書を指で叩く。


「落ち着き布の件だろう」


「はい」


 リーナが一歩前に出る。


「噂が、すでに少し変わっています。治療具ではないのに、魔力病を治す布として話され始めています」


「把握している」


「このままでは、アレンさんやリーフェル村へ人が押しかけるのではないかと」


「その可能性は高い」


 グラウスは、四人を順に見た。


「そこでお前たちは、村へ向かいたくなった」


「……はい」


 カイルは正直に答えた。


「だが、止まりました」


 リーナが言う。


「四角で」


 ミラが付け足す。


「かなりギリギリでしたけどね」


「余計なことを言うな」


「事実でしょ」


 グラウスは少しだけ口元を緩めた。


「止まったなら、前進だ」


 カイルは木片を握ったまま言った。


「では、俺たちにできることはありますか」


「ある」


 グラウスは即答した。


「ただし、村へ行くことではない」


「何をすれば」


「まず、噂を訂正する。落ち着き布は治療具ではない。補助具候補だ。症例資料と立会い、使用記録、停止条件がなければ扱えない。これを騎士団内で徹底する」


 ミラが頷く。


「ギルドにも?」


「マリナが動いている。だが、お前たちからも冒険者仲間へ不用意に話さないよう伝えろ。ただし、アレン殿の名前を広めるな」


「はい」


 グラウスは続けた。


「次に、薬草商組合と医療院へ通達を出す。リーフェル村への直接交渉、買い付け、使者派遣は控えるように。正式相談はギルドまたは騎士団経由」


 ガレスが聞く。


「強制できますか」


「完全には無理だ。だが、王国騎士団が注意していると分かれば、軽い気持ちの者は止まる」


「止まらない者は?」


「記録する」


 グラウスの声が少し低くなった。


「誰が、どの名目で、リーフェル村へ向かったか。記録しておけば、後で動ける」


 カイルは頷いた。


「俺たちは」


「お前たちは、騎士団の下で動け。個人としてではなく、正式な補助として。商人筋の聞き込み、噂の確認、訓練場や冒険者酒場での訂正。戦うな。押しかけるな。アレン殿への手紙も書くな」


「手紙もですか」


 リーナが少しだけ切なそうに言う。


 グラウスは頷いた。


「今はな。『心配しています』という手紙も、今のアレン殿には負担になるかもしれん」


 リーナは目を伏せた。


「……はい」


 カイルは、木片を握った。


 まただ。


 また待つ。


 また、直接は何もできない。


 だが、今回は完全に何もしないわけではない。


 外側で圧力を防ぐ。


 アレンへ向かう矢を減らす。


 それなら、できる。


「副団長」


「何だ」


「俺は、村へ行きたいです」


「分かっている」


「アレンに、今度こそ助けになると言いたい」


「それも分かっている」


「でも、行きません」


 カイルは、はっきり言った。


「王都でできることをします」


 グラウスは、静かに頷いた。


「よい。今のは、かなりまともだ」


「かなり、ですか」


「かなりだ」


 ミラが笑った。


「よかったじゃない。かなりまとも」


「褒められている気がしない」


「前よりは褒められてるわよ」


 グラウスは机の引き出しから数枚の書類を出した。


「では、働け。噂は今日のうちに広がる。明日では遅い」


     ◇


 その日の夕方、王都ギルドの掲示板に小さな注意書きが貼られた。


『リーフェル村の付与布に関する問い合わせについて』


 内容は簡潔だった。


 落ち着き布は正式な治療具ではない。


 個別症例に対する補助具候補である。


 購入、仲介、独占契約の相談は受け付けない。


 医療目的の正式相談は、症例資料と本人または保護者同意、王国またはギルド立会いが必要。


 リーフェル村への直接交渉は推奨しない。


 冒険者たちは、それを見てざわついた。


「落ち着き布って何だ?」


「知らねえのか。魔力病の子が眠れたって」


「治るのか?」


「いや、治療具じゃないって書いてあるぞ」


「でも眠れたんだろ?」


「じゃあ高く売れそうだな」


 その一言を聞いた瞬間、近くにいたミラが振り返った。


「売り物じゃないわよ」


 冒険者の男が、少し驚く。


「何だよ、急に」


「売り物じゃない。治療具でもない。そう書いてあるでしょ」


「いや、でも高く買う貴族はいるだろ」


「そういう考えの人が出るから、注意書きが出てるの」


 ミラの声は冷たかった。


 男は肩をすくめる。


「怖い顔すんなよ。冗談だって」


「冗談でも広めないで」


 ミラはそう言い、掲示板から離れた。


 少し離れた場所で、ガレスが別の冒険者に説明している。


「症例ごとの記録が必要だ。誰にでも使えるものではない」


「でも、付与布なんだろ?」


「補助具候補だ」


「候補?」


「候補だ」


 ガレスの説明は短い。


 だが、妙に説得力がある。


 リーナは医療院へ向かい、治癒師たちに丁寧に説明していた。


 彼女は少し震えながらも、はっきりと言う。


「眠れたことは大切です。でも、だからこそ大げさに広めないでください。苦しんでいる方やご家族に、過剰な期待を持たせることになります」


 カイルは、騎士団の通達を持って薬草商組合へ向かった。


 組合長は商売人らしく、最初から興味津々だった。


「その布、材料は薬草ですか?」


「答えられません」


「取引の余地は」


「ありません」


「寄付という形なら」


「ありません」


「病人を抱える家が泣きついてきても?」


 カイルは木片に触れた。


 怒鳴りそうになった。


 だが、止まった。


「正式な相談窓口へ案内してください。個別にリーフェル村へ向かわせないでください」


「ずいぶん固いですな」


「柔らかくすると、人が押し寄せます」


 組合長は、カイルの顔を見て少し黙った。


「勇者殿が、ずいぶん慎重なことを言う」


「慎重になる訓練中です」


「それはまた」


「笑っても構いません。ただ、守ってください」


 カイルは通達を置いた。


「落ち着き布は、商材ではありません」


 組合長は、ようやく真面目な顔になった。


「承知しました。組合内には伝えましょう」


     ◇


 夜、四人はギルド前の小さな広場で合流した。


 皆、少し疲れていた。


 戦ったわけではない。


 だが、何度も同じ説明をし、何度も噂を訂正し、何度も「直接行くな」と言うのは、思った以上に疲れる。


 ミラは、杖を肩に担いで息を吐いた。


「言葉って疲れるわね」


 ガレスが頷く。


「ああ」


 リーナは少し微笑んだ。


「でも、少しは止められたと思います」


 カイルは、ギルドの掲示板を見た。


 注意書きの前には、まだ何人かが立っている。


 読んでいる。


 噂は止まらない。


 だが、訂正する言葉もそこにある。


「俺は、村へ行かなかった」


 カイルは呟いた。


 ミラが横を見る。


「うん」


「行きたかった」


「知ってる」


「今も行きたい」


「それも知ってる」


「だが、行かなかった」


 ガレスが静かに言った。


「それは今日の成果だ」


 リーナも頷く。


「はい」


 カイルは革袋から木片を出した。


『待』


『急ぐな』


 その文字は、少し擦れている。


 今日、何度も触ったからだ。


「アレンは、今どうしているだろうな」


 ミラが空を見上げる。


「たぶん、村でまた板を増やしてるんじゃない?」


 ガレスが真面目に頷いた。


「あり得る」


 リーナが小さく笑った。


「『布だけ売りません』とか」


 カイルは思わず笑った。


 それは本当にありそうだった。


 そして、その想像に少し救われた。


 アレンのそばには、きっと止める人たちがいる。


 丸、バツ、四角を出すスライムもいる。


 自分たちは、外側でできることをする。


 それでいい。


 今は。


「明日も続ける」


 カイルは言った。


「噂の確認。商人筋の見回り。騎士団への共有」


 ミラがにやりとする。


「勇者パーティー、地味な仕事ばっかりね」


「必要な仕事だ」


 ガレスが言う。


「そうね」


 ミラは肩をすくめた。


「派手に失敗したんだから、地味に取り戻すしかないか」


 カイルは何も言わなかった。


 ただ、木片を革袋へ戻した。


 派手に守りに行くのではなく。


 地味に圧力を減らす。


 今の彼らには、それが必要だった。


     ◇


 同じ夜、マリナはギルドの記録室で最後の書類をまとめていた。


 今日だけで、問い合わせはすでに三件あった。


 薬草商組合から一件。


 貴族家の医療係から一件。


 冒険者経由の噂確認が一件。


 予想より早い。


 だが、まだ初動で止められる範囲だ。


 マリナは記録の末尾に書いた。


『落ち着き布に関する噂、王都内で拡散初期。治療具との誤解あり。ギルド掲示および騎士団通達により、正式窓口への誘導を開始』


 そして、少し考えてから、もう一行加えた。


『リーフェル村への直接接触リスク上昇。継続監視』


 羽ペンを置く。


 肩が重い。


 けれど、今止めなければ、後でもっと重くなる。


 マリナは窓の外を見た。


 王都の夜は明るい。


 人も金も情報も、眠らず動く。


 リーフェル村の夜とは違う。


 だからこそ、王都側で止めなければならないものがある。


「落ち着き布、ですか」


 マリナは小さく呟いた。


「名前は可愛いのに、まったく落ち着きませんね」


 自分で言って、少しだけ笑った。


 だが、その笑みはすぐに消える。


 明日には、もっと問い合わせが増えるかもしれない。


 貴族家が動くかもしれない。


 商人が裏から探るかもしれない。


 リーフェル村に向かう者も出るかもしれない。


 落ち着き布の価値は、もう王都に知られ始めている。


 小さな成功は、小さなままではいられない。


 マリナは灯りを一つ落とし、書類を封筒へ収めた。


 宛先は、リーフェル村。


 共有すべきだ。


 王都で、噂が動き始めたことを。


 そして、アレンを守るために、外側でも四角を立て始めたことを。

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