第68話 リーフェン家内部、強硬派が動く
リーフェン家の研究館では、夜になっても灯りが消えなかった。
外縁研究館の奥にある小会議室。
普段は若い森術師たちが論文の草稿を読み合わせたり、薬草反応の記録を整理したりする場所である。
その部屋に、いつもより多くの紙が広げられていた。
中央の机には、落ち着き布の試験記録。
一回目。
二回目。
九歳の少女エナの睡眠時間。
発熱の推移。
本人申告。
『葉っぱの声が遠い』
『胸のあたりが少し楽』
『今日は一枚だけなら平気』
『増やす前に聞いてください』
その一文一文を前に、若い森術師たちは沈黙していた。
だが、それは静かな沈黙ではない。
熱を含んだ沈黙だった。
最初に口を開いたのはノルドだった。
「このまま、三回目の報告を待つだけでいいと思うか?」
誰もすぐには答えなかった。
ノルドは、机の上の記録を指で叩いた。
「二回だ。たった二回の短時間試験で、睡眠時間が伸びた。本人申告でも魔力刺激が弱まっている。これを前にして、ただ待つだけというのは、森術師として怠慢ではないのか」
若い女性森術師のエルミアが、慎重に言った。
「条件があります。リーフェル村側は、初回を含め三回まで。その後に検討すると」
「分かっている」
ノルドは苛立ったように言った。
「分かっているが、準備まで禁じられてはいない。正式依頼を出す前に、こちらの意見をまとめることはできる」
「意見書、ですか」
「ああ」
ノルドは、別の羊皮紙を机に置いた。
そこには、すでに題名が書かれている。
『魔力回路損傷症例救済のための安定付与布追加作成に関する内部意見書』
エルミアは、その題名を見て少し顔を曇らせた。
「救済、という言葉は強くありませんか」
「実際に救済だろう」
「でも、落ち着き布は治療具ではなく補助具です。ヴィオラ様も、効果ありとは断定していません」
「だからこそ、研究が必要だ」
ノルドの声には、抑えきれない熱があった。
「一枚だけでは足りない。配置を変えた場合、距離を変えた場合、素材を変えた場合、付与強度を変えた場合。調べるべきことは山ほどある」
別の森術師が頷いた。
「十一歳症例の魔力滞留にも、別調整の布なら応用できるかもしれない」
「十三歳症例の右腕損傷には、腕輪型が向いているかもしれない」
「枕元だけでなく、寝台下や部屋の四隅も試すべきだ」
言葉が増える。
熱が増える。
紙の上のエナの睡眠時間は、いつの間にか「次の研究」への入口になっていた。
エルミアは、恐る恐る口を挟んだ。
「でも、エナ本人が言いました。増やす前に聞いてほしい、と」
「聞けばいい」
ノルドは即答した。
「聞いた上で、必要だと説明する。子供だ。自分に何が必要か、すべて分かるわけではない」
その一言で、部屋の空気がわずかに変わった。
エルミアは口を閉じた。
言い返したい。
だが、ノルドの言葉にも一理あるように聞こえてしまう。
子供だから大人が判断する。
症例だから専門家が見る。
森術師だから必要な処置を決める。
それは、この家では長く当たり前だった。
だが、その当たり前がシルフィを傷つけ、エナを怖がらせてきたことも、もう誰も完全には無視できない。
ノルドは、意見書の本文を書き始めた。
「表向きは症例救済です。いや、表向きではない。本当に救済のためです」
エルミアが小さく言う。
「表向き、と言いましたね」
ノルドの手が止まった。
「言葉の綾だ」
「本当に?」
「エルミア。君は何が言いたい」
「私たちは、エナを助けたいんですか。それとも、アレン殿の付与術を研究したいんですか」
室内が静まった。
ノルドは、しばらく彼女を見た。
やがて、静かに答えた。
「両方だ」
その答えは正直だった。
だからこそ、危うかった。
◇
同じ頃、エルドランの執務室にも、若い森術師たちの動きは報告されていた。
報告したのはセラドだった。
彼はいつものように整った姿勢で立ち、手元の薄い書類を見ながら言った。
「若手数名が、落ち着き布追加作成に関する内部意見書を準備しています」
エルドランは椅子に深く座り、窓の外を見ていた。
「ノルドか」
「中心は彼です」
「あの者は熱心だ」
「ええ。熱心です。熱心すぎます」
エルドランは少し笑った。
「お前は熱心な者を嫌うのか」
「制御できる熱心さなら好ましいです。制御できない熱心さは、火事になります」
「火事か」
「リーフェル村にとっては、よい口実になります。『リーフェン家内で強硬派が動いているため、追加協議は保留します』と」
エルドランの目が細くなる。
「それは困るな」
「はい」
「だが、若手の意見書そのものは使える」
セラドは、わずかに眉を上げた。
「使うおつもりですか」
「症例救済を求める内部の声が強まっている。こちらとしても、何もしないわけにはいかない。そういう形にできる」
「圧力になります」
「圧力ではない。家内調整だ」
「その言い換えは、リーフェル村に嫌われます」
エルドランは机の上の木箱を指で叩いた。
苛立ちの音だった。
「では、お前ならどう書く」
「三回目の結果を待つ。その上で、九歳症例に限り、同等品一枚の追加作成を正式に検討依頼する。若手の意見書は内部資料として留め、対外文書には出さない」
「慎重すぎる」
「リーフェル村相手には、慎重でちょうどよいかと」
「辺境村に、リーフェン家がここまで気を遣うとはな」
「辺境村にアレン殿がいます。シルフィ殿もいます。世界樹も、おそらく」
エルドランの指が止まった。
世界樹。
その言葉が出ると、空気の温度が変わる。
「世界樹情報は、相変わらず出てこない」
「はい。彼らは徹底しています」
「落ち着き布は、世界樹の影響を受けていると思うか」
「可能性はあります」
「なら、布だけでは足りん。源を見なければならない」
「そう考える者は、若手だけではないでしょう」
セラドの声は静かだった。
「だからこそ、危険です。当主代理も含めて」
エルドランはセラドを見た。
しばらく沈黙する。
「お前は、本当に時々腹立たしいな」
「必要な役目ですので」
「分かっている」
エルドランは、書類を手に取った。
「若手の意見書は提出させろ。ただし、外には出すな」
「承知しました」
「内容は確認する。使える部分は使う」
「火種として?」
「薪としてだ」
セラドは少しだけ目を伏せた。
「薪も積みすぎれば火事になります」
「火を使わずに森は管理できん」
エルドランの声は冷たかった。
セラドは、それ以上言わなかった。
この男は分かっている。
分かっていて、火を使う。
その火が誰を温め、誰を焼くのか。
そこまでは、必要なら後で考える。
それがエルドランという人間だった。
◇
リュシアがその動きを知ったのは、夕刻近くになってからだった。
彼女は記録室で、エナの二度目の試験記録を清書していた。
本人申告を省かない。
怖かったことも、楽だったことも、そのまま残す。
その方針でヴィオラと合意していた。
そこへ、エルミアが訪ねてきた。
普段は落ち着いた彼女が、明らかに迷っている顔をしている。
「リュシア様。少し、よろしいでしょうか」
「はい。どうしました」
エルミアは扉を閉め、声を落とした。
「ノルドたちが、追加作成に関する内部意見書を作っています」
「聞いています」
「ご存じでしたか」
「ええ。完全には止まらないと思っていました」
リュシアは羽ペンを置いた。
「内容は?」
「表向きは、症例救済です。でも、実際には……付与強度の比較、素材別反応、配置別反応、別症例への応用、将来的にはアレン殿本人による直接観察も必要だと」
リュシアの表情が硬くなった。
「直接観察」
「はい。まだ草案ですが」
「それは条件違反に近いです」
「私もそう思います」
エルミアは、苦しそうに言った。
「でも、ノルドは本気で症例を助けたいのです。エナが眠れたことを喜んでいます。本当に。そこは嘘ではありません」
「分かります」
「だから、どう言えばよいのか分からなくなりました。止めると、まるで私が症例救済を邪魔しているようで」
リュシアは、その言葉を聞いてしばらく黙った。
分かる。
痛いほど分かる。
助けたい人を止めるのは難しい。
それが悪意ではないなら、なおさらだ。
「エルミア」
「はい」
「助けたい気持ちは、免罪符ではありません」
リュシアは静かに言った。
「助けたいから、本人の不安を後回しにしていいわけではありません。助けたいから、約束を曖昧にしていいわけでもありません。助けたいから、アレン殿を呼び出していいわけでもない」
「……はい」
「リーフェル村なら、きっとこう言います。助けたい時ほど、四角」
エルミアは目を瞬いた。
「四角」
「分からない時、熱くなっている時、すぐ丸にしない。そういう意味です」
リュシアは少し苦笑した。
「私も、いつの間にかあの村の言葉を使うようになりました」
「リュシア様は、それでよいのですか」
「よいかどうかは分かりません。でも、今の私には必要です」
エルミアは少し考えた後、小さく頷いた。
「私も、四角を覚えます」
「ええ。まずは、意見書に本人確認と条件遵守の項目を入れさせましょう」
「止めるのではなく?」
「完全に止めると、彼らは別の場所で書きます。ならば、記録される場所に出させ、危険な言葉を見えるようにする方がよい」
エルミアは、はっとした顔をした。
「見えるようにする」
「はい。見えない熱は止めにくい。見える熱なら、扱えます」
それもまた、リーフェル村で学んだことだった。
危ない気持ちも記録する。
作りたい気持ちも言葉にする。
隠れて作らない。
隠れて進めない。
リュシアは立ち上がった。
「ヴィオラ様にも伝えます。今夜中に話しましょう」
◇
若手森術師たちの意見書検討会に、ヴィオラが入ってきた時、部屋の空気は一瞬で変わった。
ノルドは立ち上がる。
「ヴィオラ様」
「続けなさい」
「ですが」
「私が聞いて困る内容なら、その時点で危険です」
その一言で、ノルドは黙った。
ヴィオラは、机の上の草案を手に取る。
目を通す。
眉が少しずつ寄っていく。
「追加布三枚。素材比較。配置比較。別症例応用。アレン殿本人の直接観察要請……なるほど」
ノルドは身構えた。
「症例救済のためです」
「でしょうね」
意外にも、ヴィオラはすぐ否定しなかった。
「あなた方が症例を助けたいと思っていることは疑っていません」
ノルドの表情が少し緩む。
だが、次の言葉でまた硬くなった。
「ただし、この草案の半分以上は、今出せばリーフェル村に拒否されます」
「なぜですか。症例のためだと説明すれば」
「その言い方が危険です」
ヴィオラは、草案を机に置いた。
「症例のため、未来のため、研究のため。そういう大きな言葉は、人を押します。押された側が拒めば、まるで助ける気がないように見える。あなたは、それを分かって使っていますか」
ノルドは言葉に詰まった。
「私は……そのつもりでは」
「つもりがなくても、そう働きます」
ヴィオラの声は厳しかった。
「あなたは、アレン殿を見ていません。シルフィ様がどうやって過去記録を止めたかも、肌で知りません。リーフェル村がなぜあれほど条件をつけるのかも、まだ軽く見ています」
「軽くなど」
「軽いです」
ヴィオラは言い切った。
「エナが『増やす前に聞いてほしい』と言った。その直後に、追加布三枚と配置比較を書いているのですから」
ノルドの顔が赤くなった。
エルミアがそっと視線を伏せる。
部屋の誰も、すぐには反論できなかった。
ヴィオラは少し声を落とす。
「意見書を出すなとは言いません」
「よいのですか」
「はい。内部で議論すること自体は必要です。ただし、内容を直します」
「どのように」
「まず、対象は九歳症例のみ。追加布は一枚まで。しかも、三回目の試験結果を確認した後の正式検討とする」
ノルドは唇を噛んだ。
「それでは遅い」
「遅くても、続きます」
ヴィオラは返す。
「急いで閉じられるより、遅くても続く方がよい」
リュシアが横から続けた。
「アレン殿本人の直接観察要請は削除してください」
「しかし、それが最も有効なはずです」
「最も有効かもしれませんが、最も拒否される可能性が高いです」
セラドがいつの間にか扉の近くに立っていた。
「それに、条件違反と見なされれば王国騎士団とギルドも動きます。私としても、その文言は外へ出せません」
ノルドは驚く。
「セラド殿まで」
「私は当主代理の側ですが、失敗する文書を見過ごす趣味はありません」
セラドは机に近づき、草案を見た。
「『症例救済のため、可能な限り迅速に』。これも駄目です」
「なぜ」
「リーフェル村側が最も嫌う言葉の組み合わせです。可能な限り、迅速に。どちらも広すぎる」
エルミアが小さく言った。
「では、どう書けば」
セラドは少し考えた後、言った。
「『第三回試験記録の確認後、第三症例に限り、同等品一枚の追加作成について、安全条件付きで正式依頼を検討する』」
ノルドが顔をしかめる。
「弱すぎます」
「通る文書とは、時に弱く見えるものです」
セラドは淡々と言った。
「通らない強い文書より、通る弱い文書の方が実務では価値があります」
ヴィオラが頷く。
「その通りです」
ノルドは、まだ納得していない。
だが、少なくとも草案はその場で書き換えられることになった。
熱は消えていない。
しかし、紙の上に乗った。
紙に乗れば、誰かが読める。
読めれば、止められる。
リュシアは、それだけでも前進だと思った。
◇
深夜、エルドランは修正された意見書を読んでいた。
最初の草案より、ずっと慎重な文書になっている。
対象は第三症例のみ。
追加布は一枚。
強化版不可。
本人の移動要請なし。
三回目の記録確認後。
安全条件付き。
エルドランは、不満そうに息を吐いた。
「丸くなりすぎたな」
セラドが答える。
「角を残したまま出せば、刺さる前に捨てられます」
「リーフェル村は厄介だ」
「ええ」
「だが、追加布一枚は通る可能性がある」
「はい」
「その一枚が通れば、次もある」
セラドは、少し沈黙した。
「当主代理」
「何だ」
「次を考えるのは結構ですが、次を急ぎすぎると最初の一枚も失います」
「分かっている」
「ならばよいのですが」
エルドランは、窓の外を見た。
夜の森は静かだった。
整えられた枝葉が、月光を受けて白く光っている。
「リーフェル村は、助ける道を閉じてはいない」
「はい」
「ならば、その道を広げる」
「広げ方を間違えなければ」
「お前は本当に一言多い」
「職務です」
エルドランは、修正意見書を机に置いた。
その目には、まだ火があった。
落ち着き布。
たかが布一枚。
されど、その布は九歳の子を眠らせ、若い森術師たちを熱くし、リーフェン家の中の意見を割り始めている。
それは小さな成功では終わらない。
必ず次を生む。
エルドランは、その次を自分の手で制御するつもりだった。
◇
一方、静養室ではエナが眠っていた。
熱はまだある。
だが、呼吸は穏やかだった。
ヴィオラは寝台の横で記録を読み返し、リュシアは窓辺に立っていた。
「リュシア殿」
「はい」
「今日の若手たちを、どう見ましたか」
「怖かったです」
リュシアは正直に答えた。
「でも、止められる場所に出てきたのは良かった」
「ええ」
ヴィオラは頷く。
「隠れて動かれる方がずっと怖い」
「リーフェル村なら、こう言うかもしれません。危ない気持ちも記録する」
「よい言葉ですね」
「はい」
リュシアは、眠るエナを見た。
「この子が少し眠れたことを、誰かの欲で壊したくありません」
「私もです」
「でも、欲と善意は混ざりますね」
「混ざります」
ヴィオラは静かに言った。
「だから、手順が必要なのです」
リュシアは頷いた。
リーフェン家の中で、慎重派と強硬派の線が見え始めている。
だが、それは単純な善悪ではない。
強硬派にも善意はある。
慎重派にも欲はある。
だから厄介だ。
だから、四角が必要になる。
リュシアは、胸元の小さな記録札に触れた。
いつか自分も、四角の木片を持つことになるのだろうか。
そう思って、少しだけ苦笑した。
リーフェン家の廊下に、リーフェル村の言葉が染み込んでいく。
それは頼もしくもあり、不穏でもあった。
次の報告が来れば、火はさらに強くなる。
その時、自分はどこまで止められるだろう。
リュシアは、眠るエナへ視線を戻した。
「次も、本人の声を記録します」
ヴィオラが頷く。
「ええ。必ず」
森の夜は静かだった。
だが、研究館の奥では、すでに次の火種が赤く灯っていた。




