第64話 最初の症例、安定付与布を試す
落ち着き布がリーフェン家へ送られたのは、霧の薄い朝だった。
リーフェル村では、外部対応広場の机の上に、試作品の布が一枚だけ置かれていた。
白く、厚手で、見た目は何の変哲もない布だ。
だが、その布には、何人もの手と目と記録が乗っていた。
アレンが付与した。
シルフィが反応を見た。
ぷる太が丸寄り四角を出した。
村長が条件を確認した。
マルタさんが「夕飯前に終われたからよし」と言った。
クラウディアさんとマリナさんが、安全試験の記録として整えた。
そして今、その布は王国騎士団と冒険者ギルドの封をつけられ、リーフェン家へ向かうところだった。
「本当に一枚だけなんですね」
配達人が、少し緊張した顔で言った。
シルフィは頷く。
「はい。一枚だけです。予備は送りません」
「理由も添えてありますか?」
「あります」
シルフィは同封文書を確認する。
「改善しても量産の同意にはならないこと。追加分を求める場合は、試験結果を確認した後、改めて文書で協議すること。アレン師匠本人の移動、直接施術、追加付与を求めるものではないこと。すべて明記しています」
配達人は何度も頷いた。
「承知しました。王都ギルド経由で、王国騎士団立会いのもとリーフェン家へ届けます」
アレンは、包まれた布を見つめていた。
送るのは布一枚。
それだけのはずなのに、妙に胸がざわつく。
この布で、あの九歳の子が少しでも眠れるかもしれない。
そう思うと、早く届けてほしいと思う。
でも、同時に怖かった。
もし強すぎたら。
もし合わなかったら。
もしリーフェン家が「効果あり」と判断して、次を強引に求めてきたら。
心は、丸とバツと四角の間を行ったり来たりしていた。
ぷる太は、井戸の縁ではなく外部対応広場の机の横にいた。
今日は見送り役だ。
丸、バツ、四角の木片を前に置いて、じっと布の包みを見ている。
「ぷる太」
アレンが呼ぶと、ぷる太はゆっくり揺れた。
「ぷる」
「これ、送って大丈夫かな」
ぷる太は少し迷った。
そして、丸と四角の間へ移動した。
「ぷる」
「丸寄り四角か」
「ぷる」
「そうだよな」
完全な丸ではない。
でも、バツではない。
今できる限り条件を整えた。
だから、送る。
ただし、結果を見るまで四角を残す。
それが今日の答えだった。
マルタさんが、アレンの背中を軽く叩いた。
「送る時まで心配しすぎても、布が重くなるだけだよ」
「布が重く?」
「気持ちの話だよ。ちゃんと条件をつけた。記録もある。あとは、向こうがどう使うか見守るしかない」
「はい」
「それに、あんたが一緒に送られるわけじゃない」
「そこ、大事ですね」
「一番大事だよ」
マルタさんは、配達人にも釘を刺した。
「いいかい。これは布だよ。アレンじゃない。布を届けるんであって、アレンを連れていく話じゃないからね」
配達人は、少し慌てて頭を下げた。
「もちろんです!」
ミナが横から言う。
「アレンお兄ちゃんは同封禁止!」
ぷる太がバツへ飛んだ。
「ぷるっ!」
村人たちが笑った。
その笑いで、張りつめていた空気が少しだけほぐれた。
シルフィは記録板に小さく書く。
『落ち着き布一枚、条件付きで発送。アレン師匠同封禁止。ぷる太完全バツ』
「そこまで記録するの?」
アレンが苦笑すると、シルフィは真面目に答えた。
「重要です」
「重要かな」
「とても」
配達人は大事そうに包みを革袋へ入れた。
王国騎士団とギルドの封が光る。
馬車が動き出す。
落ち着き布は、村を離れた。
アレンはその後ろ姿を、見えなくなるまで見送っていた。
◇
布がリーフェン家へ届いたのは、その日の夕方だった。
王都を経由し、騎士団立会いの確認を受けてから、リーフェン家の外縁研究館へ運び込まれる。
受け取りに立ち会ったのは、女性森術師ヴィオラだった。
リュシアも同席している。
セラド法務官は記録確認役として参加し、若い森術師二名が補助についた。
エルドランは本館にいたが、試験結果は逐一報告させるよう命じていた。
包みが開かれる。
中から出てきたのは、厚手の白い布だった。
リーフェン家の森術具に見られるような美しい紋様はない。
宝石もない。
魔法陣も刻まれていない。
ただ、端に小さな糸印がついているだけだった。
そこには、シルフィの字で小さく書かれていた。
『落ち着き布・試作品二号。身体固定禁止。枕元用。異常時即停止』
若い森術師が眉を寄せる。
「本当にただの布に見えます」
ヴィオラは、布へ手をかざした。
すぐには触れない。
まず、周囲の魔力の流れを見る。
彼女の目が、少しだけ変わった。
「……ただの布ではありません」
リュシアが静かに聞く。
「反応がありますか」
「強くはない。むしろ、驚くほど弱い」
ヴィオラは目を閉じた。
「魔力を集めていない。押し返してもいない。周囲の魔力の尖りを、ほんの少し丸めているような……いや、これは表現が難しいですね」
セラドが記録係へ言う。
「そのまま記録を。『周囲の魔力の尖りをほんの少し丸めるような反応』」
若い森術師が不満げに言う。
「それでは学術的表現として曖昧です」
「曖昧でも、初見の感覚として重要です」
ヴィオラは布から手を離した。
「少なくとも、危険な魔力集中は感じません」
「試験に使えますか」
リュシアが尋ねる。
「使えます。ただし、条件通り短時間からです」
セラドが文書を確認する。
「対象は九歳の症例。身体固定禁止。枕元または寝台脇。初回は半刻未満。発熱、睡眠、意識、魔力反応を記録。異常時即停止。改善が見られても量産や追加依頼は別途協議」
「細かいですね」
若い森術師がまた呟く。
セラドは淡々と答えた。
「細かくない条件ほど、後で揉めます」
その言い方は、少しだけリーフェル村に寄っていた。
リュシアはそれに気づいたが、何も言わなかった。
◇
九歳の少女は、研究館の治療室ではなく、外縁にある静養室にいた。
名前は会議記録では伏せられている。
ここでも、記録上は『第三症例』と呼ばれることになっていた。
ただ、ヴィオラは彼女を番号では呼ばなかった。
「エナ」
少女は寝台の上で、うっすら目を開けた。
細い金茶の髪。
少し尖った耳。
頬には熱の赤みが残っている。
シーツから出た手は小さく、指先が冷えているように見えた。
「ヴィオラ先生……」
声はかすれていた。
リーフェン家の血筋に連なる遠縁の子だと、リュシアは聞いていた。
森術素質があると喜ばれ、幼い頃から期待された。
しかし基礎紋が不安定で、精霊応答のたびに発熱するようになった。
夜は眠りが浅く、時々うわ言を言う。
本人は、自分が何を言ったのか覚えていないこともある。
ヴィオラは寝台の横に座り、柔らかく言った。
「今日は、新しい補助布を試します」
「補助……?」
「治す布ではありません。あなたの周りの魔力を、少しだけ穏やかにするかもしれない布です」
エナは、ぼんやりと布を見る。
「痛いこと、しますか」
「しません」
ヴィオラは、はっきり答えた。
「身体に縛りつけません。触りたくなければ触らなくていい。枕元に置くだけです」
エナの目が少し動いた。
「置くだけ?」
「ええ。嫌だったらすぐどけます」
「また、検査ですか」
その声は小さかった。
リュシアの胸が痛んだ。
エナは、たくさん検査を受けてきたのだろう。
よくなるため。
森術のため。
未来のため。
そう言われながら。
ヴィオラは少し黙った後、首を横に振った。
「今日は検査ではなく、試し置きです」
「試し置き?」
「そう。置いて、嫌ならやめる。眠くなったら眠る。つらかったら止める」
「眠って、いいんですか」
リュシアは、その一言に息を呑んだ。
眠っていいんですか。
九歳の子が、そんなことを聞く。
ヴィオラも、わずかに目を伏せた。
「もちろん。今日は、眠れたらそれでいいのです」
エナは少しだけ頷いた。
その様子を、セラドは静かに記録していた。
以前の彼なら、これを単なる症例反応として処理したかもしれない。
だが、今は少し違った。
彼もまた、会議場でアレンが言った言葉を覚えていた。
本人や家族とも相談するべきだ、と。
この子は資料ではない。
今、寝台にいる一人の子供だ。
◇
落ち着き布は、枕元から少し離れた木台に置かれた。
身体に触れない距離。
だが、寝台のそば。
ヴィオラが魔力の流れを確認する。
若い森術師が記録水晶を起動する。
リュシアは、エナの顔色を見ている。
セラドは条件書を手元に置き、時間を測る砂時計を倒した。
「初回試験、開始」
その声で、治療室ではなく静養室の空気が少し緊張した。
落ち着き布は、光らなかった。
派手な変化は何もない。
魔法具なら、光って反応を示すものが多い。
リーフェン家の森術具なら、葉脈紋が淡く輝いたり、精霊光が漂ったりする。
だが、この布は何もしない。
ただ、そこにある。
若い森術師の一人が、少し物足りなさそうに眉をひそめた。
「反応が弱すぎるのでは」
ヴィオラが片手を上げ、黙るよう示す。
彼女は、エナの呼吸を見ていた。
最初、エナの呼吸は浅かった。
熱のせいもある。
警戒しているせいもある。
新しいものを試される不安もあったのだろう。
だが、しばらくすると、その呼吸がほんの少しだけ深くなった。
ほんの少し。
見逃せば分からない程度だ。
リュシアは、声を出さないように唇を結んだ。
ヴィオラは記録係へ小さく言う。
「呼吸、わずかに安定」
「記録します」
エナは目を閉じていた。
眠ってはいない。
ただ、目を閉じている。
しばらくして、彼女が小さく言った。
「……静か」
ヴィオラが身をかがめる。
「何が静かですか」
「葉っぱの声が、遠い」
若い森術師が目を見開いた。
エナは精霊応答が強すぎる時、周囲の森霊のざわめきを「葉っぱの声」と言うことがあった。
それが遠い。
つまり、刺激が少し下がっている。
ヴィオラは、すぐに興奮しなかった。
声を落として尋ねる。
「嫌な感じはありますか」
「ない」
「苦しいですか」
「苦しくない」
「布をどけたいですか」
エナは少し考えた。
「まだ、いい」
セラドが砂時計を見た。
初回試験は、まだ十分も経っていない。
それでも、この反応は十分に大きかった。
リュシアは胸の前で手を握った。
どうか、このまま。
そう思った。
だが、条件がある。
長く続けすぎてはいけない。
効果がありそうだからといって、欲張ってはいけない。
それも、リーフェル村からの条件だった。
◇
試験開始から四半刻ほどで、ヴィオラは終了を告げた。
「ここで一度止めます」
若い森術師が思わず言った。
「もう少し見てもよいのでは?」
ヴィオラの目が鋭くなる。
「初回条件を守ります」
「しかし、反応は良好で」
「良好だからこそ守ります」
その言葉に、リュシアはリーフェル村のマルタを思い出した。
助けたい時ほど、四角。
うまくいきそうな時ほど、止まる。
ヴィオラも、それを理解していた。
落ち着き布は、寝台から離された。
エナは少しだけ目を開ける。
「もう、終わり?」
「今日はここまでです」
「……もう少し、置いてもいいのに」
その言葉は、全員にとって嬉しいものだった。
しかし、ヴィオラは首を横に振る。
「また使えるか、記録を見て決めます。今日は短く。約束です」
「約束……」
「ええ。嫌ならすぐ止める。長くしすぎない。そういう約束で借りた布です」
エナは、少し不満そうだったが、やがて小さく頷いた。
「変な布」
「そうですね」
ヴィオラは微笑んだ。
「でも、悪い布ではなさそうです」
落ち着き布を離してからも、エナの呼吸はしばらく安定していた。
熱はすぐに下がったわけではない。
魔力回路が治ったわけでもない。
だが、その日の夕方、彼女は短い眠りについた。
いつもなら、眠ってもすぐ目を覚ます時間だった。
けれど、その日は半刻ほど、うわ言を言わずに眠った。
半刻。
それだけ。
治療として見れば、劇的とは言えない。
だが、眠れない夜を知る者にとって、半刻の静かな眠りは奇跡に近かった。
◇
夜、リーフェン家の外縁研究館に報告が集められた。
ヴィオラがまとめる。
「発熱は大きく変化なし。ただし、試験中に呼吸の安定を確認。本人申告として『葉っぱの声が遠い』。試験後、短時間の睡眠あり。うわ言なし」
セラドが記録を整える。
「効果あり、と書きますか」
「いいえ」
ヴィオラは首を横に振った。
「『改善の可能性を示す反応あり』としてください。効果ありと断定するには早い」
「リーフェル村が喜びそうな表現ですね」
「正確な表現です」
リュシアが言った。
「その方が、次につながります」
若い森術師は、少し興奮していた。
「しかし、これは大きな成果です。直接施術なしで、魔力刺激の低下を示した。もし複数枚あれば、他の症例にも――」
「そこまで」
ヴィオラが止めた。
「条件を忘れないように。改善が見られても、量産や追加使用は別途協議です」
「ですが」
「ですが、ではありません」
ヴィオラの声は厳しかった。
「私たちは、今日たった半刻未満の試験を行っただけです。その結果で量産を求めれば、リーフェル村は閉じます。何より、患者にとって危険です」
若い森術師は口を閉じた。
リュシアは、静かに息を吐いた。
リーフェル村の条件は、ここでも効いている。
落ち着き布は、ただの補助具ではない。
リーフェン家の欲を止める試験でもあった。
◇
その夜、エルドランの執務室に最初の報告が届いた。
セラドが読み上げる。
「九歳症例、初回短時間試験。落ち着き布を枕元に設置。身体接触なし。試験中、呼吸安定。本人申告『葉っぱの声が遠い』。試験後、短時間睡眠。うわ言なし。異常反応なし。結論、改善の可能性を示す反応あり。継続試験は条件確認後に限る」
エルドランは黙っていた。
机の上には、落ち着き布の写し図と記録が置かれている。
「効果があったのか」
「断定は避けています」
セラドが答える。
「だが、反応はあった」
「はい」
エルドランの指が、机を一度だけ叩いた。
「布一枚で」
「布一枚で」
セラドは同じ言葉を返した。
部屋の空気は重い。
喜ぶべき報告だった。
症例の少女が、少し眠れた。
それは喜ぶべきことだ。
だが同時に、リーフェン家にとっては厄介な事実でもあった。
アレンの付与は、やはり価値がある。
しかも、本人が来なくても、物に宿した付与だけで反応が出た。
それは新しい道だった。
同時に、アレン本人を直接確保しづらくする道でもある。
本人がいなくても布が使えるなら、リーフェル村はますます本人を出さない理由を持つ。
エルドランは低く言った。
「追加を求める」
「今すぐは悪手です」
セラドが即答した。
「分かっている」
「念のため申し上げました」
「お前は本当に腹が立つな」
「職務です」
セラドは涼しい顔だった。
エルドランは、報告書を見つめる。
「では、どうする」
「条件通り、まず試験結果を共有します。異常反応なし、短時間睡眠あり。次回試験を希望する場合も、同じ布を用いた短時間試験の継続として申請するべきでしょう。追加布や別症例への使用はまだ求めない方がよい」
「悠長だな」
「焦れば閉じられます」
セラドは、リーフェル村の要約を思い出したように言った。
「『助けたい時ほど、四角』でしたか。あの村の言葉を借りるなら、今はこちらも四角です」
エルドランは嫌そうな顔をした。
「リーフェル村の言葉を使うな」
「便利なので」
「なおさら腹が立つ」
◇
リュシアはその夜、静養室をもう一度訪れた。
エナは眠っていた。
深い眠りではない。
だが、昼間より呼吸は穏やかだった。
寝台のそばに、落ち着き布は置かれていない。
条件通り、試験時間が終わった後は離されている。
それでも、エナの表情は少しだけ和らいでいた。
ヴィオラが小声で言う。
「今日は、久しぶりにうわ言が少ない」
「そうですか」
「布だけの効果とは言い切れません。疲れ、環境、本人の安心感もあるでしょう」
「はい」
「それでも、眠れたことは事実です」
リュシアは寝台の少女を見つめた。
この子は、アレンを知らない。
シルフィも知らない。
ぷる太も、リーフェル村の外部対応広場も知らない。
それでも、その村で作られた布が、少しだけこの子の夜を静かにした。
不思議なことだった。
「ヴィオラ様」
「何ですか」
「この結果を、リーフェル村はどう受け止めるでしょうか」
「喜ぶでしょう」
「はい」
「そして、警戒もするでしょう」
リュシアは頷いた。
「そうですね」
ヴィオラは、静かに言った。
「それでいいのです。喜びだけで進むと危ない。警戒だけでは助けられない。その両方が必要です」
その言葉は、リーフェル村のやり方そのものだった。
リュシアは小さく微笑んだ。
「四角ですね」
ヴィオラが少し驚いた顔をする。
それから、ふっと笑った。
「ええ。四角です」
◇
翌朝、リーフェル村へ向けた報告書が作られた。
結論は、慎重なものになった。
『改善の可能性を示す反応あり』
『異常反応なし』
『短時間睡眠を確認』
『継続試験を希望』
『追加布、量産、別症例使用、アレン本人の移動、直接施術は求めない』
最後の一文は、リュシアとセラドが入れさせた。
エルドランは不満そうだったが、消さなかった。
報告書の末尾には、ヴィオラの個人的な一文も添えられた。
『完治ではありません。しかし、夜に少し眠れたことは、症例本人にとって大きな意味がありました。慎重な条件付きで、同布による短時間試験の継続を希望します』
それを読んだセラドは、珍しく少し黙った。
「情緒的ですね」
ヴィオラは答えた。
「症例は人間ですから」
「……そうですね」
セラドは、それ以上何も言わなかった。
封書が閉じられる。
王国騎士団とギルドへ写しが送られる。
そして、リーフェル村へ報告が向かう。
落ち着き布は、劇的な奇跡を起こしたわけではない。
だが、九歳の少女に半刻の眠りを与えた。
その小さな結果は、やがて大きな火種になる。
リーフェン家にとっても。
リーフェル村にとっても。
そして、アレン自身にとっても。




