第61話 カイル、四角の木片を作る
翌朝、カイルはいつもより早く目を覚ました。
目を覚ました、というより、ほとんど眠れていなかった。
枕元の小机には、アレンからの手紙が置いてある。夜のうちに何度も読み返したせいで、折り目が少し柔らかくなっていた。
『勇者パーティーに戻るつもりはありません』
その一文は、朝になっても薄くならなかった。
むしろ、静かな光の中で見ると、夜よりもはっきりしている。
カイルは手紙に触れようとして、途中で手を止めた。
また読むのか。
読んで、また痛むのか。
痛むと分かっていて、なぜ何度も読むのか。
答えは簡単だった。
逃げたくなかったからだ。
アレンが書いた線から。
自分が壊したものから。
戻らない、と言われた現実から。
カイルは手紙の横に置いた四角い木片を見た。
昨日、グラウス副団長が置いていったものだ。
訓練場で、炭で一文字だけ書いた。
『待』
歪んだ字だった。
勇者の持ち物としては、あまりにみっともない。
聖剣でもなければ、王国から授かった勲章でもない。ただの木片。角も少し粗く、片面には小さなささくれが残っている。
だが、その粗さが、妙に今の自分に似ている気がした。
「……待つ、か」
カイルは低く呟いた。
すると、部屋の扉が叩かれた。
「入るわよ」
「まだ返事をしていない」
「返事を待ってたら朝食が終わるでしょ」
扉が開き、ミラが顔を出した。
遠慮がない。
昔からそうだったが、最近はさらに遠慮がない。
カイルは眉をひそめた。
「女性が男の部屋に朝から入ってくるな」
「身だしなみ整ってるじゃない。あと、私は扉を開ける前に声をかけた。十分礼儀正しいわ」
「どこがだ」
「昔の私なら無言で開けてた」
「それを進歩と言うのか」
「今の私たちには大事な進歩でしょ」
そう言われると、言い返しにくかった。
ミラは部屋へ入り、机の上の木片を見る。
すぐににやりとした。
「お、持ってる」
「見るな」
「見える場所に置いてるんだから見るわよ。『待』って書いたの?」
「悪いか」
「悪くないわ。字がちょっと不器用だけど」
「うるさい」
「でも、いいんじゃない?」
意外な言葉だった。
カイルは顔を上げる。
ミラは木片を指先で軽くつついた。
「正直、昨日は笑ったけどね。勇者が四角い木片を握って待つ練習って、絵面だけならかなり面白いし」
「お前は本当に人の神経を逆撫でするな」
「でも、あんたには必要でしょ」
ミラの声が少しだけ真面目になる。
「私にも、たぶん必要」
「お前にも?」
「昨日、アレンの追伸を読んで、すぐ返事を書きたくなった」
カイルは黙った。
ミラは窓際へ歩き、外の訓練場を見下ろした。
「『読んでくれてありがとう』とか、『いつかちゃんと話したい』とか、『杖の調整のこと、本当は助かってた』とか。書きたいことが、後から後から出てきたわ」
「書けばいいだろう」
「駄目でしょ」
ミラは振り返った。
「アレンは『返事を急がないでください』って書いた。カイル宛ての手紙だけど、私たちにも同じ意味だと思う。読んだことだけ伝えてくれた。それでまず止まらないと」
カイルは、机の上の木片を見た。
「四角か」
「そう。腹立つくらい便利な言葉ね」
「腹立つのか」
「立つわよ。だって私、今まで勢いで言葉を投げることが多かったもの」
「自覚はあったのか」
「今はね」
ミラは少し苦笑した。
「前は、自覚があると負けた気がしたから見ないふりしてた」
その言葉は、カイルにも刺さった。
自覚があると負けた気がする。
分かる。
間違いを認めるくらいなら、正しさで押し切った方が楽だった。
勇者だから。
勝ってきたから。
周囲が期待しているから。
そういう言葉を鎧にして、見たくないものを見ずに済ませていた。
その鎧を脱いだら、思ったより自分は弱かった。
「朝食へ行くわよ」
ミラが言う。
「ガレスとリーナも待ってる」
「待たせればいい」
「今のそれ、昔の悪いカイルっぽい」
「……分かった。行く」
「よろしい」
ミラが満足げに頷く。
カイルは木片を手に取り、少し迷ってから腰の革袋に入れた。
ミラはそれを見て、何も言わなかった。
珍しく。
◇
朝食の席で、ガレスはゆで卵の殻をやけに丁寧に剥いていた。
大柄な男が、小さな卵を壊さないように扱っている姿は、少し不思議だった。
「何をしている」
カイルが聞くと、ガレスは真顔で答えた。
「力加減の訓練だ」
「卵で?」
「ああ」
「お前まで変なことを始めたな」
「盾の持ち方も、荷物の締め方も、力任せだったと気づいた。卵が潰れるようなら、革紐も締めすぎる」
ミラが吹き出した。
「真面目すぎるでしょ」
「笑うな。今朝三個潰した」
「三個も?」
「四個目で成功した」
ガレスは、つるりと剥けた卵を皿に置いた。
その顔は少し誇らしげだった。
リーナが小さく微笑む。
「よかったですね」
「ああ」
「私は今朝、治癒魔法を使う前に、相手の脈を取る練習をしました」
リーナは自分の指先を見た。
「これまでは、祈りと言葉と魔力に頼りすぎていました。アレンさんはいつも、患者さんの顔色や呼吸を見ていたのに」
ミラが静かに言う。
「私も杖の調整をしたわ。昨日より魔力の流れが暴れなかった」
カイルは、食卓を見渡した。
皆が、少しずつ変なことを始めている。
卵を剥く。
脈を取る。
杖を見る。
木片を持つ。
勇者パーティーらしい華やかな訓練ではない。
だが、今の彼らには必要なことばかりだった。
「カイル様は?」
リーナが尋ねた。
「俺は」
カイルは一瞬、言葉を止めた。
言いたくない。
だが、隠すほどのことでもない。
彼は革袋から木片を取り出し、机に置いた。
四角い木片。
『待』
ガレスが真面目に見る。
「字を書いたのか」
「ああ」
「よい字だ」
「嘘をつくな」
「いや、意味はよい」
ミラが肩を震わせる。
「意味は、ね」
「笑うなと言った」
「ごめん。でも、ほんとにいいと思うわよ」
カイルは不機嫌そうに木片をしまおうとしたが、リーナがそっと言った。
「見せていただいてもいいですか」
その声に、カイルは手を止めた。
リーナは木片を両手で受け取るように見た。
「待つ、ですか」
「ああ」
「良いと思います」
「お前まで」
「からかっていません」
リーナは首を横に振った。
「私は、返事を待つのが怖いです。アレンさんが私の沈黙をどう思っているのか、知りたいです。でも、知りたいからといって、急かしてはいけない。だから……私も何か、持った方がいいのかもしれません」
ミラが頷く。
「じゃあ、みんなで作る?」
「何を」
カイルが聞くと、ミラは当然のように言った。
「四角」
「お前、本気か」
「本気よ。どうせ今日の午前訓練は木剣の整備もあるし、端材くらいあるでしょ」
「勇者パーティー全員で四角い木片を作るのか」
「元勇者パーティーの待つ練習には、ちょうどいいんじゃない?」
元、という言葉に、少しだけ食卓が静かになった。
ミラは自分で言ってから、しまったという顔をした。
しかし、カイルは怒らなかった。
怒る気になれなかった。
「……そうだな」
短く答える。
「今の俺たちには、ちょうどいいのかもしれない」
◇
午前の訓練後、四人は武具倉庫の裏へ集まった。
ロイド訓練官に許可を取り、折れた木剣の端材を少しもらったのだ。
ロイドは最初、何に使うのかと聞いた。
カイルが答えに詰まっていると、ミラが平然と言った。
「待つ練習用の木片を作ります」
ロイドはしばらく黙った。
そして、低く笑った。
「よく分からんが、今のお前たちには必要そうだな」
それだけ言って、端材を渡してくれた。
倉庫裏の日陰に腰を下ろし、四人は小刀で木片を削り始めた。
最初に苦戦したのはカイルだった。
「四角にならない」
削った木片を見て、ミラが言う。
「斜めね」
「見れば分かる」
「勇者の木片、菱形」
「黙れ」
ガレスは意外と器用だった。
大きな手なのに、角を丁寧に落としている。
「お前、こういうの得意だったのか」
カイルが聞くと、ガレスは首を横に振った。
「得意ではない。壊さないようにする練習だ」
「卵と同じか」
「ああ。木も力を入れすぎると割れる」
リーナは、小さな木片を膝の上に置き、慎重に削っていた。
小刀の扱いは慣れていないらしく、かなり遅い。
ミラが横から覗き込む。
「手、切らないでよ」
「はい。少し怖いです」
「怖いなら、ガレスに削ってもらえば?」
リーナは首を横に振った。
「自分で削ります。待つ練習なら、自分の手で作った方がいい気がします」
その言葉に、ミラは少し黙った。
「……そうね」
ミラも、自分の木片に向き直る。
いつもの彼女なら、魔法で形を整えようとしたかもしれない。
でも今日は、小刀でゆっくり削っていた。
器用そうに見えて、意外と角が揃わない。
「ミラ、右が削れすぎている」
ガレスが指摘する。
「分かってるわよ」
「左を削ると小さくなる」
「分かってるってば」
「焦るな」
「……分かってる」
ミラは珍しく言い返さなかった。
四人の間に、木を削る小さな音だけが続く。
かり、かり。
かり、かり。
派手さはない。
けれど、その単調な音の中で、それぞれが考えていた。
アレンのこと。
追放の日のこと。
謝罪文のこと。
返事のこと。
戻らないという一文。
そして、待つということ。
◇
昼近くになって、四つの木片ができた。
どれも完璧な四角ではない。
カイルのものは少し斜め。
ミラのものは角の一つが削れすぎている。
ガレスのものは大きくて厚い。
リーナのものは小さく、表面に少し傷が多い。
しかし、それぞれの手で作った四角だった。
「文字を書くの?」
ミラが聞く。
カイルは自分の木片を見た。
すでに『待』と書いたものは持っている。
今日作った新しい木片には、何を書くか決めていなかった。
「俺は、もう一つ作る」
「何て?」
カイルは少し考え、炭片で書いた。
『急ぐな』
ミラがそれを見て、少し笑った。
「直球ね」
「分かりやすい方がいい」
「リーフェル村っぽい」
「……そうか」
以前なら、リーフェル村っぽいと言われるのは少し癪だったかもしれない。
今は、不思議と悪くなかった。
ミラは自分の木片に文字を書いた。
『投げない』
カイルが眉をひそめる。
「何をだ」
「言葉」
ミラは、木片を指でなぞった。
「私は、感情が先に出ると、言葉を投げる。相手にぶつける。だから、投げない」
ガレスが頷く。
「よい」
ガレスは自分の木片に、太い字で書いた。
『締めすぎるな』
ミラが吹き出した。
「革紐?」
「全部だ」
ガレスは真面目に答えた。
「盾も、肩も、仲間への期待も、締めすぎると壊れる」
ミラは笑うのをやめた。
「……あんた、たまにすごくいいこと言うわね」
「たまにか」
「今日のはかなりいい」
リーナは、最後まで迷っていた。
木片を両手で包み、じっと見つめている。
カイルは急かさなかった。
ミラも何も言わなかった。
ガレスも黙っている。
やがて、リーナは小さく文字を書いた。
『黙らない』
その文字を見て、誰もすぐには声を出せなかった。
リーナは木片を胸元に抱える。
「私は、あの日、黙りました」
静かな声だった。
「違うと思っていたのに、声を出しませんでした。だから……今度は、自分が怖くても、必要な時に黙らないようにしたいです」
カイルは胸が痛くなった。
リーナだけではない。
自分も、見ていなかった。
ミラも、言葉をぶつけた。
ガレスも、止めなかった。
それぞれの木片には、それぞれの後悔が刻まれていた。
「じゃあ」
ミラが、少し明るい声を作る。
「私たち、かなりみっともない四角持ちになったわね」
「みっともないと言うな」
カイルが言うと、ミラは肩をすくめた。
「でも、みっともないくらいでちょうどいいでしょ。今さら格好つけても仕方ないもの」
ガレスが頷く。
「そうだな」
リーナも、小さく笑った。
「はい」
◇
午後の訓練は、いつもより少しだけ静かだった。
だが、集中は切れなかった。
カイルは踏み込みのたび、腰の革袋に入った木片を意識した。
『待』
『急ぐな』
前へ出る。
戻る。
前へ出る。
戻る。
ただ突っ込むのではない。
相手を見る。
自分の足を見る。
戻れる位置を残す。
ロイド訓練官が腕を組んで見ていた。
「カイル」
「はい」
「今日は少しマシだ」
「ありがとうございます」
「褒めていない。前がひどかったと言っている」
「……はい」
「だが、今の間は悪くない。勢い任せではなくなっている」
カイルは、革袋の上から木片に触れた。
「待つ練習の成果か?」
ロイドが聞いた。
カイルは一瞬、言いたくないと思った。
だが、言った。
「少しは」
ロイドは鼻で笑った。
「なら続けろ。剣士は斬る練習だけでは足りん。斬らない練習もいる」
斬らない練習。
待つ練習。
急がない練習。
かつてのカイルなら、くだらないと切って捨てただろう。
今は、それが少し分かる。
力を持つ者ほど、動かない練習がいる。
言葉を持つ者ほど、投げない練習がいる。
支えられていた者ほど、自分で立つ練習がいる。
訓練場の端で、ミラも木片に触れてから詠唱を止めていた。
ガレスは盾の革紐を少し緩める。
リーナは、患者役の騎士に何か確認してから治癒魔法を使う。
四人とも、不器用に変わろうとしていた。
◇
夕方、グラウスが訓練場へ来た。
彼は四人の木片を見て、少しだけ目を細めた。
「作ったのか」
「笑うなら笑え」
カイルが言うと、グラウスは首を横に振った。
「笑わん」
「意外だな」
「笑えるほど軽いものではなさそうだからな」
グラウスは、ひとつずつ木片の文字を見た。
『急ぐな』
『投げない』
『締めすぎるな』
『黙らない』
そして、最後にカイルの『待』を見る。
「よい」
それだけ言った。
カイルは少し拍子抜けした。
「それだけか」
「それ以上、何を言ってほしい」
「いや」
「道具は作って終わりではない。使え」
「分かっている」
「勢いで動きそうになった時、触れろ。言葉を投げそうになった時、触れろ。何も言えず黙りそうになった時、触れろ」
グラウスはリーナを見る。
リーナは、まっすぐ頷いた。
「はい」
「お前たちは、アレン殿に返事を急がせない。会いに行かない。余計な手紙を重ねない。その代わり、自分たちを整える」
四人は黙って聞いた。
「それが、今できる謝罪の続きだ」
謝罪の続き。
カイルは、その言葉を胸の中で繰り返した。
謝るだけでは終わらない。
許してもらうために変わるのではない。
相手が戻るために変わるのでもない。
自分たちが、同じ過ちを繰り返さないために変わる。
それが謝罪の続き。
「副団長」
カイルは言った。
「俺は、まだ待つのが下手だ」
「見れば分かる」
「……少しは慰めろ」
「お前に必要なのは慰めより事実だ」
ミラが横で笑いをこらえている。
カイルはため息をついた。
「だが、練習する」
「それでよい」
グラウスは頷いた。
◇
その夜、カイルは机の上に二つの木片を並べた。
『待』
『急ぐな』
アレンの手紙は、その奥にしまってある。
今日は読み返さなかった。
読み返したい気持ちはあった。
しかし、読めばまた何か言いたくなる。
返事を書きたくなる。
会いに行きたくなる。
だから、今日は読まなかった。
代わりに、木片を見た。
「返事を急がない」
小さく言う。
もう一度。
「会いに行かない」
さらに。
「戻らないと言われたことを、尊重する」
言葉にすると、胸が痛い。
痛いまま、木片に触れる。
四角。
待つ。
急ぐな。
カイルは灯りを消す前に、窓の外を見た。
王都の空には、星が少しだけ見えていた。
アレンのいるリーフェル村でも、同じ星が見えているだろうか。
そう思った瞬間、また胸が痛んだ。
だが、今日は手紙を開かなかった。
木片を握り、引き出しの中へ戻す。
不格好な四角は、机の上で静かにそこにあった。
勇者らしくない。
英雄らしくない。
でも、今のカイルには必要なものだった。
待つ練習は、まだ始まったばかりだった。




