第60話 王都でカイル、アレンの返事を読む
王都冒険者ギルドの朝は、相変わらず騒がしかった。
依頼板の前では冒険者たちが肩をぶつけ合い、受付では報酬の確認をする者、討伐証明の牙を袋から出す者、昨日の酒が抜けていない顔で薬草採取依頼を探す者が入り混じっている。
その喧騒の少し奥。
一般受付から離れた応接室で、カイルはひとり椅子に座っていた。
いや、ひとりではなかった。
ミラが窓際に立ち、腕を組んでいる。
ガレスは壁際の大きな椅子に腰を下ろし、両手を膝の上で組んでいた。
リーナは祈るように指を重ね、机の上の封筒を見つめている。
封筒には、ギルド便の受領印。
差出人は、アレン。
カイルは、その名を見ただけで、胸の奥が重くなった。
「……開けないの?」
最初に口を開いたのはミラだった。
いつもの鋭い声より、少しだけ柔らかい。
カイルは封筒を見たまま答えた。
「分かっている」
「分かってる顔じゃないわよ」
「今、開ける」
「さっきから三回聞いたわ」
ミラの言葉に、ガレスが低く息を吐く。
「急かすな。開けるのにも力がいる」
「分かってるわよ。だから三回で止めてるの」
「止めているようには聞こえんが」
「黙ってると、こいつ一日中封筒とにらめっこするでしょ」
カイルは反論できなかった。
実際、その可能性はある。
戦場なら踏み込める。
魔物が相手なら剣を抜ける。
だが、この薄い封筒一通が、今のカイルには重かった。
アレンから返事が来た。
謝罪文を読んだのか。
読まずに返してきたのか。
怒っているのか。
許してくれるのか。
それとも、何も変わらないのか。
封を開ける前から、答えを求めている自分に気づき、カイルは奥歯を噛んだ。
返事を急がせるな。
待て。
そう言われたばかりだった。
それなのに、返事が来た瞬間、もう次の答えを欲しがっている。
自分はどこまで身勝手なのか。
「カイル様」
リーナが静かに言った。
「読まれる前に、一つだけ」
「何だ」
「どんな内容でも、最後まで読みましょう」
カイルはリーナを見る。
彼女の顔は青白い。
たぶん、自分も怖いのだろう。
自分の手紙をアレンがどう受け取ったのか。
沈黙したことを、どう思われているのか。
彼女もまた、答えを待っていた。
「途中で怒ったり、席を立ったりしないでください」
「俺がそんなことをすると思うか」
言った後、カイルは自分で嫌になった。
するかもしれない。
以前の自分なら、したかもしれない。
いや、今でもその可能性はゼロではない。
ミラが、少しだけ目を細めた。
「するかもしれないって、自分で分かってる顔ね」
「……黙れ」
「黙らないわよ。分かってるなら、先に言っておきなさい。俺は最後まで読むって」
カイルは封筒を握りしめた。
強く握りすぎて、紙が少し鳴る。
ガレスが低い声で言った。
「握り潰すな」
「分かっている」
「分かっているなら、力を抜け」
カイルは、深く息を吸った。
ゆっくり吐く。
封筒を机に置き直す。
そして、言った。
「最後まで読む」
ミラは頷いた。
「よし」
「お前は俺の訓練官か」
「今だけね」
「似合わない」
「うるさい」
ほんの少し、空気が緩んだ。
それでも、カイルの手はまだ重い。
彼は封を切った。
中には二枚の紙が入っていた。
一枚は自分宛て。
もう一枚は、ミラ、ガレス、リーナ宛て。
カイルは、一枚目を広げた。
アレンの字だった。
勇者パーティーにいた頃、物資管理表や装備修理のメモで何度も見た字。
やや丸く、読みやすく、必要なことだけを丁寧に書く字。
懐かしさが、予想外に胸を刺した。
カイルは読み始めた。
『カイル殿へ。
手紙を受け取りました。読みました。
謝ってくれたことは、分かりました。
ただ、まだ気持ちの整理はついていません。あの時のことを思い出すと、今でも胸が苦しくなります。』
そこで、カイルの喉が止まった。
胸が苦しくなる。
その一文が、剣よりも深く入ってきた。
アレンは苦しかった。
今でも。
あの追放の時のことを思い出すと、苦しい。
カイルは、紙から目を離せなかった。
ミラが静かに言う。
「最後まで」
「分かっている」
声がかすれた。
カイルは続けた。
『ミラさん、ガレスさん、リーナさんからの手紙も読みました。それぞれの言葉も、受け取りました。
今の俺は、リーフェル村で暮らしています。この村で、付与相談役として、村のみんなと相談しながら過ごしています。』
リーフェル村。
付与相談役。
村のみんなと相談しながら。
かつて、アレンは勇者パーティーの雑用係だった。
少なくとも、カイルはそう扱っていた。
だが今、彼は村で役目を持っている。
相談する相手がいる。
自分一人で背負わない場所にいる。
そのことが、少しだけ安心で、同時にひどく遠かった。
カイルは次の一文を読んだ。
『勇者パーティーに戻るつもりはありません。』
その瞬間、応接室から音が消えた。
ギルドの喧騒も、廊下の足音も、遠くなった。
カイルは文字を見つめた。
戻るつもりはありません。
短い。
たった一文。
だが、その一文は、扉が閉まる音のようだった。
怒りは湧かなかった。
意外なほど、湧かなかった。
代わりに来たのは、喪失感だった。
腹の底から何かが抜け落ちるような感覚。
もう、戻らない。
アレンは、勇者パーティーに戻らない。
カイルがどれだけ謝っても。
自分たちがどれだけ気づいても。
過去は戻らない。
アレンは戻らない。
「……そうか」
カイルの口から、かろうじて声が出た。
ミラは何も言わなかった。
ガレスも。
リーナも。
カイルは、残りを読んだ。
『でも、手紙を書いてくれたことは、なかったことにはしません。謝罪を読んだことも、覚えておきます。
返事を急がないでください。
俺も、急いで答えを出さないようにします。
アレン』
読み終えた。
最後まで読んだ。
紙を持つ手が震えていた。
カイルは、ゆっくり手紙を机に置いた。
怒鳴らなかった。
立ち上がらなかった。
破らなかった。
それだけで、今のカイルにはずいぶん大きなことだった。
◇
しばらく誰も話さなかった。
最初に動いたのは、ミラだった。
彼女は机の上の二枚目の紙を手に取る。
「こっちは、私たち宛てね」
カイルは頷いた。
声が出なかった。
ミラは紙を開き、短い文を読んだ。
『ミラさん、ガレスさん、リーナさんへ。
それぞれの手紙を読みました。まだうまく返事はできませんが、読んだことだけ先に伝えます。
アレン』
ミラはその紙を、しばらく見つめていた。
「読んだことだけ先に伝えます、か」
声は淡々としていた。
でも、指先は少し震えている。
ガレスが低く言った。
「十分だ」
ミラは顔を上げた。
「十分?」
「ああ。読んでもらえた」
ガレスは大きな手を組み直した。
「それだけでも、俺はありがたい」
リーナは目元を押さえていた。
涙をこぼさないようにしているのだろう。
「戻るつもりはない、と書かれていましたね」
彼女の声は震えていた。
カイルは頷く。
「書かれていた」
「当然、ですよね」
リーナは自分に言い聞かせるように言った。
「私たちは、戻ってきてほしいと言う資格もないのですから」
ミラが唇を噛む。
「資格がない、か。分かってたつもりだったけど、書かれるときついわね」
「……ああ」
カイルは机の上の手紙を見た。
勇者パーティーに戻るつもりはありません。
あまりに静かな拒絶だった。
責める言葉ではない。
罵倒でもない。
だから余計に重い。
アレンは怒鳴ってくれなかった。
ざまぁと笑ってもくれなかった。
ただ、自分の居場所を示した。
戻らない、と線を引いた。
それを見て、カイルは初めて、自分が何を失ったのか少しだけ分かった気がした。
便利な付与術師を失ったのではない。
荷物係を失ったのでもない。
黙って支えてくれていた仲間を、自分たちの手で外へ追い出した。
そして、その仲間はもう戻らない。
◇
応接室の扉が叩かれた。
入ってきたのは、グラウス副団長だった。
彼は四人の顔を見て、机の上の手紙に視線を落とした。
「読んだか」
「ああ」
カイルは答えた。
声が思ったより低かった。
「内容は」
「謝罪は読んだと。だが、まだ整理はついていないと。あの時のことを思い出すと胸が苦しくなると」
「そうか」
「それから」
カイルは、一度息を吸った。
「勇者パーティーに戻るつもりはない、と」
グラウスは頷いた。
驚きはなかった。
まるで、予想していたようだった。
「戻らないと言われたなら、まずそれを尊重しろ」
静かな声だった。
カイルは顔を上げる。
「分かっている」
「本当にか」
「……分かろうとしている」
グラウスは、少しだけ目を細めた。
「それでいい。今のお前に、分かっていると言い切られる方が怖い」
ミラが小さく笑った。
「確かに」
カイルは彼女を睨んだが、いつものような勢いはなかった。
グラウスは椅子に座らず、立ったまま続けた。
「アレン殿は、謝罪をなかったことにはしないと書いたのだろう」
「ああ」
「それは、かなり誠実な返事だ」
「誠実……」
「そうだ。許すとは言っていない。戻るとも言っていない。だが、読んだ、覚えておく、と書いた。無理に優しい言葉を足していない。境界線を引いた上で、完全に切り捨ててもいない」
カイルは拳を握った。
「俺は、何をすればいい」
「待て」
「またか」
「そうだ。まただ」
グラウスは容赦なく言った。
「返事を急がないでください、と書かれているのだろう。なら急がせるな。会いに行くな。弁明の手紙を重ねるな。『戻ってこいとは言わないが一度話したい』などと書くな」
言われようとしていたことを先に潰された。
カイルは口を閉じる。
ミラが呆れた顔で言った。
「今、ちょっと考えたでしょ」
「……考えた」
「正直ね」
「嘘をついても仕方ない」
グラウスが頷いた。
「それでいい。考えた上で、しない。そこが訓練だ」
「訓練」
「剣を振らない訓練だ」
カイルは手紙を見た。
返事を急がないでください。
アレンの文字が、静かにそこにある。
待つ。
尊重する。
今のカイルにとって、それは魔物を斬るより難しい。
◇
グラウスは、机の上に小さな包みを置いた。
布を開くと、中には木片が入っていた。
四角い、小さな木片。
まだ何も彫られていない。
カイルは眉をひそめる。
「何だ、これは」
「訓練用だ」
「木片が?」
「リーフェル村では、分からない時は四角だそうだ」
ミラが吹き出しかけた。
しかし、すぐに口元を押さえた。
ガレスは真面目に木片を見ている。
リーナは少しだけ目を丸くした。
カイルは、木片を睨んだ。
「俺にこれを持てと?」
「持てとは言っていない。使えると思うなら使え」
「馬鹿らしい」
反射的に言った。
だが、言った後で胸が少し痛んだ。
馬鹿らしい。
以前の自分なら、リーフェル村のやり方をそう切り捨てただろう。
だが、アレンはその村で、自分の居場所を見つけた。
四角の木片を持って、返事を急がないでくれと書いた。
それを馬鹿らしいと言う資格が、今の自分にあるのか。
カイルは木片を見つめたまま黙った。
グラウスが言う。
「勢いで動きそうになった時、手に取れ。分からないことを分からないままにしておくための道具だ」
「俺は勇者だぞ」
「勇者でも待つ必要はある」
「木片に頼るのか」
「聖剣に頼るより、今のお前には役に立つかもしれん」
ミラがとうとう笑った。
「副団長、きつい」
「事実だ」
カイルは言い返そうとして、やめた。
手を伸ばし、木片を取る。
軽い。
本当にただの木片だ。
こんなものに何ができる。
そう思う。
同時に、こんなものに頼らないと待てない自分がいることも、分かっていた。
「……考えておく」
カイルは言った。
ミラがすかさず言う。
「それ、四角じゃない?」
カイルは木片を握りしめた。
「黙れ」
「黙らないわよ。今のは四角でしょ」
ガレスが真顔で頷いた。
「四角だな」
リーナも、涙を拭いながら小さく笑った。
「はい。四角だと思います」
「お前たちまで」
カイルは不機嫌そうに言った。
だが、木片を机に戻すことはしなかった。
◇
その後、四人は応接室に残った。
グラウスは訓練報告のため一度出て行ったが、扉を閉める前にこう言った。
「今日の午後の訓練は通常通りだ。感情が乱れていても、基礎はやる」
「鬼か」
ミラが呟く。
グラウスは振り返らずに答えた。
「騎士だ」
扉が閉まる。
ミラは大きく息を吐いた。
「本当に通常通りやらせるのね」
ガレスが言う。
「その方がいい。何もするなと言われると、余計に考える」
「それはそう」
リーナは、アレンからの短い追伸を大事に折りたたんだ。
「読んでくださっただけで、今は十分です」
ミラが彼女を見る。
「本当にそう思える?」
「思おうとしています」
リーナは正直に言った。
「本当は、もっと言葉がほしいです。私の沈黙をどう思っているのか、許される余地があるのか、知りたいです。でも、それを求めるのは私の都合です」
ガレスが深く頷いた。
「俺も、礼を言いたい。直接言いたい。だが、それも俺の都合だ」
ミラは腕を組む。
「私は、腹が立ってる」
カイルが顔を上げた。
「アレンにか」
「違う。自分に」
ミラは窓の外を見た。
「短い追伸を読んで、ほっとしたのよ。読んでくれたって。それで十分だって思った。でも同時に、もっと何か返してほしいって思った。勝手よね。傷つけたのはこっちなのに」
「……俺もだ」
カイルは言った。
「戻らないと書かれて、当然だと思った。だが、どこかでまだ、可能性があると思っていた」
「あると思っていたのか」
ガレスが問う。
「思いたかったんだ」
カイルは、手の中の四角い木片を見た。
「謝れば、何かが少し戻るかもしれないと。もちろん、すぐではない。だが、いつかは、と」
「それが閉じた?」
ミラの声は、責めていなかった。
カイルは首を横に振った。
「閉じたというより……最初から俺が勝手に開いていると思っていただけだった」
応接室は静かになった。
ガレスが低く言う。
「戻る場所は、俺たちが壊した」
「ああ」
「なら、壊した側が、戻れと言うのは違う」
「分かっている」
「分かっていても、痛いな」
「ああ」
短いやり取りだった。
だが、四人の間に重く落ちた。
◇
午後の訓練場では、グラウスの宣言通り、通常訓練が行われた。
通常、と言っても、今のカイルたちにとってはかなり厳しい基礎訓練だった。
木剣での踏み込み。
盾の構え直し。
魔力制御。
治癒魔法の基礎詠唱。
以前なら、カイルはこうした訓練を退屈だと感じていた。
自分には聖剣がある。
実戦で勝てればいい。
そう思っていた。
だが、今は違う。
踏み込み一つで、体がぶれる。
魔力を込めすぎれば、木剣の先が不安定に揺れる。
アレンの支援がないだけで、自分の粗さが見える。
見たくないものが見える。
「カイル!」
ロイド訓練官の声が飛ぶ。
「踏み込みが荒い! 前へ出たい気持ちだけで足を動かすな!」
「はい!」
「返事はいい! 戻りを丁寧にしろ!」
「はい!」
前へ出る。
戻る。
前へ出る。
戻る。
単純な動きの繰り返し。
だが、今日のカイルには、その意味が少し違っていた。
前へ出たい。
アレンに会いに行きたい。
何か言いたい。
謝りたい。
分かってほしい。
その気持ちが湧くたびに、戻る。
四角。
待つ。
今は行かない。
腰の革袋の中に、小さな木片が入っている。
持ってくるつもりはなかった。
だが、気づいたら持ってきていた。
訓練の途中で、それに触れる。
馬鹿らしいと思う。
でも、触れると少しだけ動きが止まる。
止まることができる。
「カイル、今の間は何だ!」
ロイド訓練官が怒鳴る。
「すみません!」
「だが、悪くない! 今の踏み込みは急ぎすぎなかった!」
「……はい!」
褒められたのか怒られたのか分からない。
ミラが隣で小さく笑った。
「四角、効いてるじゃない」
「訓練中に話すな」
「あんたが触ってるからでしょ」
「見ていたのか」
「見えるわよ」
カイルは舌打ちした。
だが、木片を捨てる気にはならなかった。
◇
訓練後、四人は訓練場の端に座った。
汗で髪が額に貼りつき、手には木剣の跡が残っている。
ガレスは左肩を回しながら言った。
「今日は少し痛みが少ない」
ミラが答える。
「革紐の調整、朝に見直してたからじゃない?」
「ああ。アレンが前に言っていたことを思い出した。締めすぎるな、と」
リーナが静かに言った。
「私は、治癒魔法をかける前に、患者役の体力を確認するようにしました。以前、アレンさんがいつも見ていたことです」
ミラも、自分の杖を見た。
「私も、杖の魔力流路を見直した。認めたくないけど、アレンが言ってたこと、正しかった」
カイルは、木片を手の中で転がした。
アレンがいなくなって、初めてアレンの言葉を思い出す。
遅すぎる。
何もかも遅い。
でも、遅いからといって何もしない理由にはならない。
「戻らない、と書かれた」
カイルは言った。
三人がこちらを見る。
「なら、俺たちは、アレンがいなくても立てるようにならなければならない」
ミラは少し驚いた顔をした。
「まともなこと言うじゃない」
「茶化すな」
「ごめん。でも、本当にそうね」
ガレスが頷く。
「アレンを戻すためではなく、俺たちが俺たちで立つために」
リーナも言った。
「そして、いつかもし会えた時、恥ずかしくないように」
カイルは空を見た。
王都の空は、リーフェル村の空とは違うのだろうか。
アレンは今、村で何をしているのか。
きっと、また誰かに頼まれ、周りに止められ、四角の木片を握っているのかもしれない。
そう思うと、少しだけ笑いそうになった。
そして、胸が痛んだ。
「俺は、待つ」
カイルは言った。
「待つ練習をする」
ミラが笑う。
「じゃあ、やっぱり四角が必要ね」
カイルは手の中の木片を見る。
まだ何も書かれていない四角。
彼はしばらく考えた後、訓練場の端に落ちていた小さな炭片を拾った。
木片の表に、一文字書く。
『待』
字は少し歪んだ。
だが、読める。
ミラが覗き込む。
「待つ、ね」
「笑うな」
「笑ってないわよ」
「笑っている顔だ」
「少しだけね」
ガレスは真面目に頷いた。
「よいと思う」
リーナも微笑んだ。
「はい。カイル様には必要な字です」
「お前たちは容赦がないな」
カイルはそう言ったが、木片を革袋へ戻した。
捨てなかった。
◇
その夜、カイルはもう一度アレンの手紙を読んだ。
ひとりで。
今度は途中で止まらず、最後まで読めた。
『勇者パーティーに戻るつもりはありません』
その一文は、やはり痛かった。
だが、昼間ほど呼吸が止まる感じはしなかった。
痛い。
でも、読む。
受け止める。
返事を急がない。
カイルは手紙を丁寧に折り、机の引き出しへしまった。
そして、その横に四角の木片を置いた。
『待』
不格好な字。
勇者らしくない道具。
でも、今のカイルには必要なものだった。
「戻らない、か」
小さく呟く。
その言葉は、部屋に静かに落ちた。
カイルは目を閉じた。
アレンが戻らないことを、まず尊重する。
謝罪を読んでくれたことを、勝手に次の期待へ変えない。
自分たちが壊したものを、相手に直させようとしない。
それが、今できること。
勇者としてではなく。
ひとりの人間として。
カイルは、引き出しを閉じた。
明日も訓練がある。
待つ練習もある。
その両方を、彼は初めて本気でやろうと思った。




