第6話 畑を耕しただけなのに、世界樹の苗が生えました
翌朝、リーフェル村はやけに明るかった。
いや、太陽の話ではない。
空はよく晴れていたが、それだけなら普通だ。問題は、村人たちの顔である。
昨日までのリーフェル村は、どこか疲れた空気をまとっていた。畑は痩せ、柵は傷み、村人たちは穏やかではあるけれど、先の見えない不安を抱えているように見えた。
それが今朝は違う。
北柵の前に集まった村人たちは、俺を見るなり一斉に頭を下げた。
「アレンさん、おはようございます!」
「昨日は助かりました!」
「うちの爺さんの肩も見てくれねぇか!」
「いや、先にうちの母ちゃんの膝だ!」
「待て、まず柵だろ! 柵!」
……明るい。
明るすぎる。
俺は思わず半歩下がった。
「ええと、おはようございます」
挨拶を返すと、村人たちの目がさらに輝いた。
昨日の夜、村長の腰痛を軽くした件が、どうやら村中に広まってしまったらしい。
いや、広まるのが早すぎる。
リーフェル村の情報網、王都の密偵より仕事が速いのではないか。
「師匠。村の方々の信頼を得るのは良いことです」
隣に立つシルフィが、真面目な顔で言った。
昨夜よりも顔色はずっと良い。借り物の上着ではなく、村の女性たちが用意してくれた簡素な生成りの服を着ている。白銀の髪は後ろでまとめられ、尖った耳が朝日に透けるように見えた。
綺麗だ。
……いや、今はそれどころではない。
「信頼というか、期待が重いんだけど」
「重いのは、師匠がご自身の価値を軽く見積もりすぎている反動です」
「朝から厳しいな」
「弟子ですので」
「弟子ってそういう仕事だったかな」
俺が困っていると、村長が杖を突きながら近づいてきた。
昨日まで少し曲がっていた腰は、今朝もまっすぐだった。本人もそれが嬉しいのか、やたら胸を張っている。
「アレン」
「おはようございます、村長さん。腰はどうですか?」
「痛くない」
「よかったです」
「痛くなさすぎて、朝から畑まで歩いてしまった」
「いいことじゃないですか」
「よくない」
「え?」
村長は渋い顔で言った。
「妻に怒られた。調子に乗るな、と」
「ああ……」
「だから、今日は儂もおとなしく監督に回る」
そう言いながら、村長は北柵を指した。
「まず柵だ。昨日、お前さんが付与したおかげで一晩は何事もなかった。だが、もとの木材が古いことに変わりはない。ちゃんと補修しておきたい」
「分かりました。木杭の交換と横木の固定ですね。あと、縄も替えた方がいいです」
「見ただけで分かるのか」
「勇者パーティーにいた頃、野営地の柵や馬車の補修をよくしていたので」
そう言うと、周囲の村人たちが微妙な顔をした。
シルフィに至っては、明らかに不満そうだ。
「師匠」
「何?」
「勇者パーティーとは、付与術師に野営地の柵まで修理させる場所なのですか」
「人手が足りなかったから」
「勇者とは何なのでしょう」
「世界を救う人かな」
「では、柵くらい自分で直すべきです」
「そこ?」
シルフィの怒りどころは、たまに妙に生活密着型だ。
村長が咳払いする。
「まあ、その勇者とやらの話は後でいい。まず村の柵だ」
「はい」
俺は村の若者たちと一緒に作業を始めた。
古い木杭を抜き、新しい杭を打つ。縄を締め直し、横木を渡す。途中、腐りかけた部分に補強の付与をかけると、また木材が妙に艶を取り戻してしまった。
俺は慌てて手を離す。
「……少し強かったかもしれません」
村長が無言で木杭を叩いた。
こつん。
まるで石のような音がした。
「アレン」
「はい」
「これは木か?」
「木のはずです」
「石の音がしたぞ」
「元気な木なのかもしれません」
「切られた木が元気になるなと昨夜も言ったはずだ」
横にいた門番老人がしみじみ頷いた。
「兄者、この柵なら棘狼どころか熊でも弾きそうだな」
「熊で済めばいいがな」
「竜でも来るか?」
「来るな。縁起でもない」
村人たちが笑う。
俺もつられて少し笑った。
こんなふうに作業しながら笑うのは、久しぶりだった。
勇者パーティーでは、作業はいつも急かされるものだった。火を起こすのが遅い。飯が遅い。装備の手入れが遅い。地図の確認が遅い。遅い、遅い、遅い。
ここでは違う。
「アレンさん、こっち持つぞ」
「ありがとうございます。では、そこを少し上げてください」
「こうか?」
「はい。いい感じです」
「いい感じって言われると、何か嬉しいな」
「普段、言われませんか?」
「畑にいい感じって言われたことはあるが、人にはあまりない」
「畑に?」
「畑は正直だからな」
そんな会話をしながら、柵は少しずつ直っていく。
シルフィは俺の作業を真剣に見ていた。
あまりにも真剣なので、途中で気になってしまう。
「シルフィ、そんなに見られるとやりづらいんだけど」
「観察です」
「何を?」
「師匠の付与の発動条件です」
「普通に木を補強してるだけだよ」
「普通の補強で木材が半永久結界素材に変質することはありません」
「半永久?」
「今の木杭、少なくとも二百年は腐りません」
「そんなに?」
「はい」
俺は木杭を見た。
見た目は普通の木だ。
いや、少し艶がありすぎる気もする。朝日を受けて、木目が金色に光っている。
「……丈夫なのはいいことだな」
「師匠」
「何?」
「その一言で古代建築師が泣きます」
「知らない人を泣かせたくはないな」
「では自覚してください」
「努力します」
「善処ではなく努力なら、前進です」
弟子の評価基準が厳しい。
柵の補修が一段落したころ、村長が手を叩いた。
「よし、午前はここまでだ。昼まで少し畑を見る。アレン、お前さんはこっちだ」
「畑ですか?」
「そうだ。昨日言ったろう。うちの村は畑が弱っている。柵を守っても、腹が満たされねば人は暮らせん」
「確かに」
俺は北柵から畑へ向かった。
リーフェル村の畑は広い。
ただ、土の色は薄く、ところどころひび割れていた。作物の葉も小さく、茎は細い。水路はあるが、水量が少ない。村人たちが長年大切にしてきた場所なのは分かるのに、土地そのものに力が残っていないように見えた。
村長は畑の端に立ち、深く息を吐いた。
「昔は、もう少し実りがあった」
その声は、さっきまでより静かだった。
「儂が若い頃は、麦も豆もよく育った。栗も多かった。森から流れてくる水が良かったのだと思う。だが十年ほど前から少しずつ土が痩せた。若い者も王都へ出た。残った者で何とかやっているが……見ての通りだ」
村人たちは黙って畑を見ている。
冗談の多い門番老人も、何も言わなかった。
俺はしゃがみ、土を手に取った。
軽い。
乾きすぎている。
ただ、完全に死んだ土ではない。奥の方にはまだ湿り気がある。水の流れが滞って、栄養が巡っていない感じだ。
「水路を掃除して、土を起こした方がいいですね。あと、堆肥を混ぜれば多少は……」
言いながら、俺は土を握った。
いつもの癖で、ほんの少しだけ付与を流す。
土の中の水分が逃げにくいように。
根が張りやすいように。
作物が少し元気になるように。
その程度のつもりだった。
手の中の土が、ふわりと温かくなった。
「……あ」
シルフィが小さく声を上げた。
「どうした?」
「師匠。今、土が」
「土?」
俺は手を開いた。
さっきまで白っぽく乾いていた土が、黒くなっていた。
まるで森の奥深く、何百年も落ち葉が積もった場所の土のように、柔らかく、湿り気があり、いい匂いがする。
村長が目を剥いた。
「……お前さん、今、何をした」
「土を少し整えようと」
「少し?」
「はい」
門番老人が畑にしゃがみ込み、黒くなった土をつまんだ。
「兄者」
「何だ」
「これは、うちの畑の土ではない」
「儂にも分かる」
「森の奥の神域みたいな匂いがする」
「なぜお前は神域の匂いを知っておる」
「知らん。言ってみただけだ」
「言ってみただけにしては、それっぽいぞ」
シルフィが震える声で言った。
「おそらく、正しいです」
全員が彼女を見る。
「エルフの森では、長い年月をかけて魔力を含んだ腐葉土が作られます。そこは薬草や霊樹が育つ特別な場所になります。今、師匠が作った土は、それに近い……いえ、それ以上かもしれません」
「以上?」
村長の声が裏返った。
俺は慌てた。
「いや、そんな大げさな」
「大げさではありません」
シルフィはいつもの言葉を、いつも以上に力強く言った。
「この土なら、普通の麦でも高位薬草並みの生命力を持ちます。野菜なら霊菜化する可能性があります。下手をすれば、植えた種が本来とは別のものへ進化します」
「野菜が進化?」
「はい」
「野菜って進化するのか?」
「普通はしません!」
また叱られた。
村長はしばらく考え込んだ後、真剣な顔で言った。
「アレン」
「はい」
「この畑全体に、それはできるか」
「やってみないと分かりませんが、土を起こしながらなら多少は」
「頼めるか」
村長の声には、冗談がなかった。
そこにあったのは、切実な願いだった。
「この村は、豊かな村ではない。冬を越すだけでも毎年苦労する。王都の商人から買う穀物も高くなった。もし畑が少しでも戻るなら、皆が助かる」
村人たちの視線が俺に集まる。
期待。
不安。
祈り。
その全部が伝わってきて、俺は一瞬、言葉を失った。
勇者パーティーにいた頃、俺はずっと「役に立て」と言われていた。
けれど、それは命令だった。
できて当然。
できなければ叱責。
感謝はほとんどない。
今、村長は俺に頼んでいる。
この村のために、力を貸してくれ、と。
それは同じ「働く」でも、まるで違うものだった。
「分かりました」
俺は立ち上がった。
「うまくいくかは分かりません。でも、できるだけやってみます」
村人たちの顔が明るくなる。
「ありがとう、アレンさん!」
「助かる!」
「鍬を持ってくる!」
「堆肥も運べ!」
「水路も開けるぞ!」
村が一気に動き出した。
さっきまで腰や膝を見てほしがっていた人たちまで、鍬を担いで畑に入っていく。
俺も鍬を借りた。
「これ、使えますか?」
若い村人が差し出してくれた鍬は、柄が少し古いが、刃は手入れされていた。
「十分です」
俺は畑の端に立ち、鍬を入れた。
ざくり。
乾いた土が割れる。
そこへ魔力を流す。
作物が根を張れるように。
水が巡るように。
土の中の小さな命が戻るように。
ざくり。
ざくり。
鍬を入れるたび、土の色が変わっていく。
白っぽかった畑が、ゆっくり黒くなる。
水路から流れ込んだ水が、濁らず、しみ込む。
村人たちが目を丸くしながらも、必死に手を動かす。
「おい、見ろ! 土が柔らかい!」
「昨日まで鍬が跳ね返ってた場所だぞ!」
「水が吸われていく……!」
「これなら豆が育つぞ!」
「豆どころじゃねぇ、麦もいける!」
歓声が上がる。
俺は汗を拭った。
久しぶりに、体を使って働いている。
不思議と疲れは少ない。
むしろ、鍬を振るたびに気持ちが落ち着いていく。
土を耕す。
単純な作業。
でも、目の前で畑が変わっていくのが分かる。
勇者パーティーの戦闘では、俺の付与がどれほど役に立っているのか分からなかった。誰にも分かってもらえなかった。
ここでは違う。
村人たちの顔を見れば、分かる。
自分のしたことが、誰かの助けになっている。
「師匠」
シルフィが畑の横から声をかけた。
「休憩を取ってください。魔力の消費が普通ではありません」
「そうか? まだ大丈夫だけど」
「大丈夫ではありません。少なくとも、普通の付与術師ならとっくに倒れています」
「俺、普通じゃないってこと?」
「今さらです」
「今さらなのか」
シルフィは水筒を差し出してくれた。
「飲んでください」
「ありがとう」
水を飲む。
冷たくてうまい。
そのとき、近くにいた村の女の子が、布袋から種を取り出した。
「アレンお兄ちゃん、これ植えていい?」
昨日、転んだ膝を治した子だ。
名前は確か、ミナ。
「村長さんに聞いた方がいいんじゃないか?」
「村長おじいちゃん、いい?」
ミナが振り返ると、村長は腕を組んで頷いた。
「端の方ならよかろう。何の種だ」
「お母さんがくれた豆!」
「豆か。よし、植えてみろ」
ミナは嬉しそうに、黒くなった土へ種をまいた。
小さな手で土をかぶせる。
俺は微笑ましく見ていた。
「元気に育つといいな」
そう言って、種をまいた場所に軽く手をかざす。
ほんの少しだけ。
芽が出やすいように。
鳥に食べられにくいように。
それだけのつもりだった。
土が光った。
「……師匠?」
シルフィの声が固くなる。
俺は手を止めた。
ミナが目を丸くして土を見る。
ぽこ。
土が盛り上がった。
ぽこぽこ。
次々と小さな芽が出る。
「わあ!」
ミナが歓声を上げた。
「芽が出た!」
「早いな」
「早いな、ではありません!」
シルフィが叫ぶ。
芽は止まらなかった。
数秒で双葉になり、すぐに蔓が伸びる。支柱もないのに、蔓は空中へ向かって真っすぐ上がり、淡い緑の光を帯びた。
村人たちが作業の手を止める。
「おい、何だあれ」
「豆……だよな?」
「豆ってあんな光るか?」
「うちの畑では光ったことない」
「うちでもない」
シルフィがゆっくり近づく。
その顔から血の気が引いていた。
「これは……豆ではありません」
「え、でもミナが豆って」
「種は豆だったのでしょう。ですが、師匠の付与とこの土によって性質が変化しています」
「性質が変化」
「はい。おそらくこれは、霊豆……いえ、もっと高位です。食べれば魔力回復効果があるかもしれません」
村長が震える声で言った。
「それは、売れるのか」
「王都なら、貴族が金貨を積むでしょう」
村人たちがどよめいた。
俺は慌てて言う。
「いや、まだ豆ができたわけじゃないですし」
その直後、白い花が咲いた。
続いて、小さな鞘が実る。
全員が黙った。
ミナが無邪気に言う。
「豆できた!」
できてしまった。
シルフィは額に手を当てた。
「師匠……」
「……元気に育ったな」
「元気の範囲を超えています」
「だよな」
さすがに俺も、これは早すぎると思った。
けれど、畑の異変はそれだけでは終わらなかった。
村人の一人が、古い木箱を抱えてやってきた。
「村長、せっかくだからこれも植えちまうか?」
「何だそれは」
「昔、旅の商人から買った種だ。何の種か分からん。植えても芽が出なかったから、倉にしまってた」
「何の種か分からんものを植えるな」
「でも、今なら出るかもしれねぇだろ」
村長は眉をひそめた。
俺も少し困った。
「何の種か分からないのは危ないかもしれませんよ。毒草とかだったら」
「それもそうか」
村人が木箱を戻そうとしたとき、シルフィがぴくりと反応した。
「待ってください」
「どうした?」
俺が尋ねると、彼女は木箱へ近づいた。
箱の中には、黒く乾いた小さな種が一粒だけ入っていた。
見た目はただの木の実の種のようだ。
けれど、シルフィは息を呑んだ。
「これ……どこで手に入れたのですか」
「だから、昔の商人だよ。エルフの森の近くを通ったとか言ってたな」
「エルフの森……」
シルフィは震える指で種を見つめる。
「おそらく、霊樹の種です」
「霊樹?」
「エルフの森に生える、魔力を蓄える木です。ただし、発芽には極めて特殊な条件が必要で、人間の村で育つことはまずありません」
村長が木箱を覗き込む。
「では、植えても無駄か」
「普通なら」
シルフィがこちらを見た。
なぜ見る。
「師匠なら、可能かもしれません」
「いや、俺は木を育てる専門家じゃないぞ」
「先ほど豆を一瞬で霊豆にしました」
「偶然かもしれない」
「偶然が多すぎます」
反論できない。
村長は少し考えてから言った。
「危険はあるか」
「霊樹なら危険は少ないです。ただ、魔力を吸いすぎると周囲の作物が弱ることがあります」
「それは困るな」
「ですが、この土なら……いえ、師匠が整えたこの畑なら、共存できる可能性があります」
村人たちが俺を見る。
また期待の目だ。
俺は頭をかいた。
「試すなら、畑の端じゃなくて、村の外れの空き地の方がいいかもしれません。根が広がるなら作物の近くは避けた方がいい」
「妥当です」
シルフィが頷いた。
「師匠がまともな判断を」
「その言い方、普段まともじゃないみたいだな」
「普段は力がまともではありません」
「力だけ?」
「善処します」
「何を?」
話しながら、俺たちは村の外れにある空き地へ向かった。
そこは昔、果樹を植えていた場所らしい。
今は切り株だけが残り、草もまばらだった。
「ここなら、多少大きくなっても大丈夫そうですね」
「多少で済めばいいがな」
村長が呟く。
俺は聞こえなかったことにした。
シルフィが種を両手で包むように持ってくる。
その顔は真剣だった。
「師匠。これはエルフにとって大切な系譜の種かもしれません。もし芽吹けば、リーフェル村にとっても大きな意味を持ちます」
「分かった。できるだけ丁寧にやる」
「お願いします」
俺は小さな穴を掘り、種を置いた。
土をかぶせる。
水をかける。
それから、手を当てた。
今度は慎重に。
さっきの豆のように、一気に成長しすぎないように。
種が目を覚ます程度。
根を張れる程度。
この土地に馴染める程度。
「ゆっくりでいいから、育ってくれ」
そう言った瞬間、地面の奥から鼓動のような音がした。
どくん。
全員が息を止めた。
土が淡く光る。
小さな芽が出た。
そこまではいい。
問題は、その芽が止まらなかったことだ。
すうっと茎が伸びる。
若葉が開く。
幹が太くなる。
数秒で俺の背丈を超え、さらに伸びる。
「ちょ、ちょっと待て」
俺は慌てて手を離した。
だが、成長は止まらない。
幹は白銀を帯び、葉は透明感のある緑に輝く。枝先からは小さな光の粒がこぼれ、空き地全体に柔らかな香りが広がった。
村人たちは口を開けたまま見上げている。
村長も、門番老人も、ミナも、誰も声を出せなかった。
シルフィだけが、震える唇で言った。
「……師匠」
「はい」
「これは霊樹ではありません」
「え」
嫌な予感がした。
「では、何ですか」
シルフィはゆっくり振り返った。
その顔は、驚愕と畏怖でいっぱいだった。
「世界樹の若木です」
沈黙。
風が吹く。
若木の葉が揺れ、澄んだ音を立てる。
まるで鈴のような音だった。
「世界樹」
俺は聞き返した。
「世界樹って、あの世界樹?」
「どの世界樹かは分かりませんが、伝説に出てくる世界樹です」
「伝説って、世界を支えるとか、エルフの聖地に一本だけあるとか、そういう?」
「はい」
「……それが、ここに?」
「はい」
「種、間違えたんじゃ」
「間違えて世界樹は生えません!」
シルフィの声が村中に響いた。
村長が杖を落とした。
門番老人がそれを拾おうとして、途中で固まる。
ミナだけが目を輝かせて若木を見上げた。
「きれい!」
その無邪気な声で、ようやく皆が息を吹き返した。
村長が震える声で言う。
「アレン」
「はい」
「お前さん、畑を耕しに来たのではなかったか」
「そのつもりでした」
「なぜ世界樹が生えた」
「俺にも分かりません」
「だろうな」
村長は深く、深く息を吐いた。
「儂は今、人生で初めて腰が痛くない朝を迎えたと思ったら、村に世界樹が生えた。情報量が多すぎる」
「すみません」
「謝るな。謝られても困る」
シルフィは若木の前に膝をついた。
エルフにとって、それほど特別なものなのだろう。
彼女は両手を胸の前で組み、静かに目を閉じた。
「まさか、人間の辺境村で世界樹の芽を見ることになるなんて……」
「シルフィ、大丈夫か?」
「大丈夫ではありません」
「だよな」
「ですが、幸せです」
シルフィは目を開けた。
その瞳に、涙が浮かんでいた。
「師匠。これは奇跡です。世界樹は土地を浄化し、水脈を整え、魔物の侵入を抑え、周囲の生命を育てます。この村は……この村は、救われるかもしれません」
その言葉に、村人たちがざわめいた。
救われる。
その一言が、痩せた畑に立っていた人々の胸に染み込んでいくのが分かった。
「本当か、エルフのお嬢さん」
門番老人が尋ねる。
「はい。ただし、世界樹の存在は外部に知られれば大きな騒ぎになります。王都、貴族、教会、エルフ領……あらゆる者がこの村に目を向けるでしょう」
村長の顔が引き締まった。
「それは困る」
「はい。だから、隠す必要があります」
「こんな目立つ木をか?」
門番老人が見上げる。
若木はまだ家一軒ほどの高さだが、明らかに普通の木ではない。葉が光っている時点で隠すのは難しい。
俺は少し考えた。
「……光を抑える付与をかけてみますか?」
全員が一斉にこちらを見た。
シルフィが真剣な顔で言う。
「師匠。抑えるつもりで成長させないでください」
「そんな器用な間違いはしないと思う」
「今までの流れを見る限り、不安です」
「俺も少し不安になってきた」
正直だった。
村長は頭を抱えたあと、決断した。
「まず、村の外にこの話を出すな。今日ここにいる者だけの秘密だ」
村人たちが頷く。
「畑の土については、堆肥と水路の整備がうまくいったことにする。霊豆についても、しばらくは村内で食べる分だけだ。売るのはまだ早い」
「村長さん、冷静ですね」
「冷静ではない。冷静なふりをしている」
「正直ですね」
「年寄りだからな」
村長は世界樹の若木を見上げた。
「アレン」
「はい」
「お前さん、やはりしばらくこの村にいろ」
「そのつもりです」
「違う。客人としてではない」
村長は俺をまっすぐ見た。
「この村の者として、いてくれ」
また、胸の奥が小さく揺れた。
この村の者。
たった一晩と少し前、俺は勇者パーティーを追放された。
いらないと言われた。
無能だと笑われた。
二度と現れるなと背中に投げつけられた。
その俺に、村長はここにいろと言ってくれている。
必要だから。
便利だから。
そういう理由もあるのだろう。
でも、村長の目にあったのは、それだけではなかった。
俺は少しだけ迷い、それから頷いた。
「俺でよければ」
「それを言うなら、こちらこそだ」
村長が手を差し出した。
俺はその手を握る。
硬く、温かい手だった。
村人たちの間から拍手が起こった。
ミナが飛び跳ねる。
「アレンお兄ちゃん、村の人になるの?」
「そう、なのかな」
「やった!」
その笑顔を見て、俺は思わず笑った。
シルフィも立ち上がり、静かに頭を下げる。
「師匠。この村は、あなたにふさわしい場所になるかもしれません」
「俺にふさわしいかは分からないけど」
俺は世界樹の若木を見上げた。
「少なくとも、悪くない場所だと思う」
風が吹いた。
世界樹の葉が揺れ、柔らかな光の粒が畑の方へ流れていく。
遠くで、痩せていた麦の葉が少しだけ背を伸ばした。
誰もそれには気づかなかった。
たぶん、気づいたらまた騒ぎになる。
俺はそっと視線を逸らした。
「さて」
村長が咳払いした。
「畑仕事に戻るぞ。世界樹が生えたからといって、昼飯が勝手に出てくるわけではない」
「そうですね」
「いや、師匠なら出せる可能性が」
「シルフィ、そこは否定してくれ」
「努力します」
「善処より少し強いけど、やっぱり否定はしないんだな」
村人たちが笑った。
俺も鍬を持ち直す。
世界樹が生えた。
霊豆が実った。
畑の土が変わった。
普通なら、そこで一日が終わってもおかしくない。
けれどリーフェル村では、そこからまた畑仕事が始まった。
土を起こし、水路を開き、種をまき、笑いながら汗をかく。
俺はその輪の中にいた。
勇者パーティーにいた頃、どれだけ働いても、俺の居場所はどこか借り物だった。
今は違う。
少なくとも、この畑の一角には、俺の足跡が残っている。
そのことが、なぜかたまらなく嬉しかった。




