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無能だと追放された底辺付与術師、実は世界で唯一の【全自動・神級バフ】持ちでした 〜辺境でスローライフを送るはずが、俺が抜けて壊滅寸前の勇者パーティーが泣きついてきてももう遅い。  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第6話 畑を耕しただけなのに、世界樹の苗が生えました

 翌朝、リーフェル村はやけに明るかった。


 いや、太陽の話ではない。


 空はよく晴れていたが、それだけなら普通だ。問題は、村人たちの顔である。


 昨日までのリーフェル村は、どこか疲れた空気をまとっていた。畑は痩せ、柵は傷み、村人たちは穏やかではあるけれど、先の見えない不安を抱えているように見えた。


 それが今朝は違う。


 北柵の前に集まった村人たちは、俺を見るなり一斉に頭を下げた。


「アレンさん、おはようございます!」


「昨日は助かりました!」


「うちの爺さんの肩も見てくれねぇか!」


「いや、先にうちの母ちゃんの膝だ!」


「待て、まず柵だろ! 柵!」


 ……明るい。


 明るすぎる。


 俺は思わず半歩下がった。


「ええと、おはようございます」


 挨拶を返すと、村人たちの目がさらに輝いた。


 昨日の夜、村長の腰痛を軽くした件が、どうやら村中に広まってしまったらしい。


 いや、広まるのが早すぎる。


 リーフェル村の情報網、王都の密偵より仕事が速いのではないか。


「師匠。村の方々の信頼を得るのは良いことです」


 隣に立つシルフィが、真面目な顔で言った。


 昨夜よりも顔色はずっと良い。借り物の上着ではなく、村の女性たちが用意してくれた簡素な生成りの服を着ている。白銀の髪は後ろでまとめられ、尖った耳が朝日に透けるように見えた。


 綺麗だ。


 ……いや、今はそれどころではない。


「信頼というか、期待が重いんだけど」


「重いのは、師匠がご自身の価値を軽く見積もりすぎている反動です」


「朝から厳しいな」


「弟子ですので」


「弟子ってそういう仕事だったかな」


 俺が困っていると、村長が杖を突きながら近づいてきた。


 昨日まで少し曲がっていた腰は、今朝もまっすぐだった。本人もそれが嬉しいのか、やたら胸を張っている。


「アレン」


「おはようございます、村長さん。腰はどうですか?」


「痛くない」


「よかったです」


「痛くなさすぎて、朝から畑まで歩いてしまった」


「いいことじゃないですか」


「よくない」


「え?」


 村長は渋い顔で言った。


「妻に怒られた。調子に乗るな、と」


「ああ……」


「だから、今日は儂もおとなしく監督に回る」


 そう言いながら、村長は北柵を指した。


「まず柵だ。昨日、お前さんが付与したおかげで一晩は何事もなかった。だが、もとの木材が古いことに変わりはない。ちゃんと補修しておきたい」


「分かりました。木杭の交換と横木の固定ですね。あと、縄も替えた方がいいです」


「見ただけで分かるのか」


「勇者パーティーにいた頃、野営地の柵や馬車の補修をよくしていたので」


 そう言うと、周囲の村人たちが微妙な顔をした。


 シルフィに至っては、明らかに不満そうだ。


「師匠」


「何?」


「勇者パーティーとは、付与術師に野営地の柵まで修理させる場所なのですか」


「人手が足りなかったから」


「勇者とは何なのでしょう」


「世界を救う人かな」


「では、柵くらい自分で直すべきです」


「そこ?」


 シルフィの怒りどころは、たまに妙に生活密着型だ。


 村長が咳払いする。


「まあ、その勇者とやらの話は後でいい。まず村の柵だ」


「はい」


 俺は村の若者たちと一緒に作業を始めた。


 古い木杭を抜き、新しい杭を打つ。縄を締め直し、横木を渡す。途中、腐りかけた部分に補強の付与をかけると、また木材が妙に艶を取り戻してしまった。


 俺は慌てて手を離す。


「……少し強かったかもしれません」


 村長が無言で木杭を叩いた。


 こつん。


 まるで石のような音がした。


「アレン」


「はい」


「これは木か?」


「木のはずです」


「石の音がしたぞ」


「元気な木なのかもしれません」


「切られた木が元気になるなと昨夜も言ったはずだ」


 横にいた門番老人がしみじみ頷いた。


「兄者、この柵なら棘狼どころか熊でも弾きそうだな」


「熊で済めばいいがな」


「竜でも来るか?」


「来るな。縁起でもない」


 村人たちが笑う。


 俺もつられて少し笑った。


 こんなふうに作業しながら笑うのは、久しぶりだった。


 勇者パーティーでは、作業はいつも急かされるものだった。火を起こすのが遅い。飯が遅い。装備の手入れが遅い。地図の確認が遅い。遅い、遅い、遅い。


 ここでは違う。


「アレンさん、こっち持つぞ」


「ありがとうございます。では、そこを少し上げてください」


「こうか?」


「はい。いい感じです」


「いい感じって言われると、何か嬉しいな」


「普段、言われませんか?」


「畑にいい感じって言われたことはあるが、人にはあまりない」


「畑に?」


「畑は正直だからな」


 そんな会話をしながら、柵は少しずつ直っていく。


 シルフィは俺の作業を真剣に見ていた。


 あまりにも真剣なので、途中で気になってしまう。


「シルフィ、そんなに見られるとやりづらいんだけど」


「観察です」


「何を?」


「師匠の付与の発動条件です」


「普通に木を補強してるだけだよ」


「普通の補強で木材が半永久結界素材に変質することはありません」


「半永久?」


「今の木杭、少なくとも二百年は腐りません」


「そんなに?」


「はい」


 俺は木杭を見た。


 見た目は普通の木だ。


 いや、少し艶がありすぎる気もする。朝日を受けて、木目が金色に光っている。


「……丈夫なのはいいことだな」


「師匠」


「何?」


「その一言で古代建築師が泣きます」


「知らない人を泣かせたくはないな」


「では自覚してください」


「努力します」


「善処ではなく努力なら、前進です」


 弟子の評価基準が厳しい。


 柵の補修が一段落したころ、村長が手を叩いた。


「よし、午前はここまでだ。昼まで少し畑を見る。アレン、お前さんはこっちだ」


「畑ですか?」


「そうだ。昨日言ったろう。うちの村は畑が弱っている。柵を守っても、腹が満たされねば人は暮らせん」


「確かに」


 俺は北柵から畑へ向かった。


 リーフェル村の畑は広い。


 ただ、土の色は薄く、ところどころひび割れていた。作物の葉も小さく、茎は細い。水路はあるが、水量が少ない。村人たちが長年大切にしてきた場所なのは分かるのに、土地そのものに力が残っていないように見えた。


 村長は畑の端に立ち、深く息を吐いた。


「昔は、もう少し実りがあった」


 その声は、さっきまでより静かだった。


「儂が若い頃は、麦も豆もよく育った。栗も多かった。森から流れてくる水が良かったのだと思う。だが十年ほど前から少しずつ土が痩せた。若い者も王都へ出た。残った者で何とかやっているが……見ての通りだ」


 村人たちは黙って畑を見ている。


 冗談の多い門番老人も、何も言わなかった。


 俺はしゃがみ、土を手に取った。


 軽い。


 乾きすぎている。


 ただ、完全に死んだ土ではない。奥の方にはまだ湿り気がある。水の流れが滞って、栄養が巡っていない感じだ。


「水路を掃除して、土を起こした方がいいですね。あと、堆肥を混ぜれば多少は……」


 言いながら、俺は土を握った。


 いつもの癖で、ほんの少しだけ付与を流す。


 土の中の水分が逃げにくいように。


 根が張りやすいように。


 作物が少し元気になるように。


 その程度のつもりだった。


 手の中の土が、ふわりと温かくなった。


「……あ」


 シルフィが小さく声を上げた。


「どうした?」


「師匠。今、土が」


「土?」


 俺は手を開いた。


 さっきまで白っぽく乾いていた土が、黒くなっていた。


 まるで森の奥深く、何百年も落ち葉が積もった場所の土のように、柔らかく、湿り気があり、いい匂いがする。


 村長が目を剥いた。


「……お前さん、今、何をした」


「土を少し整えようと」


「少し?」


「はい」


 門番老人が畑にしゃがみ込み、黒くなった土をつまんだ。


「兄者」


「何だ」


「これは、うちの畑の土ではない」


「儂にも分かる」


「森の奥の神域みたいな匂いがする」


「なぜお前は神域の匂いを知っておる」


「知らん。言ってみただけだ」


「言ってみただけにしては、それっぽいぞ」


 シルフィが震える声で言った。


「おそらく、正しいです」


 全員が彼女を見る。


「エルフの森では、長い年月をかけて魔力を含んだ腐葉土が作られます。そこは薬草や霊樹が育つ特別な場所になります。今、師匠が作った土は、それに近い……いえ、それ以上かもしれません」


「以上?」


 村長の声が裏返った。


 俺は慌てた。


「いや、そんな大げさな」


「大げさではありません」


 シルフィはいつもの言葉を、いつも以上に力強く言った。


「この土なら、普通の麦でも高位薬草並みの生命力を持ちます。野菜なら霊菜化する可能性があります。下手をすれば、植えた種が本来とは別のものへ進化します」


「野菜が進化?」


「はい」


「野菜って進化するのか?」


「普通はしません!」


 また叱られた。


 村長はしばらく考え込んだ後、真剣な顔で言った。


「アレン」


「はい」


「この畑全体に、それはできるか」


「やってみないと分かりませんが、土を起こしながらなら多少は」


「頼めるか」


 村長の声には、冗談がなかった。


 そこにあったのは、切実な願いだった。


「この村は、豊かな村ではない。冬を越すだけでも毎年苦労する。王都の商人から買う穀物も高くなった。もし畑が少しでも戻るなら、皆が助かる」


 村人たちの視線が俺に集まる。


 期待。


 不安。


 祈り。


 その全部が伝わってきて、俺は一瞬、言葉を失った。


 勇者パーティーにいた頃、俺はずっと「役に立て」と言われていた。


 けれど、それは命令だった。


 できて当然。


 できなければ叱責。


 感謝はほとんどない。


 今、村長は俺に頼んでいる。


 この村のために、力を貸してくれ、と。


 それは同じ「働く」でも、まるで違うものだった。


「分かりました」


 俺は立ち上がった。


「うまくいくかは分かりません。でも、できるだけやってみます」


 村人たちの顔が明るくなる。


「ありがとう、アレンさん!」


「助かる!」


「鍬を持ってくる!」


「堆肥も運べ!」


「水路も開けるぞ!」


 村が一気に動き出した。


 さっきまで腰や膝を見てほしがっていた人たちまで、鍬を担いで畑に入っていく。


 俺も鍬を借りた。


「これ、使えますか?」


 若い村人が差し出してくれた鍬は、柄が少し古いが、刃は手入れされていた。


「十分です」


 俺は畑の端に立ち、鍬を入れた。


 ざくり。


 乾いた土が割れる。


 そこへ魔力を流す。


 作物が根を張れるように。


 水が巡るように。


 土の中の小さな命が戻るように。


 ざくり。


 ざくり。


 鍬を入れるたび、土の色が変わっていく。


 白っぽかった畑が、ゆっくり黒くなる。


 水路から流れ込んだ水が、濁らず、しみ込む。


 村人たちが目を丸くしながらも、必死に手を動かす。


「おい、見ろ! 土が柔らかい!」


「昨日まで鍬が跳ね返ってた場所だぞ!」


「水が吸われていく……!」


「これなら豆が育つぞ!」


「豆どころじゃねぇ、麦もいける!」


 歓声が上がる。


 俺は汗を拭った。


 久しぶりに、体を使って働いている。


 不思議と疲れは少ない。


 むしろ、鍬を振るたびに気持ちが落ち着いていく。


 土を耕す。


 単純な作業。


 でも、目の前で畑が変わっていくのが分かる。


 勇者パーティーの戦闘では、俺の付与がどれほど役に立っているのか分からなかった。誰にも分かってもらえなかった。


 ここでは違う。


 村人たちの顔を見れば、分かる。


 自分のしたことが、誰かの助けになっている。


「師匠」


 シルフィが畑の横から声をかけた。


「休憩を取ってください。魔力の消費が普通ではありません」


「そうか? まだ大丈夫だけど」


「大丈夫ではありません。少なくとも、普通の付与術師ならとっくに倒れています」


「俺、普通じゃないってこと?」


「今さらです」


「今さらなのか」


 シルフィは水筒を差し出してくれた。


「飲んでください」


「ありがとう」


 水を飲む。


 冷たくてうまい。


 そのとき、近くにいた村の女の子が、布袋から種を取り出した。


「アレンお兄ちゃん、これ植えていい?」


 昨日、転んだ膝を治した子だ。


 名前は確か、ミナ。


「村長さんに聞いた方がいいんじゃないか?」


「村長おじいちゃん、いい?」


 ミナが振り返ると、村長は腕を組んで頷いた。


「端の方ならよかろう。何の種だ」


「お母さんがくれた豆!」


「豆か。よし、植えてみろ」


 ミナは嬉しそうに、黒くなった土へ種をまいた。


 小さな手で土をかぶせる。


 俺は微笑ましく見ていた。


「元気に育つといいな」


 そう言って、種をまいた場所に軽く手をかざす。


 ほんの少しだけ。


 芽が出やすいように。


 鳥に食べられにくいように。


 それだけのつもりだった。


 土が光った。


「……師匠?」


 シルフィの声が固くなる。


 俺は手を止めた。


 ミナが目を丸くして土を見る。


 ぽこ。


 土が盛り上がった。


 ぽこぽこ。


 次々と小さな芽が出る。


「わあ!」


 ミナが歓声を上げた。


「芽が出た!」


「早いな」


「早いな、ではありません!」


 シルフィが叫ぶ。


 芽は止まらなかった。


 数秒で双葉になり、すぐに蔓が伸びる。支柱もないのに、蔓は空中へ向かって真っすぐ上がり、淡い緑の光を帯びた。


 村人たちが作業の手を止める。


「おい、何だあれ」


「豆……だよな?」


「豆ってあんな光るか?」


「うちの畑では光ったことない」


「うちでもない」


 シルフィがゆっくり近づく。


 その顔から血の気が引いていた。


「これは……豆ではありません」


「え、でもミナが豆って」


「種は豆だったのでしょう。ですが、師匠の付与とこの土によって性質が変化しています」


「性質が変化」


「はい。おそらくこれは、霊豆……いえ、もっと高位です。食べれば魔力回復効果があるかもしれません」


 村長が震える声で言った。


「それは、売れるのか」


「王都なら、貴族が金貨を積むでしょう」


 村人たちがどよめいた。


 俺は慌てて言う。


「いや、まだ豆ができたわけじゃないですし」


 その直後、白い花が咲いた。


 続いて、小さな鞘が実る。


 全員が黙った。


 ミナが無邪気に言う。


「豆できた!」


 できてしまった。


 シルフィは額に手を当てた。


「師匠……」


「……元気に育ったな」


「元気の範囲を超えています」


「だよな」


 さすがに俺も、これは早すぎると思った。


 けれど、畑の異変はそれだけでは終わらなかった。


 村人の一人が、古い木箱を抱えてやってきた。


「村長、せっかくだからこれも植えちまうか?」


「何だそれは」


「昔、旅の商人から買った種だ。何の種か分からん。植えても芽が出なかったから、倉にしまってた」


「何の種か分からんものを植えるな」


「でも、今なら出るかもしれねぇだろ」


 村長は眉をひそめた。


 俺も少し困った。


「何の種か分からないのは危ないかもしれませんよ。毒草とかだったら」


「それもそうか」


 村人が木箱を戻そうとしたとき、シルフィがぴくりと反応した。


「待ってください」


「どうした?」


 俺が尋ねると、彼女は木箱へ近づいた。


 箱の中には、黒く乾いた小さな種が一粒だけ入っていた。


 見た目はただの木の実の種のようだ。


 けれど、シルフィは息を呑んだ。


「これ……どこで手に入れたのですか」


「だから、昔の商人だよ。エルフの森の近くを通ったとか言ってたな」


「エルフの森……」


 シルフィは震える指で種を見つめる。


「おそらく、霊樹の種です」


「霊樹?」


「エルフの森に生える、魔力を蓄える木です。ただし、発芽には極めて特殊な条件が必要で、人間の村で育つことはまずありません」


 村長が木箱を覗き込む。


「では、植えても無駄か」


「普通なら」


 シルフィがこちらを見た。


 なぜ見る。


「師匠なら、可能かもしれません」


「いや、俺は木を育てる専門家じゃないぞ」


「先ほど豆を一瞬で霊豆にしました」


「偶然かもしれない」


「偶然が多すぎます」


 反論できない。


 村長は少し考えてから言った。


「危険はあるか」


「霊樹なら危険は少ないです。ただ、魔力を吸いすぎると周囲の作物が弱ることがあります」


「それは困るな」


「ですが、この土なら……いえ、師匠が整えたこの畑なら、共存できる可能性があります」


 村人たちが俺を見る。


 また期待の目だ。


 俺は頭をかいた。


「試すなら、畑の端じゃなくて、村の外れの空き地の方がいいかもしれません。根が広がるなら作物の近くは避けた方がいい」


「妥当です」


 シルフィが頷いた。


「師匠がまともな判断を」


「その言い方、普段まともじゃないみたいだな」


「普段は力がまともではありません」


「力だけ?」


「善処します」


「何を?」


 話しながら、俺たちは村の外れにある空き地へ向かった。


 そこは昔、果樹を植えていた場所らしい。


 今は切り株だけが残り、草もまばらだった。


「ここなら、多少大きくなっても大丈夫そうですね」


「多少で済めばいいがな」


 村長が呟く。


 俺は聞こえなかったことにした。


 シルフィが種を両手で包むように持ってくる。


 その顔は真剣だった。


「師匠。これはエルフにとって大切な系譜の種かもしれません。もし芽吹けば、リーフェル村にとっても大きな意味を持ちます」


「分かった。できるだけ丁寧にやる」


「お願いします」


 俺は小さな穴を掘り、種を置いた。


 土をかぶせる。


 水をかける。


 それから、手を当てた。


 今度は慎重に。


 さっきの豆のように、一気に成長しすぎないように。


 種が目を覚ます程度。


 根を張れる程度。


 この土地に馴染める程度。


「ゆっくりでいいから、育ってくれ」


 そう言った瞬間、地面の奥から鼓動のような音がした。


 どくん。


 全員が息を止めた。


 土が淡く光る。


 小さな芽が出た。


 そこまではいい。


 問題は、その芽が止まらなかったことだ。


 すうっと茎が伸びる。


 若葉が開く。


 幹が太くなる。


 数秒で俺の背丈を超え、さらに伸びる。


「ちょ、ちょっと待て」


 俺は慌てて手を離した。


 だが、成長は止まらない。


 幹は白銀を帯び、葉は透明感のある緑に輝く。枝先からは小さな光の粒がこぼれ、空き地全体に柔らかな香りが広がった。


 村人たちは口を開けたまま見上げている。


 村長も、門番老人も、ミナも、誰も声を出せなかった。


 シルフィだけが、震える唇で言った。


「……師匠」


「はい」


「これは霊樹ではありません」


「え」


 嫌な予感がした。


「では、何ですか」


 シルフィはゆっくり振り返った。


 その顔は、驚愕と畏怖でいっぱいだった。


「世界樹の若木です」


 沈黙。


 風が吹く。


 若木の葉が揺れ、澄んだ音を立てる。


 まるで鈴のような音だった。


「世界樹」


 俺は聞き返した。


「世界樹って、あの世界樹?」


「どの世界樹かは分かりませんが、伝説に出てくる世界樹です」


「伝説って、世界を支えるとか、エルフの聖地に一本だけあるとか、そういう?」


「はい」


「……それが、ここに?」


「はい」


「種、間違えたんじゃ」


「間違えて世界樹は生えません!」


 シルフィの声が村中に響いた。


 村長が杖を落とした。


 門番老人がそれを拾おうとして、途中で固まる。


 ミナだけが目を輝かせて若木を見上げた。


「きれい!」


 その無邪気な声で、ようやく皆が息を吹き返した。


 村長が震える声で言う。


「アレン」


「はい」


「お前さん、畑を耕しに来たのではなかったか」


「そのつもりでした」


「なぜ世界樹が生えた」


「俺にも分かりません」


「だろうな」


 村長は深く、深く息を吐いた。


「儂は今、人生で初めて腰が痛くない朝を迎えたと思ったら、村に世界樹が生えた。情報量が多すぎる」


「すみません」


「謝るな。謝られても困る」


 シルフィは若木の前に膝をついた。


 エルフにとって、それほど特別なものなのだろう。


 彼女は両手を胸の前で組み、静かに目を閉じた。


「まさか、人間の辺境村で世界樹の芽を見ることになるなんて……」


「シルフィ、大丈夫か?」


「大丈夫ではありません」


「だよな」


「ですが、幸せです」


 シルフィは目を開けた。


 その瞳に、涙が浮かんでいた。


「師匠。これは奇跡です。世界樹は土地を浄化し、水脈を整え、魔物の侵入を抑え、周囲の生命を育てます。この村は……この村は、救われるかもしれません」


 その言葉に、村人たちがざわめいた。


 救われる。


 その一言が、痩せた畑に立っていた人々の胸に染み込んでいくのが分かった。


「本当か、エルフのお嬢さん」


 門番老人が尋ねる。


「はい。ただし、世界樹の存在は外部に知られれば大きな騒ぎになります。王都、貴族、教会、エルフ領……あらゆる者がこの村に目を向けるでしょう」


 村長の顔が引き締まった。


「それは困る」


「はい。だから、隠す必要があります」


「こんな目立つ木をか?」


 門番老人が見上げる。


 若木はまだ家一軒ほどの高さだが、明らかに普通の木ではない。葉が光っている時点で隠すのは難しい。


 俺は少し考えた。


「……光を抑える付与をかけてみますか?」


 全員が一斉にこちらを見た。


 シルフィが真剣な顔で言う。


「師匠。抑えるつもりで成長させないでください」


「そんな器用な間違いはしないと思う」


「今までの流れを見る限り、不安です」


「俺も少し不安になってきた」


 正直だった。


 村長は頭を抱えたあと、決断した。


「まず、村の外にこの話を出すな。今日ここにいる者だけの秘密だ」


 村人たちが頷く。


「畑の土については、堆肥と水路の整備がうまくいったことにする。霊豆についても、しばらくは村内で食べる分だけだ。売るのはまだ早い」


「村長さん、冷静ですね」


「冷静ではない。冷静なふりをしている」


「正直ですね」


「年寄りだからな」


 村長は世界樹の若木を見上げた。


「アレン」


「はい」


「お前さん、やはりしばらくこの村にいろ」


「そのつもりです」


「違う。客人としてではない」


 村長は俺をまっすぐ見た。


「この村の者として、いてくれ」


 また、胸の奥が小さく揺れた。


 この村の者。


 たった一晩と少し前、俺は勇者パーティーを追放された。


 いらないと言われた。


 無能だと笑われた。


 二度と現れるなと背中に投げつけられた。


 その俺に、村長はここにいろと言ってくれている。


 必要だから。


 便利だから。


 そういう理由もあるのだろう。


 でも、村長の目にあったのは、それだけではなかった。


 俺は少しだけ迷い、それから頷いた。


「俺でよければ」


「それを言うなら、こちらこそだ」


 村長が手を差し出した。


 俺はその手を握る。


 硬く、温かい手だった。


 村人たちの間から拍手が起こった。


 ミナが飛び跳ねる。


「アレンお兄ちゃん、村の人になるの?」


「そう、なのかな」


「やった!」


 その笑顔を見て、俺は思わず笑った。


 シルフィも立ち上がり、静かに頭を下げる。


「師匠。この村は、あなたにふさわしい場所になるかもしれません」


「俺にふさわしいかは分からないけど」


 俺は世界樹の若木を見上げた。


「少なくとも、悪くない場所だと思う」


 風が吹いた。


 世界樹の葉が揺れ、柔らかな光の粒が畑の方へ流れていく。


 遠くで、痩せていた麦の葉が少しだけ背を伸ばした。


 誰もそれには気づかなかった。


 たぶん、気づいたらまた騒ぎになる。


 俺はそっと視線を逸らした。


「さて」


 村長が咳払いした。


「畑仕事に戻るぞ。世界樹が生えたからといって、昼飯が勝手に出てくるわけではない」


「そうですね」


「いや、師匠なら出せる可能性が」


「シルフィ、そこは否定してくれ」


「努力します」


「善処より少し強いけど、やっぱり否定はしないんだな」


 村人たちが笑った。


 俺も鍬を持ち直す。


 世界樹が生えた。


 霊豆が実った。


 畑の土が変わった。


 普通なら、そこで一日が終わってもおかしくない。


 けれどリーフェル村では、そこからまた畑仕事が始まった。


 土を起こし、水路を開き、種をまき、笑いながら汗をかく。


 俺はその輪の中にいた。


 勇者パーティーにいた頃、どれだけ働いても、俺の居場所はどこか借り物だった。


 今は違う。


 少なくとも、この畑の一角には、俺の足跡が残っている。


 そのことが、なぜかたまらなく嬉しかった。

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