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無能だと追放された底辺付与術師、実は世界で唯一の【全自動・神級バフ】持ちでした 〜辺境でスローライフを送るはずが、俺が抜けて壊滅寸前の勇者パーティーが泣きついてきてももう遅い。  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第5話 勇者パーティー、ゴブリンに苦戦する

 王都の冒険者ギルドは、朝から妙に騒がしかった。


 依頼板の前には新米冒険者たちが集まり、受付には商人や村の使いが列を作っている。酒場を兼ねた広間では、昨日の武勇伝を大声で語る者、負傷した腕を見せびらかす者、まだ眠そうに麦粥をすすっている者が入り混じっていた。


 その中央を、勇者カイルは胸を張って歩いた。


 白銀の鎧。


 腰には聖剣。


 金色の髪は乱れなく整えられ、顔にはいつもの自信に満ちた笑み。


 周囲の冒険者たちが、すぐに彼へ視線を向ける。


「勇者カイルだ」


「昨日も魔王軍の斥候を倒したらしいぞ」


「さすがだな」


 ざわめきが広がる。


 カイルは当然だという顔で、その声を受け流した。


 彼にとって、称賛は空気のようなものだった。


 そこにあるのが当たり前。


 なくなれば不快になる。


 ただ、それだけだ。


 しかし、後ろを歩く三人の表情は、カイルほど明るくなかった。


 重戦士ガレスは肩の包帯を鎧の下に隠している。歩き方もわずかにぎこちない。本人は平静を装っているが、左肩をかばっているのは明らかだった。


 魔法使いミラは眠そうというより、機嫌が悪そうだった。昨夜、何度も杖を調べたが、魔石の固定がうまく直らない。魔力の通りが鈍いままで、いつもの半分ほどしか出力が安定しなかった。


 僧侶リーナは、さらに顔色が悪い。


 彼女は何度も自分の聖印に手を触れていた。


 いつもなら、胸元にある聖印はほのかに温かかった。神殿の祝福とは違う、もっと柔らかな何かが巡っている感覚があった。


 今は冷たい。


 金属そのものの温度しかない。


 リーナは、その変化がどうしても気になっていた。


「カイル」


 彼女は小声で呼んだ。


「何だ」


 カイルは前を向いたまま答える。


「やはり今日は、休んだ方がよいのではありませんか。昨日の森での戦闘も、皆さん普段とは違いました。ガレスの肩も――」


「軽傷だ」


 ガレスが低く言った。


 だが、その声にはいつもの豪快さがなかった。


 ミラも腕を組んだまま、苛立ったように言う。


「休むって言っても、宿でじっとしてたら余計に変になるわよ。私は早く原因を確かめたい。杖の調子が悪いのが、たまたまなのかどうか」


「原因は疲労だと言った」


 カイルは冷たく言い切った。


「昨日のゴブリン程度でお前たちが動揺したから、余計に体が鈍っただけだ」


「ゴブリン程度って……」


 ミラが言い返しかける。


 カイルは足を止め、振り返った。


 その目は、すでに不機嫌だった。


「何か文句があるのか」


「……別に」


 ミラは顔を背けた。


 ここで言い争えば、カイルはさらに機嫌を悪くする。そうなれば、今日の依頼にも響く。


 少なくともミラは、まだそう考えていた。


 リーナは胸の奥で小さく息を吐く。


 違う。


 昨日の戦闘は、ただの疲労ではなかった。


 聖印の冷たさ。


 治癒の遅さ。


 詠唱の重さ。


 ガレスの鎧の破損。


 ミラの杖の不調。


 カイルの聖剣の輝きの弱さ。


 全部が同時に起きている。


 偶然にしては、不自然すぎる。


 けれど、それを口にするには、まだ勇気が足りなかった。


 そのとき、受付の女性がカイルたちに気づいた。


「勇者カイル様。おはようございます」


「ああ。昨日の報告書を提出しに来た」


 カイルは折り畳んだ紙を差し出す。


 受付嬢マリナは丁寧に受け取った。栗色の髪を後ろで束ねた、落ち着いた雰囲気の女性だ。勇者パーティーの担当受付ということもあり、カイルたちの依頼記録には詳しい。


 マリナは報告書に目を通し、少しだけ眉を動かした。


「軽微な接敵。問題なく排除……ゴブリン五体。負傷者なし、ですか」


「そうだ」


 カイルは当然のように答えた。


 リーナの肩がわずかに震える。


 負傷者なし。


 実際にはガレスの肩に傷があった。リーナが治癒したとはいえ、軽いものではなかった。


 だが、カイルはそれをなかったことにした。


「承知しました」


 マリナは表情を変えず、報告書を処理する。


「それで、本日はどうされますか?」


「依頼を受ける」


「昨日の魔王軍斥候討伐の後ですし、休養を挟まれてもよろしいかと」


「必要ない」


 カイルは即答した。


「むしろ、ちょうどいい依頼はないか。昨日、少し身体が鈍っていたようだからな。軽く慣らしておきたい」


 ミラが小さく鼻を鳴らした。


 身体が鈍っていた。


 昨日はあれほど「疲れだ」「気のせいだ」と言っていたくせに、都合よく言い換える。


 マリナは依頼板を確認し、数枚の紙を抜き取った。


「では、こちらはいかがでしょう。王都南西の農村から、ゴブリンの巣穴掃討依頼です。通常なら銅級から銀級の冒険者向けですが、巣穴が複数ある可能性があり、早期解決が望まれています」


「ゴブリンか」


 カイルの口元に笑みが浮かぶ。


 昨日の失態を上書きするには、ちょうどいい相手だった。


「いいだろう。それにする」


「ただし、数は不明です。油断はなさらないように」


「俺たちを誰だと思っている」


 カイルは依頼書を受け取った。


「勇者パーティーだぞ。ゴブリンの巣穴ごとき、昼前には片づけて戻る」


 周囲にいた冒険者たちが感嘆の声を漏らす。


「さすが勇者様だ」


「ゴブリンの巣穴なんて一瞬だろ」


「俺たちなら三日はかかるな」


 称賛を浴びながら、カイルは満足げに歩き出した。


 リーナはマリナに小さく頭を下げる。


 そのとき、マリナが静かに言った。


「リーナ様」


「はい」


「どうか、お気をつけて」


 ただの挨拶。


 そう聞こえる言葉だった。


 けれど、リーナにはその奥に別の意味があるように感じられた。


 彼女は小さく頷いた。


「……はい」


     ◇


 王都南西の農村までは、馬車で半日ほどだった。


 だが、勇者パーティーは馬車を使わなかった。


 カイルが「徒歩で十分だ」と言ったからだ。


 いつもなら、それでも問題はなかった。


 カイルたちは長距離移動に慣れている。ガレスは重鎧を着たままでも平然と歩き、ミラは魔力で体温を調整し、リーナは疲労を抑える祈りを唱える。


 そして、アレンがいた頃は、全員の足取りが自然と軽かった。


 荷物の重さは気にならず、靴擦れもしにくく、疲れもたまりにくい。途中で水を飲めば体がすぐに回復し、軽食を取れば午後まで動けた。


 それが当たり前だと思っていた。


 今は違う。


「……暑い」


 ミラが額の汗を拭った。


「まだ朝だぞ」


 ガレスが言う。


「分かってるわよ。でも暑いの。ローブが重いし、杖も重いし、何なのよ今日は」


「文句が多いな」


「あなたこそ息が上がってるじゃない」


「上がってねぇ」


「上がってるわよ」


 ガレスは反論しようとしたが、その瞬間、肩に痛みが走った。


「ぐっ」


「ほら」


「肩だ。息じゃねぇ」


「似たようなものよ」


「似てねぇだろ」


 二人のやり取りは、いつもの軽口に似ていた。


 だが、空気は違う。


 以前なら笑って済んだ。今は互いの苛立ちがそのまま言葉に乗っている。


 カイルは先頭で舌打ちした。


「情けない。アレンがいなくなった途端、荷物一つで音を上げるのか」


 ミラの顔が引きつった。


「今、アレンって言った?」


「言ったら何だ」


「いなくなった途端って、あなたも分かってるんじゃないの?」


 カイルが足を止める。


 リーナは思わず二人の間に入ろうとした。


 だが、カイルは冷たく笑っただけだった。


「分かっているとも。あいつがどれほど空気を悪くしていたかがな。昨日から全員、あいつの辛気臭さを引きずっている」


「本当にそう思ってるの?」


「他に何がある」


「……もういい」


 ミラは目を逸らした。


 言っても無駄だ。


 そう判断した顔だった。


 リーナは胸が痛んだ。


 アレンがいた頃、移動中にこんな空気になることは少なかった。


 カイルが苛立てば、アレンがさりげなく別の話題を出した。ガレスが疲れてくると、歩幅を合わせるように休憩を提案した。ミラが機嫌を悪くすると、酸味のある干し果物を渡していた。リーナが足を痛めたときは、誰にも気づかれないように靴紐を直してくれた。


 全部、些細なことだ。


 でも、その些細なことが今はない。


 ないだけで、旅はこんなにも荒れるのか。


「アレンさん……」


 小さく漏れた呟きに、カイルが振り返った。


「リーナ」


 その声に、リーナの背筋が冷える。


「次にあいつの名前を無意味に出したら、置いていくぞ」


「……申し訳ありません」


「分かればいい」


 カイルは再び歩き出した。


 リーナは唇を噛む。


 違う。


 自分が謝ることではない。


 そう思った。


 けれど、言葉にはできなかった。


     ◇


 ゴブリンの巣穴は、農村から少し離れた岩場にあった。


 入り口は小さく見えるが、奥は横に広がっているらしい。周囲には粗末な罠がいくつか仕掛けられていた。細い縄、落とし穴、鳴子。新米冒険者なら引っかかるかもしれないが、熟練者なら見抜ける程度のものだ。


 以前の勇者パーティーなら、アレンが最初にそれらを見つけていた。


 今は誰も気づかなかった。


「突入する」


 カイルが聖剣を抜く。


「待ってください」


 リーナが慌てて声をかけた。


「入口に罠があるかもしれません。確認を――」


「ゴブリンの罠など、踏み潰せばいい」


 カイルはそのまま進んだ。


 次の瞬間、足元の縄が切れた。


 がらがら、と横から石が落ちてくる。


「ちっ!」


 カイルは聖剣で石を弾いた。


 一つ、二つ、三つ。


 だが、最後の一つが肩に当たる。


「ぐっ……!」


「カイル!」


 リーナが駆け寄る。


「問題ない!」


 カイルは怒鳴った。


 けれど、肩の鎧にはへこみができていた。


 ミラが呆れたように言う。


「だから確認しようって言ったのに」


「黙れ。こんなもの罠にも入らん」


「当たってたじゃない」


「黙れと言った!」


 空気がまた刺々しくなる。


 ガレスが大盾を構えた。


「もういい。俺が前に出る」


「肩は大丈夫ですか?」


 リーナが尋ねる。


「動く。問題ねぇ」


 ガレスはそう言ったが、左肩の動きは明らかに悪い。


 それでも彼は前に出た。


 巣穴の中は薄暗く、湿った臭いがした。


 ゴブリン特有の獣臭。


 腐った食料。


 土。


 煙。


 混ざり合った嫌な臭気が鼻を突く。


「うっ……」


 ミラが顔をしかめた。


「臭い」


「巣穴だからな」


 ガレスが言う。


「アレンがいたら、消臭の香草を焚いてたわね」


 ミラは無意識にそう言った。


 しまった、という顔をしたが遅い。


 カイルの背中がぴくりと動いた。


「またその名か」


「今のは別に、そういう意味じゃ」


「もういい。お前たちは黙って俺に続け」


 カイルは苛立ちを隠さず歩き出した。


 リーナは不安げに周囲を見る。


 洞窟の壁には、ひっかき傷が多い。


 巣穴にしては広い。


 ゴブリンだけではないかもしれない。


 そう思ったとき、奥から甲高い鳴き声が響いた。


「ギギッ!」


「来るぞ!」


 ガレスが盾を構える。


 暗がりからゴブリンが飛び出してきた。


 三匹。


 続いて二匹。


 さらに奥に影がある。


 数は十を超えるかもしれない。


「まとめて片づける!」


 カイルが踏み込んだ。


 聖剣が振るわれる。


 一匹目のゴブリンは倒れた。


 だが、以前なら一振りで三匹を吹き飛ばしていた斬撃が、今は一匹で止まった。


「ちっ!」


 カイルは二撃目を放つ。


 その間に、別のゴブリンが横から迫った。


「カイル、右!」


 リーナが叫ぶ。


 ガレスが盾で割り込もうとした。


 だが、足が遅い。


 盾が間に合わない。


 ゴブリンの錆びた短剣が、カイルの腕をかすめた。


「ぐっ!」


「勇者がゴブリンに傷を!?」


 ミラが思わず叫ぶ。


「叫ぶな! 焼け!」


「分かってるわよ!」


 ミラは杖を構えた。


「《炎よ、牙となりて群れを穿て――炎牙連弾》!」


 赤い魔法陣が浮かぶ。


 だが、魔法陣の縁が歪んだ。


 放たれた炎の弾は、数が少ない。しかも軌道が不安定で、二発は壁に当たって消えた。


「嘘でしょ!」


 ミラの顔から血の気が引く。


 以前なら、この程度の魔法は片手間だった。


 詠唱すれば、火力も軌道も自然に整った。


 今は違う。


 自分で制御しなければならない部分が多すぎる。


 まるで、今まで誰かが見えないところで補助輪をつけてくれていたみたいに。


「ミラ、集中しろ!」


「してるわよ!」


「足りん!」


「あなたに言われたくない!」


 言い争う二人の隙に、ゴブリンの一匹がリーナへ向かった。


「きゃっ!」


 リーナは杖で受けようとしたが、間に合わない。


 棍棒が腕に当たる。


 鈍い痛み。


「リーナ!」


 ガレスが叫ぶ。


 彼は無理に体をひねり、盾でゴブリンを吹き飛ばした。


 その瞬間、左肩に激痛が走る。


「ぐあっ!」


 ガレスの膝が落ちた。


 肩当てが完全に外れ、包帯に血が滲む。


「ガレスさん!」


 リーナは自分の痛みを無視して治癒を唱えようとした。


「《癒やしの光よ、傷を――》」


 詠唱が震える。


 魔力が重い。


 光は出た。


 だが、薄い。


 傷口は塞がらない。


「どうして……!」


 リーナの目に涙が滲む。


 彼女は神殿でも優秀な僧侶だった。


 軽傷なら一瞬で塞げた。重傷でも、処置を施せば命を繋げた。


 それなのに今は、ガレスの出血を抑えるだけで精一杯だった。


「リーナ! 回復はまだか!」


 カイルが怒鳴る。


「やっています!」


「遅い!」


 その一言に、リーナの胸が刺されたように痛んだ。


 遅い。


 昨日も言われた。


 けれど、本当に遅いのは自分だけなのか。


 カイルの剣も。


 ミラの魔法も。


 ガレスの動きも。


 全部が遅い。


 全部が弱い。


 今までの自分たちは、一体何だったのか。


「まさか……」


 リーナの脳裏に、またアレンの顔が浮かんだ。


 彼はいつも、治癒の前に言っていた。


「リーナ、少しだけ魔力の流れを整えておくよ」


 リーナはそれを、優しさだと思っていた。


 実際には大した効果はないけれど、自分を安心させるために言ってくれているのだと。


 違ったのだろうか。


 あれは本当に、彼女の魔力を整えていたのではないか。


「リーナ! ぼさっとするな!」


 カイルの怒声で、意識が引き戻される。


 ゴブリンの数は減っていない。


 それどころか奥からさらに現れている。


 ガレスは傷を負い、ミラは魔力制御が乱れ、カイルも浅い傷をいくつも負っていた。


 勇者パーティー。


 その名が、洞窟の暗がりの中でひどく空虚に響く。


「一度、下がりましょう!」


 リーナは叫んだ。


「態勢を整えてから――」


「退く?」


 カイルが振り返る。


 その顔は怒りで赤くなっていた。


「勇者である俺が、ゴブリン相手に退くというのか!」


「このままでは危険です!」


「黙れ!」


 カイルは聖剣を両手で握った。


「《聖光斬》!」


 白い光が洞窟を照らす。


 確かに強い一撃だった。


 前方のゴブリン三匹を吹き飛ばす。


 だが、それで終わりだった。


 以前なら、通路全体を光が貫き、巣穴の奥まで敵を一掃していたはずの技。


 今は、三匹。


 それだけ。


 カイル自身も息を切らし、膝をつきかけた。


 ミラが愕然と呟く。


「嘘……聖光斬って、こんなに弱かった?」


「弱くない!」


 カイルが怒鳴る。


「今のは、この洞窟の瘴気が濃いだけだ!」


「ゴブリンの巣穴よ!?」


「黙れ!」


 奥から、大きな影が現れた。


 普通のゴブリンより頭二つ分ほど大きい。


 棍棒ではなく、錆びた大剣を持っている。


 ゴブリンリーダー。


 新米冒険者なら確かに脅威だが、勇者パーティーが恐れる相手ではない。


 そのはずだった。


「グギャアアア!」


 咆哮が洞窟に反響する。


 ガレスが歯を食いしばり、盾を構えた。


「まずいぞ、カイル」


「何がまずい」


「この状態であいつは、ちと重い」


「腰抜けが」


 カイルは聖剣を構える。


 だが、手がわずかに震えていた。


 リーナには見えた。


 カイルも怖いのだ。


 認めたくないだけで。


「カイル、撤退を!」


「黙れと言っている!」


 ゴブリンリーダーが突進した。


 大剣が振り下ろされる。


 ガレスが盾で受ける。


 轟音。


「ぐっ、おおおお!」


 ガレスの足が地面にめり込む。


 以前なら受け流せた。


 あるいは押し返せた。


 しかし今は、全身が軋む。


 肩の傷が開く。


 膝が震える。


「ミラ!」


「分かってる!」


 ミラが魔法を放つ。


 炎がゴブリンリーダーの顔をかすめた。


 直撃しない。


 ミラの集中が切れかけている。


「もう、何で当たらないのよ!」


「お前の腕が落ちたんだろう!」


「今それ言う!?」


 カイルは横から斬りかかる。


 聖剣はゴブリンリーダーの腕を浅く裂いた。


 だが、深くは入らない。


 ゴブリンリーダーが暴れ、大剣を横薙ぎに振った。


 カイルの鎧に直撃する。


「がはっ!」


 カイルの体が吹き飛んだ。


 洞窟の壁に叩きつけられ、聖剣が手から滑り落ちる。


 時間が止まったようになった。


「カイル!」


 リーナが悲鳴を上げる。


 勇者カイルが、ゴブリンリーダーに吹き飛ばされた。


 それは、あってはならない光景だった。


 ミラの顔が真っ青になる。


 ガレスが唸る。


「くそっ……リーナ、カイルを拾え! 撤退だ!」


「でも!」


「撤退だって言ってんだろ! 死ぬぞ!」


 ガレスの怒鳴り声で、リーナは動いた。


 カイルに駆け寄り、治癒をかける。


 骨は折れていない。


 だが、衝撃で呼吸が乱れている。


「カイル、立てますか!」


「……俺は……勇者だ……」


「今は立ってください!」


 リーナは初めて、カイルに強い声を出した。


 カイルが目を見開く。


 その隙に、ガレスが大盾で通路を塞ぎ、ミラが煙幕代わりの炎を放った。


「走って!」


 ミラが叫ぶ。


 四人は洞窟から逃げ出した。


 背後でゴブリンたちの声が響く。


 追ってくる。


 ガレスが最後尾で盾を構えながら走る。


 ミラは何度も小さな炎を放って牽制する。


 リーナはカイルの腕を肩に回し、必死に支えた。


 カイルは何も言わなかった。


 いや、言えなかった。


 ゴブリンの巣穴から逃げている。


 勇者である自分が。


 昨日までなら鼻で笑っていた相手から。


 その現実が、彼の喉を塞いでいた。


     ◇


 農村に戻ったとき、四人は泥だらけだった。


 カイルの鎧には傷。


 ガレスの肩には血。


 ミラの髪は乱れ、ローブの裾は破れている。


 リーナの腕にも青あざができていた。


 村人たちは最初、勇者パーティーが凱旋してきたのだと思った。


 だが、すぐに様子がおかしいことに気づく。


「勇者様……?」


「討伐は終わったのですか?」


 カイルは答えなかった。


 ガレスが苦い顔で言う。


「巣穴が思ったより広い。今日は一度、態勢を整える」


 村人たちの表情に不安が広がる。


「まだゴブリンは残っているのですか?」


「夜に襲ってきませんか?」


「王都から応援を呼んだ方がいいのでは……」


 カイルが顔を上げた。


「黙れ」


 低い声だった。


 村人たちが怯えて後ずさる。


「俺たちは勇者パーティーだ。たかがゴブリンごとき、明日には必ず殲滅する」


 その言葉は勇ましかった。


 けれど、誰も歓声を上げなかった。


 カイルの額には汗が浮かび、息は乱れ、鎧は泥で汚れている。


 それが答えだった。


 リーナは村人たちに向き直り、頭を下げた。


「申し訳ありません。今夜は村の防備を固めてください。私たちも見張りに加わります」


「リーナ!」


 カイルが怒鳴る。


「余計なことを言うな!」


「余計ではありません」


 リーナは震える声で、それでも言った。


「危険は残っています。村の方々に知らせるべきです」


 カイルの目が怒りに燃える。


 だが、今の彼にはリーナを黙らせるだけの余裕がなかった。


 ガレスが疲れた声で言う。


「カイル。今はやめとけ。俺も肩が限界だ」


「……くそっ」


 カイルは歯を食いしばった。


 その夜、勇者パーティーは農村の小屋を借りた。


 出された食事は、硬いパンと野菜の煮込みだった。


 以前なら、アレンが少し手を加えただろう。


 塩加減を整え、香草を入れ、疲労回復の付与をそっと混ぜた。食べれば体が温まり、翌朝には動けるようになる。


 今は違う。


 食べても体は重いまま。


 味もしない。


 カイルはパンを机に叩きつけた。


「なぜだ」


 誰も答えない。


「なぜ、こんなことになる!」


 ミラは黙っていた。


 ガレスも、リーナも。


 やがてミラがぽつりと言った。


「ねえ」


「何だ」


「アレンがいた頃、私の魔法って、こんなに制御しづらかった?」


 カイルが睨む。


 ミラは続けた。


「笑いたければ笑えばいいわ。でも、今日ずっと感じてた。詠唱が重い。魔力が散る。狙いがぶれる。今まで、私が自分の実力だと思ってたものの中に、何か別の補助があったみたいに」


「ミラ……」


 リーナが顔を上げる。


 ガレスも、低く言った。


「俺もだ。盾が重い。踏ん張れねぇ。肩の件だけじゃない。昨日からずっと、体の芯に力が入らん」


「あなたたちまで……」


 カイルの声が震えた。


 怒りか。


 焦りか。


 あるいは、恐れか。


 リーナは勇気を振り絞った。


「カイル。私も同じです。治癒が遅い。魔力が整わない。以前は、もっと自然に流れていました」


「だから何だ」


「アレンさんが、私たちを支えていた可能性があります」


 ついに言った。


 言ってしまった。


 小屋の中が凍りつく。


 カイルはゆっくり立ち上がった。


「もう一度言ってみろ」


 リーナは怖かった。


 でも、目を逸らさなかった。


「アレンさんが、私たちを支えていた可能性があります」


「馬鹿な」


「馬鹿なことではありません。あの方はいつも、戦闘前に私たちの装備を確認し、魔力の流れを見て、食事や休息まで整えてくれていました。私たちは、それを当たり前だと思っていました」


「雑用だろうが!」


 カイルが机を叩いた。


「そんなもの、誰でもできる!」


「では、なぜ誰も同じようにできないのですか!」


 リーナの声が響いた。


 自分でも驚くほど強い声だった。


 カイルが言葉を失う。


 リーナの目には涙が滲んでいた。


「昨日から、私たちは何一つ同じようにできていません。食事も、移動も、戦闘も、回復も、連携も。全部、崩れています」


「それは……」


「アレンさんは、弱い付与術師などではなかったのかもしれません。私たちが、見ようとしなかっただけで」


 沈黙。


 ガレスは何も言わない。


 ミラも視線を落としている。


 カイルだけが、拳を震わせていた。


「認めない」


 彼は絞り出すように言った。


「俺は認めない。あいつは無能だ。俺がそう判断した。勇者である俺が、そう判断したんだ」


「カイル……」


「明日だ」


 カイルは顔を上げた。


 その目には、理屈ではない意地が燃えていた。


「明日、ゴブリンの巣穴を潰す。そうすれば分かる。今日の失敗は偶然だったと。アレンなどいなくても、俺たちは最強だと」


 誰も賛同しなかった。


 それでもカイルは、賛同を求めるような目ではなかった。


 彼はすでに、自分自身に言い聞かせている。


 アレンは無能だった。


 追放は正しかった。


 自分は間違っていない。


 その三つが崩れた瞬間、勇者カイルという人間の足元も崩れる。


 だから彼は、認められない。


 リーナは静かに目を伏せた。


 胸元の聖印は、やはり冷たいままだった。


     ◇


 その頃、遠く離れたリーフェル村では、アレンが納屋の前でくしゃみをしていた。


「へっくしゅ」


「師匠、風邪ですか?」


 隣で薬草茶を持っていたシルフィが、真剣な顔で覗き込む。


「いや、誰かが噂でもしてるのかも」


「それはあり得ます」


「冗談のつもりだったんだけど」


「師匠を追放した方々が、今頃ようやく価値に気づき始めている可能性は高いです」


「いやいや、さすがにないだろ。カイルたちは強いし」


「師匠」


「何?」


「その自己評価と他者評価のずれは、早急に矯正すべきです」


「弟子になった途端、厳しくない?」


「弟子だからこそです」


 シルフィはきっぱり言った。


 その足元では、角兎が丸くなって眠っている。


 額の角は、なぜか昨日よりさらに艶を増していた。


 アレンはそれを見て、首を傾げる。


「こいつ、元気になったな」


「進化しかけています」


「薬草が効いたんだな」


「師匠」


「はい」


「薬草に謝ってください」


 シルフィの真顔に、アレンは困ったように笑った。


 彼はまだ知らない。


 自分が抜けた勇者パーティーが、ゴブリンの巣穴から敗走しかけていることを。


 彼らが焦げた食事と冷たい聖印を前に、ようやく失ったものの大きさを疑い始めていることを。


 そして、自分がただ穏やかに暮らそうとしているだけで、リーフェル村の夜が少しずつ安全になり、空気が温かくなっていることを。


 追放された底辺付与術師の新しい生活は、本人の自覚だけを置き去りにして、静かに世界を変え始めていた。

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