第58話 アレン、安全な協力案を考える
翌朝、俺は資料を読まなかった。
正確に言うと、読ませてもらえなかった。
朝食の席で、俺がちらちらと村長の家の書類棚の方を見るたびに、マルタさんが木匙を握ったままこちらを見た。
「アレン」
「はい」
「目が棚に行ってるよ」
「……見てません」
「見てるね」
「少しだけ」
「少しだけ、が一番危ないんだよ」
そう言って、マルタさんは俺の椀に豆の汁を足した。
「まず食べる。昨日あれだけ重い資料を読んだんだから、今日は体を普通に戻すところからだよ」
「でも、九歳の子の資料が」
「だからこそだよ」
マルタさんは、ぴしゃりと言った。
「寝不足で、腹が空いてて、頭の中がその子のことでいっぱいのまま考えた案なんて、ろくなもんじゃない。善意が熱を出してる時は、飯で冷ますんだ」
善意が熱を出している。
また変な言葉が出た。
でも、妙に分かる。
俺の中の「助けたい」は、たしかに昨日から熱っぽかった。
九歳。
眠れない。
発熱。
記憶欠落。
その言葉が、頭の中をぐるぐる回っていた。
シルフィも椀を持ったまま、静かに言った。
「師匠。私も昨日、夜にもう一度資料を読みたいと思いました」
「シルフィも?」
「はい。でも読みませんでした。読んだら、たぶん自分の過去と重ねすぎて、冷静でいられなくなると思ったからです」
「……そっか」
「今日は、手順を作りましょう。助けるかどうかを決める日ではなく、安全に考える手順を作る日です」
村長が頷いた。
「よい。今日はそれだ」
俺は椀の中を見つめた。
豆と根菜の汁。
いつもの味。
それを口に入れると、少しだけ体が地面に戻ってくる。
九歳の子を助けたい。
その気持ちは消えない。
でも、俺が熱っぽく走り出せば、きっと危ない。
昨日、外部対応広場に立てられた板が頭に浮かんだ。
『読んだ直後に決めない』
『三重四角あり』
今日は、まだその続きだ。
◇
朝食後、外部対応広場で「安全な協力案を考える会」が開かれた。
名前は村長がつけた。
そのまますぎる。
でも、分かりやすい。
机の上には、三件の症例資料の写しが置かれている。
その横に、シルフィの記録板。
さらに、ぷる太の丸、バツ、四角。
今日は、ぷる太が机の中央に近い位置にいた。
見張り桶ではなく、小さな水鉢である。
理由は、ミナいわく「今日は強い四角が必要だから」。
ミナ自身は外で薬草干しの手伝いをしているが、時々こちらを見ている。
完全に聞く気だ。
村長は資料を前にして言った。
「まず確認する。直接治療はしない」
ぷる太が丸へ寄った。
「ぷる」
「リーフェン家へ滞在もしない」
「ぷる」
また丸。
「アレン一人で判断しない」
「ぷる」
三つ目の丸。
ここまでは、村全体の合意だった。
俺も頷く。
「はい。直接は危ないです」
「では、何ができるかだ」
村長が俺を見る。
「昨日、アレンは布や木片と言ったな」
「はい」
「改めて、冷えた頭で説明してみろ」
冷えた頭。
そう言われて、俺は少し苦笑した。
でも、昨日よりは少し落ち着いていた。
「直接その子に付与するのは、俺にも相手にも危ないと思います。魔力回路がどう反応するか分からないし、もし合わなかった時に止められないかもしれない」
「うん」
マルタさんが頷く。
「でも、身につける布や、枕元に置く木片に、ごく弱い安定付与をするなら、直接触れるよりは安全かもしれません」
「安定付与とは何ですか」
シルフィが記録係の顔で尋ねる。
こういう時の彼女は、遠慮がない。
それがありがたい。
「ええと……魔力を増やすんじゃなくて、周りの魔力の流れを荒れにくくする感じです。強くするんじゃなくて、ざわつきを減らす」
「対象者の魔力回路へ直接干渉するのではなく、周辺環境を穏やかにする?」
「たぶん、それに近いです」
「たぶん、は記録します」
「はい」
シルフィは書く。
『師匠案。直接施術ではなく、布・木片などへの低出力安定付与。目的は魔力増幅ではなく、周辺魔力のざわつきを減らすこと。ただし、師匠自身の理解はまだ不完全』
かなり正確だった。
そして少し恥ずかしい。
門番老人が顎に手を当てる。
「火の近くに水桶を置くようなものか」
「え?」
「火そのものを消すのではなく、燃え広がらぬよう周りを湿らせる」
俺は少し考えた。
「近いかもしれません。ただ、水をかけすぎたら火が消えるので、湿らせすぎても駄目だと思います」
「なるほど」
村長が頷いた。
「では、強すぎる付与はバツだな」
「ぷるっ」
ぷる太がバツに乗った。
ものすごく早い。
やはり、ぷる太は強すぎる付与に厳しい。
「ぷる太、まだ試してないよ」
「ぷる」
「試す前からバツ?」
「ぷるっ」
マルタさんが笑った。
「強すぎるのは駄目ってことだよ」
「はい」
俺は素直に頷いた。
◇
最初に考えたのは、布だった。
布なら軽い。
肌に直接当てなくても使える。
枕元に置いたり、掛け布の端に縫い込んだりできる。
合わなければ、すぐ離せる。
俺は、マルタさんが用意してくれた未使用の白い布を机の上に広げた。
村で普通に使う、丈夫な布だ。
「これに付与します」
言った瞬間、村長が咳払いした。
「今日は試作品を完成させる日ではない」
「分かっています」
「本当に分かっているか」
「……まず、ごく弱く試すだけです」
「試すだけ、も危ない言葉だ」
ぷる太が四角へ寄る。
「ぷる」
シルフィも記録板から顔を上げた。
「師匠。試す前に、試験条件を決めましょう」
「試験条件」
「はい。何を確認したら丸か。何が出たらバツか。誰が止めるか。どこまでやったら今日は終わりか」
なるほど。
先に線を引く。
線がない善意は流される。
昨日、村長が言っていた。
「分かりました」
俺は布から手を離した。
「まず条件を決めます」
村長が満足そうに頷いた。
「よい」
条件は、みんなで決めた。
一つ。
対象は人ではなく布。
二つ。
付与は最弱から。
三つ。
一回ごとにぷる太、シルフィ、村長が確認。
四つ。
布に触れて体調が変わるかは、今日は試さない。
五つ。
光ったり、温かくなりすぎたり、周囲の水や薬草に変化が出たら即中止。
六つ。
今日作るのは完成品ではなく、ただの観察用試験片。
マルタさんが七つ目を追加した。
「夕飯前に終わること」
「それも条件ですか?」
「当たり前だよ。夕飯を押してまでやる実験は、だいたい危ない」
ぷる太が丸へ寄った。
「ぷる」
「ぷる太も同意か」
俺は苦笑した。
シルフィは真面目に記録している。
『試験条件七。夕飯前に終了。ぷる太丸』
この記録、後で王都側に見せるのだろうか。
少し不安になった。
◇
条件が整ってから、俺は改めて布に手を置いた。
深く息を吸う。
強くしない。
治そうとしない。
変えようとしない。
ただ、周りの魔力のざわつきを少しだけならす。
荒れた水面に、そっと手をかざすように。
風を止めるのではなく、強すぎる風を少し弱めるように。
俺は、ごく弱く付与を流した。
布が一瞬、淡く光った。
「ぷるっ!」
ぷる太がバツに乗った。
「早い!」
俺は慌てて手を離した。
シルフィが布を見て、すぐに記録する。
「光が強すぎました。周辺魔力も一瞬、集まりました」
「そんなに?」
「はい。師匠の『ごく弱く』は、まだ普通より強いです」
マルタさんが腕を組む。
「アレン基準の弱いは信用ならないね」
「自覚はあります」
村長が言った。
「一回目はバツ。理由は強すぎる」
「はい」
俺は少し落ち込んだ。
ごく弱くしたつもりだったのに。
でも、最初に布で試してよかった。
これを子供のそばへ送っていたら、どうなっていたか分からない。
ぷる太のバツは正しい。
「もう一度やってもいいですか」
「すぐには駄目だ」
村長が言った。
「まず、何が強かったか言葉にしろ」
「ええと……周りを落ち着かせるつもりだったのに、魔力を集めてしまった?」
シルフィが頷く。
「はい。安定ではなく、中心へ引き寄せる力が出ていました。魔力回路が不安定な人には負担になる可能性があります」
「危ないですね」
「はい」
俺は布を見た。
何も考えずに「安定」と思っただけでは駄目だ。
安定させようとして、逆に魔力を集めてしまう。
俺の付与は、やっぱり扱いが難しい。
「なら、集めないようにする」
俺が言うと、シルフィがすぐに聞いた。
「どうやって?」
「……分かりません」
「では四角です」
「はい」
ぷる太が四角へ移る。
四角は便利だ。
分からないと言える。
昔の俺なら、分からないまま何とかしようとしていた。
今は違う。
分からないなら、止まる。
◇
二回目の試験は、かなり時間を置いてからになった。
その間に、シルフィが布の付与状態を観察し、村長が水桶を用意し、マルタさんが俺に干し果物を食べさせた。
「糖分」
「実験中に?」
「頭を使うなら必要だよ」
確かに、少し落ち着いた。
二回目は、布ではなく小さな木片を使うことにした。
理由は、布より魔力が広がりにくいかもしれないから。
木片は、ぷる太の四角と同じ材だ。
村の倉庫にある、乾いた柔らかい木。
俺はそれを手に取り、今度は別のイメージをした。
魔力を集めるのではない。
散らすのでもない。
置いておく。
静かな石のように。
周りが少しざわついても、自分は動かず、ただそこにある。
魔力の流れを引き寄せない。
押し返さない。
ただ、波を少しだけ弱める。
ほんの少し。
本当に、ほんの少し。
木片が、ほとんど見えないくらい淡く光った。
ぷる太は、今度はすぐにバツへ行かなかった。
じっと木片を見ている。
シルフィも目を閉じて魔力の流れを確かめる。
村長は黙って待つ。
俺は手を離した。
「……どうですか」
ぷる太は少し揺れた。
バツには行かない。
丸にも行かない。
ゆっくり、四角へ寄った。
「ぷる」
シルフィも頷く。
「四角です。強くはありません。ただ、安定というより、周囲の魔力を遅くする感じがあります」
「遅くする?」
「はい。流れを緩める。眠れない子には良い可能性もありますが、逆に魔力が滞る人には合わないかもしれません」
「なるほど……」
十一歳の少女は胸や喉に魔力滞留があると書かれていた。
その子には危ないかもしれない。
九歳の子は魔力逆流がある。
合うかもしれないが、分からない。
十三歳の少年は右腕側の損傷。
また違う。
一つの付与で全員に効くわけではなさそうだ。
「万能じゃないですね」
俺が言うと、マルタさんが笑った。
「万能じゃない方がいいよ」
「そうですか?」
「万能だと思った瞬間、人は雑になるからね」
その言葉は重かった。
万能じゃない。
だから、症例ごとに見る。
だから、弱く試す。
だから、無理に広げない。
「二回目は観察用として保留」
村長が言った。
「今日はここで止めるか?」
俺は木片を見た。
もう少し試したい気持ちはある。
でも、それは危ない。
夕飯前に終わる条件もある。
「止めます」
そう言うと、ぷる太が丸へ寄った。
「ぷる」
マルタさんも満足そうに頷いた。
「よし。止められる実験はいい実験だよ」
俺は少しだけ嬉しかった。
何かを作れたことより、止められたことを褒められる。
リーフェル村らしい。
◇
午後、クラウディアさんとマリナさん宛てに報告を書くことになった。
シルフィが主文を作り、俺が試験時の感覚を説明し、村長が余計な約束につながらないよう確認する。
マルタさんは横から「読んで胃が痛くならない言葉にしな」と何度も言った。
文面は、こうなった。
『リーフェル村では、症例資料受領後、直接治療やアレン本人の移動を前提としない安全な遠隔支援の可能性を検討中です』
『現時点で、試験は物品への低出力付与の観察に留めています。治療具としての完成品ではありません』
『一回目の布試験では魔力集中が強く、危険性ありとして中止。二回目の木片試験では弱い魔力緩和反応を確認したが、症例ごとの適合性は不明。継続検討』
『本件は、協力同意ではなく安全性検討です』
最後の一文は、村長が必ず入れろと言った。
シルフィも強く頷いた。
「『安全性検討』は大事です。リーフェン家へ伝える場合も、この言葉を軸にしましょう」
「協力じゃなくて検討」
俺が言うと、ぷる太が丸へ寄る。
「ぷる」
マルタさんが笑った。
「ぷる太も覚えたね」
「ぷるる」
ぷる太は得意げだ。
◇
夕方、試験に使った木片は外部対応広場の机に置かれた。
完成品ではない。
観察用試験片。
その札をシルフィがつける。
布の方には、赤い札。
『一回目試験片。強すぎ。使用禁止』
かなり分かりやすい。
「強すぎ、ってそのまま書くんだ」
「はい。分かりやすさ優先です」
ぷる太は赤い札を見て、バツの木片へ寄った。
完全に同意している。
俺は苦笑しながら、試験片を見つめた。
今日は、誰も助けていない。
九歳の子の熱を下げたわけでもない。
十一歳の子の呼吸を楽にしたわけでもない。
十三歳の少年の右手の痛みを取ったわけでもない。
でも、危ない一歩を踏み出さずに済んだ。
安全な形を考え始めた。
それは、たぶん必要な一歩だ。
シルフィが隣に立つ。
「師匠」
「うん」
「今日は、よい検討でした」
「何もできてない気もする」
「いいえ」
彼女は首を横に振った。
「一回目の危険を見つけました。二回目の可能性を見つけました。そして、止められました」
「止められたことも成果?」
「はい。大きな成果です」
村長も近くで聞いていて、頷いた。
「助ける力より、止まる力の方が大事な時もある」
「はい」
俺は、その言葉を胸にしまった。
◇
その夜、外部対応広場の板がまた増えた。
『試す前に条件』
短い。
でも、今日一日の全てが詰まっていた。
ミナがその板を読み上げる。
「試す前に条件!」
ぷる太が丸へ寄る。
「ぷる」
「アレンお兄ちゃん、分かった?」
「分かった」
「本当?」
「本当」
「少しなら試す、は?」
ぷる太がバツへ飛ぶ。
「ぷるっ!」
「バツだね!」
「はい」
もう逆らえない。
村中に教育されている気がする。
でも、それでいい。
俺一人では、きっと走ってしまうから。
夜、布団に入る前に、俺は三件の資料をもう一度見た。
今度は、一人ではない。
シルフィと一緒に、短く確認しただけだ。
九歳の子の欄を見ても、昨日ほど胸が熱く走り出す感じはなかった。
もちろん、助けたい気持ちはある。
でも、その隣に別の言葉がある。
安全に。
弱く。
直接ではなく。
条件を決めて。
村で相談して。
「助けたい四角」
俺が呟くと、シルフィが頷いた。
「はい。助けたい四角です」
まだ答えは出ていない。
でも、助けることと守ることを両方捨てない道が、ほんの少しだけ見え始めていた。




