第57話 症例資料、村に届く
リーフェン家からの症例資料が届いたのは、会議記録共有会から三日後の午後だった。
その日は朝から風が弱く、リーフェル村には妙に穏やかな空気が流れていた。
畑では冬支度前の薬草区画を整理していて、マルタさんは保存棚の奥に残っていた干し豆の数を数えていた。シルフィは外部対応広場の机で、会議記録の村人向け要約版を書き直していた。
俺は、ぷる太と一緒に井戸周りの石組みを確認していた。
ぷる太が最近、井戸の石の隙間に生える苔を気にするようになったからだ。
「ここ?」
「ぷる」
「この苔、悪いものじゃないと思うけど」
「ぷる……」
「気になる?」
「ぷる」
ぷる太は、丸でもバツでもない微妙な揺れ方をする。
俺は笑って、苔の周りに指を当てた。
「じゃあ、取らずに様子見。四角かな」
「ぷる」
ぷる太は納得したように四角の木片へ寄った。
井戸の苔ひとつにも四角を使うようになったのだから、リーフェル村の生活はかなり変わったのだと思う。
そんな時だった。
門番老人が外部対応広場の方から声を上げた。
「ギルド便だ」
俺は顔を上げた。
王都からの定期便なら、薬草販売報告か、クラウディアさんやマリナさんからの連絡だろう。
だが、門番老人の声がいつもより少し低かった。
普通の便ではない。
すぐに分かった。
シルフィも外部対応広場の机から立ち上がる。
村長が家から出てきて、杖を突きながら広場へ向かう。
マルタさんも保存棚から顔を出した。
「何か来たね」
村の入口には、王都ギルドの配達人が立っていた。
手には革袋。
封には、王国騎士団と冒険者ギルド、そしてリーフェン家の確認印が並んでいる。
配達人は少し緊張した顔で頭を下げた。
「リーフェン家より提出された症例概要資料です。王国騎士団および王都冒険者ギルドで確認済み。リーフェル村長、アレン様、シルフィ様宛てです」
症例資料。
ついに来た。
俺の胸の奥が、きゅっと縮む。
会議で見た水晶板の図が頭に浮かんだ。
七歳。
九歳。
十一歳。
十三歳。
魔力回路損傷。
発熱。
痺れ。
眠れない夜。
俺は無意識に一歩前へ出そうになった。
だが、隣でぷる太が四角の木片に体を寄せた。
「ぷる」
それだけで、足が止まった。
そうだ。
まず受け取る。
すぐ読んで、すぐ決めない。
村長が配達人から革袋を受け取った。
「受領する。返答は後日、文書で出す」
「承知しました」
配達人は頭を下げる。
そして、少しだけ俺の方を見た。
何か言いたそうだった。
でも、言わなかった。
たぶん、王都でもこの資料の重さは分かっているのだろう。
門番老人が受領札を書き、シルフィが内容を確認する。
革袋そのものに変な魔術がないか、クラウディアさんから借りている簡易検査札を使う。
「封印術は開封確認のみです。攻撃性、精神誘導、追跡術なし」
シルフィが言った。
村長が頷く。
「外部対応広場では開けん。村長の家で読む」
「はい」
俺は頷いた。
でも、革袋から目を離せなかった。
この中に、苦しんでいる子供たちの資料がある。
俺に何かできるかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥が熱くなる。
同時に、怖くなる。
助けたい。
でも、利用されたくない。
その二つが同時にやってきた。
◇
村長の家に集まったのは、村長、俺、シルフィ、マルタさん、門番老人。
そして、ぷる太。
クラウディアさんとマリナさんは王都へ戻っていたが、同封された確認書には二人の署名があった。
『本資料の受領は、研究協力・治療協力・付与実演への同意を意味しない』
その一文が一番上に記されている。
シルフィが、それを声に出して読んだ。
「本資料の受領は、研究協力・治療協力・付与実演への同意を意味しない」
ぷる太が丸の木片へ寄る。
「ぷる」
村長も頷いた。
「最初にこれがあるのはよい」
「クラウディアさんとマリナさんが確認してくれたのでしょう」
シルフィが言う。
俺も少しだけ息を吐いた。
資料を読むことと、何かを約束することは違う。
そこから始める。
革袋の中には、三つの封筒が入っていた。
それぞれに番号が振られている。
一例目。
二例目。
三例目。
名前、家名、住所はない。
年齢と症状、発症経緯、既存治療、危険度、希望される検討内容。
それだけが記されている。
シルフィは封筒を前にして、一度手を止めた。
「師匠」
「うん」
「読む前に確認します」
「何を?」
「読んだ直後に決めないこと」
俺は、ぐっと言葉を飲み込んだ。
読んだらたぶん、何か言いたくなる。
何かできるかもしれないと言いたくなる。
その自覚があった。
「はい。読んだ直後に決めません」
村長が俺を見る。
「声が軽い」
「えっ」
「もう一度だ」
俺は姿勢を正した。
「読んだ直後に決めません。助けたいと思っても、その場で協力すると言いません。村で相談します」
ぷる太が四角の木片へ寄る。
「ぷる」
村長は頷いた。
「よい」
マルタさんが茶を出してくれた。
「先に飲みな。喉が冷えてると、重い資料は読めないよ」
「ありがとうございます」
茶は、いつもの薬草茶だった。
少し苦くて、落ち着く味。
木杯を持つ指が、やや震えていた。
自分で気づいた。
俺は、読む前から揺れている。
◇
一例目は、十三歳の少年だった。
シルフィが読み上げる。
「年齢、十三歳。性別、男。森術素質あり。発症経緯、森術訓練中に過剰な精霊応答が発生。魔力回路の右腕側に損傷。症状、右手指の痺れ、魔力使用時の痛み、夜間の発熱」
右手指。
十三歳。
訓練中。
俺は、自分の右手を見た。
魔力を使うたびに痛むのは、どんな感覚だろう。
好きで学んでいた術が、痛みになる。
それはつらいだろう。
「既存治療。精霊鎮静薬、回路休眠療法、低出力森術訓練。改善は一時的。危険度、中。希望される検討内容。外部付与による魔力流路安定化の可能性」
シルフィは一枚目を机に置いた。
俺は黙っていた。
助けたいと思った。
でも、まだ声には出さない。
ぷる太が四角の木片に体を寄せている。
二例目。
十一歳の少女。
「年齢、十一歳。性別、女。発症経緯、先天的な魔力回路の細さと、森術適性訓練による負荷が重なり、胸部から喉にかけて魔力滞留が発生。症状、呼吸時の苦しさ、声のかすれ、精霊応答時の咳込み、睡眠障害」
声がかすれる。
息が苦しい。
俺は眉を寄せた。
マルタさんも、険しい顔をしている。
「既存治療。訓練停止、薬草蒸気療法、鎮静香、低濃度魔力水。改善は限定的。危険度、中から高。希望される検討内容。身に着ける物への外部安定付与が有効か」
「身に着ける物」
俺は思わず呟いた。
シルフィがこちらを見る。
俺はすぐに口を閉じた。
いけない。
今、少し考えた。
布や首飾りに弱い付与をできないか、と。
でも、ここで広げてはいけない。
村長がじっと俺を見ている。
「アレン」
「はい」
「今、何か浮かんだな」
「浮かびました」
「今は?」
「四角です」
ぷる太が四角へ寄った。
「ぷる」
村長は頷いた。
「よい。浮かぶのは悪くない。決めるな」
「はい」
浮かぶことまで止める必要はない。
でも、決めない。
その違いを、俺は何度も確認している。
◇
三例目の封筒を開ける時、シルフィの手が少し止まった。
封筒の上には、赤い小さな印がある。
危険度が高い資料につけられる印らしい。
俺の胸も、自然に重くなった。
シルフィは一度深呼吸してから読み始めた。
「年齢、九歳。性別、女。森術素質あり。発症経緯、幼年期より魔力回路不安定。基礎紋反応あり。ただし、回路の一部が未成熟なまま精霊応答を起こし、魔力逆流が頻発」
九歳。
女の子。
幼年期より魔力回路不安定。
基礎紋反応あり。
その言葉が、シルフィの過去と重なった。
俺だけではない。
シルフィ自身も、それを感じたのだろう。
声が少しだけ揺れた。
「症状。原因不明の発熱。眠りの浅さ。夜間のうわ言。手足の冷え。精霊応答時の意識混濁。強い魔力刺激を受けると、短時間の記憶欠落あり」
マルタさんが、そっと息を呑んだ。
門番老人も険しい顔をした。
俺は、資料の文字を見つめる。
九歳。
夜、眠れない。
熱が出る。
うわ言。
記憶が飛ぶ。
小さな子供が、それに耐えている。
胸の奥が熱くなった。
熱いというより、痛い。
助けたい。
すぐに。
何かできるなら。
手を伸ばしたい。
俺は知らずに机に手を置いていた。
指が資料へ伸びる。
シルフィが読み続ける。
「既存治療。鎮静香、魔力絶食、森術遮断布、薬草浴、精霊応答低減儀式。いずれも一時的に発熱を抑えるが、睡眠改善は不十分」
睡眠改善は不十分。
眠れないのか。
九歳の子が。
俺は、思わず言いかけた。
「俺が――」
その瞬間、机の上でぷる太が動いた。
水鉢の中から、ぬるりと体を伸ばし、四角の木片へ強く体を押し当てた。
「ぷるっ」
いつもの柔らかい声ではなかった。
かなりはっきりした声だった。
俺ははっとした。
全員が俺を見る。
俺の口は、まだ半開きだった。
何を言いかけたのか、自分でも分かっている。
俺が行きます。
俺が何とかします。
たぶん、それを言いかけた。
マルタさんが静かに言った。
「アレン」
「……はい」
「今、走り出しかけたね」
「はい」
隠せなかった。
隠すつもりもなかった。
「九歳って、書いてあって」
「うん」
「眠れないって」
「うん」
「何かできるならって」
「うん」
「思いました」
マルタさんは、責めなかった。
ただ、頷いた。
「思うのはいい」
村長が続けた。
「だが、読んだ直後に決めるな」
「はい」
「もう一度言え」
俺は、資料から目を離した。
四角の木片を見る。
ぷる太がそこにいる。
じっと、俺を止めてくれている。
「読んだ直後に決めません」
「もっとだ」
「助けたいと思っています。でも、今ここで俺が行くとか、協力するとか、治療するとかは決めません。村で相談します」
ぷる太が、少しだけ体を緩めた。
「ぷる」
シルフィも、胸元の木札に触れていた。
「師匠」
「うん」
「私も、揺れています」
その声は正直だった。
「この症例は、私の過去と重なります。私も、すぐ何かできないか考えました」
「シルフィも?」
「はい」
「そっか」
「でも、私も四角です」
シルフィは、自分の小さな四角木片を机に置いた。
俺も懐から四角を出して置いた。
ぷる太の四角。
シルフィの四角。
俺の四角。
三つ並んだ。
マルタさんがそれを見て、少しだけ表情を緩める。
「よし。三重四角だね」
村長が頷いた。
「今日の結論だ。三例目は三重四角」
俺は少し笑いそうになった。
でも、目の奥が熱かった。
九歳の子の資料を前に、笑うのは変かもしれない。
でも、その変な言葉に救われた。
三重四角。
強い保留。
絶対に一人で決めない保留。
◇
資料の続きを読む。
シルフィは、少し落ち着いてから声を出した。
「危険度、高。ただし、急性の命の危険は現時点では低い。長期的には魔力回路の損耗、記憶障害、精霊応答への恐怖が懸念される」
急性の命の危険は低い。
その一文で、少しだけ息ができた。
今すぐ駆け出さなければ死んでしまう、という状況ではない。
もちろん苦しいことに変わりはない。
でも、今日この場で無茶な判断をしなければならない理由にはならない。
クラウディアさんたちが、きっとその点も確認してくれたのだろう。
「希望される検討内容。低刺激の外部安定付与。本人への直接施術ではなく、布、腕輪、枕元に置く木片などを介した緩やかな魔力環境安定化が可能か」
俺は、今度は黙って聞けた。
布。
腕輪。
木片。
直接ではない方法。
俺の中で、いくつか考えが浮かんだ。
強い付与ではなく、弱い付与。
治療ではなく、安定。
魔力を動かすのではなく、周囲を穏やかにする。
だが、それも今は口にしない。
いや、口にはしてもいいのかもしれない。
ただし、決定ではなく、案として。
俺は村長を見た。
「考えが浮かびました」
「決定か」
「いいえ。案です」
「言ってみろ。ただし、言ったら決まりではない」
「はい」
俺は少し慎重に言葉を選んだ。
「直接その子に付与するのは危ないと思います。俺もその子も、何が起きるか分からないから。でも、布や木片に、ごく弱く、魔力を穏やかにする付与をすることは考えられるかもしれません」
シルフィが記録する。
俺は続けた。
「ただ、それもすぐ送るのは駄目です。強さを調整して、安全か確認して、使い方も決めて、合わない時はすぐやめる条件をつけないと危ないと思います」
マルタさんが頷く。
「今のは、走り出してないね」
「大丈夫ですか」
「うん。考えてる」
村長も言った。
「案としてはよい。だが、今日は案までだ」
「はい」
「資料を読んだ日に、試作品を作るな」
「……はい」
言いかけたことを見抜かれた。
正直、少し作ってみたいと思っていた。
布に弱い安定付与。
どれくらいなら安全か。
試したくなる。
だが、それも今やるべきではない。
読んだ直後の熱で作ったものは、きっと危ない。
ぷる太がバツの木片に体を寄せた。
「ぷるっ」
「分かってるよ、ぷる太」
「ぷる」
ぷる太は、今度は四角へ戻った。
許されたらしい。
◇
三件の資料を読み終えた後、部屋には重い沈黙が落ちた。
誰もすぐには話さなかった。
十三歳の少年。
十一歳の少女。
九歳の少女。
名前はない。
顔も知らない。
でも、資料を読んだだけで、そこに苦しんでいる人がいることは分かった。
俺は両手を膝の上で握っていた。
助けたい。
その気持ちは消えていない。
むしろ強くなっている。
でも、同時に怖い。
俺の力が何なのか、まだ分からない。
助けようとして、傷つけるかもしれない。
リーフェン家に利用されるかもしれない。
俺自身がまた「必要だから」と引っ張られるかもしれない。
シルフィが静かに言った。
「師匠」
「うん」
「助けたいですか」
「助けたい」
すぐ答えた。
これは隠したくなかった。
シルフィは頷いた。
「私も、助けたいです」
「うん」
「でも、私たちを差し出したくありません」
「うん」
「だから、助ける形を考えたいです」
村長が静かに言った。
「それが、第六章の軸だな」
俺は一瞬、言葉の意味が分からなかった。
いや、村長は章なんて言っていない。
言ったのは、たぶん「次の軸だな」だった。
俺の頭が疲れていて、変な聞こえ方をしただけだ。
村長は続ける。
「助けたい。だが利用されたくない。助ける。だが渡しすぎない。その線を作る」
「線」
「そうだ。線がない善意は流される」
門番老人が頷いた。
「堤のない水と同じだ。田を潤すこともあれば、村を流すこともある」
マルタさんが感心したように見る。
「たまにいいこと言うねぇ」
「たまにとは何だ」
「いつもだね」
「今さら言い直しても遅い」
そのやり取りで、少しだけ空気が和らいだ。
重い資料を読んだ後だからこそ、こういう軽さがありがたい。
◇
この日の結論は、三つになった。
一つ。
資料を読んだだけでは、協力に同意しない。
二つ。
直接治療やリーフェン家への滞在は、現時点では行わない。
三つ。
安全な遠隔支援の可能性を、村で検討する。
シルフィがその三つを記録した。
ぷる太は、一つ目に丸。
二つ目に丸。
三つ目に四角を出した。
「遠隔支援は四角?」
ミナが聞くと、シルフィが答えた。
「まだ検討中だからです」
「そっか。助けたい四角だね」
「はい」
助けたい四角。
また、新しい言葉ができた。
俺は資料を見つめる。
三件目、九歳の少女。
名前はない。
でも、その資料だけは胸に残った。
シルフィの過去と重なるから。
眠れない夜を思うから。
俺の中の「助けたい」が強く反応するから。
だからこそ、四角にする。
俺は資料から目を離し、ぷる太を見た。
「止めてくれてありがとう」
「ぷる」
「本当に、さっきは危なかった」
「ぷるっ」
ぷる太はバツの木片へ寄った。
たぶん、そうだぞ、と言っている。
俺は苦笑した。
「分かってる」
◇
夕方、外部対応広場にまた新しい板が立った。
村長が門番老人に頼んで彫らせたものだ。
『読んだ直後に決めない』
その下に、ミナが小さく書き足した。
『三重四角あり』
村長は最初、その文字を見て眉を上げた。
「これは何だ」
「強い四角!」
ミナが答える。
「アレンお兄ちゃんとシルフィ先生とぷる太が、みんな四角の時!」
村長は少し考えた。
「……残しておけ」
「いいの?」
「分かりやすい」
門番老人も頷いた。
「三重四角。緊急停止の印として使える」
俺は、またリーフェル村に謎の制度が増えたと思った。
でも、嫌ではなかった。
むしろ必要な制度だと思った。
その夜、俺は三件の資料の写しを見返さなかった。
見返したくなる気持ちはあった。
九歳の子のところだけ、もう一度読んで、何か考えたかった。
でも、マルタさんに止められた。
「今日はもう読まない」
「でも」
「今日はもう読まない」
強い声だった。
俺は黙った。
「明日、明るい時に読む。飯を食べて、寝て、頭が冷えてから読む。夜に読むと、心だけ先に走る」
「……はい」
マルタさんは、少し表情を柔らかくした。
「助けたいんだろ」
「はい」
「なら、ちゃんと寝な。寝不足の善意は危ないよ」
寝不足の善意。
それもまた、リーフェル村らしい言葉だった。
俺は素直に頷いた。
◇
布団に入っても、三件目の資料は頭から離れなかった。
九歳。
発熱。
眠れない。
記憶欠落。
直接治療ではなく、布や木片を介した安定付与。
考えは浮かぶ。
でも、今日は作らない。
今日は決めない。
俺は枕元に置いた四角の木片に触れた。
『そうだん』
ミナの字だ。
それを見て、少し息が落ち着いた。
助けたい。
でも、一人で走らない。
明日、みんなで考える。
それが、今夜の答えだった。
井戸の方から、ぷる太の小さな声が聞こえた気がした。
「ぷる」
四角。
たぶん、そう言ってくれたのだと思う。




