第51話 森術学術会議、開幕
朝のリーフェル村は、まだ薄い霧の中にあった。
井戸の水は冷たく、畑の土は夜露を含んで黒く光っている。遠くで鳥が鳴き、マルタさんの台所からは、早朝とは思えないほどしっかりした味噌豆の匂いが漂っていた。
「出発前は、腹に入れとくもんだよ」
マルタさんはそう言って、俺とシルフィの前に椀を置いた。
豆と根菜の入った温かい汁。
麦餅。
塩漬け肉を少し。
いつもの朝食より、少しだけ力がつくように作られている。
「緊張して食べられない、なんて言わないだろうね?」
「言いません」
俺が答えると、マルタさんは満足そうに頷いた。
「よし。シルフィちゃんは?」
「食べます」
シルフィは木匙を手に取り、ゆっくりと汁を口に運んだ。
彼女の顔色は悪くない。
けれど、緊張しているのは分かる。
木札が胸元で揺れていた。
俺も椀を持つ。
温かい。
それだけで、少し体が戻ってくる。
森術学術会議。
リーフェン家の研究館。
考えるだけで胃のあたりが重くなる。
でも、ここで食べる朝食は、ちゃんとリーフェル村の味だった。
出発する前に、自分がどこへ帰るのかを体に覚えさせてくれる味だ。
外では、村人たちが少しずつ集まっていた。
見送りのためだ。
大げさな儀式ではない。
ただ、いつもの服で、いつもの顔で、俺たちを見送るために立っている。
村長は入口の外部対応広場で待っていた。
門番老人は槍を手に、いつもより背筋を伸ばしている。
ぷる太は見張り桶ではなく、井戸の縁にいた。
今日は村を守る側だからだ。
ミナはぷる太の横に立って、丸、バツ、四角の木片を抱えている。
「アレンお兄ちゃん!」
ミナが駆け寄ってきた。
手には小さな布袋。
「これ、予備!」
「また木片?」
「うん。もし落としたら困るから」
中を見ると、小さな四角が二枚入っていた。
どちらにも、ミナの字で「そうだん」と書かれている。
「ありがとう」
「あとね、絶対その場で署名しちゃ駄目だよ」
「しない」
「少しなら、も駄目」
「言わない」
「困ってますって言われても?」
「一人で決めない」
「よし!」
ミナは真剣な顔で頷いた。
ぷる太も井戸の縁で、ぷるっ、と鳴いた。
まるで最終試験に合格したみたいだった。
シルフィがぷる太へ向き直る。
「井戸守り殿。村をお願いします」
「ぷる」
ぷる太は、いつになく静かに揺れた。
その姿を見て、シルフィの表情が少し柔らかくなる。
「帰ってきたら、また記録を見せます」
「ぷるる」
ぷる太は少し嬉しそうだった。
村長が俺たちの前に立つ。
「アレン。シルフィ。マルタ」
「はい」
「行ってくるよ」
「はい」
村長は、俺たちを順番に見た。
「勝ちに行くのではない」
その言葉に、俺は少し驚いた。
「勝ちに行くのではないんですか」
「そうだ。無理に勝とうとするな。署名せず、無理せず、帰ってくる。それが今日の第一だ」
マルタさんが頷く。
「そうだよ。相手を言い負かしてこいなんて言わない。帰ってきて鍋を食べる。それで十分さ」
シルフィが小さく息を吸った。
「帰ってきます」
「ああ」
村長は頷いた。
「リーフェル村はここにある。忘れるな」
その言葉を胸に入れて、俺たちは馬車へ乗った。
クラウディアさんとマリナさんは、すでに王都側の馬車で待っている。
クラウディアさんは軽鎧姿で、マリナさんは記録鞄を膝に置いていた。
「おはようございます、アレン様、シルフィ様、マルタさん」
「おはようございます」
「おはようございます」
「はいはい、おはよう。今日はよろしく頼むよ」
マリナさんは微笑んだ。
「こちらこそ。今日は、記録と制止が仕事です」
クラウディアさんも言う。
「条件違反があれば、私が止めます。アレン殿とシルフィ殿は、返答に迷った場合、必ず保留してください」
俺は懐に触れた。
木片がある。
「はい。四角です」
マリナさんは記録板を開きながら言った。
「では、本日の基本方針。丸は確認済み、バツは拒否、四角は保留。よろしいですね」
真面目に言われると少し恥ずかしい。
でも、とても心強い。
「はい」
シルフィも頷いた。
「四角を忘れません」
馬車が動き出す。
村人たちが手を振る。
ぷる太が井戸の縁で大きく跳ねた。
「ぷる!」
俺は窓から手を振った。
リーフェル村が少しずつ遠ざかる。
でも、完全に離れていく感じはしなかった。
木片。
条件書。
マルタさんの薬草茶。
シルフィの木札。
その全部が、村を一緒に運んでいる気がした。
◇
森に入ると、空気が変わった。
リーフェル村の森とは違う。
整えられた森。
道の両側の木々は美しく並び、枝葉は自然に見えて不自然なほど均等だった。蔦は柱のような木にだけ絡み、足元の草は踏まれない高さで揃えられている。
「綺麗だねぇ」
マルタさんが窓の外を見て言った。
「でも、なんだか息が詰まるね」
シルフィは静かに頷いた。
「リーフェン家の外縁林です。森術で整えられています」
「森まで礼儀正しいって感じだよ」
「はい」
シルフィの声は少し硬かった。
俺は彼女の手元を見た。
指が木札に触れている。
声をかけようか迷ったが、シルフィの方から口を開いた。
「大丈夫ではありません」
「うん」
「でも、言えています。怖いです」
「うん。言えてる」
マルタさんが隣で頷いた。
「よしよし。それでいいよ。怖いの確認完了」
シルフィが少しだけ笑った。
「確認完了、ですか」
「そう。怖いのを確認したから、次は腹と足の確認だ。気分は悪くないかい?」
「大丈夫です」
「足は冷えてない?」
「少し」
「じゃあこれ」
マルタさんは布袋から小さな膝掛けを出した。
「持ってきたんですか」
「当たり前だよ。森術がどれだけ偉くても、冷えた足までは温めちゃくれないだろ」
シルフィは膝掛けを受け取り、少し目を潤ませた。
「ありがとうございます」
「礼は帰ってからでいいって言ったろ」
マルタさんの言葉は、いつも地面に足を戻してくれる。
会議、学術、古代森術、未来。
そういう大きな言葉の前に、足が冷えていないかを聞いてくれる。
それが、今は何より強かった。
◇
森術研究館は、リーフェン家の本館から少し離れた場所にあった。
中立風、と聞いていたが、確かに本館ほどの威圧感はない。
白木と淡い緑石で作られた建物で、壁には枝葉の文様が彫られている。屋根の上には薄い蔦が這い、窓は大きく、外光が入りやすい作りだった。
だが、そこに立った瞬間、シルフィの顔が少し白くなった。
「シルフィ」
「……大丈夫、ではありません」
「うん」
「でも、立てます」
彼女は木札を握った。
俺も懐の四角に触れる。
クラウディアさんが先に降り、周囲を確認した。
「隠密気配は、今のところ感じません。通常護衛は見える位置に二名」
マリナさんが記録する。
「条件通りですね」
入口には、リュシアが待っていた。
今日は使者の服ではなく、会議運営側の淡い銀緑の装いだ。俺たちを見ると、深く頭を下げた。
「お越しいただき、ありがとうございます」
村側の代表として、マルタさんが一歩前に出た。
「こちらは条件通りに来たよ。中も条件通りだろうね」
リュシアは少し驚いたあと、真面目に頷いた。
「はい。会議場内に隠密護衛は配置されていません。記録魔道具の持ち込みも確認済みです。飲食物については、必要なら持ち込み品のみでも構いません」
「よし」
マルタさんは短く答えた。
リュシアはシルフィを見た。
「シルフィ」
「リュシア姉様」
短い沈黙。
リュシアは、何か言いたそうだった。
しかし、公の場だ。
彼女は言葉を選んだ。
「会議場に入る前に、確認します。あなたが嫌だと感じた場合、退席できます」
シルフィの目が少し揺れた。
「それは、リーフェン家側の確認ですか」
「はい」
リュシアは静かに言った。
「そして、私個人としても、そうであってほしいと思っています」
エルフの護衛が一瞬こちらを見たが、何も言わなかった。
シルフィは小さく頷いた。
「ありがとうございます」
リュシアは俺にも視線を向けた。
「アレン殿も同様です。付与術の実演、研究協力、検査同意は、条件通りその場で求められません」
クラウディアさんがすぐに言った。
「記録します。リーフェン家側より、条件順守の事前確認あり」
マリナさんも同じく記録した。
リュシアはそれを見て、少しだけ安堵したようだった。
「では、ご案内します」
◇
会議場は、丸い部屋だった。
中央に大きな円卓。
窓から森の光が入り、壁には古代森術の紋様が刻まれている。床は滑らかな白木で、歩くと微かに香木の匂いがした。
席はすでに用意されていた。
リーフェン家側に、エルドラン、セラド、森術師が三名、リュシア。
王国・ギルド・リーフェル村側に、クラウディアさん、マリナさん、俺、シルフィ、マルタさん。
円卓とはいえ、完全な対等配置ではない。
リーフェン家側の席の背後には、古い系譜図が掲げられている。リーフェン家の歴史を示すものだろう。こちら側の背後には窓がある。
開放感はある。
だが、後ろ盾のある席と、外へ向いた席。
その違いは、なんとなく感じた。
マルタさんが小声で言う。
「立派すぎる部屋だねぇ」
「緊張しますか?」
「いや。掃除が大変そうだと思ってた」
思わず少し笑ってしまった。
シルフィも口元を緩める。
そういう一言が、場の空気を少しだけ人間のものに戻す。
エルドランが立ち上がった。
整った顔。
冷たい目。
声は穏やかだが、部屋全体に届く力がある。
「本日は、遠方よりご参加いただき感謝いたします。リーフェン家当主代理、エルドラン・リーフェンです」
俺たちも立ち上がる。
クラウディアさんが王国側として名乗った。
「王国騎士団所属、クラウディア・レインです。本日は事前条件に基づき、立会人として参加します」
マリナさんも続く。
「王都冒険者ギルド、マリナです。記録補助として参加します」
マルタさんは、少しも気後れせずに言った。
「リーフェル村のマルタだよ。村側同行者として来た。難しいことは得意じゃないけど、この二人が無理しそうなら止めるから、そのつもりで」
会議場の空気が一瞬止まった。
森術師の一人がわずかに眉を動かす。
だが、エルドランは表情を崩さなかった。
「率直なご挨拶、痛み入ります」
「痛ませるつもりはないよ」
マルタさんがさらりと言う。
セラドが少しだけ口元を緩めた。
やり取りとしては軽い。
でも、この場でマルタさんが「止める」と言った意味は大きい。
俺たちは無言で座らされる側ではない。
そう最初に示したのだ。
次にシルフィが立った。
一瞬だけ息を吸う。
木札に触れる。
「リーフェル村、付与相談役補佐兼記録係、シルフィです」
リーフェン家側の席で、森術師の一人がぴくりと反応した。
シルフィ・リーフェンではなく。
リーフェル村の記録係。
それを彼女は名乗った。
エルドランの目が、わずかに細くなる。
最後に俺が立つ。
「リーフェル村、付与相談役のアレンです。本日は、事前条件に基づいて参加します。分からないことや同意が必要なことは、その場で決めず持ち帰ります」
言った。
最初に言えた。
俺は懐の四角に触れた。
マリナさんがすぐに記録する音が聞こえる。
エルドランは穏やかな笑みを浮かべた。
「もちろんです。本日はあくまで学術的な意見交換です。強制や拘束の意図はありません」
クラウディアさんが即座に言った。
「その発言を記録します」
「どうぞ」
笑顔のまま、エルドランは答えた。
静かな火花が散ったような気がした。
◇
会議は、セラドの条件確認から始まった。
「まず、本日の会議において、事前確認条件を遵守することを確認します。署名、検査同意、研究協力同意、滞在延長同意は求めません。発言は任意。回答拒否も可能です」
マリナさんが記録する。
シルフィも記録する。
俺は、机の下で布袋を触った。
丸、バツ、四角。
そこにある。
リュシアがこちらを見て、ほんの少しだけ頷いた。
次に、会議の議題が確認された。
一つ目、古代森術基礎紋の発現例について。
二つ目、魔力回路安定化の一般論について。
三つ目、森術と付与術の相互作用について。
四つ目、今後の安全な情報共有の方法について。
世界樹という言葉はなかった。
だが、三つ目が危ない。
森術と付与術の相互作用。
俺とシルフィのことを聞くための議題だ。
「追加議題はありませんか」
クラウディアさんが確認する。
セラドは頷いた。
「本日はこの四項目のみです。追加する場合は双方同意を要します」
「記録します」
マリナさんが言う。
条件が、一つ一つ机の上に置かれていく。
そのたびに、少しずつ足場ができていくようだった。
完全に安心はできない。
でも、立つ場所がある。
エルドランが両手を組み、俺たちを見た。
「では、改めて始めましょう。リーフェン家としては、本日の会議が相互理解の第一歩となることを願っています」
マルタさんが小声で俺に言った。
「第一歩って言葉にも気をつけな」
「はい」
「一歩踏み出したら、次の一歩も当然みたいに言われることがあるからね」
俺は頷いた。
マリナさんが、その小声まで聞こえたのか、少しだけ目元を緩めながら記録している。
会議はまだ始まったばかりだ。
リーフェン家は丁寧だ。
言葉は整っている。
だが、部屋の空気は柔らかくない。
俺は懐の四角を指で押さえた。
一人で決めない。
シルフィは木札を握っている。
記録されるだけではない。
マルタさんは薬草茶の入った布袋を足元に置いている。
帰ったら鍋。
クラウディアさんは条件書を前に置き、マリナさんは羽ペンを構えている。
俺たちは、無防備ではない。
ここはリーフェン家の会議場だ。
でも、リーフェル村の言葉も、確かにここにある。
森術学術会議は、静かに幕を開けた。




