第48話 アレン、カイルへの短い返事を書く
朝、井戸の水面には空が映っていた。
雲の切れ目から光が差し、桶の縁に座ったぷる太が、その光を受けて淡く透けている。
ぷる太は最近、朝の見回りのあとに井戸端で少しだけ静かにする時間を持つようになった。ミナが言うには「井戸守りの瞑想」らしい。
スライムが瞑想するのかは分からない。
でも、ぷる太がじっとしている姿を見ると、なんとなくこちらも黙ってしまう。
俺は井戸のそばに腰を下ろし、膝の上に小さな木箱を置いていた。
中には四通の手紙が入っている。
カイル。
ミラ。
ガレス。
リーナ。
勇者パーティーにいた頃の仲間たちから届いた謝罪文だ。
昨日、読んだ。
読んで、泣いて、何も返事を決められなかった。
そして今日も、まだ決められていない。
でも、いつまでも木箱の中に閉じ込めておくのも違う気がした。
「ぷる太」
「ぷる?」
「返事って、難しいな」
「ぷる……」
ぷる太は、分かるような分からないような声で鳴いた。
そして、俺の横に置いていた四角の木片へ、そっと体を寄せる。
保留。
すぐ決めない。
持ち帰って相談。
昨日の俺には、それが必要だった。
でも、今日は少しだけ違う。
「ずっと四角のままでもいいのかな」
「ぷる?」
「いや、急いで丸にする必要はないんだけどさ。受け取ったってことだけは、伝えてもいいのかもしれないと思って」
ぷる太は俺を見ている。
たぶん。
目はないけれど、見ているように感じる。
「許すとか、許さないとか、戻るとか、戻らないとか。そういう話じゃなくて。ただ、読んだって。まだ整理できてないって。それだけ」
「ぷる」
今度は四角の木片の横で、ぷる太が少しだけ丸の方へ揺れた。
丸ではない。
でも、完全な保留でもない。
それが今の気持ちに近くて、俺は少し笑った。
「丸寄り四角?」
「ぷる」
「便利だな、それ」
そう呟いた時、背後から足音がした。
振り返ると、シルフィが記録板を抱えて立っていた。
朝の光に、白銀の髪が柔らかく光っている。
「師匠」
「おはよう」
「おはようございます。……眠れましたか?」
「少し」
「少しですか」
「手紙のことを考えてた」
シルフィは隣に座った。
近すぎず、遠すぎず。
最近、彼女はその距離の取り方がとても上手い。
「返事を、書こうと思ってる」
俺が言うと、シルフィはすぐには何も言わなかった。
記録板も開かない。
ただ、俺の顔を見た。
「今、書けそうですか」
「たぶん。長いのは無理だけど」
「長くなくてよいと思います」
「冷たいかな」
「いいえ」
シルフィは首を横に振った。
「無理に優しい言葉を足す方が、師匠には苦しくなると思います」
「……分かる?」
「分かります」
彼女は木箱へ視線を落とした。
「師匠は、相手が謝ってくれたなら、自分も何か返さなければと思ってしまう方です。でも、それが師匠自身の気持ちより先に来ると、また自分を置いていってしまいます」
「自分を置いていく」
「はい」
その言い方が妙にしっくり来た。
俺はたぶん、これまで何度も自分を置いていった。
誰かが困っているなら。
誰かが期待しているなら。
自分の気持ちは後でいい。
そうやって、後で後でと置いていったものが、昨日の手紙で戻ってきたのかもしれない。
「じゃあ、俺の気持ちだけ書けばいいかな」
「はい。今の師匠が書ける範囲で」
「許すとは書けない」
「書かなくていいです」
「恨んでいる、とも違う」
「それも、そのままでいいです」
「まだ分からない」
「それが、一番正直だと思います」
シルフィはそう言って、ようやく記録板を開いた。
でも、記録はしなかった。
代わりに、小さな白紙を一枚出す。
「下書き用です」
「ありがとう」
「私は、少し離れています。必要なら呼んでください」
「いてくれていい」
言ってから、自分で少し驚いた。
以前の俺なら、一人で書こうとしたと思う。
いや、一人で書いて、一人で勝手に大丈夫なふりをしていた。
シルフィは少しだけ目を丸くし、それから頷いた。
「では、ここにいます」
◇
返事を書く場所は、井戸端ではなく村長の家になった。
マルタさんが「大事な手紙を書くなら机で書きな」と言って、温かい茶を出してくれたからだ。
村長も呼ばれた。
クラウディアは王都へ送る文書を整理していたが、俺が手紙を書くと聞いて同席してくれた。
ぷる太は水鉢に入って、机の端にいる。
ミナは来たがったが、今回はまたマルタさんに止められた。
ただし、バツと四角と丸の木片だけはぷる太に持たせてきた。
「本当に村の会議みたいになったな」
俺が言うと、村長が当然のように言った。
「お前さん一人で抱えないためだ」
「返事を書くくらいで」
「その『くらい』が危ない」
マルタさんが横から言う。
「人の心に関わることを、くらいで済ませちゃいけないよ」
「はい」
俺は素直に頷いた。
机の上に羊皮紙を置く。
羽ペンを取る。
カイルへの返事。
最初の一文字を書くまでが、とても長かった。
カイル、と書こうとして止まる。
カイルへ、と書くのか。
カイル様へ、ではない。
勇者カイルへ、でもない。
昔は、ただカイルと呼んでいた。
でも今は、少し距離がある。
「宛名から悩むとは思わなかった」
俺が呟くと、シルフィが言った。
「悩んでよいと思います」
「アレン殿」
クラウディアが静かに口を開く。
「相手との距離が定まっていない時、宛名は難しいものです。無理に以前の親しさへ戻す必要はありません」
「じゃあ、カイル殿?」
「それでも構いません」
少し考えて、俺は書いた。
『カイル殿へ』
堅い。
でも、今の距離としては正しい気がした。
続けて書こうとして、また止まる。
何から書けばいいのか。
俺は昨日読んだカイルの手紙を思い出した。
俺は、お前を追放した時、お前が何をしてくれていたのか分かっていなかった。
礼を言うべきだった。
だが、言わなかった。
すまなかった。
その言葉は、確かに届いた。
でも、届いたからといって、痛みが消えたわけではない。
俺はゆっくり書いた。
『手紙を受け取りました。読みました』
それだけで、胸が少し重くなった。
でも、書けた。
次。
『謝罪の言葉も読みました』
少し違う気がして、羽ペンを止める。
「謝罪の言葉も、だと他人事みたいかな」
俺が言うと、マルタさんが腕を組んだ。
「他人事じゃないなら、どう言いたいんだい?」
「……謝ってくれたことは、分かった」
「それでいいんじゃないかい」
俺は書き直した。
『謝ってくれたことは、分かりました』
まだ硬い。
でも、無理に柔らかくはしない。
続けて書く。
『ただ、まだ気持ちの整理はついていません』
この一文を書いた時、ぷる太が四角の木片に体を寄せた。
「ぷる」
そうだ。
四角。
まだ整理できていない。
そのままでいい。
俺は続ける。
『あの時のことを思い出すと、今でも胸が苦しくなります』
書いた瞬間、羽ペンを持つ手が止まった。
少し生々しすぎるかもしれない。
相手に重いと思われるかもしれない。
俺がそう考えたのを察したのか、シルフィが小さく言った。
「師匠」
「うん」
「消さなくてよいと思います」
「でも」
「苦しかったことを、苦しかったと書いています。それは責めるためではなく、事実を伝えるためです」
村長も頷いた。
「相手が謝ってきたなら、こちらも本当のことを伝えてよい」
クラウディアも静かに言う。
「カイル殿は、この手紙で許されるとは思っていないと書きました。なら、あなたが苦しさを伝えても、謝罪の意味に反しません」
俺は、書いた一文を見つめた。
消さなかった。
◇
次に、ミラたちのことも少し書くか迷った。
これはカイルへの返事だ。
でも、四人から手紙が来ている。
それぞれに返すべきか。
まとめて返すべきか。
そこでも悩んだ。
「別々に書くのは、今は無理かもしれない」
「無理なら、まとめてよいと思います」
シルフィが言う。
「ただ、名前を入れると届いたことが分かります」
「名前」
俺は考え、書いた。
『ミラさん、ガレスさん、リーナさんからの手紙も読みました』
ここで、自然に「さん」がついた。
カイルには殿。
他の三人にはさん。
距離が違うのかもしれない。
カイルの言葉が一番深く刺さったから。
いや、そう単純でもない。
でも今は、それでいい。
『それぞれの言葉も、受け取りました』
ここまで書いて、茶を飲んだ。
喉が渇いていた。
マルタさんが、すぐに温かい茶を足してくれる。
「焦らなくていいよ」
「はい」
「手紙ってのはね、急いで書いた言葉ほど、あとで自分の首を絞めるもんだよ」
「経験あるんですか?」
「若い頃にね。勢いで親戚にきつい手紙を書いて、あとで顔を合わせた時に気まずかった」
「マルタさんにもそういうことが」
「あるよ。人間だもの」
マルタさんのそういう何気ない言葉は、不思議と心を軽くする。
俺だけが特別に不器用なわけではない。
みんな、間違えながら言葉を覚えていくのだろう。
◇
俺は次の一文で長く止まった。
何を書きたいのか。
許すとは言えない。
でも、手紙を書いてくれたことを無視したくもない。
戻るつもりはない。
これは、はっきり書くべきだと思った。
『今の俺は、リーフェル村で暮らしています』
書く。
『この村で、付与相談役として、村のみんなと相談しながら過ごしています』
少し迷い、続けた。
『勇者パーティーに戻るつもりはありません』
書いた瞬間、部屋の空気が少し変わった。
誰も驚いたわけではない。
でも、重い一文だった。
俺自身、胸が少し痛んだ。
戻らない。
その答えは前から決めていた。
でも、カイルへの返事として書くと、はっきり形になる。
勇者パーティーだった過去と、今の俺の間に線を引く言葉だ。
俺は羽ペンを置き、深く息を吐いた。
「書けた」
「はい」
シルフィが静かに頷く。
「大事な一文です」
「冷たくないかな」
言った瞬間、ぷる太がバツの木片に体を寄せた。
「ぷるっ」
「ぷる太?」
シルフィが少し笑った。
「冷たいかどうかで消すのはバツ、ということだと思います」
マルタさんも頷く。
「そうだね。相手に優しくするために、自分の大事な答えをぼかしちゃいけないよ」
クラウディアが言う。
「明確な境界線は、相手にとっても必要です。曖昧にすれば、カイル殿は期待してしまう可能性があります」
「期待」
「はい。戻る可能性がある、と」
それはよくない。
カイルのためにも、俺のためにも。
俺はその一文を残した。
◇
次は、少しだけ迷った末に、こう書いた。
『でも、手紙を書いてくれたことは、なかったことにはしません』
カイルの手紙にあった言葉。
俺がしたことを、なかったことにはしない。
それに対する返事のつもりだった。
『謝罪を読んだことも、覚えておきます』
それなら書けた。
許すとは違う。
でも、受け取った。
読んだ。
覚えておく。
今の俺にできるのは、それくらいだ。
最後に、どう締めるか。
『返事を急がないでください』
これは必要だと思った。
そしてもう一つ。
『俺も、急いで答えを出さないようにします』
書いた後、ぷる太が四角の木片に体を寄せた。
「ぷる」
完璧な丸ではない。
でも、今の俺にはそれがちょうどいい。
俺は手紙を最初から読み返した。
『カイル殿へ。
手紙を受け取りました。読みました。
謝ってくれたことは、分かりました。
ただ、まだ気持ちの整理はついていません。あの時のことを思い出すと、今でも胸が苦しくなります。
ミラさん、ガレスさん、リーナさんからの手紙も読みました。それぞれの言葉も、受け取りました。
今の俺は、リーフェル村で暮らしています。この村で、付与相談役として、村のみんなと相談しながら過ごしています。
勇者パーティーに戻るつもりはありません。
でも、手紙を書いてくれたことは、なかったことにはしません。謝罪を読んだことも、覚えておきます。
返事を急がないでください。
俺も、急いで答えを出さないようにします。
アレン』
短い。
そっけないかもしれない。
でも、嘘はない。
俺は紙を机に置いた。
「どう、でしょうか」
声が少し震えた。
最初に読んだのはシルフィだった。
彼女は一字一句、丁寧に追った。
しばらくして、頷いた。
「よいと思います」
「本当に?」
「はい。師匠が無理をしていません」
マルタさんも手紙を読んで、目を細めた。
「うん。これでいい。優しすぎないところがいいよ」
「優しすぎない方がいいんですか」
「今はね。あんたは放っておくと優しすぎるから」
村長も読んだ。
「よい。戻らんと書いたのがよい」
「そこですか」
「そこだ。相手のためにもなる」
クラウディアは最後に文面を確認した。
「問題ありません。挑発でも拒絶でもなく、境界線を示す返答です」
「境界線」
「はい。今のあなたに必要な線です」
俺は少しだけ肩の力を抜いた。
手紙を書くだけで、こんなに疲れるとは思わなかった。
でも、書いてよかった。
胸の奥にあったものが、少しだけ言葉になった気がした。
◇
封をする前に、俺はもう一度悩んだ。
ミラ、ガレス、リーナへの返事を別に書かなくていいのか。
でも、今日は無理だ。
だから、封筒の中に小さな追伸を一枚入れることにした。
『ミラさん、ガレスさん、リーナさんへ。
それぞれの手紙を読みました。まだうまく返事はできませんが、読んだことだけ先に伝えます。
アレン』
それだけだ。
でも、今はそれが精一杯だった。
シルフィが頷く。
「十分です」
「十分かな」
「はい。返せない時に、読んだことだけ伝える。それも誠実だと思います」
俺は二枚の紙を封筒に入れた。
封蝋を押す。
リーフェル村の正式な印ではない。
俺個人の簡単な印。
村長が作ってくれた、付与相談役用の小さな印だ。
木の葉と小さな丸。
本当はもう少し普通の印にしたかったのだが、ミナが「ぷる太の丸も入れて」と言い、なぜか採用された。
封を見て、ぷる太が丸の木片に体を寄せた。
「ぷる」
「今回は丸?」
「ぷる」
俺は少し笑った。
「ありがとう」
◇
手紙は、その日の午後のギルド便で王都へ送ることになった。
外部対応広場で、門番老人に渡す。
ギルド便の配達人は、いつもの若い男性だった。
彼は封筒を受け取り、宛名を確認する。
「王都ギルド経由、勇者カイル殿宛てですね」
「はい」
「確かにお預かりします」
俺は頷いた。
封筒が革袋に入れられる。
それだけなのに、胸が少しざわついた。
手紙が俺の手を離れる。
もう、なかったことにはできない。
でも、後悔はなかった。
シルフィが隣に立っている。
マルタさんも、村長も、クラウディアも、少し離れて見ていた。
ぷる太は見張り桶の中で、四角と丸の間に体を寄せている。
丸寄り四角。
今の気持ちに、やっぱり近い。
「師匠」
シルフィが小さく言った。
「はい」
「書けましたね」
「うん」
「無理に許すふりをしませんでしたね」
「うん」
「戻らないとも書けました」
「……うん」
それが一番大きかった。
勇者パーティーに戻らない。
俺は、リーフェル村で暮らしている。
その言葉を、カイルへ送った。
怒りではなく。
仕返しでもなく。
今の自分の居場所を守るために。
「少し、怖いな」
「何がですか」
「読んだカイルが、どう思うか」
「怖くても、師匠の答えです」
「そうだな」
クラウディアが近づいてきた。
「アレン殿。カイル殿にとっても、必要な返事だと思います」
「そうですか?」
「はい。期待を残さず、しかし謝罪を読んだと伝えている。彼が次に考えるための材料になります」
「考えてくれるかな」
「以前よりは」
クラウディアは少しだけ口元を緩めた。
「訓練場で基礎をやり直す程度には、変わり始めています」
「カイルが基礎訓練……」
想像すると、少し不思議だった。
聖剣を振り回していたカイルが、木剣で踏み込みを練習している。
ちょっと見てみたい気もする。
でも、今はまだ会いたくない。
その両方が本当だった。
◇
その夜、井戸端でぷる太の木片練習が行われた。
ミナがいつものように木片を掲げる。
「丸!」
「ぷる」
ぷる太が丸へ。
「バツ!」
「ぷるっ」
バツへ。
「四角!」
「ぷる」
四角へ。
そしてミナは、俺を見てにっこり笑った。
「アレンお兄ちゃんの今日の手紙は?」
ぷる太は少し迷った。
丸へ行きかける。
でも途中で止まる。
四角へ戻る。
そして、丸に少しだけ体を向ける。
「ぷる」
ミナが真剣に頷いた。
「丸寄り四角!」
村人たちが笑った。
俺も笑った。
それでいいと思った。
完全な丸ではない。
全部解決したわけではない。
でも、昨日より少し前に進んだ。
四角のまま、少しだけ丸へ向く。
それが今の俺の答えだった。
シルフィが隣で言う。
「師匠」
「何?」
「今日は、よい記録になります」
「また記録?」
「はい」
彼女は記録板に書いた。
『師匠、カイル殿への返事を書く。謝罪を受け取ったこと、まだ整理できないこと、戻らないことを明記。無理に許す言葉を足さず。丸寄り四角』
「最後、正式記録に入るの?」
「入ります」
「そうか……」
俺は苦笑した。
でも、嫌ではなかった。
丸寄り四角。
リーフェル村でしか通じないような言葉だ。
でも、俺には今、どんな立派な言葉よりもしっくり来る。
空を見上げると、星が出ていた。
勇者パーティーにいた頃も、旅の途中で同じ星を見ていた。
あの頃の全部が嫌だったわけではない。
楽しかったことも、助け合ったことも、確かにあった。
でも、傷ついたことも本当だ。
戻らないことも本当だ。
その全部を抱えたまま、俺は今、リーフェル村にいる。
井戸のそばで、ぷる太が揺れている。
シルフィが記録をつけている。
マルタさんの鍋の匂いがする。
村長が外部対応広場の板を確認している。
それが、今の俺の居場所だった。
手紙は王都へ向かった。
俺はその夜、少しだけよく眠れた。




