第46話 リーフェル村、リーフェン家の返答書を受け取る
リュシアが再びリーフェル村へ来たのは、朝の井戸水がまだ冷たい時間だった。
森の方角から、白木の小さな馬車が一台だけやってくる。
前回のような護衛の列はない。銀葉の旗も控えめで、馬車の車輪の音も静かだった。まるで、森そのものが「今日は争いに来たのではありません」と言い訳しているように見えた。
けれど、村の入口に立つ門番老人は槍を下ろさなかった。
リーフェル村は、もう見た目の柔らかさだけで安心しない。
外部対応広場の桶では、ぷる太が朝から待機していた。
桶の横には、丸、バツ、四角。
今日は三角も置いてある。
ミナが言うには、「何が来るか分からない日は全部置く」らしい。
「ぷる太、今日はたぶん四角だよ」
「ぷる」
「でも変なこと言われたらバツだよ」
「ぷるっ」
ぷる太は真面目に揺れた。
スライムにここまで真剣な任務意識が芽生えるとは、少し前の俺なら想像もしなかったと思う。
俺は外部対応広場の机の前に立ち、懐の木片に指で触れた。
四角。
裏には、シルフィの字で『一人で決めない』と彫ってある。
森術学術会議。
その返答書が今日来る。
条件書は出した。
身柄拘束禁止。
その場署名禁止。
世界樹の詳細非公開。
王国騎士団とギルドの同行。
記録の相互保持。
検査も実演も本人同意なしではしない。
あれだけ条件を書いたのだから、リーフェン家は怒って断るかもしれないと思っていた。
でも、リュシアが来たということは、返事はそれだけ単純ではないのだろう。
「師匠」
隣に立つシルフィが声をかけてきた。
彼女は記録用の板を抱えている。
表情は落ち着いている。
けれど、指先は胸元の木札に触れていた。
『付与相談役補佐兼記録係 シルフィ』
村長がくれた木札。
今の彼女を支えるもの。
「大丈夫か?」
俺が聞くと、シルフィは少しだけ考えてから答えた。
「怖くない、と言うと嘘になります」
「うん」
「でも、前より怖くありません。今回は、こちらから条件を出しました」
「そうだな」
「返事を聞くのも、ただ待つのではなく、確認するためです」
そう言ってから、シルフィは小さく息を吐いた。
「それでも、リュシア姉様の顔を見ると、少し揺れます」
「揺れてもいいと思う」
「はい。揺れても、一人で決めません」
その言葉に、ぷる太が四角の木片へ体を寄せた。
「ぷる」
シルフィが少し笑う。
「ぷる太も同意です」
「心強いな」
馬車が村の入口で止まった。
扉が開き、リュシアが降りてくる。
今日は前よりずっと簡素な装いだった。
銀葉の紋章はついているが、儀礼用の硬い長衣ではない。外套も控えめで、護衛も一人だけだ。
それでも、彼女がリーフェン家の使者であることは一目で分かった。
背筋の伸び方。
言葉を飲み込むような目。
森の家で育った者の、あの静かな緊張。
リュシアは外部対応広場の前で足を止め、深く頭を下げた。
「リーフェン家より、森術学術会議に関する返答書をお持ちしました」
村長が一歩前へ出る。
「受け取る前に確認する。用件は返答書の受け渡しと説明のみか」
「はい。参加可否の即答を求めるものではありません」
その言葉に、村長は小さく頷いた。
「よい。外部対応広場へ」
リュシアは広場へ入った。
そこで、ぷる太の見張り桶に気づいたらしい。
彼女は一瞬だけ目を瞬かせ、それから真面目に頭を下げた。
「井戸守り殿も、お役目ご苦労さまです」
「ぷる?」
ぷる太が驚いたように揺れた。
ミナが少し離れた場所で、小声で言う。
「ぷる太、また挨拶された……!」
前回の若い使者に続き、リーフェン家側がぷる太に挨拶する。
村の中で、ぷる太の立場はますます強固になりそうだった。
◇
リュシアは机の来訪者側へ座った。
村側には、村長、シルフィ、俺。
横にクラウディア。
マルタさんは少し後ろで腕を組み、門番老人は入口側に立つ。
ぷる太は桶の中で四角の木片に寄り添っている。
まさに、保留の姿勢だ。
リュシアは白木の筒を取り出し、両手で机に置いた。
「こちらが返答書です。リーフェン家当主代理エルドランの名で作成され、法務官セラドが確認しています」
シルフィが手袋をつける。
クラウディアも横から確認する。
「封印術は?」
「開封確認のみです。攻撃性や精神誘導はありません」
シルフィが言った。
クラウディアも頷く。
「騎士団の検査札も反応なし。問題ありません」
村長が短く言う。
「開けろ」
シルフィが筒を開け、返答書を取り出した。
上質な羊皮紙。
整った文字。
リーフェン家らしい、美しすぎる文書だった。
シルフィが読み始める。
「リーフェル村より提示された『森術学術会議参加検討にあたっての事前確認条件』について、リーフェン家は学術的対話の実現を重んじ、以下の通り返答いたします」
部屋ではない。
外部対応広場だ。
風も吹いている。
それでも、その一文だけで空気が少し硬くなった。
「第一。参加者の身柄拘束、帰還強制、本人同意なき滞在場所変更、移動制限を行わないことを認める」
村長が頷く。
クラウディアが即座に控えへ印をつける。
「第二。身体検査、魔力検査、研究協力は本人の明確な同意を要するものとし、拒否したことを理由に不利益を与えない」
シルフィの声が、ほんの少しだけ揺れた。
俺は隣で、静かに彼女を見る。
シルフィは自分で息を整え、続けた。
「第三。王国騎士団一名、冒険者ギルド一名の同行を認める。同行者は会議場内で同席可能。ただし、研究設備区域への立ち入りは事前確認を要する」
クラウディアが口を開く。
「ここは注意が必要です。研究設備区域という表現が曖昧です」
「はい」
シルフィは頷いた。
「後で確認します」
ぷる太が四角の木片に体を寄せ直す。
保留。
曖昧なものは四角。
「第四。会議内容は双方が記録可能。記録魔道具の持ち込みを認める。ただし、魔道具の種類と機能は事前に開示すること」
「妥当です」
クラウディアが言う。
「こちらも同じ条件を相手に求めましょう」
「第五。世界樹、または世界樹と推定される存在について、所在地、成長状況、管理方法、村内影響等の回答義務を課さない。標本採取、現地検分、移動要求は会議議題に含めない」
マルタさんが小さく息を吐いた。
「そこ、飲んだんだね」
村長の目も細くなる。
「表向きはな」
シルフィは続ける。
「第六。当日、契約書、研究協力書、検査同意書、滞在延長同意書等への署名を求めない。仮署名も同様とする」
その瞬間、ぷる太がバツの木片へ勢いよく乗った。
「ぷるっ!」
ミナが小声で「署名バツ!」と言う。
リュシアはその様子を見て、少しだけ目元を緩めた。
「その条項については、リーフェン家も受け入れました」
クラウディアが冷静に言った。
「重要です。これを拒まなかったのは大きい」
シルフィは読み進める。
「第七。黒枝を含む隠密護衛を会議場周辺へ配置しない。通常護衛については、双方が確認可能な位置に限る」
門番老人が満足そうに頷いた。
「よし」
リュシアが少しだけ目を伏せる。
その条項は、リーフェン家にとってかなり痛いはずだ。
それでも返答書には、受け入れると書いてある。
「第八。会議後、参加者の帰還を妨げない。天候、魔物被害等で当日帰還が困難な場合は、本人、王国側同行者、リーフェル村側代表の合意をもって滞在場所を決める。外部施錠、封印客室の使用は行わない」
シルフィはそこで、一瞬だけ止まった。
外部施錠。
封印客室。
その言葉は、彼女の過去のどこかに触れたのだろう。
俺は小さく言った。
「よかった」
シルフィはこちらを見て、ほんの少しだけ頷いた。
「はい」
返答書は、思っていた以上にこちらの条件を受け入れていた。
でも、安心しきれるわけではない。
なぜなら、リーフェン家がそこまで譲歩したということは、それでも会議へ来させたい理由があるということでもあるからだ。
◇
読み終えた後、外部対応広場にはしばらく沈黙が落ちた。
村長が返答書を見たまま言う。
「かなり受け入れているな」
「はい」
クラウディアが頷く。
「ただし、いくつか曖昧な箇所があります。研究設備区域、簡易検査の手順、会議議題の追加禁止、知見共有の範囲。ここは再確認が必要です」
リーフェン家の返答書の最後には、こう書かれていた。
『会議では、森術および付与術の未来のため、参加者各位の率直な知見共有を期待いたします』
柔らかい。
でも、引っかかる。
俺はその一文を見て、胸の奥が少し重くなった。
知見共有。
つまり、話してほしいということだ。
俺の付与術について。
シルフィの古代森術について。
世界樹との関係について。
言葉としては強制ではない。
でも、会議の場で「未来のため」と言われたら、断りにくいかもしれない。
村長が俺を見た。
「アレン。どう感じる」
俺は懐の四角に触れた。
「受け入れてくれた条件は多いと思います。でも、怖さは残ります」
「どこが怖い」
「たぶん、会議の中で『助けられる人がいる』とか『話すだけでいい』とか言われたら、俺が迷いそうなところです」
正直に言った。
昨日までなら、そんな自分の弱さを隠そうとしたかもしれない。
でも、ここでは言った方がいい。
シルフィが静かに頷く。
「私も怖いです。条件を受け入れてくれたことで、逆に断りづらくなるかもしれません。ここまで譲歩されたのに、という気持ちが出ると思います」
マルタさんが言った。
「それを分かってるなら、半分は大丈夫だよ」
「半分?」
「怖さを分からないまま行くのが危ない。怖い場所が分かってるなら、そこに札を置けばいい」
マルタさんはぷる太の木片を指さした。
「バツと四角をね」
ぷる太が、四角の木片に体を寄せた。
「ぷる」
俺は少し笑った。
「ぷる太は本当に頼りになるな」
「ぷるる」
リュシアは、そのやり取りを黙って見ていた。
どこか眩しそうな顔だった。
◇
村長はリュシアへ向き直った。
「使者殿。返答書は受け取った。こちらは、今日この場で参加可否を決めない」
「承知しています」
リュシアは頭を下げた。
「返答期限は?」
「リーフェン家としては、十日以内に可否をいただきたいとのことです。ただ、追加確認がある場合は文書で受け付けると記されています」
クラウディアが確認する。
「追加確認の宛先は?」
「リーフェン家法務官セラド宛て。ただし、私が使者として仲介することも可能です」
村長は少し考えた。
「では、いくつか確認書を出す。返答を受けてから判断する」
「はい」
リュシアは素直に頷いた。
その態度に、俺は少し驚いた。
リーフェン家の使者なのに、今日のリュシアは押してこない。
むしろ、こちらが慎重に動くことを邪魔しない。
シルフィもそれを感じたのか、少しだけリュシアを見つめていた。
リュシアはしばらく迷ったように唇を閉じ、それから静かに言った。
「シルフィ」
「はい」
「条件書は、確かに届きました」
その声は、使者の報告というより、もっと個人的だった。
シルフィの目が揺れる。
「読まれましたか」
「ええ。読まれました。そして、リーフェン家は多くを受け入れざるを得ませんでした」
リュシアは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「あなたの言葉は、届きました」
シルフィは、すぐには返事をしなかった。
木札を握る。
指先が震えている。
「……私だけの言葉ではありません」
「分かります」
リュシアは、外部対応広場を見回した。
机。
板。
ぷる太の桶。
村人たち。
「この村の言葉ですね」
「はい」
「だから、強かったのだと思います」
シルフィは目を伏せた。
「姉様」
リュシアの表情が少しだけ変わった。
姉様。
その呼び方は、前より柔らかかった。
けれど、依存ではない。
距離を持ったままの呼び方だった。
「私は、まだ怖いです」
「はい」
「でも、条件書を出せました」
「ええ」
「それを、覚えておきます」
リュシアは深く頷いた。
「私も、覚えておきます」
◇
リュシアが帰る前に、マルタさんがお茶を出した。
外部対応広場用の、普通より少し良いだけのお茶である。
リュシアは最初遠慮したが、マルタさんに「長旅だったろう」と言われ、静かに受け取った。
一口飲む。
リュシアの目が少しだけ見開かれる。
「……おいしいです」
「普通のお茶だよ」
マルタさんが言う。
俺とシルフィは同時に視線を逸らした。
普通、ということにしているお茶だ。
実際、村内用ほどではない。
ただ、井戸水が良いので、どうしてもおいしい。
リュシアは木杯を両手で持ち、静かに言った。
「リーフェン家では、客へ出す茶にも意味があります。家格、歓迎度、交渉の上下。香り一つで示します」
「面倒だねぇ」
マルタさんが率直に言う。
リュシアは少し笑った。
「はい。面倒です」
「うちは、寒い日に来た人には茶を出す。それだけだよ」
「……その方が、難しいこともあります」
「そうかい?」
「はい」
リュシアは木杯を見つめた。
「意味をつけずに温めることは、意外と難しいです」
その言葉に、マルタさんは少しだけ目を細めた。
「なら、もう一杯飲んでいきな」
「よろしいのですか」
「茶くらいで駆け引きしないよ」
リュシアは、今度ははっきり笑った。
「ありがとうございます」
その光景を見て、シルフィは少し不思議そうな顔をしていた。
リュシアが、村の茶を飲んで笑っている。
きっと、昔のシルフィには想像できなかった光景なのだろう。
◇
リュシアを見送ったあと、村長の家で改めて会議が開かれた。
返答書は机の中央。
その横に、ぷる太の四角の木片が置かれている。
「かなり譲歩しているように見える」
村長が言った。
「だが、これで安全と決めてはならん」
「はい」
クラウディアが頷く。
「書面上の危険はかなり減りました。しかし、会議の場で言葉によって同意を引き出す可能性は残っています」
「言葉の戦いだね」
マルタさんが言う。
「そうですね」
俺は返答書の最後の一文を見た。
「率直な知見共有、か」
シルフィが言う。
「師匠、この言葉は危険です」
「うん」
「話すだけならいい、と思わせます。でも、話した内容が研究材料になります」
「俺、話しているうちに余計なこと言いそうだな」
「その自覚があるなら、対策できます」
クラウディアが言った。
「会議に参加する場合、事前に『答えない項目』を決めましょう。世界樹の詳細、付与術の再現手順、シルフィ殿の魔力回路の具体的変化。これらは、聞かれても答えない」
「答えない練習も必要ですね」
シルフィが記録する。
俺は少し苦笑した。
「最近、練習ばかりだな」
「必要な練習ばかりです」
「分かってる」
村長が腕を組む。
「参加するかどうかは、まだ決めん。だが、参加する場合の形は見えてきた」
「はい」
クラウディアが答える。
「王都側同行者の確定、追加確認書への返答、会議当日の役割分担。それらが整ってから、最終判断をすべきです」
「よし。まず王都へ連絡だ」
村長は俺を見る。
「アレン」
「はい」
「参加するなら、何を持っていく」
「え?」
「心構えではない。物だ」
俺は少し考えた。
「……四角の木片」
「それから?」
「バツの木片」
ぷる太がバツの木片に勢いよく寄った。
「ぷるっ」
マルタさんが笑う。
「それは絶対必要だね」
シルフィも頷いた。
「師匠用に、小さな丸、バツ、四角の三枚を用意しましょう」
「会議場で出すの?」
「出さなくても、懐に触れるだけで思い出せます」
「一人で決めない、嫌なものはバツ、確認できたものだけ丸」
「はい」
それだけで、少し安心した。
木片一枚で会議に勝てるわけではない。
でも、流されそうな時に、自分の場所へ戻る手がかりにはなる。
◇
夕方、クラウディアは王都へ送る報告書を書いた。
リーフェン家が条件の多くを受け入れたこと。
一部曖昧な文言が残ること。
会議参加の可能性が出てきたが、王国側同行者の確定が必要であること。
ギルド側記録補助も必要であること。
そして、リーフェル村側は即答せず、追加確認を行う方針であること。
シルフィは、その横で追加確認書の下書きを作っている。
俺は、小さな木片を三枚削っていた。
丸。
バツ。
四角。
バツの木片を削っている時、ぷる太がじっと見ていた。
「ぷる太、確認する?」
「ぷる」
ぷる太はバツの木片に体を寄せた。
「これはバツ」
「ぷるっ」
次に四角。
「これは四角」
「ぷる」
最後に丸。
「これは丸」
「ぷるる」
ぷる太は満足そうだった。
「合格?」
「ぷる」
「ありがとう」
ミナが横から言った。
「アレンお兄ちゃん、それ持っていけば大丈夫だよ」
「そうかな」
「だって、ぷる太の代わりだから」
俺は木片を見た。
ぷる太の代わり。
そう言われると、妙に心強い。
シルフィが、こちらを見て微笑んだ。
「師匠。村も一緒に持っていく、ということですね」
「村を?」
「はい。木片も、条件書も、記録も、同行者も。全部、リーフェル村の仕組みです」
俺は手の中の小さな木片を見つめた。
ただの木片。
でも、それは村で学んだことの形だった。
バツ。
嫌なものは嫌と言う。
四角。
分からないものは持ち帰る。
丸。
確認できたものだけ進める。
「参加するなら」
俺は言った。
「一人じゃなくて、村と一緒に行くんだな」
「はい」
シルフィは頷いた。
「私も、リーフェン家へ一人で戻るのではありません」
「うん」
「村の記録係として行きます」
その声は、静かだけれど強かった。
リュシアが言った言葉が胸に残る。
条件書は確かに届いた。
シルフィの言葉は、リーフェン家に届いた。
なら次は、会議の場で自分たちの言葉を守る番なのかもしれない。
まだ参加は決めていない。
でも、もし行くなら。
俺たちは、守られるだけの存在としてではなく、自分たちの条件を持つ者として行く。
外は夕焼けだった。
井戸の水面が赤く染まり、ぷる太がその光を受けてほんのり輝いている。
今日は丸ではない。
まだ四角。
けれど、その四角は不安だけではなく、次へ進むための準備の形にも見えた。




