第38話 カイル、初めてアレン宛ての謝罪文を書く
王都騎士団宿舎の一室で、カイルは白い羊皮紙を前にして固まっていた。
剣を握る方が、よほど楽だった。
魔族の群れに突っ込めと言われた方が、まだ迷わない。敵の急所を見極め、踏み込み、斬る。相手が強ければ強いほど、胸の奥にある焦りは炎に変わり、体を前へ押し出してくれる。
だが、今、机の上にあるのは敵ではない。
ただの紙だ。
羽ペンとインク壺。
そして、何度も丸められた失敗作の紙くず。
カイルは羽ペンを握り直した。
手のひらの豆が痛む。
昨日の訓練で潰れたものだ。アレンがいた頃なら、翌朝には痛みが引いていた。包帯の巻き方も、手のひらに負担がかからないよう自然に調整されていた。
今は、自分で巻いた布が少しきつい。
指を動かすたび、じくりと痛んだ。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
怒りの向きが分からなかった。
アレンにではない。
ミラにでもない。
グラウス副団長でも、クラウディアでもない。
たぶん、自分にだ。
それがまた腹立たしかった。
机の上に置かれた一枚目の書き損じには、こうある。
『アレン。お前に再び勇者パーティーへ戻る機会を与える』
カイルはそれを見て、顔をしかめた。
今なら分かる。
これは駄目だ。
いや、完全に分かっているわけではない。心のどこかでは、まだ「戻る機会を与える」という言い方の何がそこまで悪いのか、納得しきれていない。
だが、ミラに見せたら間違いなく破られる。
ガレスなら渋い顔をする。
リーナなら悲しそうに目を伏せる。
グラウスなら「所有するな」と言う。
クラウディアなら、無表情で「本人の意思がありません」と言うだろう。
そしてアレンは、たぶん困ったように笑う。
その顔が、なぜか一番胸に刺さった。
カイルは新しい紙を引き寄せた。
書き始める。
『アレン。俺は、お前を追放した時――』
そこで止まる。
追放した時、何を思っていた?
役に立たないと思った。
弱いと思った。
自分たちの足を引っ張っていると思った。
そうだ。
そう思っていた。
だから言った。
『お前はもう必要ない』
カイルは羽ペンを置いた。
耳の奥に、自分の声が戻ってくる。
あの時のアレンは、確かに何かを言いかけていた。
けれど、カイルは聞かなかった。
聞く必要がないと思っていた。
勇者である自分が判断したのだから、それが正しい。
そう信じていた。
いや、信じたかった。
扉が叩かれた。
「カイル、いる?」
ミラの声だった。
カイルは反射的に紙を伏せた。
「何の用だ」
「その反応、書いてる途中ね」
「入っていいとは言っていない」
「入るわよ」
返事を待たず、扉が開いた。
ミラが入ってくる。手には小さな盆。パンとスープ、それからインクの替え瓶が載っていた。
彼女は部屋の中を見回し、床の紙くずの数を見て、眉を上げた。
「ずいぶん戦ってるじゃない」
「うるさい」
「紙に負けてる勇者、なかなか珍しいわね」
「用がないなら出ていけ」
「用はあるわよ。夕食、食べてないでしょ」
「いらん」
「いる」
ミラは机の端に盆を置いた。
「腹が減ってると、人間ろくな文章を書かないわ」
「お前は書いたことがあるのか」
「謝罪文はないけど、学院時代に反省文なら何度も書いたわ」
「誇ることか」
「経験者の忠告よ」
ミラは勝手に椅子を引き、カイルの向かいに座った。
そして、伏せられた紙に視線を落とす。
「見せて」
「嫌だ」
「じゃあ読まずに言う。どうせ『戻る機会を与える』とか『お前の力が必要だ』とか書いたんでしょ」
カイルは黙った。
ミラはため息をつく。
「当たりか」
「……最初の紙だ」
「最初だけ?」
「今は違う」
「なら見せて」
カイルはしばらく睨んでいたが、やがて紙を差し出した。
ミラは受け取り、黙って読む。
書かれているのは、途中までだ。
『アレン。俺は、お前を追放した時、お前が何をしてくれていたのか分かっていなかった』
ミラは少しだけ表情を変えた。
皮肉ではなく、驚いたような顔だった。
「……いいじゃない」
「まだ一行だ」
「その一行が、前よりずっといい」
「馬鹿にしているのか」
「してない。ほんとに」
ミラは紙を机に戻した。
「前のあなたなら、『分かっていなかった』なんて絶対書かなかった」
「書いていて気分が悪い」
「でしょうね」
「認めるのは、気分が悪い」
「うん」
「だが、事実だ」
その言葉を言った瞬間、カイルは自分で息を止めた。
事実。
口に出してしまった。
ミラもそれに気づいたようだったが、茶化さなかった。
「続き、書けそう?」
「分からん」
「じゃあ、一つずつ考えましょう」
「お前が指図するのか」
「指図じゃなくて、添削。私、反省文経験者だから」
「それを誇るなと言っている」
ミラは肩をすくめた。
「まず、戻ってほしいって気持ちは書かない方がいい」
「なぜだ。事実だ」
「事実でも、今書くと全部それに見える。謝罪じゃなくて、復帰交渉になる」
「……」
「あなたが本当に書くべきなのは、アレンが戻るかどうかじゃない。あの時、何を傷つけたか」
カイルは紙を見る。
「何を、傷つけたか」
「そう。アレンの立場。努力。居場所。たぶん、自分には価値がないって思わせたこと」
カイルは顔をしかめた。
「そこまでか」
「そこまでよ」
ミラの声は柔らかいが、逃がさなかった。
「だって、私たちはアレンにそう扱った。役に立たないからいらないって。あの子がどれだけ裏で支えてくれてたか、見ようともしなかった」
「……お前もだろう」
「そうよ」
ミラは即答した。
「だから私は、私の分を書く。あなたはあなたの分を書いて」
カイルは黙った。
ミラは盆のパンを押し出す。
「食べながらでいい。勇者でも、謝罪文でも、空腹には勝てないから」
カイルは不承不承、パンを取った。
硬い。
騎士団のパンは相変わらず硬かった。
◇
しばらくして、ガレスとリーナも部屋へ来た。
ミラが呼んだわけではない。
いや、たぶん呼んだのだろう。ミラは知らない顔をしているが、ガレスの手には追加の湯気立つ茶があり、リーナは予備の羊皮紙を持っていた。
「おいおい、ずいぶん戦場みてぇな部屋だな」
ガレスが紙くずを見て言った。
「帰れ」
カイルが言う。
「まあそう言うな。俺たちも共犯だ」
「共犯?」
「アレンを軽く見てた件だよ」
ガレスは壁際の椅子に腰を下ろした。
「お前だけの謝罪で済む話じゃねぇ。だが、お前の言葉でしか書けねぇ部分もある」
リーナは机のそばに立ち、静かに言った。
「カイル。読ませていただいてもいいですか」
「まだ一行だ」
「一行でも」
カイルは紙を渡した。
リーナは丁寧に読み、小さく頷いた。
「良いと思います」
「本当にか」
「はい。少なくとも、アレンさんを必要だから戻したいという文ではありません」
その言葉に、カイルは少しだけ肩の力を抜いた。
リーナは続ける。
「でも、このあとに『だから戻ってこい』と書いたら台無しです」
「書かん」
即座に言った。
言ってから、自分で少し驚いた。
リーナは微笑んだ。
「では、次は何を分かっていなかったのかを書いてはどうでしょう」
「何を」
「具体的にです。アレンさんの支援。装備の管理。体調の確認。魔力の流れの調整。食事。地図。野営。たくさんあります」
ガレスが渋い顔で言った。
「多すぎるな」
「多いほど、俺たちが見てなかったってことだ」
ミラが言う。
カイルは羽ペンを持った。
しばらく考え、書く。
『お前が装備を整え、食事を用意し、俺たちの体調や魔力の流れを見ていたことを、俺は当然のもののように扱っていた』
書いたあと、カイルは眉をひそめた。
「長い」
「謝罪文って、短ければいいものじゃないわ」
ミラが言う。
ガレスが覗き込む。
「悪くねぇ。ただ、『当然のもののように』より、『当然だと思っていた』の方がいいんじゃねぇか」
「同じではないか」
「少し違う。自分がそう思ってたって、はっきり書いた方がいい」
リーナも頷いた。
「私もそう思います」
カイルは不満げに紙を見た。
だが、結局書き直す。
『俺は、それを当然だと思っていた』
短い一文。
だが、書くのにひどく力が要った。
当然だと思っていた。
その通りだった。
アレンが水を用意するのも、食事を整えるのも、武具の歪みを直すのも、野営地を選ぶのも、戦闘後に誰より先に動き回るのも。
全部、当然だと思っていた。
なぜならアレンは支援役だから。
それが役目だから。
そう考えていた。
カイルは羽ペンの先を見つめた。
「……俺は、アレンに礼を言ったことがあったか」
部屋が静かになった。
ミラは目を伏せた。
ガレスは頭をかいた。
リーナは胸元の聖印を握った。
「私は、あったと思います」
リーナが小さく言った。
「でも、たぶん足りませんでした。治療の補助をしてくれた時、ありがとうとは言いました。でも、それがどれだけ大変かまでは考えていませんでした」
「俺は……たぶん、鎧を直してもらった時に『助かった』くらいは言ったな」
ガレスが苦い声で言う。
「でも、毎回じゃねぇ」
「私なんて、『杖の調整うるさい』って文句の方が多かったわ」
ミラは自嘲した。
カイルは、何も思い出せなかった。
戦闘で勝った時、自分は仲間を褒めたことがある。
ミラの魔法、ガレスの盾、リーナの治癒。
だが、アレンに何か言った記憶が薄い。
後ろで荷を片づけているアレンに、「早くしろ」と言った記憶ならある。
カイルの喉が詰まった。
「……書く」
彼は言った。
『礼を言うべきだった。だが、俺は言わなかった』
書き終えたあと、部屋の中の誰もすぐには喋らなかった。
その一文は、ひどく不格好だった。
でも、たぶん必要だった。
◇
そこから先は、何度も止まった。
カイルは時々怒り、時々黙り込み、時々紙を破ろうとしてミラに止められた。
「これは言い訳っぽい」
ミラが言う。
「どこがだ」
「『戦況が厳しかったため』って書くと、厳しかったから仕方ないみたいに読める」
「事実だ」
「事実でも、謝る文の真ん中に置くと逃げ道に見える」
カイルは渋々その一文を消した。
ガレスも口を出す。
「ここ、『お前にも説明すべきことがあったはずだ』は駄目だな」
「なぜだ」
「アレンにも悪いところがあったみたいに読める」
「だが、あいつも自分の力を説明していなかった」
「本人も分かってなかったんだろ」
「……」
「今それを書くと、責任を半分渡してるように見える」
カイルは歯を食いしばり、その一文も消した。
リーナは、もっと静かに指摘した。
「ここは、『許してほしい』より、『許されるとは思っていない』の方がよいかもしれません」
「なぜだ。許しを求めるのが謝罪ではないのか」
「許すかどうかは、アレンさんが決めることです。こちらが最初から求めると、負担をかけてしまいます」
カイルは目を閉じた。
許されるとは思っていない。
そんな言葉を書くのも、胸がざらついた。
勇者である自分が、許されるかどうかを相手に委ねる。
だが、リーナの言う通りなのだろう。
カイルは書いた。
『この手紙で許されるとは思っていない』
続けて、しばらく考える。
『ただ、俺がしたことを、なかったことにはしない』
書いた瞬間、ミラが小さく息を吐いた。
「それ、いいと思う」
「そうか」
「うん」
ガレスも頷いた。
「ようやく、お前の言葉っぽい」
「褒めているのか」
「褒めてる」
リーナも微笑んだ。
「アレンさんに届くと思います」
カイルは紙を見下ろした。
届く。
届いてほしいのか。
許してほしいのか。
戻ってほしいのか。
全部ある。
完全には消せない。
だが、少なくとも、この手紙に「戻れ」とは書かない。
それだけは決めた。
◇
夜が深くなる頃、ようやく一通の手紙が形になった。
文面は、決して流麗ではない。
堅い。
不器用。
ところどころ、勇者らしい上からの言葉遣いが残りかけては、何度も削られている。
それでも、最初の紙とは違っていた。
カイルは最後まで読み上げた。
「アレン。
俺は、お前を追放した時、お前が何をしてくれていたのか分かっていなかった。
お前が装備を整え、食事を用意し、俺たちの体調や魔力の流れを見ていたことを、俺は当然だと思っていた。
礼を言うべきだった。だが、俺は言わなかった。
それどころか、俺はお前を役に立たないと決めつけ、必要ないと言った。
あの言葉で、お前を傷つけた。
今さら気づいたと言うのは、あまりに遅いと思う。
この手紙で許されるとは思っていない。
ただ、俺がしたことを、なかったことにはしない。
追放したこと、見ていなかったこと、支えを当然だと思っていたことを謝る。
すまなかった。
カイル」
読み終えたあと、部屋はしばらく静かだった。
ミラは目元を少し赤くしていた。
ガレスは腕を組んで、深く息を吐いた。
リーナは静かに頷いた。
「いいと思います」
リーナが言った。
「完璧ではありません」
ミラが続ける。
「でも、完璧な謝罪文なんて、たぶん気持ち悪いわ。これくらい不器用な方が、あなたらしい」
「俺らしいとは、褒めているのか」
「半分くらい」
ガレスが笑った。
「俺もいいと思う。戻ってこいって書かなかっただけ、かなり進歩だ」
「お前たちは俺を何だと思っている」
「前科持ちの勇者」
ミラが即答した。
カイルは言い返そうとしたが、疲れすぎていてやめた。
リーナがそっと言う。
「私たちも、それぞれ書きましょう。カイルだけに背負わせる話ではありません」
「そうね」
ミラが頷く。
「私も書く。杖の調整に文句ばっかり言ってごめんって」
「俺もだな。鎧と盾のこと、ちゃんと礼を言ってなかった」
ガレスが頭をかく。
カイルは三人を見た。
少し前なら、仲間が自分と同じように謝ると言うことを、屈辱に感じたかもしれない。
勇者の責任を分けられるようで。
あるいは、自分だけが悪いわけではないと逃げ道にしたかもしれない。
だが今は、少し違った。
これは逃げ道ではない。
四人で見ていなかったものを、四人で認めるだけだ。
「……好きにしろ」
カイルは短く言った。
それが、今の彼にできる精一杯だった。
◇
翌朝、カイルは手紙を封筒に入れた。
封蝋を押す直前で、少し手が止まる。
出してしまえば、もう取り消せない。
アレンがどう読むかは分からない。
笑うかもしれない。
怒るかもしれない。
読まずに置くかもしれない。
許さないかもしれない。
それでも、出す。
戻すためではない。
傷つけたから謝るために。
カイルは封蝋を押した。
勇者パーティーの印ではない。
個人の印。
ただのカイルとして。
そこへミラ、ガレス、リーナがやってきた。
三人とも、それぞれ封筒を持っている。
「出す?」
ミラが聞く。
「ああ」
カイルは短く答えた。
ガレスが苦笑する。
「なんか、討伐前より緊張するな」
「ええ」
リーナも頷く。
「でも、必要なことです」
四人はギルド便の受付へ向かった。
王都の朝は騒がしい。
冒険者たちの声、馬車の音、屋台の呼び込み。
その中で、四通の手紙がリーフェル村へ向けて預けられた。
派手な魔法でも、勇者の号令でもない。
ただの手紙。
それでも、カイルにとっては、剣を振るより難しい一歩だった。
手紙が旅立つのを見送りながら、カイルは手のひらの痛みを感じていた。
昨日より少し鈍い。
けれど、まだ残っている。
その痛みを、彼はしばらく忘れないだろうと思った。




