第34話 カイル、アレン抜きの訓練で現実を知る
王都騎士団の訓練場には、朝から乾いた音が響いていた。
木剣と木剣がぶつかる音。
盾で受ける鈍い音。
革靴が砂を踏む音。
息を吐く声。
怒号。
王国騎士団の訓練場は、冒険者ギルドの裏庭とは違う。そこには秩序があった。誰がどこで何をするのか、どの時間に何を鍛えるのか、すべてが決められている。
勇者パーティーがそこを使うのは、本来なら異例だった。
だが、活動制限中の今、彼らは王国騎士団の監督下で基礎訓練を受けることになっている。
屈辱。
カイルにとって、それ以外の言葉はなかった。
「構えが高い」
訓練官の声が飛ぶ。
カイルは木剣を握ったまま、眉をひそめた。
「高いだと?」
「高い。肩に力が入りすぎている。初動が読める」
訓練官は、年季の入った中年の騎士だった。
名はロイド。
派手な武勇伝を持つ英雄ではない。だが、騎士団内では「新人の鼻っ柱を折るのがうまい」と評判の男だった。悪意があるわけではない。ただ、相手が貴族だろうが勇者だろうが、剣筋が悪ければ悪いと言う。
カイルはその態度が気に入らなかった。
「俺はこの構えで魔族を斬ってきた」
「今は訓練だ」
「実戦で通じた構えに、なぜ文句をつける」
「以前は通じた。今は崩れている」
ロイドは木剣を肩に担ぎ、淡々と言った。
「もう一度構えろ」
カイルのこめかみが動く。
周囲には若い騎士たちもいる。
ミラ、ガレス、リーナも見ている。
その前で、勇者である自分が基礎の構えを直されている。
耐えがたい。
だが、ここで反発して訓練を投げ出せば、それこそ周囲の思うつぼだ。
カイルは歯を食いしばり、構え直した。
ロイドが近づき、木剣の先でカイルの肩を軽く叩く。
「肩を落とせ」
「分かっている」
「分かっている者の肩ではない」
「……」
「足幅が広い。踏み込みが遅れる」
「これで踏み込める」
「踏み込めると、戻れるは違う。今のお前は斬り込んだ後に戻れない」
カイルは言い返そうとして、やめた。
以前なら、確かに戻れた。
斬り込んだ後、体が自然に軽かった。足が流れず、剣を振った後も魔力が乱れなかった。呼吸も整っていた。
今は違う。
踏み込むたびに、体が重い。
斬った後の一瞬、足が地面に沈むような感覚がある。
聖剣ではなく木剣なのに。
軽いはずなのに。
「もう一度だ」
ロイドが言った。
カイルは木剣を構え、踏み込んだ。
鋭い一撃。
普通の騎士なら、その速さだけで圧倒されただろう。
だが、ロイドは半歩だけ横へずれ、カイルの木剣を受け流した。
次の瞬間、カイルの脇腹にロイドの木剣が軽く当たる。
「一本」
「今のは」
「足が残った。上体だけで追った」
「避けただけだろう」
「避けられて当てられた。それが結果だ」
ロイドの声は冷静だった。
カイルは唇を噛む。
周囲の若い騎士たちが、息を潜めて見ているのが分かる。
彼らの目に、失望があるのではないか。
そう思うだけで、胸の奥が焦げるようだった。
ロイドは構えを解かずに言う。
「もう一度」
「……ああ」
カイルは再び踏み込んだ。
だが、結果は同じだった。
速い。
強い。
しかし、荒い。
ロイドは真正面から力で受けない。半歩ずらし、刃筋を外し、カイルの重心が流れたところを軽く打つ。
三度。
四度。
五度。
全部、同じように崩された。
ついにカイルは木剣を下ろし、息を荒げた。
「なぜだ」
声が漏れた。
ロイドは構えを解いた。
「何がだ」
「俺の動きは、こんなに鈍くなかった」
「そうだろうな」
「分かるのか」
「記録映像で見た。以前の勇者カイルは、もっと無駄がなかった。踏み込み後の戻りも速い。剣筋も今ほど荒れていない」
「なら、なぜ今は」
「支えがなくなったからだろう」
ロイドは遠慮なく言った。
カイルの顔が強張る。
「アレンの話か」
「名は知らん。だが、支援役がいたのだろう」
「俺自身の剣だ」
「剣はお前のものだ。だが、体の状態、呼吸、魔力循環、疲労管理、装備調整。それらまで一人で整えていたか?」
カイルは答えられなかった。
ロイドは続ける。
「お前は強い。これは間違いない。だが、今は自分の強さが何で成り立っていたかを見失っている」
「……俺は勇者だ」
「肩書きは構えを直してくれん」
短い一言だった。
訓練場の空気が、少し冷えた。
カイルは何かを言い返そうとした。
だが、息が上がっている。
腕も重い。
木剣を握る手が、わずかに震えていた。
◇
少し離れた場所で、ガレスは盾を構えていた。
左肩にはまだ軽い痛みがある。
以前なら、多少痛くても無理に前へ出た。
アレンがいれば、後で包帯も薬も調整してくれる。鎧の締め具合も、盾の持ち方も、自然に負担が減るよう整えてくれていた。
それを、当たり前だと思っていた。
「ガレス殿」
別の訓練官が声をかける。
「盾の角度が深すぎる。肩をかばっている」
「分かるか」
「分かる。今の受け方では、横から押された時に腰が流れる」
「だよな」
ガレスは苦笑した。
「前なら、気にならなかったんだが」
「前はどうしていた」
「……アレンが盾の革紐を調整してくれてた。あと、たぶん俺の立ち方も横で見てたんだろうな。『少し左足を引いた方が安定します』とか言われてた」
「聞いていたのか」
「半分くらい」
「今から全部聞くつもりでやれ」
「耳が痛ぇ」
ガレスは盾を構え直した。
訓練官が木槌で盾を打つ。
重い衝撃。
ガレスは受ける。
肩に痛みが走った。
「くっ」
「今のは肩で受けた。盾は腕だけで持つものではない。腰、背中、足で受けろ」
「分かってる」
「分かっている者の受け方ではない」
「今日、それ流行ってるのか?」
ガレスが苦笑すると、訓練官は真顔で言った。
「騎士団では昔からだ」
「そうかい」
もう一度。
今度は足を意識する。
衝撃を肩だけで止めない。
腰へ逃がす。
足で踏む。
以前、アレンが何度も言っていた。
『ガレスさん、盾の革紐、少しきついです。左肩に負担が来ます』
『いや、これくらいの方がずれねぇんだよ』
『ずれない代わりに、明日痛みますよ』
『明日のことは明日の俺が考える』
『明日のガレスさん、たぶん俺に文句言います』
そんな会話を、何度しただろう。
その時は笑って流していた。
今になって、全部戻ってくる。
ガレスは盾の裏で、苦い顔をした。
「……悪かったな、アレン」
「何か言ったか」
「いや。もう一本頼む」
「よし」
木槌が盾を打つ。
今度は、少しだけ痛みが少なかった。
◇
ミラは、訓練場の端で魔力制御の基礎をやっていた。
これがまた、屈辱だった。
目の前には小さな魔石。
それに一定量の魔力を流し、色を変えず、割らず、ただ淡く光らせ続ける。
魔法学校の初級生がやるような練習だ。
かつてのミラなら、鼻で笑っていた。
今は、その魔石が何度も明滅している。
「また乱れた」
指導役の老魔術師が言う。
王国騎士団所属の魔術顧問で、名はエルバート。白い髭を撫でながら、半眼でミラを見ている。
「分かってるわよ」
「分かっておるなら直せ」
「直そうとしてるの」
「力で押しておる」
「押さないと流れないのよ」
「それが間違いだ」
エルバートは杖で地面を軽く叩いた。
「魔力は水と同じだ。押し込めば乱れる。流れ道を整えろ」
その言葉に、ミラは顔をしかめた。
「……それ、前にも聞いたことある」
「誰に」
「アレン」
「ならば、よいことを言う支援役だったのだな」
「そうね」
ミラは魔石を見つめる。
アレンはいつも、ミラの杖の魔石を調整していた。
『ミラさん、今日は魔力の出が少し荒いです。火属性を使うなら、最初の詠唱を半拍遅らせた方がいいかもしれません』
『半拍って何よ。感覚派みたいなこと言わないで』
『ミラさんもかなり感覚派ですよ』
『うるさいわね』
そんなやり取り。
そして実際、アレンの言う通りにすると魔法の通りが良くなった。
でもミラは、それを自分の調子が戻ったのだと思っていた。
違った。
戻してもらっていたのだ。
「腹立つ」
ミラが呟く。
エルバートが眉を上げた。
「誰にだ」
「昔の私に」
「ならばよい」
「よいの?」
「他人に腹を立てているうちは進まん。昔の自分に腹を立てるなら、今の自分を変えられる」
ミラは少し黙った。
老魔術師の言葉は、皮肉に聞こえない。
ただ、長く生きた人間が言う事実のようだった。
「もう一回やるわ」
「力を抜け」
「分かってる」
「分かっている者の魔力では」
「それ、さっきから訓練場のあちこちで聞こえるんだけど」
「騎士団の伝統だ」
「嫌な伝統ね」
ミラは深呼吸した。
魔力を押さない。
流れ道を整える。
アレンが何度も言っていた感覚を思い出す。
魔石が、今度は少しだけ安定して光った。
ほんの少し。
それでも、今のミラには大きな一歩だった。
◇
リーナは、訓練場の隅に設けられた治癒訓練用の天幕にいた。
相手は負傷兵ではない。
訓練用の魔力人形だ。
表面には疑似的な傷が浮かび、魔力を流すことで治癒手順を確認できる。
リーナは両手をかざし、慎重に魔力を流した。
傷が淡く光る。
だが、すぐに光が強くなりすぎた。
「止めて」
神殿から派遣された治癒師が言った。
リーナは慌てて魔力を切る。
「すみません」
「謝る前に、今の感覚を覚えて」
「はい」
「あなたは治そうとする気持ちが強すぎる。だから、必要以上に魔力を流し込む」
リーナは胸に手を当てた。
「以前は、それでも治せていました」
「支援があったからでしょう」
「……はい」
もう、その言葉から逃げるつもりはなかった。
アレンがいた頃、リーナの治癒はよく効いた。
疲れていても、魔力が戻る。
傷口の状態も見やすい。
患者の体力も保たれる。
それを、彼女は自分の祈りの強さだと思っていた。
もちろん、リーナの力もあった。
だが、その力を安定させていたのはアレンだった。
「もう一度、お願いします」
リーナは言った。
治癒師は頷く。
「今度は、半分でいい」
「半分」
「助けたい気持ちは、魔力の量で示すものではないわ」
その言葉に、リーナの目が少し揺れた。
「……はい」
助けたい気持ち。
アレンも、そうだった。
誰かを助けたいから、自分を削る。
リーナは、その優しさに甘えていた。
そして今、自分も同じように魔力を流し込みすぎている。
助けたい気持ちが、必ずしも良い結果につながるわけではない。
それを学ばなければならない。
「もう一度」
リーナは小さく祈り、今度は魔力を細く流した。
疑似傷がゆっくり閉じる。
少し時間はかかった。
だが、魔力人形の全体に負荷は少ない。
治癒師が頷いた。
「今の方がいい」
「でも、遅いです」
「遅くていい。焦って患者の体力を削るより、ずっといい」
リーナは小さく息を吐いた。
「私は、焦っていたのですね」
「勇者パーティーにいる者は、皆そうでしょう」
「皆……」
「救わなければならない。勝たなければならない。遅れてはいけない。そう思いすぎると、祈りまで刃になる」
リーナは目を閉じた。
祈りまで刃になる。
その言葉が胸に残った。
◇
昼前、四人は訓練場の端に集められた。
カイルは息を荒げ、額に汗を浮かべている。
ガレスは肩を押さえながらも、さっきより少し盾の構えが安定していた。
ミラは疲れ切った顔で杖にもたれている。
リーナは静かに呼吸を整えていた。
訓練官ロイドが、四人の前に立つ。
「今日の午前の結果を言う」
カイルが顔を上げた。
「俺からか」
「全員だ」
ロイドは容赦なく続けた。
「勇者カイル。剣速と瞬発力は高い。だが、判断が荒い。踏み込み後の戻りが遅く、支援を前提にした動きが抜けていない」
カイルの眉が動く。
「支援を前提に」
「そうだ」
ロイドはガレスを見る。
「重戦士ガレス。盾受けの基礎はある。だが、左肩をかばいすぎて全体の重心が崩れている。以前の装備調整に頼っていた部分が大きい」
「耳が痛ぇな」
「魔法使いミラ。魔力量は十分。だが、出力制御が粗い。杖と魔石の補正がない状態では、詠唱の安定性が落ちる」
「分かってるわ」
「僧侶リーナ。治癒力は高い。だが、過剰投入の癖がある。患者ではなく自分の焦りを治そうとしている」
リーナは小さく頭を下げた。
「はい」
ロイドは四人を見渡した。
「総評。以前のお前たちは、個々の強さに加え、見えない支援で穴を埋めていた。今はその支援がない。だから穴が見えている」
カイルが低く言う。
「つまり、アレンがいないからだと」
「違う」
ロイドは即座に否定した。
「今見えている穴は、もともとお前たちのものだ」
沈黙。
その一言は重かった。
「支援役がいたから、穴が塞がっていた。だから戦えていた。それ自体は悪いことではない。戦場では支え合うのが当たり前だ。問題は、その支えを理解せず、自分だけの力だと思い込んだことだ」
ミラが目を伏せる。
ガレスが苦い顔をする。
リーナは胸元の聖印を握った。
カイルだけが、ロイドを睨んでいる。
「俺たちは、どうすればいい」
ガレスが聞いた。
ロイドは答える。
「基礎をやり直す。自分の穴を自分で知る。支援がない状態でどこまでできるかを把握する。その上で、支援を受けるなら、感謝して受ける」
「感謝、か」
ミラが小さく言った。
「今さらすぎるわね」
「今さらでもやれ」
ロイドは淡々としている。
「今さらを嫌がって死ぬより、今さらでもやって生きる方がいい」
「騎士団の人って、いちいち言葉が痛いわね」
「痛いところを突いているからだ」
ガレスが低く笑った。
「違ぇねぇ」
カイルは笑わなかった。
彼はロイドを見据えたまま言った。
「俺は、勇者だ。基礎訓練に時間を使っている間にも、魔王軍は動いている」
「だからこそだ」
「何?」
「勇者が焦って死ねば、王国の損失は大きい。勇者が判断を誤れば、仲間も巻き添えになる。肩書きが大きいほど、基礎を軽んじるな」
カイルの顔が歪む。
「俺が判断を誤っていると?」
「今朝の訓練ではな」
「訓練では、だと?」
「実戦でも同じなら死ぬ」
遠慮のない言葉だった。
カイルは拳を握った。
ガレスが横から低く言う。
「カイル」
「何だ」
「俺は、訓練官の言う通りだと思う」
「お前まで」
「俺も痛いこと言われたからな。肩をかばってる、装備調整に頼ってた。全部その通りだ。腹は立つが、嘘じゃねぇ」
ミラも続けた。
「私も。魔力制御、ぼろぼろだった。杖の調整をアレンに任せきりだったの、今日で嫌ってほど分かった」
リーナも静かに言う。
「私も、治癒を急ぎすぎていました。アレンさんが整えてくれていたから、崩れずに済んでいただけでした」
三人の言葉は、カイルにとってさらに重かった。
仲間たちが、自分の弱さを認め始めている。
それは前進なのだろう。
だが、カイルには置いていかれるように感じられた。
自分だけが、勇者という場所に残ろうとしている。
そんな感覚。
「……お前たちは、それでいいのか」
カイルは低く言った。
「弱くなったと認めて、基礎からやり直して、それで満足か」
「満足じゃないわ」
ミラは即答した。
「悔しいに決まってる。恥ずかしいに決まってる。でも、認めないと進めない」
「俺は」
カイルは言いかけ、言葉を止めた。
俺は認めない。
そう言おうとした。
だが、午前中の自分の剣が頭をよぎった。
踏み込んだ後、戻れなかった。
受け流され、脇腹を打たれた。
木剣なのに息が上がった。
以前なら、あんな動きではなかった。
なぜだ。
支援がないから。
違う。
そう言いたい。
だが、体が覚えている。
以前、自分の足はもっと軽かった。
呼吸も乱れなかった。
聖剣を振った後、魔力が自然に整っていた。
それを整えていたのは、本当に誰だったのか。
カイルは、喉の奥に何かが詰まるのを感じた。
「午後も続ける」
ロイドが言った。
「嫌なら帰ってもいい。ただし、帰った者は訓練放棄として報告する」
「ずいぶんだな」
ミラが呟く。
「優しくしてほしいなら、ギルドの酒場へ行け。ここは訓練場だ」
「最悪」
「褒め言葉として受け取る」
少しだけ空気が緩んだ。
だが、カイルだけは動けなかった。
◇
昼休憩。
訓練場の端にある石段で、カイルは一人座っていた。
手には木剣。
昼食には手をつけていない。
遠くでガレスが大盛りのパンを食べている。ミラは文句を言いながらもスープを飲んでいる。リーナは治癒師と何かを話し込んでいた。
皆、前へ進もうとしている。
カイルには、そう見えた。
その時、ミラがパンを二つ持って近づいてきた。
「食べなさい」
「いらん」
「いるわよ。午後も訓練あるんだから」
「放っておけ」
「放っておいた結果、色々まずいことになったから今来てるの」
ミラは隣に腰を下ろし、パンを差し出した。
カイルは受け取らない。
ミラはため息をついた。
「あなた、食べないと余計に苛立つタイプよ」
「知ったような口を」
「そりゃ知ってるわよ。何年一緒にいると思ってるの」
カイルは少し黙った。
何年。
そうだ。
ミラとも、ガレスとも、リーナとも、長く戦ってきた。
そこには確かに時間があった。
アレンも、その中にいた。
地味で、目立たなくて、後ろにいて、でもずっといた。
「……俺は、そんなに間違っていたのか」
自分でも驚くほど、低い声だった。
ミラはすぐには答えなかった。
軽く言えば、カイルはまた反発する。
そう分かっている顔だった。
「全部が間違いだったわけじゃない」
やがて、ミラは言った。
「あなたは本当に強かった。何度も私たちを助けた。魔族相手に前へ出られるのは、誰にでもできることじゃない。あなたが勇者だってことまで、私は否定しない」
カイルは黙って聞いた。
「でも、アレンへの扱いは間違ってた」
ミラの声は静かだった。
「私も間違ってた。ガレスも、リーナも。あなた一人のせいじゃない。でも、一番強い言葉で追い出したのは、あなたよ」
「俺は……」
「うん」
ミラはパンを膝に置いた。
「あなたは、アレンの力が見えてなかった。私たちも見えてなかった。見えてなかったから、いなくなって初めて困った。それはもう仕方ない。でも、困ったから戻れっていうのは違う」
「では、どうすればいい」
「謝る」
「そればかりだな」
「それしか入口がないから」
カイルは顔を歪めた。
「謝れば戻るのか」
「たぶん戻らない」
「なら意味がない」
「そこが違うのよ」
ミラはカイルを見た。
「戻すために謝るんじゃない。傷つけたから謝るの」
その言葉は、ロイドの木剣より痛かった。
カイルは何も言えない。
ミラは続けた。
「あなたはまだ、謝罪を交渉の道具にしようとしてる。謝れば戻るか、戻らないなら意味がないか。そうじゃなくて、まず傷つけたことを認める。それがないと、たぶん何も始まらない」
「……お前は、変わったな」
「変わらざるを得なかったのよ」
ミラは苦笑した。
「魔石一つまともに安定させられない自分を見たら、さすがにね」
彼女はパンをカイルの膝に置いた。
「食べなさい。勇者でも、腹は減るんだから」
そう言って立ち上がる。
カイルはパンを見下ろした。
素朴な騎士団のパン。
硬そうだった。
以前なら、アレンが少し温めてくれた。
乾いたパンでも、食べやすくなるように。
カイルは、ようやく小さくちぎって口に入れた。
硬い。
味気ない。
でも、食べなければ午後は動けない。
そんな当たり前のことを、今さら思い知った。
◇
午後の訓練は、連携だった。
カイル、ガレス、ミラ、リーナ。
四人で魔物役の騎士たちを相手に動く。
以前なら、簡単にできたはずの訓練だ。
だが、結果は散々だった。
「前に出すぎ!」
ミラが叫ぶ。
「詠唱が間に合わない!」
「遅い!」
カイルが返す。
「遅いんじゃなくて、あなたが早すぎるのよ!」
ガレスが盾を構えて割って入る。
「カイル、一回下がれ! リーナの位置が遠い!」
「俺はまだ行ける!」
「お前だけならな!」
その瞬間、横から魔物役の騎士が入り込み、リーナの近くまで迫った。
リーナが短い詠唱で防御結界を張る。
だが薄い。
カイルが振り返る。
遅い。
ロイドの木剣が地面を叩いた。
「止め!」
全員が動きを止める。
ロイドは低い声で言った。
「全滅だ」
カイルが息を荒げる。
「今のは、魔物役が」
「言い訳はいらん」
ロイドは冷たく言った。
「カイル、お前が突出した。ガレスは追いきれず、ミラは射線を失い、リーナは孤立した。以前なら、誰かがその乱れを補正していたのだろう。今はいない」
その言葉で、全員が分かってしまった。
アレンだ。
彼なら、戦闘前に配置を少し変えていたかもしれない。
カイルの踏み込みに合わせて、ガレスの盾位置を補助していたかもしれない。
ミラの魔力の流れを整え、リーナの結界が間に合うよう支えていたかもしれない。
誰も気づかないところで。
「もう一度だ」
ロイドが言う。
カイルは、初めてすぐに反論しなかった。
木剣を握り直す。
息を整える。
踏み込む前に、一度だけ後ろを見た。
ガレスがいる。
ミラがいる。
リーナがいる。
以前は見なくても大丈夫だった。
いや、見なくても大丈夫にしてもらっていた。
カイルは、喉の奥で小さく息を吐いた。
「……ガレス」
「あ?」
「俺が一歩出る。お前は半歩遅れて左を固めろ」
ガレスが目を丸くした。
「分かった」
「ミラ」
「何」
「最初の火球はいらない。足止めを」
ミラも少し驚いた顔をした。
「分かったわ」
「リーナ」
「はい」
「結界は俺ではなく、ミラの前に張れ。俺は自分で避ける」
リーナの目が揺れた。
でも、すぐに頷く。
「分かりました」
ロイドが黙って見ている。
カイルは構えた。
完璧ではない。
まだ肩に力が入っている。
判断も硬い。
だが、初めて仲間を見た。
訓練が再開される。
結果は、勝利ではなかった。
途中で陣形は崩れ、最後はガレスが押し込まれて止められた。
だが、全滅ではなかった。
ミラの足止めが効き、リーナの結界が間に合い、カイルは突出しすぎなかった。
ロイドは木剣を下ろして言った。
「少しはましだ」
それだけだった。
褒め言葉にしては短い。
だが、今の四人には十分だった。
ガレスが笑う。
「聞いたか、少しはましだってよ」
「それで喜ぶの、かなり情けないわね」
ミラが言う。
「でも、まあ、午前よりはまし」
リーナも小さく微笑んだ。
「はい。少しだけ」
カイルは黙っていた。
胸の奥に、屈辱とは違うものがあった。
小さな手応え。
認めたくないほど小さい。
でも、確かにあった。
◇
訓練が終わる頃には、夕日が訓練場を赤く染めていた。
カイルは木剣を返し、手のひらを見た。
豆が潰れている。
勇者の手とは思えないほど、地味な痛みだった。
ロイドが近づいてくる。
「明日も来るか」
カイルは顔を上げた。
「来いという命令か」
「質問だ」
「……来る」
短く答えた。
ロイドは頷いた。
「なら、明日は踏み込みと戻りを重点的にやる」
「また基礎か」
「当然だ」
「……分かった」
その返事に、ロイドは少しだけ目を細めた。
初めて、反発ではない返事だったからだ。
「勇者カイル」
「何だ」
「お前は弱くなったのではない」
カイルは眉を動かす。
「では何だ」
「支えられていた部分が見えるようになっただけだ」
「それを弱くなったと言うのではないか」
「違う。見えたなら、鍛えられる」
ロイドはそう言って去っていった。
カイルはその背中を見送る。
見えたなら、鍛えられる。
その言葉が、訓練場の夕風の中に残った。
遠くで、ミラがガレスと何かを言い合っている。
リーナは治癒師に礼を言っている。
皆、疲れている。
だが、朝より少しだけ顔が違う。
カイルは空を見た。
王都の夕焼け。
リーフェル村の夕焼けも、同じ色なのだろうか。
アレンは今頃、畑を見ているのかもしれない。
井戸のそばで、スライムに字を教えているのかもしれない。
その想像に、胸が少し痛んだ。
戻せばいい。
昨日までの自分は、そう考えていた。
今も、その考えが完全に消えたわけではない。
だが、今日の訓練で一つだけ分かったことがある。
アレンがいないことだけが問題なのではない。
自分自身にも、穴があった。
それを認めるのは、悔しい。
腹が立つ。
情けない。
けれど、認めなければ、また同じように崩れる。
カイルは手のひらを握った。
潰れた豆が痛む。
その痛みを、今日は消してくれる者はいない。
だからこそ、忘れない気がした。




