第31話 アレン、騎士団にも戻らないと答える
翌朝、クラウディアは村の井戸端で目を覚ました。
正確には、井戸端で目を覚ましたわけではない。
村長の家の客間を借り、そこで眠った。騎士団の宿舎に比べれば簡素な寝台だったが、不思議とよく眠れた。夜中に目を覚ますこともなく、剣を確認する癖も出なかった。
問題は、目覚めて外へ出た瞬間だった。
井戸のそばに、スライムがいた。
それ自体は昨日も見た。
井戸守りぷる太。
記号を識別し、偽薬を見抜き、時々光るという、報告書に書けば書くほど上官の眉間に皺が増えそうな存在である。
そのぷる太が、今朝は井戸の縁に乗り、小さな木片を前にしていた。
木片には、丸、三角、バツ。
その隣で、ミナという少女が真剣な顔で言う。
「ぷる太、これは?」
「ぷる」
ぷる太は丸の木片に体を寄せた。
「正解! 水!」
「ぷるる」
「じゃあ、これは?」
三角。
ぷる太は薬草の籠へ体を向ける。
「正解! 薬!」
「ぷる!」
「じゃあ、これは?」
バツ。
ぷる太は勢いよく跳ねた。
「ぷるっ!」
「正解! だめ!」
クラウディアは、その光景を無言で見ていた。
朝から常識を壊しに来る村である。
しかも、村人たちは誰も驚いていない。水汲みに来た女性は「ぷる太、今日も勉強してえらいねぇ」と声をかけ、畑へ向かう若者は「そのうち契約書も読めるようになるんじゃないか」と笑っている。
冗談なのか、本気なのか、判断が難しい。
「クラウディアさん、おはようございます」
背後から声をかけられた。
振り返ると、アレンが桶を持って立っていた。
作業着姿で、すでに袖をまくっている。朝から畑へ行く気満々の顔だった。
「おはようございます、アレン殿」
「よく眠れましたか?」
「はい。驚くほど」
「それならよかったです。ここの寝具、村長さんが古い綿を干してくれたんです。あと、シルフィが少しだけ湿気除けを」
「少しだけ、ですか」
「はい」
クラウディアは、昨日学んだ。
この村で「少しだけ」は危険な言葉だ。
だが、眠れたのは事実だ。
「おかげで体が軽いです」
「長旅でしたからね。朝食、もうすぐできますよ」
「その前に、一つ確認を」
「はい?」
クラウディアは井戸の方を見た。
「ぷる太は、毎朝ああして学習を?」
「最近始まりました」
「最近」
「外向き商売の決まりを作った時に、怪しい薬はぷる太にも見てもらうことになって。それなら簡単な記号くらい分かった方がいいって、ミナが」
「なるほど」
筋は通っている。
通っているのが逆に困る。
アレンは困ったように笑った。
「変ですよね」
「変です」
クラウディアは正直に答えた。
「ですが、理には適っています」
「それ、シルフィにも言われました」
「この村は、変なことに理屈がつくのですね」
「俺も最近、そう思います」
アレンは少し笑った。
その笑い方は自然だった。
勇者パーティーの元支援役、神級付与の可能性を持つ青年、王国やエルフ名家が注目し始めた人物。
そんな肩書きより、今朝の彼は、ただ村の朝食と畑を気にする若者に見えた。
だからこそ、今日聞かなければならない。
クラウディアは、表情を引き締めた。
「アレン殿。朝食後で構いません。昨日の続きとして、あなたの意思を正式に確認させてください」
アレンは少しだけ緊張した。
だが、逃げるような顔ではなかった。
「分かりました」
それから彼は井戸の方へ向き直る。
「ぷる太、朝食の前に井戸水を少しもらうぞ」
「ぷる」
ぷる太が得意げに揺れた。
クラウディアは思わず聞いた。
「井戸守りの許可制なのですか」
「なんとなく、声をかけないと悪い気がして」
「そうですか」
報告書に書くかどうか、迷う項目がまた増えた。
◇
朝食は広場で取ることになった。
豆粥、焼いた麦餅、香草入りの茶。
豪華ではない。
しかし、村人たちが自然に集まり、各々の椀を手に座る光景には、不思議な温かさがあった。
クラウディアは騎士団では、食事を素早く済ませる方だった。
任務前ならなおさらだ。
だが、この村では食事そのものが会議の前段階のようだった。誰かが畑の様子を話し、誰かが保存庫の棚の調子を話し、ミナがぷる太の勉強成果を誇らしげに語る。
「ぷる太、バツが一番得意なんだよ!」
「ぷる!」
「バツが得意って、いいことなのか?」
アレンが首を傾げる。
マルタが笑った。
「だめなものをだめって分かるのは大事だよ」
「それはそうですね」
シルフィが真面目に頷く。
「師匠にも必要な能力です」
「俺にも?」
「はい。危険な契約、過労、無理な依頼、全部バツです」
「俺、ぷる太に教わる側なのか」
「ぷる」
ぷる太が誇らしげに揺れた。
クラウディアは、茶を飲みながらその会話を聞いていた。
この村は、アレンを祭り上げていない。
頼りにはしている。
感謝もしている。
だが、同時に止めている。
過労を止め、無理を止め、危ない契約を止める。
これは、王都側が考える「有能な付与術師の保護」とはまったく違う形だった。
村がアレンを守っている。
アレンが村を守るだけではなく。
朝食が終わると、村長が杖を手に立ち上がった。
「では、騎士殿の話を聞こう」
クラウディアは椀を置き、姿勢を正した。
「ありがとうございます」
広場の空気が少し変わる。
子供たちはマルタに促され、少し離れた場所へ移動した。ただしミナとぷる太は、なぜか微妙な距離で聞こえる位置にいる。
ぷる太は桶の中で大人しくしている。
聞く気らしい。
クラウディアは、あえて追い払わなかった。
◇
「まず前提を確認します」
クラウディアは静かに話し始めた。
「私は王国騎士団の調査官として来ました。目的は、リーフェル村の状況確認、ガリオン男爵家およびドラン商会の干渉調査、そしてアレン殿本人の意思確認です」
アレンは頷いた。
「はい」
「私は、あなたを強制的に王都へ連れていく権限を持っていません。また、その目的もありません」
村人たちの間に、わずかな安堵が広がる。
シルフィも、表情を少し緩めた。
クラウディアは続ける。
「ただし、あなたの付与能力が王国にとって重要である可能性は否定できません。井戸水、薬草、保存棚、畑、シルフィ殿の魔力回路、ぷる太、そして世界樹の若木。昨日見た範囲だけでも、通常の付与術とは比較にならない影響が確認できました」
アレンは、少し居心地悪そうに視線を落とした。
「俺は、そんな大げさなことをしているつもりは」
「つもりがないことも確認しました」
クラウディアは言った。
「むしろ、それが問題を難しくしています」
「難しく?」
「はい。あなたは、自分の力を使っている自覚が薄い。そのため、周囲の者が価値だけを見てあなたを利用しようとする危険があります」
村長が低く頷いた。
「その通りだ」
「一方で、あなたの力が多くの人を助ける可能性もあります。王国としては、将来的に協力を求めることになるかもしれません」
アレンの顔が少し硬くなった。
シルフィが隣で静かに彼を見る。
クラウディアは言葉を選んだ。
「ここで確認したいのは、あなたが王国へ協力する意思があるかどうかです。ただし、答えは単純な『はい』か『いいえ』でなくても構いません。あなたが何を望み、何を望まないのかを聞かせてください」
広場が静まり返る。
アレンはしばらく黙っていた。
その沈黙を、誰も急かさなかった。
ミナも、ぷる太も黙っている。
やがて、アレンはゆっくり口を開いた。
「俺は、困っている人がいるなら助けたいです」
その言葉に、クラウディアは頷く。
「はい」
「魔物で怪我をした人がいるとか、村が水に困っているとか、薬草が必要だとか。俺にできることがあるなら、できる範囲で手伝いたい」
「では、王国への協力自体を拒むわけではない」
「たぶん、違います」
アレンは少し考えながら言った。
「でも、王都へ行って、誰かの命令でずっと働くとか、勇者パーティーへ戻るとか、研究のためにどこかへ連れていかれるとか、そういうのは嫌です」
はっきりした声だった。
クラウディアは、筆を動かす。
「理由を聞いても?」
「ここで暮らしたいからです」
アレンは顔を上げた。
「この村で畑を見て、井戸を手伝って、シルフィと付与の記録をして、ぷる太に変な薬を見てもらって、ミナたちに振り回されて、村長さんに働きすぎるなって怒られて、マルタさんの飯を食べて、そういう生活を続けたい」
言葉は飾られていなかった。
だから、強かった。
「勇者パーティーにいた頃、俺はずっと役に立たなきゃいけないと思っていました。誰かが疲れていたら自分が動く。装備が傷んでいたら直す。食事が足りなければ自分の分を減らす。そうしないと、そこにいてはいけない気がして」
リーフェル村の人々は黙って聞いている。
シルフィの表情は静かだが、手は木札を握っていた。
「でも、この村では違いました。働きすぎたら止められる。分からない契約には署名するなって言われる。誰かを助けたいなら、まず相談しろって言われる。俺がいなくても村の人たちは自分で水路を直すし、畑を耕すし、決まりを作る」
アレンは少し笑った。
「俺はここで、初めて全部を背負わなくてもいいんだと思えました」
クラウディアは、筆を止めなかった。
だが、胸の奥に静かな重みを感じていた。
これは能力者の拒否ではない。
疲れ切った人間が、ようやく見つけた居場所を手放さないという答えだ。
「だから、王国の役に立ちたくないわけじゃありません。でも、俺を王都へ置いて使うとか、勇者パーティーに戻すとか、そういう形なら断ります」
アレンはクラウディアを見た。
「俺は、ここにいたいです」
シルフィが小さく息を吐いた。
安堵のような、感動のような息だった。
ぷる太が桶の中で、ぷる、と鳴いた。
村長は何も言わず、深く頷いた。
◇
クラウディアは筆を置いた。
「分かりました」
「これで、いいんでしょうか」
アレンが少し不安そうに聞く。
「はい。非常に重要な答えです」
「俺、わがままを言っている気もして」
「違います」
クラウディアはきっぱり言った。
「自分の居場所を守ることは、わがままではありません」
その言葉に、アレンは少し目を見開いた。
クラウディアは続ける。
「王国への協力は、本人の生活を破壊してまで強いるべきではありません。少なくとも、私はそう報告します」
「ありがとうございます」
「ただし、問題もあります」
村長が目を細める。
「問題とは」
「アレン殿の力、リーフェル村の水や薬草、世界樹の若木、シルフィ殿の古代森術。これらは、今後も外部の注目を集めます。隠し続けるには限界があります」
シルフィが頷いた。
「私もそう思います」
「特にエルフ側は、再び来るでしょう。リーフェン家が世界樹の存在を知ったなら、次はより強い立場の者を送る可能性が高い」
「はい」
シルフィの声は少し硬かった。
「また、王都側でもガリオン男爵家の件が広がっています。悪質な者は減るかもしれませんが、逆に興味を持つ者も増える」
「では、どうすればいい」
村長が尋ねる。
クラウディアは少し考えてから答えた。
「完全に閉じるのではなく、信頼できる窓口を作るべきです」
「窓口?」
「はい。王都ギルドとの限定的な取引、騎士団との連絡経路、村の意思を明文化した文書。外部と関わる道を一つに絞れば、勝手に入り込む者を拒みやすくなります」
シルフィが目を細める。
「つまり、こちらから安全な通り道を作ることで、危険な抜け道を減らすのですね」
「その通りです」
「良い考えだと思います」
村長は腕を組んだ。
「外と繋がれば狙われる。だが、完全に閉じても別の形でこじ開けられる、ということか」
「はい」
クラウディアは頷いた。
「リーフェル村は、すでに知られ始めています。ならば、知られ方を管理する必要があります」
アレンは少し難しそうな顔をした。
「知られ方を管理する」
「たとえば、王都には『リーフェル村は良質な薬草を少量出す村』と知らせる。しかし、井戸水や世界樹については伏せる。アレン殿については『村の付与相談役であり、村外での長期活動は行わない』と明記する」
「俺のことも?」
「はい。曖昧にすると、勝手に話が膨らみます」
アレンは少し苦笑した。
「もう膨らんでいる気がします」
「その通りです」
クラウディアは容赦なく言った。
「だから、これ以上膨らませないために、村としての公式な言葉が必要です」
村長はしばらく黙り、やがて頷いた。
「騎士殿。お前さん、なかなか現実的だな」
「騎士団では、褒め言葉です」
「この村でも褒め言葉だ」
村長はそう言って、少しだけ笑った。
◇
話し合いは昼まで続いた。
クラウディアは、王国としてリーフェル村をどう扱うべきか、自分の考えを説明した。
強制召集はしない。
アレンの意思を尊重する。
リーフェル村の独自性を守る。
ただし、外部勢力による不当な干渉があった場合、王国側の窓口として騎士団とギルドが連携する。
薬草などの安全な少量取引は、王都ギルドを通す。
世界樹や井戸水、ぷる太の能力は非公開。
エルフ側との交渉では、人間領内の村として王国側も状況を把握していると示す。
シルフィはそれを聞きながら、何度も記録を取った。
「クラウディア様」
「様は不要です」
「では、クラウディアさん」
「はい」
「この内容は、文書にできますか」
「できます。副団長へ報告後、正式な保護通達に近い形で作成できるか確認します」
「保護通達」
「強すぎる表現は避けるべきですが、少なくともガリオン男爵家のような下級貴族が勝手に手を出しづらくなる効果はあります」
村長が頷く。
「それは助かる」
「ただし、王国が表に出すぎると、今度は王国が村を囲い込んだように見える。そこは慎重に調整します」
「難しいですね」
アレンが言う。
クラウディアは頷いた。
「はい。だからこそ、急がない方がいい」
「分からない時は、その場で決めず持ち帰る、ですね」
アレンが言うと、村人たちが少し笑った。
クラウディアもわずかに笑う。
「ええ。良い決まりです」
その時、ミナが遠慮がちに手を上げた。
「騎士様」
「何でしょう」
「ぷる太も守ってくれる?」
広場が少し静かになった。
ミナは真剣だった。
「悪い人が、ぷる太を連れていこうとしたら、騎士様もだめって言ってくれる?」
クラウディアは、桶の中のぷる太を見た。
ぷる太は不安そうに揺れている。
スライム相手に、騎士団として正式に何を約束できるのか。
普通なら、笑って流すところかもしれない。
だが、クラウディアは笑わなかった。
「ぷる太は、リーフェル村の井戸守りですね」
「うん!」
「そして、村の皆が大切にしている存在」
「うん!」
「なら、勝手に連れていくことは認められません」
ミナの顔が明るくなる。
「ほんと?」
「はい。少なくとも、私はそう報告します」
「ぷる太、よかったね!」
「ぷる!」
ぷる太が嬉しそうに光りかけた。
「ぷる太、控えめに」
「ぷるっ」
アレンの声で慌てて光を消す。
クラウディアはそのやり取りを見て、少しだけ口元を緩めた。
王国騎士団の調査報告に、「井戸守りぷる太の保護にも配慮」と書くことになる。
信じがたい。
しかし、必要だ。
◇
夕方、クラウディアは村を発つ準備をした。
村長からは、ギルドへ届ける追加の記録を預かった。
シルフィからは、アレンの付与現象に関する簡易記録の写しを一部だけ。
ただし、世界樹や井戸水の詳細は伏せられている。
アレンからは、マリナへの礼状。
内容は短い。
『警告の手紙、ありがとうございました。村を守るためにも、自分を契約の担保にしないよう気をつけます』
クラウディアは、それを見て少し安心した。
彼は学んでいる。
自分を差し出さないことを。
出発前、アレンが馬のそばまで見送りに来た。
「クラウディアさん」
「はい」
「今日は、ちゃんと話を聞いてくれてありがとうございました」
「任務です」
「それでも、ありがとうございます」
そう言われると、任務だけでは済まなくなる。
クラウディアは少し困った。
「私も、見たものを正しく報告します」
「お願いします」
「ただ、今後も簡単ではありません。王国、ギルド、貴族、エルフ名家。いろいろな立場の者が来るでしょう」
「はい」
「その時、今日の答えを忘れないでください。あなたは、ここにいたいと言いました」
アレンは村を見た。
井戸。
畑。
ぷる太。
シルフィ。
村人たち。
そして、木札。
リーフェル村付与相談役。
「忘れません」
静かな声だった。
「俺は、ここで暮らしたいです」
クラウディアは頷いた。
「では、それを守る方法を考えましょう。王国にも、できることはあります」
「はい」
シルフィが一歩前に出た。
「クラウディアさん」
「何でしょう」
「師匠を、道具としてではなく人として見てくださって、ありがとうございます」
クラウディアは少し驚いた。
それから、まっすぐ答える。
「当然のことです」
「その当然が、私たちにはありがたいのです」
シルフィの言葉に、クラウディアは返事を探した。
結局、短く頷くしかなかった。
「覚えておきます」
ぷる太が足元までやってきた。
「ぷる」
「ぷる太も見送りですか」
「ぷる」
クラウディアは少し迷い、それから膝をついて言った。
「井戸守りとして、村を頼みます」
「ぷる!」
ぷる太が力強く跳ねた。
少し光った。
今度は誰も止めなかった。
夕日の中なら、少しくらい光ってもいい。
そんな空気だった。
クラウディアは馬に乗り、村を出た。
入口の板が目に入る。
『分からない時は、その場で決めず持ち帰る』
彼女は小さく呟いた。
「私も、持ち帰るとしよう」
この村で見たもの。
聞いた言葉。
壊された常識。
そして、アレンの答え。
それらを王都へ持ち帰り、今度は王国の中でどう守るか考える。
夕暮れの街道を、クラウディアは王都へ向けて進んでいった。




