第3話 辺境で倒れていたエルフ少女を助けただけなのに
リーフェル村の村長は、思っていたよりも背の低い老人だった。
ただ、目は鋭い。
大きな栗の木の下に建つ家の前で出迎えてくれたその人は、俺を頭から足先までじっと見たあと、開口一番こう言った。
「お前さん、悪さをする顔ではなさそうだが、金を持っている顔でもないな」
「……否定しづらいです」
正直すぎる。
けれど、悪意は感じなかった。
村長は白い眉を上げ、ふん、と鼻を鳴らした。
「名は?」
「アレンです。付与術師をしています」
「付与術師か。珍しいな。王都では食えんのか?」
「食えなくなったというか、仕事を辞めることになったというか……」
「追い出されたのか」
即答だった。
俺は思わず言葉に詰まった。
「……顔に出てますか?」
「出ておる。若い男がひとりで辺境まで来て、金もなく、腰は低く、妙に疲れた目をしている。自分から華やかな仕事を辞めた顔ではない」
「村長さん、目が良すぎません?」
「年を取るとな、人の嘘より腰痛の方がよく分かるようになる」
「腰痛ですか」
「今も痛い」
村長は真顔で腰を叩いた。
その仕草があまりに自然だったので、俺は少しだけ笑ってしまった。
すると村長も、ほんのわずかに口元を緩める。
「まあいい。事情は深く聞かん。うちの村には、人の過去をほじくって楽しむほど暇な者は多くない。暇な年寄りは多いがな」
「ありがとうございます」
「礼は早いと言ったろう」
「あ、入口の方にもそう言われました」
「それは弟だ」
「兄弟なんですか」
「顔が似ていないだろう」
「いえ、まだそこまでは……」
「似ていないことにしておけ。向こうが喜ぶ」
村長はそう言って、家の横手を指した。
「空き家はある。昔、羊飼いの夫婦が住んでいた家だ。屋根は傷んでいる。床も少し抜ける。井戸は共同井戸を使え。寝るだけなら何とかなる」
「十分です。宿代は……すみません、今すぐはあまり払えません」
「見れば分かる」
「やっぱり顔に出てますか」
「袋の軽さが歩き方に出ている」
もはや観察眼が怖い。
俺は腰の革袋を押さえた。
銀貨が数枚。
ここまで来る途中で食料を買えば、すぐになくなる額だ。
「畑仕事でも、柵の修理でも、何でもやります。できれば、しばらく置いてもらえないでしょうか」
頭を下げる。
断られても仕方ないと思った。
突然現れた若い男を、村が簡単に受け入れる理由はない。しかも俺は、剣士でも狩人でもなく、地味な付与術師だ。
村長はしばらく黙っていた。
風が栗の葉を揺らす。
その間、俺は頭を下げたままだった。
「顔を上げろ」
言われて、ゆっくり上げる。
村長は俺を見て、少しだけ困ったように息を吐いた。
「お前さん、頼み方が下手だな」
「すみません」
「すぐ謝るところも、あまり良くない」
「すみ……あ、いや」
「ほれ、また謝りかけた」
村長は杖で地面を軽く叩いた。
「置いてやる。だが、働いてもらうぞ。リーフェル村は余裕がある村ではない。飯を食うなら手を動かせ」
「はい。もちろんです」
「まずは柵だ。最近、森の魔物が妙に落ち着かん。柵の外側、北の森に近いあたりが傷んでおる。明日の朝から手伝え」
「分かりました。今日からでもやれます」
「日が傾いている。森に近づくな」
村長の声が少し低くなった。
「夕方以降の森は危ない。最近は獣だけでなく、魔物の気配もある。村の者は近づかん」
「でも、柵が傷んでいるなら、夜のうちに何かあったら危ないですよね」
「だから明日の朝にやると言っておる」
もっともだ。
俺は頷いた。
「分かりました。では、今日は空き家を掃除します」
「そうしろ。マルタに言えば、古い毛布くらいは出してくれる」
「何から何までありがとうございます」
「礼は働いてから言え」
村長はそう言い、俺に背を向けかけた。
その瞬間だった。
村の北側から、低い音が聞こえた。
風ではない。
獣の唸りでもない。
もっと重い、腹の底を撫でるような響き。
村長の顔つきが変わった。
「……今のを聞いたか」
「はい」
「北の森だな」
村長は家の中へ向かって声を張った。
「マルタ! 子供らを家に入れろ! 門の者にも知らせろ!」
家の奥から女性の返事が聞こえ、すぐに足音が慌ただしく動き始めた。
俺は北の方を見る。
畑の向こうに、濃い森が広がっている。
夕方の光が木々の上だけを赤く染め、幹のあたりはもう薄暗い。確かに、何かがいる気配がした。
「村長さん、俺も行きます」
「馬鹿を言うな。森に入るなと言ったばかりだ」
「森には入りません。柵の内側から様子を見るだけです」
「付与術師が見てどうする」
「柵に簡単な補強くらいならできます」
俺がそう言うと、村長は一瞬迷った。
俺を信用していいのか、判断しきれない顔だ。
当然だと思う。
出会ったばかりの無職に、村の防衛を任せる村長がいたら、そちらの方が心配だ。
けれど、次の唸り声が聞こえた。
今度はさっきより近い。
村長は舌打ちした。
「北柵までだ。森には入るな。勝手な真似をしたら、明日の朝を待たずに追い出す」
「分かりました」
「分かっていない顔だ」
「いえ、分かってます」
「お前さん、悪人ではなさそうだが、危なっかしい」
それは初対面の老人に言われるには、なかなか刺さる言葉だった。
俺は苦笑し、村長と一緒に北の柵へ向かった。
◇
北の柵は、思っていた以上に傷んでいた。
木杭の何本かは根元が腐りかけている。横木も緩み、縄は古く、触ると繊維がほつれた。
これでは、大型の獣が本気で体当たりしたら破られる。
まして魔物ならなおさらだ。
「これは……早めに直した方がいいですね」
「だから明日の朝にやると言った」
「すみません」
「また謝ったな」
「……気をつけます」
村長は俺を睨んだが、怒っているというより呆れている顔だった。
柵の近くには、何人かの村人が集まっていた。
鍬や斧を持っているが、手つきはぎこちない。普段は農作業の道具だ。戦うためのものではない。
入口で会った門番の老人も来ていた。彼は錆びた槍を構えながら、俺を見る。
「兄者、その若いのを連れてきたのか」
「柵を見られると言うのでな」
「ほう。顔は頼りなさそうだが」
「本人も金はなさそうだ」
「それは見れば分かる」
「皆さん、遠慮なく言いますね」
俺がそう言うと、数人の村人が少し笑った。
空気がわずかに緩む。
けれど、森の奥から枝が折れる音がした瞬間、笑いはすぐに消えた。
何かが動いている。
重い足音。
葉をかき分ける音。
俺は短杖を握った。
戦闘は苦手だ。
勇者パーティーにいた頃も、俺が直接魔物を倒すことはほとんどなかった。全員に付与をかけ、道具を整え、立ち位置を見て、必要なら防御補助を入れる。それが俺の役割だった。
ここにはカイルもガレスもミラもリーナもいない。
前に出る者がいない。
それだけで、背筋が冷たくなる。
「お前さん、震えておるぞ」
村長が言った。
「怖いので」
「正直だな」
「怖くないふりをして失敗するよりは、たぶんいいです」
「それもそうだ」
村長は少しだけ目を細めた。
「では、その怖がりの付与術師殿。柵はどうにかなりそうか」
「やってみます」
俺は柵に手を当てた。
古い木の感触。
乾いて、ところどころ割れている。
補強の付与は難しくない。普通なら一時的に木材の強度を上げる程度だ。せいぜい数時間。熟練者なら半日持たせることもできるが、俺の付与は昔から地味で、効果が分かりづらい。
でも、やらないよりはいい。
「少しだけ、持ってくれよ」
小さく呟く。
術式を組む。
木材の繊維に魔力を染み込ませるイメージ。
縄を締め、杭の根元を支え、衝撃を散らす。
いつもの癖で、周囲の村人たちにも軽い防御付与を流した。
転んでも怪我をしにくいように。
恐怖で足がすくまないように。
手に持った鍬を落とさないように。
その程度の、ささやかな付与だ。
俺はそう思っていた。
次の瞬間、柵全体が淡く金色に光った。
「……ん?」
おかしい。
いや、光ること自体はある。
付与をかけた瞬間、魔力の反応で対象が光ることは珍しくない。
ただ、普通は手を当てた部分だけだ。
今、光っているのは北柵の端から端までだった。
さらに、腐りかけていた木杭の根元が、ぎしりと音を立てて地面に沈み込む。緩んでいた横木が勝手に噛み合い、古い縄が新品のように締まった。
村人たちが、ぽかんと口を開ける。
門番の老人が槍を落としかけた。
「兄者」
「何だ」
「柵が若返ったぞ」
「儂にも見えておる」
村長の声は平静だったが、杖を握る手に力が入っていた。
俺は慌てて手を離す。
「あ、すみません。ちょっと強くかかりすぎたかもしれません」
「ちょっと?」
村長が俺を見る。
「お前さん、これがちょっとか」
「ええと……木が元気になったというか」
「木は切られて柵になった時点で、普通は元気にはならん」
「それは、まあ、そうですね」
言い訳が見つからない。
けれど、その場で考え込む余裕はなかった。
森の奥から、黒い影が飛び出したからだ。
狼型の魔物。
ただし普通の狼より一回り大きい。背中には硬い棘が並び、口元から黒い涎が垂れている。
「棘狼だ!」
誰かが叫んだ。
棘狼は柵に向かって突進してくる。
村人たちが身構えた。
俺も短杖を握る。
しかし、棘狼が柵に体当たりした瞬間。
どん、と鈍い音がした。
柵はびくともしなかった。
それどころか、棘狼の方が弾かれた。
「ギャウン!」
狼型の魔物が地面を転がる。
俺は目を瞬かせた。
「……丈夫になりましたね」
「なりましたね、ではないわ!」
村長が珍しく声を荒げた。
「今、棘狼が弾かれたぞ! 石壁でも揺れる相手だぞ!」
「石壁でも?」
「そうだ!」
「じゃあ、うまくいったということで」
「なぜそこで謙虚なんだ、お前さんは!」
叱られているのか褒められているのか分からない。
棘狼は体を起こし、低く唸った。
だが、もう一度柵へ飛びかかることはしなかった。何かを恐れるように後退し、森の奥へ逃げていく。
村人たちの間に、どよめきが広がった。
「助かった……のか?」
「柵が魔物を弾いたぞ」
「付与術師様がやったのか?」
「いや、でも本人は今、首を傾げてるぞ」
最後の言葉が痛い。
俺は何とも言えず、短杖を下ろした。
確かに、首を傾げていた。
自分でもよく分からないのだから仕方がない。
村長はしばらく柵を見ていたが、やがて深く息を吐いた。
「アレン」
「はい」
「お前さん、しばらく村にいろ」
「え?」
「空き家を貸す。飯も、働きに応じて出す。柵の件もある。村としては、お前さんのような術師はありがたい」
「本当ですか」
「ただし」
村長は杖の先を俺に向けた。
「森には入るな」
「……はい」
「今、少し間があったな」
「気のせいです」
「嘘が下手だな、お前さん」
村長は俺を睨んだ。
「棘狼が一匹だけで村の近くまで来るのは妙だ。森の奥で何かあったのかもしれん。村人を集めて、明日の朝、様子を見る。それまでは勝手に動くな」
「分かりました」
今度はちゃんと頷いた。
森が気になる。
けれど、勝手に動いて村に迷惑をかけるわけにはいかない。
俺はそう思った。
そのとき、森の方から、今度は魔物の唸りではない音が聞こえた。
かすかな声。
人の声だった。
「……たす、け……」
小さすぎて、風に紛れそうな声。
村人たちは気づいていない。
いや、門番の老人が顔をしかめた。
「今、何か聞こえたか?」
俺は北柵の向こうを見た。
森の入口。
茂みの奥。
そこに、白いものが見えた。
布か。
髪か。
人が倒れている。
「誰かいます」
俺は言った。
村長の顔色が変わる。
「森に入るなと言ったばかりだ」
「でも、柵のすぐ外です」
「棘狼が戻ってくるかもしれん」
「それでも、倒れているなら放っておけません」
言った瞬間、自分でもまずいと思った。
村長の目が厳しくなる。
けれど、彼は怒鳴らなかった。
「……縄を持ってこい。門を開けるのは少しだけだ。若い衆、三人つけ。アレン、勝手に奥へ行くな。倒れている者だけ連れて戻れ」
「はい!」
「返事だけはいいな」
村長はそう言いながらも、門番に合図した。
北柵の小さな扉が開く。
俺は村の若者たちと一緒に外へ出た。
森の空気は、柵の内側より冷たかった。
夕暮れの森は、足元が見えづらい。
茂みをかき分けると、倒れていたのは少女だった。
白銀の長い髪。
尖った耳。
薄緑の旅装は裂け、肩と脇腹に傷がある。
エルフだ。
俺は息を呑んだ。
「大丈夫ですか!」
少女はかすかに目を開けた。
湖みたいな青い瞳だった。
「……人、間……?」
「リーフェル村の者です。今、助けます」
「逃げ、て……追っ手が……」
言い終える前に、少女は咳き込んだ。
血が混じっている。
まずい。
見た目より傷が深い。
「アレン、早く運べ!」
若者の一人が叫ぶ。
俺は少女を抱き起こそうとした。
軽い。
信じられないほど軽かった。
その体から、魔力がひどく乱れているのを感じた。傷だけではない。体の奥、魔力が巡る道そのものが傷ついている。
勇者パーティーで何度も負傷者を見てきたが、これは普通の怪我ではない。
「ここで応急処置をします」
「門まで運んでからじゃだめなのか!」
「動かすと危ないです」
俺は鞄から薬草を取り出した。
朝、井戸の近くで摘んだものだ。
いや、正確には摘んでいない。持っていた薬草と、道中で拾った葉を少し乾かしておいたものだ。どう見てもただの薬草だったはずだが、今見ると妙に艶がある。
まあ、今は考えている暇がない。
「水をください」
若者が水筒を渡してくる。
俺は薬草を揉み、水と混ぜる。
本当なら煎じたいが、火を起こす時間はない。傷口に当てる分と、少量飲ませる分を作る。
少女は苦しそうに俺を見た。
「無駄、です……私の魔力回路は、もう……」
「喋らないでください」
「あなたまで、巻き込まれる……」
「大丈夫です。俺、巻き込まれるのは慣れてるので」
言ってから、何を言っているんだと思った。
少女の目が、かすかに揺れる。
「変な、人……」
「よく言われます」
「言われる、のですか……」
「最近は地味とも言われました」
少女が弱々しく笑った。
その笑みがすぐに苦痛で歪む。
俺は薬草水を少しずつ飲ませた。
「苦かったらすみません」
「……あま、い」
「え?」
「温かい……森の、春みたい……」
次の瞬間、少女の体が光った。
金色ではない。
淡い緑と白が混じった、柔らかい光。
傷口に当てた薬草が溶けるように消え、裂けていた皮膚が塞がっていく。呼吸が落ち着き、青白かった頬に血の気が戻る。
若者たちが後ずさった。
「お、おい……」
「何だ、これ」
「治ってる……?」
俺は少女の脈を確かめた。
安定している。
よかった。
本当に、よかった。
「もう大丈夫そうです」
俺がそう言うと、若者たちは同時に俺を見た。
その顔には、明らかに「何をしたんだお前」という文字が浮かんでいた。
「薬草が効いたんだと思います」
「薬草で腹の傷が塞がるか?」
「上等な薬草だったのかもしれません」
「さっき道端から出してなかったか?」
「……たぶん保存状態が良かったんです」
「土ついてたぞ」
鋭い。
村人、意外と鋭い。
少女がゆっくりと上体を起こした。
俺は慌てて支える。
「無理しないでください」
「いえ……これは……」
少女は自分の手を見た。
指先に、淡い光が集まっている。
彼女の瞳が大きく見開かれた。
「魔力が……流れている……?」
「まだ痛みますか?」
「痛み、ではなく……違います。これは……あり得ません」
少女は震える声で言った。
「私の魔力回路は、追っ手の呪矢で焼かれました。普通なら、一生魔法を使えない。エルフの秘薬でも、王族の治癒術でも、完全には戻せないはずなのに……」
「ああ、魔力回路でしたか。やっぱり傷んでましたよね」
「分かっていたのですか!?」
「なんとなく、流れが乱れていたので」
「なんとなくで分かるものではありません!」
少女が急に声を上げた。
傷が治ったばかりなのに元気だ。
俺は少し安心した。
「でも、治ったならよかったです」
「よかった、で済む話では……」
少女は言葉を失ったように俺を見る。
その視線が、俺の顔、手元の薬草、短杖、そしてまた顔へと戻る。
「あなたは……何者ですか」
「アレンです。付与術師をしています」
「付与術師……?」
「はい。最近、仕事を辞めることになって、リーフェル村に来ました」
「そのような説明で納得できると思いますか?」
「ええと、だめですか」
「だめです」
少女は真剣だった。
その真剣さに、俺の方が困ってしまう。
若者の一人が森の奥を見た。
「おい、長話はまずい。追っ手とか言ってなかったか?」
その言葉で、少女の表情が変わった。
「そうです……黒衣の者たちが、まだ……」
森の奥から、金属が木に当たる音がした。
誰かが近づいている。
人の足音。
複数。
俺は少女の前に立った。
「村に戻りましょう」
「私は足手まといになります」
「さっきまで倒れていた人が何を言ってるんですか」
「でも」
「走れますか?」
少女は一度、自分の足を見た。
そして驚いたように立ち上がる。
「……走れます」
「なら十分です」
俺たちは北柵へ向かって戻った。
村の門では、村長が険しい顔で待っていた。
「早く入れ!」
全員が柵の内側へ入った直後、森の影から黒い外套の男たちが現れた。
三人。
顔は布で隠している。
手には短弓と曲刀。
ただの盗賊ではない。動きが訓練されている。
エルフの少女が息を呑んだ。
「黒枝の追跡者……」
「知り合いですか?」
「知り合いという言葉で済ませたくありません」
「なるほど」
追っ手の一人が前に出た。
「そのエルフを渡せ。辺境の村に関係はない」
村長が杖を突いて立つ。
「ここはリーフェル村だ。村の柵の中に入った者は、事情を聞くまでは客人として扱う」
「老いぼれ。命が惜しければ退け」
「惜しいに決まっておる。だから退かん」
村長の声は震えていなかった。
俺はその背中を見て、少し胸が熱くなった。
出会ったばかりの少女を守るために、村長は立っている。
この村は貧しい。
柵も古い。
戦える者も少ない。
それでも、倒れていた人を差し出すような村ではないらしい。
黒衣の男が弓を構えた。
「ならば、まとめて――」
矢が放たれた。
村人たちが悲鳴を上げる。
だが、矢は柵の手前で止まった。
いや、止まったというより、見えない壁に弾かれた。
乾いた音を立てて地面に落ちる。
黒衣の男たちが動きを止めた。
「結界……?」
村長がゆっくり俺を見た。
俺も柵を見た。
「……さっきの補強、まだ効いてたみたいですね」
「お前さん」
「はい」
「あとで話がある」
「ですよね」
黒衣の男が二本目の矢を構えようとした瞬間、森の奥から低い唸り声がした。
さっき逃げた棘狼だ。
いや、一匹ではない。
複数の気配がある。
黒衣の男たちは舌打ちした。
「引くぞ。今は分が悪い」
「だが、あの娘を――」
「森の魔物まで集まる前に退く」
三人の姿は、夕闇の森へ消えた。
緊張が解ける。
村人たちが一斉に息を吐いた。
エルフの少女は、柵の内側に立ったまま、俺を見ていた。
まるで、信じられないものを見るように。
「あの」
俺は気まずくなって声をかけた。
「とりあえず、村の中で休みませんか。傷は塞がったみたいですけど、体力は戻ってないと思うので」
「……あなたは」
「はい」
「本当に、付与術師なのですか」
「一応」
「一応で、焼き切れた魔力回路を修復し、村の柵を結界化し、呪矢を弾くのですか」
「結界化?」
「自覚がないのですか!?」
少女の声が裏返った。
俺は困って頭をかいた。
「すみません。あまり自分の付与がどのくらい効いてるのか、昔からよく分からなくて」
「よく分からないで済ませていい力ではありません!」
「そう言われても……」
村長が重々しく頷いた。
「儂も同意見だ」
「村長さんまで」
「お前さん、地味な付与術師ではなかったのか」
「自分ではそう思ってます」
「その自己評価は、柵より先に補強した方がよさそうだな」
村人たちの間から、控えめな笑いが起きた。
俺は少し居心地が悪くなった。
褒められているのか、呆れられているのか、まだ分からない。
エルフの少女は一歩前に出た。
そして、俺の前で深く頭を下げた。
「命を救っていただき、ありがとうございました」
「いえ、困っている人を見つけただけなので」
「それだけではありません。あなたは私の魔力も、誇りも、未来も救ってくださいました」
大げさだ。
そう言おうとして、やめた。
少女の声は震えていた。
さっきまで追っ手に狙われ、傷つき、森で倒れていたのだ。俺にとっては薬草を飲ませただけでも、彼女にとっては違うのだろう。
「俺はアレンです。あなたは?」
少女は顔を上げた。
夕暮れの光を受けて、白銀の髪が淡く輝く。
「シルフィ。シルフィ・リーフェンと申します」
「シルフィさんですね」
「シルフィで構いません。命の恩人に敬称をつけられると、落ち着きません」
「じゃあ、シルフィ。俺もアレンでいいです」
「はい、アレン様」
「様はやめませんか」
「では、アレン師匠」
「もっと重くなった!」
思わず声が出た。
シルフィは真剣な顔で首を傾げる。
「命を救い、失われた魔力回路を修復し、神域の付与を扱う方を師匠と呼ぶのは当然では?」
「当然ではないと思います」
「では何とお呼びすれば」
「普通にアレンで」
「それは無理です」
「即答」
村人たちがまた笑った。
村長も、わずかに口元を緩めていた。
その笑い声の中で、俺は初めて、自分がこの村に受け入れられ始めているのかもしれないと思った。
もちろん、まだ何も分からない。
シルフィの追っ手。
森の魔物。
俺の付与。
問題は山ほどある。
でも、少なくとも今この瞬間、誰も俺を「無能」と呼ばなかった。
誰も俺を「いらない」と言わなかった。
それだけで、胸の奥に小さな灯がともったような気がした。
シルフィは俺をまっすぐに見つめたまま、静かに言った。
「アレン師匠」
「だから師匠は」
「あなたは、ただの付与術師ではありません」
彼女の声には、確信があった。
「国が、いえ、世界が奪い合うほどの方です」
「……いや、そんな大げさな」
「大げさではありません」
シルフィは首を横に振る。
「あなたの力は、戦場を変えます。国を変えます。命の価値さえ変えてしまう。だからこそ、知られてはいけない相手もいます」
その言葉に、空気が少しだけ重くなった。
村長が目を細める。
「その追っ手と関係があるのか」
「はい。私は、エルフの没落名家リーフェン家の娘です。詳しく話すには、少し時間をいただけますか」
「話は家で聞こう。日が落ちる」
村長は村人たちに指示を出した。
北柵の見張りを増やす者。
子供たちを家に戻す者。
シルフィのために毛布と湯を用意する者。
皆が動き出す。
俺も何か手伝おうとしたが、村長に止められた。
「アレン」
「はい」
「お前さんは、その娘のそばにいてやれ」
「俺がですか」
「お前さんが助けた客人だ。それに、その娘はお前さんのことを師匠と言っておる」
「まだ認めてません」
「諦めろ。あの目はもう決めている」
村長にそう言われ、俺はシルフィを見た。
シルフィは深く頷いた。
「はい。私は決めています」
「何を?」
「あなたのそばで、この奇跡の理由を見極めます」
「……俺、静かに暮らしたいだけなんだけど」
「もちろんです。静かな暮らしを守るためにも、私は弟子として尽くします」
「弟子確定なんだ……」
俺は空を見上げた。
夕焼けは濃く、森の向こうはもう夜に沈みかけている。
勇者パーティーを追放されて、辺境でスローライフを送るはずだった。
畑を耕し、誰にも怒鳴られず、静かに眠る。
それだけでよかった。
なのに、初日から村の柵は結界になり、森ではエルフの少女を拾い、なぜか師匠と呼ばれている。
俺は小さく息を吐いた。
「……まあ、怪我が治ってよかった」
結局、口から出たのはそれだった。
シルフィは一瞬きょとんとして、それから柔らかく微笑んだ。
「はい。師匠」
「アレンで」
「努力します、師匠」
「努力の方向性が違う」
村の夜が近づいてくる。
その空の下で、俺の新しい生活は、思っていたよりずっと騒がしく始まろうとしていた。
そして遠く離れた王都への道では、勇者カイルたちが焦げた夕食を前に、まだ自分たちの没落の始まりに気づけずにいた。




