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無能だと追放された底辺付与術師、実は世界で唯一の【全自動・神級バフ】持ちでした 〜辺境でスローライフを送るはずが、俺が抜けて壊滅寸前の勇者パーティーが泣きついてきてももう遅い。  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第2話 俺が抜けたくらいで困るはずないよな?

 夜明け前の街道は、思ったより冷えた。


 王都の石畳と違って、土の道は足音を吸い込む。踏み固められているとはいえ、ところどころに小石が混じり、うっかりすると靴底越しに痛みが走った。


 俺は外套の前を合わせながら、東の空を見た。


 まだ太陽は顔を出していない。ただ、黒かった空の端が少しだけ藍色に変わり始めている。


「……腹減ったな」


 言ってから、自分で少し笑ってしまった。


 勇者パーティーを追放された翌朝、最初に出た言葉がそれか。


 我ながら情緒がない。


 けれど、腹は正直だった。


 昨日の夜、野営地を出てからまともに食べていない。腰の袋に入っている干し肉をひとかけら取り出し、噛み締める。硬い。味も薄い。というより、ほとんど塩だ。


「今までの干し肉、もう少し柔らかくできてた気がするんだけどな」


 無意識に呟いてから、ああ、そうかと思った。


 あれは自分で下処理をしていた。


 筋を取り、香草を揉み込み、軽く火で炙ってから保存していた。カイルたちは「安物の肉か」と文句を言っていたが、結局毎回食べ切っていた。


 今噛んでいるこれは、旅支度用の予備だ。昔、商人から買ったまま鞄の底に入れていたものだった。


「まあ、食べられるだけありがたいか」


 俺は小さく息を吐いた。


 追放された。


 その事実は、夜が明けても変わらなかった。


 寝て起きたら夢でした、なんて都合のいいことはない。そもそも、まともに寝てもいない。街道脇の木の根元で一時間ほど目を閉じただけだ。


 けれど不思議と、体はそこまで重くなかった。


 勇者パーティーにいた頃は、野営明けの朝になるといつも体のどこかが痛んでいた。誰よりも早く起きて火を起こし、湯を沸かし、朝食を作り、装備を確認する。夜の見張りもしていたから、眠りは浅い。


 今は違う。


 何もしなくていい。


 誰かの鎧の留め具を直す必要もない。ミラが朝から機嫌を悪くする前に甘い茶を用意する必要もない。カイルが「剣の手入れはまだか」と苛立つ声を聞く必要もない。


 その代わり、これからどうやって食べていくかを自分で考えなければならない。


「……いや、十分大変だな」


 思わず苦笑した。


 街道の先に、小さな水場があった。


 地図に載っていた休憩所だろう。石を積んだだけの簡素な井戸と、馬を繋ぐための杭がある。近くには野草が伸びていたが、どれも元気がない。乾いた葉が朝風に揺れ、根元の土は白っぽくひび割れている。


 俺は井戸から水を汲み、手と顔を洗った。


 冷たい水が肌を刺す。


「うわ、目が覚める」


 水筒にも補給しようとして、ふと昨夜の薬草のことを思い出した。


 街道脇に生えていた、枯れかけの小さな草。


 なんとなく水をやっただけだ。


 どうなっただろう。


 戻る気はなかったが、少しだけ気になった。


「……いや、戻っても仕方ないか」


 そう言いながら、近くの草を見た。


 葉が丸まり、今にも枯れそうな薬草が数株ある。見たところ、止血に使える安い種類だ。旅人が採り尽くした後の残りかもしれない。


 俺は水筒を傾けた。


「お前らも、もう少し頑張れ」


 数滴。


 ただ、それだけだった。


 水が土に染み込む。


 それを見届けて、俺は立ち上がった。


 そのとき、背後で、ぱさりと小さな音がした。


「ん?」


 振り返る。


 薬草の葉が、開いていた。


 朝日が当たったからだろうか。さっきまで黄色く萎れていた葉が、少し緑を取り戻している。


「お、元気になったな」


 俺は安心した。


 薬草は強い。水さえあれば立ち直る。


 そう思って歩き出そうとした瞬間、今度は別の株が伸びた。


 にょき、と。


 気のせいでは済まない速度だった。


 俺は足を止める。


「……伸びた?」


 薬草の茎が、俺の膝ほどの高さまで育っている。


 葉は肉厚になり、朝露でもないのに薄く輝いていた。普通の止血草ではない。昔、王都の薬師ギルドで見た上級薬草に似ている。いや、たぶん気のせいだ。


 気のせいにしたい。


「水が良かったのか?」


 井戸を見る。


 古い井戸だ。特に聖水という感じもしない。


 俺はもう一度、薬草に目を戻した。


 すると、葉の先に小さな花が咲いた。


 白い花。


 真ん中だけ金色に光っている。


「……薬草って、こんな花咲いたっけ」


 分からない。


 薬草の知識はそれなりにあるつもりだが、専門家ではない。勇者パーティーでは応急処置に使える草を見分けられれば十分だった。


 少し考えて、俺は花を一輪摘むのをやめた。


「まあ、元気になったならいいか」


 この辺りを通る旅人が怪我をしたとき、役に立つかもしれない。


 俺はそう結論づけた。


 深く考えない。


 なぜなら、深く考えたところで分からないからだ。


 それに、俺は今、追放された無職である。


 枯れかけの薬草が急に元気になった理由を悩むより、今日の寝床を心配するべきだった。


 地図を広げる。


 次の宿場町までは、まだ半日ほどある。その先で道が二つに分かれている。北東へ進めばリーフェル村。東へ進めば鉱山町。


 鉱山町なら仕事は多そうだ。荷運びでも、雑用でも、何かあるだろう。


 けれど、俺の目は自然とリーフェル村の方に向いた。


 何もない辺境の村。


 若者が少なく、畑が痩せている村。


 そんな場所なら、俺みたいな地味な付与術師でも、少しは役に立てるかもしれない。


「……畑か」


 昨夜から、その言葉が頭に残っている。


 馬鹿にされたのに、なぜか嫌ではなかった。


 土を耕す。


 水をやる。


 芽が出る。


 実る。


 それを食べる。


 考えてみれば、魔王軍との戦いより、ずっと分かりやすい。


 誰かの機嫌を読まなくてもいい。聖剣の顔色を窺う必要もない。


「よし」


 俺は地図を畳んだ。


「リーフェル村に行ってみるか」


 そう決めた途端、胸の奥が少し軽くなった。


 俺は街道を北東へ向かって歩き出した。


 その背後で、井戸の周りの薬草が次々と淡い光を帯び始めていることには、やはり気づかなかった。


 やがて、その水場は旅人たちの間で妙な噂になる。


 死にかけの馬が水を飲んだだけで走れるようになった。


 怪我をした商人が、薬草を貼ったら傷跡も残らず治った。


 井戸の周りだけ、季節外れの花が咲いている。


 そんな噂の始まりが、追放された付与術師が水を数滴こぼしただけだったことを、誰も知らない。


     ◇


「遅い!」


 勇者カイルの怒声が、森に響いた。


 その声に反応して、茂みの奥から鳥が飛び立つ。


 ガレスは額の汗を乱暴に拭った。


「怒鳴るな、カイル。頭に響く」


「お前が鈍いからだろうが!」


「鈍い? 俺が?」


 ガレスの顔が赤くなる。


 いつもの彼なら、ここで冗談混じりに言い返して終わる。だが今朝から、どうにも全員の空気が刺々しい。


 王都への帰還前に、近場のゴブリン討伐依頼を片づける。


 それだけの予定だった。


 冒険者ギルドからすれば、勇者パーティーに頼むほどの依頼ではない。村の倉庫を荒らすゴブリンが数匹。普段なら新米冒険者の訓練に使われる程度の相手だ。


 カイルは最初、鼻で笑っていた。


「ちょうどいい。アレンを追い出して身軽になった俺たちの力を確認してやる」


 そう言って森に入った。


 だが。


「くそっ!」


 カイルの聖剣が空を切った。


 ゴブリンが一匹、地面を転がって避ける。


「ギギッ!」


「ちょこまかと!」


 カイルは再び踏み込もうとした。


 だが、足が思ったほど前に出ない。


 ほんの半歩。


 今までなら自然に届いていた距離に、剣先が届かない。


 ゴブリンの棍棒がカイルの脇腹を叩いた。


「ぐっ……!」


「カイル様!」


 リーナが叫ぶ。


 カイルの顔が屈辱に歪んだ。


「今のは、足場が悪かっただけだ!」


 足場は悪くない。


 森の中とはいえ、地面は乾いている。根が少し張っているが、勇者パーティーが苦戦するような場所ではなかった。


 ミラが杖を掲げる。


「まとめて焼くわ! 《炎よ、牙となりて――》」


 詠唱が途中で引っかかった。


「……あれ?」


 ミラは目を見開く。


 魔力が喉の奥で詰まるような感覚があった。いつもなら言葉に乗って自然に流れ出す魔力が、今日は重い。


 まるで泥水を細い管に通しているみたいだった。


「ミラ、早くしろ!」


「分かってるわよ!」


 ミラは苛立ちを込めて杖を振った。


「《炎槍》!」


 放たれた火の槍は、確かにゴブリンへ向かった。


 しかし、細い。


 弱い。


 以前なら三匹まとめて貫いていたはずの炎が、一匹の肩をかすめただけで消えた。


「は?」


 ミラの口から、間抜けな声が漏れる。


「今の、何?」


「お前まで遊んでいるのか!」


「遊んでないわよ! 魔力が変なの!」


 ガレスが大盾を構えて前へ出る。


「どけ、俺が潰す!」


 彼はいつも通り、力任せに突進した。


 普段なら、ゴブリン程度は盾に触れただけで弾き飛ばされる。ガレスの突進は、小型の魔物にとっては壁が走ってくるようなものだった。


 だが、今日は違った。


 盾が重い。


 鎧が重い。


 足が上がらない。


 そして何より、体の芯に力が入らない。


「ぬ、うおっ!?」


 木の根に足を取られ、ガレスの巨体が前のめりに崩れた。


 盾が地面に突き刺さる。


 その隙を見逃さず、ゴブリンが群がった。


「ギッ! ギギッ!」


「こいつら、調子に乗りやがって!」


 ガレスは腕を振り回すが、動きが大きすぎて当たらない。


 鎧の左肩が、嫌な音を立てた。


 ばきん。


「……あ?」


 留め具が外れた。


 肩当てがずり落ちる。


 そこへゴブリンの棍棒が叩き込まれた。


「ぐあっ!」


「ガレス!」


 リーナが聖印を握る。


「《癒やしの光よ》!」


 白い光がガレスへ飛ぶ。


 だが、傷の塞がり方が遅い。


 リーナは息を呑んだ。


「どうして……」


 いつもなら、もっと滑らかに治癒が届く。


 自分の魔力に、誰かがそっと手を添えてくれているような感覚があった。詠唱の乱れを整え、余計な消耗を抑え、傷の状態に合わせて魔力が流れる。


 昨日まで、それが当たり前だった。


 けれど今は、自分一人で重い扉を押しているようだった。


「リーナ、回復が遅いぞ!」


 カイルが怒鳴る。


「す、すみません!」


「謝る暇があるなら治せ!」


 リーナの顔が青ざめる。


 森の奥から、さらに二匹のゴブリンが現れた。


 たった五匹。


 たった五匹のゴブリンを相手に、勇者パーティーは明らかに乱れていた。


 カイルは認めたくなかった。


 ありえない。


 自分は勇者だ。


 女神に選ばれた存在だ。


 ゴブリンごときに手こずるなど、あってはならない。


 ましてや、昨日追い出したアレンがいないから調子が出ないなど――。


「馬鹿馬鹿しい!」


 カイルは怒りに任せて聖剣を振り上げた。


「《聖光斬》!」


 聖剣がかすかに光る。


 だが、その輝きは頼りなかった。


 放たれた斬撃はゴブリンの一匹を倒したものの、残りには届かない。


 カイルの額に汗が浮かんだ。


「なぜだ……」


 小さな呟き。


 誰にも聞こえないと思っていた。


 だが、リーナには聞こえた。


 彼女も同じことを考えていたからだ。


 なぜ、こんなに重いのか。


 なぜ、こんなに息が上がるのか。


 なぜ、昨日まで当然のようにできていたことが、今日はできないのか。


 彼女の脳裏に、アレンの姿が浮かんだ。


 夜明け前、荷物を背負って静かに去っていった青年。


 最後まで装備の心配をしていた。


 ガレスの鎧の留め具。


 ミラの杖の魔石。


 自分の聖印。


 彼は全部見ていた。


 全部、気づいていた。


「まさか……」


「リーナ!」


 カイルの声で我に返る。


 ゴブリンが一匹、カイルの背後に回っていた。


 リーナは咄嗟に杖を振った。


「《光よ、退けて》!」


 眩い光が弾ける。


 ゴブリンが怯んだ。


 その隙に、ガレスがどうにか体勢を立て直し、盾で吹き飛ばす。


 ミラの炎が遅れて追い討ちをかけた。


 最後の一匹が倒れたとき、四人は森の中で荒く息をしていた。


 静寂。


 遠くで鳥が鳴いている。


 カイルは剣を地面に突き立て、肩で息をした。


 ゴブリン五匹。


 その程度の相手に、勇者パーティーが息を切らしている。


 ガレスの肩は負傷し、ミラは魔力切れ寸前。リーナも顔色が悪い。


「……今日は調子が悪かっただけだ」


 カイルが言った。


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分かっていないようだった。


 ミラが苛立った声を出す。


「全員、調子が悪いなんてある?」


「ある。昨日の戦闘の疲れだ」


「昨日はいつもより楽だったじゃない」


「なら、アレンが抜けて空気が変わったせいだろう。あいつが最後に辛気臭い顔をして出ていったからな」


 カイルは吐き捨てた。


「あんな無能のせいで士気が落ちた。それだけだ」


 ガレスが肩を押さえながら顔をしかめた。


「でもよ、俺の鎧、本当に留め具が飛んだぞ。あいつ、昨日それを言ってなかったか?」


「偶然だ」


「ミラの杖も変なんだろ?」


「偶然だ!」


 カイルの声が森に響いた。


 ミラは口を閉じる。


 リーナは俯いたまま、傷ついたガレスに回復を続けていた。


 ただ、彼女の指は震えていた。


 偶然。


 本当にそうだろうか。


 アレンがいなくなった瞬間、聖印から何かが消えた。


 あの感覚を、リーナは忘れられなかった。


     ◇


 一方その頃、俺は昼飯に悩んでいた。


「干し肉だけだと、さすがにきついな」


 街道から外れた小川の近くで、俺はしゃがみ込んでいた。


 リーフェル村へ向かう道は思ったより人通りが少ない。馬車の轍はあるが、古い。途中ですれ違ったのは薪を背負った老人ひとりだけだった。


 その老人に村までの道を尋ねると、怪訝な顔をされた。


「リーフェルに何しに行くんだい。あそこは何もないぞ」


「仕事があればと思って」


「仕事ねぇ。畑はあるが、実りは悪い。若い者は出ていく。魔物除けの柵も古い。物好きだな、兄ちゃん」


「よく言われます」


 実際には、あまり言われたことはない。


 勇者パーティーでは「鈍い」「地味」「使えない」の方が多かった。


 老人は俺をじっと見た後、なぜか少し表情を和らげた。


「まあ、悪い村じゃない。人はいい。困ってる者を追い出すほど冷たくもない。行くなら、日が暮れる前に着きな」


「ありがとうございます」


「あと、森に近づきすぎるなよ。最近、魔物が荒れてる」


「分かりました」


 そうして別れた。


 今はその道中だ。


 小川の水は澄んでいて、底の石が見える。手ですくって飲むと、少し甘い気がした。


 近くに食べられそうな野草を見つけたので、摘んで洗う。


 干し肉と一緒に煮れば、多少はまともな食事になるだろう。


 携帯鍋は置いてきてしまったが、小さな金属杯ならある。これで湯を沸かすしかない。


「……鍋、持ってくればよかったな」


 未練がましいことを言ってしまう。


 あれは勇者パーティーの備品だ。


 分かっている。


 でも、何年も使っていたものだから、手放した実感がまだ薄い。


 俺は枝を集め、火を起こした。


 火打石を使う。


 一度目で火がついた。


「お、今日は調子いいな」


 昨日までなら、朝の焚き火はだいたい三回目でようやくだった。湿った薪に文句を言われながら火を起こすのが常だった。


 今日は枝がよく乾いていたのだろう。


 金属杯に水を入れ、干し肉と野草を放り込む。


 ついでに、さっき見つけた薬草の葉も少しだけ入れた。体が温まればいい。


 煮立つのを待っていると、小川の向こうから、がさりと音がした。


 俺は顔を上げる。


「……魔物か?」


 短杖を手に取った。


 戦闘は得意ではない。


 付与術師だから、前衛向きではない。魔物に襲われたら逃げるのが一番だ。


 茂みが揺れる。


 出てきたのは、小さな角兎だった。


 額に短い角が一本あるだけの弱い魔物だ。攻撃的ではあるが、こちらが刺激しなければ襲ってこないことも多い。


 ただ、その角兎はひどく痩せていた。


 毛並みは悪く、後ろ足を引きずっている。


 俺の食事の匂いに釣られたのか、こちらを警戒しながらも、じっと金属杯を見ていた。


「腹減ってるのか?」


 角兎は答えない。


 当たり前だ。


 俺は少し迷った。


 干し肉は少ない。


 分ける余裕があるかと言われると、ない。


 でも、怪我をした小動物がこちらを見ている中で、一人で食べるのも落ち着かない。


「ちょっとだけな」


 野草を一枚取り、柔らかく煮えた部分を冷まして地面に置く。


 角兎は警戒したまま近づき、匂いを嗅いだ。


 そして、ぱくりと食べた。


「うまいか?」


 角兎は耳を震わせた。


 次の瞬間、角兎の体が淡く光った。


「……え?」


 俺は目を瞬かせる。


 見間違いだろうか。


 角兎の後ろ足の傷が、ゆっくりと塞がっていく。毛並みも少し艶を取り戻したように見える。


「薬草、効いたのかな」


 便利だな、薬草。


 そう思うことにした。


 角兎は俺をじっと見た。


 逃げるかと思ったが、逃げない。


 むしろ、とことこと近づいてきて、俺の靴に鼻先を押しつけた。


「おい、危ないぞ。俺はこれから村に行くんだ。ついてきても何もないからな」


 角兎は耳をぴんと立てた。


 分かっているのかいないのか。


 もう一枚、野草を置く。


 角兎は食べた。


「……本当に何もないぞ」


 角兎は俺の隣に座った。


 なぜだ。


 俺は小さくため息をついた。


「まあ、好きにしろ」


 金属杯の中身が煮えた。


 干し肉と野草だけの簡単な汁だ。


 ひと口飲む。


「……あれ?」


 うまい。


 予想より、ずっとうまい。


 干し肉の塩気がまろやかになり、野草の青臭さが消えている。薬草の苦味もほとんどない。体に染み込むような、優しい味だった。


「こんなに料理、上手かったっけ」


 勇者パーティーでは、俺の飯に褒め言葉などほとんどなかった。


 カイルは「味が地味だ」と言い、ミラは「もっと香辛料を使って」と言い、ガレスは「肉が少ない」と言った。リーナだけはいつも小さく「おいしいです」と言ってくれたが、それも気遣いだと思っていた。


 俺はもう一口飲んだ。


 体が温まる。


 昨日から胸の奥に残っていた冷たい塊が、少し溶けた気がした。


「……リーナ、ちゃんと食べてるかな」


 思わず名前が出た。


 出してから、首を振る。


 もう関係ない。


 俺は追放された。


 あのパーティーには戻らない。戻れない。


 カイルたちなら大丈夫だろう。勇者なのだから。俺が抜けたくらいで困るはずがない。


 そう思おうとした。


 けれど、なぜか胸の奥がざわついた。


 ガレスの鎧。


 ミラの杖。


 リーナの聖印。


 カイルの聖剣。


 全部、確認できないまま離れてしまった。


「……まあ、俺がいなくても、どうにかするよな」


 自分に言い聞かせるように呟く。


 角兎が隣で、もぐもぐと野草を食べていた。


 俺はその頭を軽く撫でた。


「お前は気楽でいいな」


 角兎は目を細めた。


 その角が、ほんの少しだけ白く輝いたことに、俺は気づかなかった。


     ◇


 ゴブリン討伐は、どうにか成功扱いになった。


 ただし、ギルドへの報告書に書けるような内容ではない。


 勇者パーティーがゴブリン五匹相手に苦戦し、重戦士が負傷し、魔法使いが魔力切れを起こしかけた。


 そんなことを正直に書けば、王都中の笑いものだ。


「軽微な接敵。問題なく排除」


 カイルはそう書いた。


 リーナはそれを見て、唇を噛んだ。


「カイル。本当にそれでいいのですか」


「何がだ」


「ガレスの怪我は軽微ではありませんでした。ミラも、魔力の流れがおかしいと言っていました。私の治癒も普段より――」


「黙れ」


 カイルは報告書から顔を上げずに言った。


「勇者パーティーに失態などない」


「でも、原因を調べないと」


「原因は分かっている。全員、昨日の戦闘で疲れていただけだ」


 リーナは小さく息を呑んだ。


「本当に、それだけでしょうか」


 その声は、思ったよりはっきりしていた。


 カイルが目を細める。


「何が言いたい?」


「アレンさんが……」


 名前を出した瞬間、空気が冷えた。


 ミラが気まずそうに視線を逸らす。


 ガレスは肩に包帯を巻きながら、何も言わない。


 リーナは続けた。


「アレンさんが抜けてから、急に全員の調子が崩れました。偶然だと言い切るには、あまりにも――」


「お前まで、あの無能を持ち上げるのか?」


 カイルの声は低かった。


「違います。私はただ、事実を確認したいだけです」


「事実なら一つだ。アレンは役に立たなかった。だから追放した」


「でも」


「リーナ」


 カイルが立ち上がる。


 彼の手が聖剣の柄に触れた。


 脅すような動きではなかった。けれど、リーナは言葉を止めた。


「お前は僧侶だ。勇者である俺を支えるのが役目だ。無能を恋しがるのが役目ではない」


 リーナの顔が白くなる。


「私は、そんなつもりでは」


「なら黙っていろ」


 カイルは報告書を畳んだ。


「明日は王都へ戻る。装備を整え直し、次の大きな依頼を受ける。今日のことは忘れろ」


 誰も返事をしなかった。


 ただ、ガレスがぼそりと言った。


「……鍋、焦げてるぞ」


「は?」


 焚き火にかけられた鍋から、黒い煙が上がっていた。


 ミラが慌てて杖を振る。


「ちょっと、誰が見てたのよ!」


「お前だろ」


「違うわよ、いつもアレンが――」


 そこまで言って、ミラは口を閉じた。


 沈黙。


 焦げた匂いだけが、野営地に漂った。


 カイルは忌々しそうに舌打ちした。


「鍋の一つで大騒ぎするな。あんな雑用、誰でもできる」


 だが、その夜の食事は焦げ臭く、肉は硬く、スープは薄かった。


 ガレスは一口食べて顔をしかめた。


「……アレンの飯、意外とうまかったんだな」


「黙って食え」


 カイルが睨む。


 ミラは無言で匙を置いた。


 リーナだけは、焦げたスープを少しずつ飲んだ。


 食べ物を無駄にしたくなかったからではない。


 アレンがいつも、焦がさないように鍋の火加減を見ていたことを思い出してしまったからだ。


 彼は戦闘では目立たなかった。


 でも、彼がいた場所だけ、いつも少し整っていた。


 火はちょうどよく、湯は温かく、包帯は清潔で、寝床には小石が取り除かれていた。


 それらは全部、勇者の伝説には残らない。


 吟遊詩人の歌にもならない。


 けれど、確かに彼らの旅を支えていた。


「……アレンさん」


 リーナの小さな呟きは、焦げた煙の中に消えた。


     ◇


 夕方近く、ようやくリーフェル村の入口が見えてきた。


 木の柵に囲まれた、小さな村だった。


 柵は古く、ところどころ傾いている。畑は広いが、土の色は薄い。実りの時期にはまだ早いとはいえ、作物の背丈も低く、葉の色も元気がない。


 遠くに見える家々は、どれも質素だった。


 でも、煙突からは細い煙が上がっている。


 人が暮らしている匂いがした。


 俺は村の入口で足を止めた。


 角兎はいつの間にか、少し離れた茂みの中に消えていた。森へ帰ったのだろう。


「さて……」


 村に入ったら、まず村長を探すべきか。


 それとも宿屋か。


 いや、宿屋があるかどうかも怪しい。


 門番らしき老人が、柵の脇の椅子に座っていた。槍を持っているが、穂先は錆びている。老人は俺を見ると、目を細めた。


「旅人かね」


「はい。アレンといいます」


「商人には見えんな」


「付与術師です。仕事を探していて」


「付与術師?」


 老人は少し驚いたように眉を上げた。


「王都の術師様が、こんな辺境に何の用だ」


「王都の術師というほど立派なものじゃありません。前の仕事を辞めることになりまして」


「辞めた?」


「まあ、そんな感じです」


 追放されました、とは言いづらい。


 老人は俺の顔をしばらく眺めた。


 嘘を見抜こうとしているのかもしれない。


 やがて、彼はふっと肩の力を抜いた。


「悪い顔じゃないな」


「顔で分かるんですか?」


「年寄りはだいたい顔で判断する。外れることも多い」


「多いんですか」


「多い」


 老人は真面目な顔で頷いた。


 俺は思わず笑ってしまった。


 すると老人も、少しだけ口元を緩めた。


「宿はない。だが空き家ならある。屋根は少し傷んでいるが、雨はしのげる。村長に話してみるといい」


「ありがとうございます」


「礼は早い。村長が頷くかは別だ」


「それでも、追い返されないだけありがたいです」


 俺がそう言うと、老人は妙な顔をした。


「兄ちゃん、ずいぶん低いところから物を言うんだな」


「そうですか?」


「普通の若い術師なら、もっと偉そうにする。村に来てやったぞ、ありがたく迎えろ、とな」


「そんなこと言える立場じゃないので」


 本当に。


 俺は勇者パーティーを追い出された底辺付与術師だ。


 偉そうにする理由がない。


 老人は立ち上がり、村の中を指さした。


「村長の家はあそこだ。大きな栗の木がある家」


「分かりました」


「それと、畑には勝手に入るなよ。土が弱ってる。踏むだけでも嫌がる者がいる」


「気をつけます」


 俺は頭を下げ、村へ入った。


 その瞬間、村の空気がほんの少し揺れた。


 柵の内側に沿って、見えない薄い膜のようなものが広がる。


 傾いていた柵の木目に淡い光が走り、錆びた釘が静かに締まり直す。畑の土が、眠りから覚めるようにわずかに黒みを帯びる。


 門番の老人は、ふと首を傾げた。


「……風か?」


 彼には何も見えなかった。


 俺にも、もちろん見えなかった。


 ただ村の中へ数歩進んだとき、胸の奥にあった冷たさが少し和らいだ。


 ここは静かだ。


 誰も怒鳴っていない。


 誰も俺を無能だと笑っていない。


 それだけで、俺は少し息をしやすくなった。


 村長の家に向かって歩いていると、道端で小さな女の子が転んだ。


「あっ」


 膝を擦りむいたらしい。


 女の子は泣き出しそうな顔で膝を押さえている。


 近くに母親らしき女性がいたが、荷物を抱えていてすぐには動けない。


 俺は反射的に駆け寄った。


「大丈夫か?」


「……いたい」


「ちょっと見せて」


 たいした傷ではない。


 だが、土がついている。放っておくとよくない。


 俺は水筒の水で傷口を洗い、薬草の葉を軽く揉んで当てた。


「これで少し楽になると思う」


 女の子は涙目で俺を見る。


「お兄ちゃん、魔法使い?」


「いや、付与術師」


「ふよじゅつし?」


「うん。ちょっと地味な魔法使いみたいなものかな」


「地味なの?」


「かなり」


 女の子は少し笑った。


 その笑顔につられて、俺も笑う。


 薬草を押さえていた手を離す。


 傷は、もう塞がっていた。


「……あれ」


 俺は首を傾げる。


 子供の傷は治りやすいとはいえ、早すぎる。


 女の子は不思議そうに膝を見て、それからぱっと顔を輝かせた。


「いたくない!」


「よかったな」


「お兄ちゃん、地味じゃないよ!」


「そうか?」


「うん! すごい地味じゃない!」


 褒められているのか、地味を強調されているのか分からない。


 母親が慌てて駆け寄ってきた。


「すみません、旅の方。うちの子が」


「いえ、たいしたことはしてません」


「でも、今……傷が」


「浅かったので」


 母親は膝を見て、目を丸くした。


 俺はそれ以上騒ぎになる前に、軽く頭を下げた。


「村長さんの家に行きたいんですが、栗の木のある家で合ってますか?」


「え、ええ。あちらです」


「ありがとうございます」


 歩き出すと、背後で女の子が手を振った。


「地味じゃないお兄ちゃーん!」


「地味でいいよー」


 思わず返事をしてしまった。


 村の道に、小さな笑い声が広がる。


 久しぶりだった。


 誰かに笑われるのではなく、誰かと一緒に笑ったのは。


 そのとき、村の奥の森で、何かが低く唸った。


 俺は足を止める。


 風の音かと思ったが、違う。


 魔物の声だ。


 遠い。


 けれど、確かにいる。


 村の柵は古い。


 このままだと、夜は少し危ないかもしれない。


「……村長に会ったら、柵の補修を手伝わせてもらおう」


 俺はそう決めた。


 ただの雑用だ。


 でも、今の俺にできることは、それくらいしかない。


 そう思いながら、俺は村長の家へ向かった。


 俺が村に入ったことで、リーフェル村全体に薄い守護の付与がかかり始めていることなど、当然、知るはずもなかった。


 追放された底辺付与術師は、まだ自分の力を知らない。


 そして勇者パーティーもまた、失ったものの大きさを知らないままだった。

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