第29話 騎士団調査官、リーフェル村へ向かう
王国騎士団本部の朝は、剣の音から始まる。
訓練場では、若い騎士たちが木剣を打ち合わせていた。掛け声、踏み込み、甲高い打撃音。そこに教官の怒声が混じる。
「踏み込みが浅い! 相手が魔物なら、今ので腹を裂かれているぞ!」
「はい!」
「返事は腹から出せ!」
「はいっ!」
騎士団の朝は、規律と汗でできている。
冒険者ギルドのような騒がしさとは違う。こちらは、もっと硬い。歩き方、挨拶、剣の置き方、報告の順番に至るまで、すべてに決まりがある。
その硬さを好む者もいれば、息苦しく思う者もいる。
王国騎士団副団長グラウス・バルテインは、執務室の窓から訓練場を見下ろしながら、ゆっくり茶を飲んでいた。
机の上には、数枚の報告書が置かれている。
リーフェル村。
付与術師アレン。
エルフの少女シルフィ。
井戸守りぷる太。
ガリオン男爵家とドラン商会の偽薬事件。
世界樹の若木らしき反応。
さらに、勇者カイルによるアレン召集要請。
普通なら、別々の事件として扱われるはずのものが、一つの小さな辺境村に集まりすぎている。
グラウスは茶を置き、低く呟いた。
「……面倒な村だな」
悪い意味ではない。
だが、放置できないという意味では、間違いなく面倒だった。
扉が叩かれた。
「入れ」
「失礼いたします」
入ってきたのは、一人の女性騎士だった。
年齢は二十代後半ほど。栗色の髪を後ろで短く束ね、騎士団の制式軽鎧を身につけている。派手な装飾はない。腰に下げた剣も、儀礼用ではなく実戦用だ。
背筋はまっすぐ。
しかし、無駄な力みはない。
彼女の名は、クラウディア・レイン。
王国騎士団の調査任務を何度もこなしてきた騎士である。
強いだけではなく、よく見る。
そして、見たものを自分の都合に合わせて曲げない。
グラウスが彼女を呼んだ理由は、そこにあった。
「クラウディア。急な呼び出しですまんな」
「副団長の急な呼び出しに慣れたくはありませんが、慣れました」
硬い声だったが、言葉にはわずかな皮肉がある。
グラウスは少しだけ笑った。
「相変わらずだな」
「副団長ほどではありません」
「座れ」
「失礼します」
クラウディアは椅子に腰を下ろした。
グラウスは机上の報告書を彼女の前へ滑らせる。
「東部辺境、リーフェル村へ向かってもらう」
「リーフェル村」
クラウディアは報告書の表題を読み、すぐに眉を動かした。
「最近、ギルドから頻繁に名が上がっている村ですね」
「知っているか」
「噂程度には。勇者パーティーを追放された付与術師が滞在している村。水と薬草の品質が急に良くなり、商人と貴族が手を出して失敗した村。酒場では、スライムが偽薬を見抜いた話が妙に人気です」
「井戸守りぷる太、だそうだ」
グラウスが真顔で言うと、クラウディアは一瞬だけ黙った。
「……報告書に正式名称として載せるべきか迷う名ですね」
「私は載せた」
「載せたのですか」
「現地でそう呼ばれている以上、無視はできん」
クラウディアは報告書をめくった。
読み進める表情が、少しずつ真剣になっていく。
「偽薬事件の証拠、悪質契約、男爵家の命令書。これは商業裁定所案件ですね」
「ああ。ギルドと裁定所が動いている」
「こちらの任務は、その件の調査ですか」
「それも含む」
グラウスは指で別の報告書を示した。
「本題は、リーフェル村の状況確認だ。アレン殿本人の意思確認、村への不当圧力の有無、ガリオン男爵家の干渉、さらにエルフ側の動向も見てほしい」
「エルフ側」
クラウディアは次の書類を手に取る。
そこには、リーフェン家の名があった。
「古代森術の名家リーフェン家。シルフィというエルフの少女が、その家の出身。魔力回路を損傷していたが、アレン殿によって回復した可能性あり」
「可能性、というより高い確度でそうだろうな」
「世界樹の若木らしき反応……」
クラウディアの手が止まった。
顔を上げる。
「副団長。これは誇張では?」
「そう思いたい」
「思いたい、ですか」
「だが、複数の報告が妙に一致している。エルフ側もそれを認識して動き始めたらしい」
クラウディアは少し黙り、報告書を机へ戻した。
「つまり、辺境の小村に、勇者パーティー、ギルド、下級貴族、商人、エルフ名家、世界樹らしきものが絡み始めていると」
「そういうことだ」
「悪夢の盛り合わせですね」
「的確だな」
「褒められても嬉しくありません」
クラウディアは淡々と言った。
だが、表情はすでに任務へ向かうものに変わっていた。
「私に求められる立場を確認します。王国騎士団として、アレン殿を召集する任務ではありませんね?」
「違う」
グラウスは即答した。
「これは強制召集ではない。調査だ」
「アレン殿本人の意思を確認し、村の状況を見る」
「そうだ」
「仮に、彼が王国協力を拒んだ場合は?」
「拒否の理由を聞き、報告しろ。説得はしてもいいが、圧力はかけるな」
「勇者カイル殿は、それに納得されていますか」
その問いに、グラウスは短く息を吐いた。
「していない」
「でしょうね」
クラウディアは報告書の勇者パーティー項目を見る。
「彼は同行を求めるでしょう」
「もう求めている」
「やはり」
「だから、お前を先に呼んだ」
グラウスは机の引き出しから一通の任命書を取り出した。
「クラウディア・レイン。お前をリーフェル村調査官に任命する。任務中、勇者パーティーからの同行要請は、副団長権限で却下する」
「明文化していただけるのは助かります」
「カイル殿が無理について来ようとした場合は?」
「任命書を見せ、必要ならその場で拒否します」
「相手は勇者だ」
「任務外の勇者であれば、一般の騎士と同じく扱います」
グラウスは少し笑った。
「それを言える者が必要だった」
「言わなければならない状況にしたくはありませんが」
「私もだ」
しかし、そうはいかないだろう。
グラウスもクラウディアも、それは分かっていた。
◇
その予想は、すぐに当たった。
昼前、騎士団本部の廊下に、硬い足音が響いた。
勇者カイルである。
白銀の鎧はきちんと磨かれている。聖剣も腰にある。姿だけなら、かつてと変わらない王国の英雄だ。
だが、その顔には以前の余裕がなかった。
廊下で出会った若い騎士たちは、慌てて礼をする。
カイルはそれに軽く頷き、副団長室へ向かった。
扉の前にいたダリオが、少し戸惑ったように声をかける。
「カイル様」
「副団長はいるな」
「はい。ただ、現在は」
「話がある」
カイルは返事を待たず扉を叩いた。
「入れ」
中から声が返る。
扉を開けたカイルは、部屋にクラウディアがいるのを見て眉をひそめた。
「取り込み中か」
「ちょうどよい」
グラウスは言った。
「カイル殿にも伝える必要があった」
カイルの視線が、クラウディアへ向く。
「誰だ」
クラウディアは立ち上がり、騎士礼をした。
「王国騎士団所属、クラウディア・レインです」
「知らんな」
「存じています。私は前線の英雄ではなく、調査担当ですので」
淡々と返す。
カイルはその返答を気に入らなかったようだが、今はグラウスへ向き直った。
「リーフェル村への調査を出すと聞いた」
「出す」
「俺も同行する」
予想通りすぎる発言だった。
グラウスは静かに首を横に振る。
「認められない」
「なぜだ」
「今回の任務は、中立的な状況確認だ。あなたが同行すれば、アレン殿本人が圧力を感じる可能性が高い」
「俺は圧力などかけない」
その場にいた全員が、少しだけ沈黙した。
カイルは眉を吊り上げる。
「何だ」
クラウディアが口を開いた。
「失礼ながら、報告書では、カイル殿はリーフェル村でアレン殿へ復帰を命じるような発言をされています」
「命じたのではない。戻る機会を与えた」
「その認識の差が、今回の問題です」
カイルの目が鋭くなる。
「調査担当が、勇者に説教するのか」
「任務上必要な確認をしています」
「俺はアレンと話す必要がある」
「アレン殿が望むなら、後日話す機会もあるでしょう」
「望むかどうかではない。王国のためだ」
クラウディアは一瞬だけ目を伏せた。
それから、静かに言う。
「王国のためという言葉は、便利すぎます」
カイルの表情が固まった。
どこかで聞いたような言葉だった。
マリナも、グラウスも、似たようなことを言っていた。
「貴様まで」
「私は、アレン殿を知りません。あなたの敵でもありません。ただ、調査前から結論を決めている者の同行は、任務の妨げになります」
「俺が妨げだと?」
「はい」
即答だった。
ダリオが扉のそばで息を呑む。
カイルの顔が赤くなった。
「クラウディアと言ったな」
「はい」
「俺は勇者だ。王国の魔王軍対策の中心だぞ」
「存じています」
「なら、勇者パーティーに必要な支援役を取り戻すことが、どれだけ重要か分かるはずだ」
「分かるのは、あなたがまだアレン殿を『支援役』として見ていることです」
「何?」
「私は、まずアレン殿本人を見るために行きます。能力ではなく、本人を」
その言葉に、カイルは一瞬だけ黙った。
本人。
またその言葉だ。
アレン本人の意思。
アレン本人の望み。
周囲はそればかり言う。
だが、カイルにはまだ飲み込めない。
アレンの力が必要。
それが最優先ではないのか。
「カイル殿」
グラウスが言った。
「あなたには、現在の活動制限を守り、勇者パーティーの立て直しに専念していただく」
「俺に待てと言うのか」
「そうだ」
「その間に、エルフや貴族がアレンを奪いに行ったらどうする」
「だからクラウディアを出す」
「一人の騎士に何ができる」
クラウディアは淡々と答えた。
「一人だから見えるものもあります。大人数で押しかければ、村は警戒するだけです」
「村の警戒など」
「必要です」
クラウディアの声が少しだけ強くなった。
「リーフェル村は、すでに商人と貴族から不当な圧力を受けています。エルフ名家からも要請を受けている。そこへ勇者が同行すれば、村にとってはさらに大きな圧力です」
「俺は敵ではない」
「それを決めるのは、あなたではありません。受け取る側です」
廊下の外まで、空気が張りつめた。
カイルは拳を握りしめる。
言い返そうとして、言葉が詰まる。
グラウスが静かに告げた。
「同行は認めない。これは決定だ」
「……勝手にしろ」
カイルは低く言った。
「だが、アレンの力が王国に必要だと分かれば、お前たちも結局俺と同じ結論になる」
「それも含めて、調査します」
クラウディアは礼をした。
カイルはそれ以上何も言わず、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
しばらく沈黙が落ちた。
ダリオが気まずそうに視線を伏せる。
グラウスは深く息を吐いた。
「すまんな」
「任務ですので」
「今のやり取りで分かっただろう。カイル殿は、悪人ではない。だが危うい」
「はい」
クラウディアは短く答えた。
「彼は、アレン殿を必要としているのではなく、アレン殿が戻ることで自分の正しさを回復したいように見えました」
「厳しいな」
「報告書には書きません」
「書いてもいい」
「では、少し表現を丸めます」
グラウスは苦笑した。
◇
副団長室を出たカイルは、訓練場の脇で足を止めた。
木剣の音が聞こえる。
若い騎士たちが汗を流している。
その中には、昔の自分のような者もいた。
選ばれたい。
強くなりたい。
認められたい。
カイルは、かつて本当に強かった。
努力もした。
才能もあった。
聖剣にも選ばれた。
だから、周囲は彼を勇者と呼んだ。
その呼び名に見合うだけの戦果を出してきたつもりだった。
だが今、そのすべての中にアレンの支援が混じっていたと、周囲が言う。
カイルには、それが耐えられない。
自分の剣が、自分だけのものではなかったように言われることが。
自分の勝利が、誰かの陰の仕事に支えられていたと認めることが。
「……俺は」
彼は呟いた。
「俺は、勇者だ」
何度も繰り返してきた言葉。
だが、最近その言葉は、自分を奮い立たせるよりも、自分を閉じ込める鎧のように重かった。
そこへ、ミラがやってきた。
腕を組み、壁にもたれかかる。
「やっぱり断られた?」
「何の用だ」
「見れば分かるわよ。顔に書いてある」
「お前まで俺を笑いに来たのか」
「笑えないから来たの」
ミラの声は、いつもの皮肉より少し柔らかかった。
カイルは目を逸らす。
「同行を拒まれた。調査官一人で行くそうだ」
「妥当ね」
「ミラ」
「怒る前に聞きなさいよ。今あなたが行ったら、アレンは身構える。シルフィって子も、村の人たちも。あの村にとって、あなたはまだ怖い相手なの」
「俺は何もしていない」
「したのよ」
ミラは短く言った。
「追放した。戻れと言った。許してやると言った。本人の意思を見なかった。それだけで十分」
カイルは黙った。
「私たちは、今やるべきことがある」
「基礎訓練か」
「そう」
「屈辱だ」
「私も屈辱よ」
ミラは笑った。
自分を笑うような、苦い笑いだった。
「でも、杖の基礎調整すらアレンに頼ってた魔法使いが、今さら格好つけても仕方ないでしょ」
「お前は、それでいいのか」
「よくないわよ」
ミラは即答した。
「よくないから、やり直すの。ガレスも、リーナもそのつもりよ。あなたは?」
「俺は……」
言葉が出ない。
やり直す。
勇者が。
基礎から。
その言葉が、どうしても喉に引っかかる。
ミラは小さく息を吐いた。
「カイル。アレンが戻らないなら、私たちは自分で立つしかないの」
「戻らないと決めつけるな」
「まだそこなのね」
ミラは少し悲しそうに言った。
それから、訓練場の方へ顎をしゃくる。
「午後、ガレスと防御連携の基礎をやる。リーナも魔力配分の練習。あなたも来るなら来て」
「俺が行くと思うか」
「思ってない」
「ならなぜ言う」
「一応、まだ仲間だから」
その言葉を残して、ミラは去っていった。
カイルはその背中を見送る。
仲間。
その言葉が、妙に遠く聞こえた。
◇
クラウディアは、その日のうちに出発準備を整えた。
持ち物は多くない。
騎士団の身分証。
副団長名義の調査任命書。
ギルド発行の紹介状。
偽薬事件の写し。
アレン本人の意思確認用の質問項目。
そして、最低限の旅装。
騎士が大勢で行けば、村を威圧する。
だから、護衛は連れない。
代わりに、途中までギルドの荷馬車に同乗し、そこから村へは一人で入る予定だった。
出発前、グラウスが厩舎まで見送りに来た。
「一人で行かせるのは、少し心苦しいな」
「一人で行けと命じたのは副団長です」
「そうだった」
「心配でしたら、任務を変更しますか」
「いや。そのままでいい」
グラウスは封筒を一つ差し出した。
「マリナ嬢からの手紙だ。リーフェル村の村長宛てと、アレン殿宛て。途中でギルド便に渡してもいいが、お前が直接持っていった方が早いだろう」
「承知しました」
「それと」
グラウスは少し声を低めた。
「アレン殿を見てきてくれ」
「能力ではなく、本人を、ですね」
「そうだ」
「承知しています」
「世界樹や井戸水やスライムに気を取られすぎるなよ」
「すでに気を取られる前提なのですね」
「報告書を読んだ限り、無理だろう」
クラウディアは少しだけ口元を緩めた。
「努力します」
「それでいい」
彼女は馬に乗った。
騎士団本部の門が開く。
王都の街道へ向けて、クラウディアはゆっくり馬を進めた。
背中に、王国騎士団の紋章。
腰には剣。
鞄には、王都とリーフェル村をつなぐ書類。
しかし彼女の任務は、命令を押しつけることではない。
見ること。
聞くこと。
そして、誰かの都合で歪めずに報告すること。
◇
その頃、リーフェル村では、アレンが井戸のそばでぷる太に字を教えていた。
「これが丸。水」
「ぷる」
「これが三角。薬」
「ぷる」
「これがバツ。だめ」
「ぷる!」
ぷる太は、バツの時だけ妙に力強く跳ねた。
ミナが横で拍手する。
「ぷる太、かしこい!」
「ぷるる」
シルフィは少し離れた場所で記録している。
「ぷる太、記号三種を識別。反応良好」
「本当に授業みたいになってきたな」
「はい。井戸守り教育課程です」
「何だそれ」
俺が笑うと、ぷる太も跳ねた。
村長が近くを通りかかり、少し呆れた顔をする。
「アレン」
「はい」
「スライムに字を教える村は、さすがに珍しいと思うぞ」
「俺もそう思います」
「だが、役に立ちそうなのが困る」
「ですね」
そんな平和なやり取りの向こうで、王都から一人の騎士がこちらへ向かっていることを、俺たちはまだ知らなかった。
ただ、村の入口に立てられた板が、夕風に揺れていた。
『分からない時は、その場で決めず持ち帰る』
近づいてくる新しい調査官に対しても、きっとこの決まりが役に立つ。
そう知るのは、もう少し後のことだった。




