第28話 エルドラン、世界樹の報告に激怒する
リーフェン家の館には、朝が来ても人の声が少ない。
森の奥に建つ白木の館は、外から見れば静謐そのものだった。朝霧は枝葉の間を流れ、銀灰色の幹に絡む蔦は、淡い魔力の光を宿している。小鳥の声さえ、ここでは遠慮がちに聞こえた。
だが、その静けさは優しさではない。
息を潜める静けさだ。
言葉を選ばなければならない家。
失敗を見せれば価値を削られる家。
血筋と術式と家名が、人の呼吸より重く扱われる場所。
リュシア・リーフェンは、その館の廊下を歩きながら、昨日のシルフィの声を思い出していた。
『私は、家には戻りません』
細く震えながら、それでも折れなかった声。
リュシアは、自分の胸元に手を当てた。
あの子は、変わっていた。
幼い頃のシルフィは、いつも周囲の気配を読んでいた。誰が苛立っているのか。誰が自分を笑うのか。誰が「また失敗する」と思っているのか。まるで森の小動物のように、常に逃げ道を探していた。
そのシルフィが、昨日は自分の言葉で断った。
リーフェン家より、リーフェル村で与えられた木札の方が重い、と言った。
あの言葉は、リュシアの胸にも刺さっていた。
羨ましかったのかもしれない。
リュシア自身は、家の外に自分の重さを見つけたことがなかったから。
「リュシア様」
執務室の前で、黒衣の文官が頭を下げる。
「当主代理がお待ちです」
「分かっています」
声が少し硬くなった。
リュシアは深く息を吸う。
扉の向こうには、エルドラン・リーフェンがいる。
リーフェン家の当主代理。
血筋、術式、家名、価値。
そうした言葉で人を測る男。
彼に、昨日見たものを報告しなければならない。
世界樹の若木。
シルフィの古代森術。
アレンという人間の付与術師。
リュシアは扉を叩いた。
「入れ」
中から低い声が返る。
扉が開く。
執務室の奥で、エルドランはすでに机についていた。銀髪を整え、金縁の眼鏡をかけ、机の上には何枚もの資料と水晶板が並んでいる。
その姿に乱れはない。
しかし、リュシアはすぐに分かった。
機嫌が悪い。
部屋の魔力が、薄く尖っている。
「戻ったか、リュシア」
「はい。当主代理」
「報告を聞こう」
短い言葉。
そこに労いはなかった。
当然だろう。
リュシアは頭を下げ、持ち帰った記録板を机の上に置いた。
「シルフィ・リーフェンの生存を確認しました。現在、人間領東部のリーフェル村に滞在。村の付与相談役アレンを師と仰ぎ、村の記録係としての役目を得ています」
「村の記録係?」
エルドランの口元がわずかに歪んだ。
「リーフェンの血を引く者が、人間の小村で書記の真似事か」
「彼女は、その役目を大切にしているようでした」
「役目など、与える者の格で価値が決まる。人間の村長が与えた木札に、何の重みがある」
リュシアはすぐには答えなかった。
昨日のシルフィの言葉が蘇る。
私にとっては、この木札の方が重いです。
それをここでそのまま言えば、エルドランは怒るだろう。
だが、報告しなければならない。
「シルフィは、リーフェン家への帰還を拒否しました」
部屋の空気が少し冷えた。
文官たちが息を潜める。
エルドランは指で机を叩いた。
「拒否、か」
「はい」
「こちらが正式な使者を出し、帰還要請をしたにもかかわらず?」
「はい」
「理由は」
「リーフェル村で生きたい、と。アレン殿の弟子として、村の記録係として、自分の魔力を学びたいと話しました」
「……あの失敗作が、ずいぶんと言うようになったな」
失敗作。
その言葉が出た瞬間、リュシアの胸が少し痛んだ。
以前なら、痛みはしなかったかもしれない。
そう呼ばれることが当たり前だったから。
けれど、今は違う。
昨日のシルフィは、失敗作ではなかった。
少なくとも、リュシアの目にはそう見えなかった。
「当主代理」
「何だ」
「シルフィは、以前と違いました。魔力は安定し、古代森術の基礎紋も発現しています。精神的にも、かつてのような不安定さは見られません」
エルドランの指が止まった。
「古代森術の基礎紋」
「はい」
「その話を詳しくしろ」
リュシアは、一瞬ためらった。
ここからが本題だ。
「シルフィが帰還拒否を表明した際、彼女の魔力に反応し、リーフェル村内で強い森術系の魔力が発生しました」
「森術系の魔力?」
「はい。幻視術で隠されていたため、当初は確認できませんでしたが、一瞬だけ術が揺らぎました。その奥に、世界樹の若木と思われる存在を確認しました」
室内の時間が止まった。
エルドランは、まばたきすらしなかった。
文官たちは、明らかに動揺している。
誰かの手元から羽ペンが落ち、小さな音を立てた。
「……世界樹」
エルドランの声は低かった。
「今、世界樹と言ったか」
「はい」
「人間の村に?」
「はい」
「リーフェル村に?」
「はい」
「シルフィの近くに?」
「はい」
次の瞬間、エルドランは机を叩いた。
水晶板が震え、文官たちが一斉に肩をすくめる。
「馬鹿な!」
怒声が執務室に響いた。
「世界樹の若木だと? リーフェン家が何世代もかけて再生を試み、種子の休眠すら破れなかったものが、人間の辺境村にあるだと?」
「私も、最初は見間違いかと思いました」
「見間違いであれ」
エルドランの声は冷たかった。
リュシアは目を伏せる。
「ですが、あれは世界樹に近い魔力でした。少なくとも、通常の樹精や森霊樹ではありません」
「なぜだ」
エルドランは椅子から立ち上がった。
「なぜ、そのようなものが人間の村にある。なぜシルフィのそばにある。なぜ、リーフェン家の森ではなく、そんな名もない小村なのだ」
誰も答えられない。
答えられる者がいるとすれば、おそらくアレンだ。
ただし、本人も分かっていないだろうとリュシアは思った。
あの青年は、世界樹を所有物として見ていなかった。
シルフィを研究材料として見ていなかった。
ただ、隣に立っていた。
その姿が、逆に不可解だった。
「アレン殿についても報告があります」
リュシアは続けた。
「彼は、シルフィの意思を尊重すると明言しました。リーフェン家が戻れと求めても、シルフィが望まないなら戻させない、と」
「人間風情が、リーフェン家に逆らうと?」
「そのような言い方ではありませんでした。ですが、意思は明確でした」
「同じことだ」
エルドランは冷たく笑った。
「人間の付与術師が、世界樹の若木を抱え、シルフィを手元に置き、リーフェン家に対して口を出す。ずいぶんと面白い状況になっているではないか」
「当主代理。私は、強硬な対応は避けるべきだと考えます」
言ってから、リュシアは自分でも驚いた。
部屋が静まり返る。
エルドランの目が、ゆっくりリュシアへ向いた。
「強硬な対応を避ける?」
「はい」
「理由は」
「リーフェル村には、通常の村とは異なる守護領域のようなものがあります。水、土、柵、世界樹、そしてスライム。複数の要素が重なって、村全体が一つの結界のように機能している可能性があります」
「スライム?」
エルドランの声に、明らかな侮りが混じった。
「村にいた水系の魔物です。井戸守りと呼ばれていました」
「井戸守り」
エルドランは鼻で笑った。
「人間の村らしい、幼稚な呼び名だ」
「しかし、そのスライムも通常種ではありません。浄化能力が高く、村人に慕われ、アレン殿の指示を理解している様子でした」
「知性化したスライムか。付与術の副産物かもしれんな」
エルドランはすぐにそう結論づけた。
「ますます興味深い。魔力回路の修復、世界樹の発芽、魔物の知性化、村全体の守護化。人間一人が偶然引き起こしたにしては、あまりに多い」
「ですから、慎重に」
「慎重には動く」
エルドランは遮った。
「だが、手を引く理由にはならない」
「……」
「リュシア。お前は何を見てきたのだ。世界樹だぞ。古代森術の基礎紋を発現したシルフィだぞ。魔力回路を修復する付与術師だぞ。これらを人間の村に放置しろと言うのか」
「放置ではありません。対話を続けるべきです」
「対話?」
エルドランは、ひどくつまらない言葉を聞いたように眉を上げた。
「昨日、対話はしたのだろう。その結果、シルフィは戻らないと言った。アレンは渡さないと言った。人間の村長は世界樹を隠した。なら、次に必要なのは対話ではなく、権利の確認だ」
「権利、ですか」
「そうだ」
エルドランは机の上の地図を広げた。
エルフ領と人間領の境界が描かれている。
リーフェル村は人間側にある。
それでも彼は、その位置を指で叩いた。
「シルフィはリーフェン家の血を引く。古代森術の基礎紋を発現したなら、家の継承研究に関わる存在だ。世界樹が彼女に反応したなら、なおさらだ」
「シルフィを、失敗作ではなくなったから連れ戻すのですか」
リュシアの声は、自分でも思ったより鋭かった。
文官たちが息を呑む。
エルドランはリュシアを見た。
「何か問題があるか」
「……いえ」
「以前は使えなかった。今は使える可能性がある。なら、評価を改める。当然のことだ」
その言葉は、リュシアの胸を冷たくした。
使えなかった。
使える。
人を、道具や素材と同じ言葉で測る。
リーフェン家では、それが当たり前だった。
でも昨日、リーフェル村では違った。
シルフィは怖かったと泣いた。
アレンは隣にいた。
村の人々は、食事を用意した。
あの場では、シルフィは利用価値で見られていなかった。
だから、あの子は立てたのだ。
「当主代理」
「まだ何かあるのか」
「シルフィは、力を取り戻したから戻るべきなのではありません。力を取り戻したからこそ、自分の意思を持っています」
エルドランの目が冷えた。
「リュシア。お前は、あの村に情を移したのか」
「私は、見たままを申し上げています」
「見たまま、か」
エルドランは椅子に座り直した。
「ならば、私も見たままを言おう。お前は使者として失敗した」
胸の奥が、硬くなる。
「申し訳ございません」
「謝罪は必要ない。失敗は次に活かせばよい。お前は、情を揺らす駒としては力不足だった。しかし、現地を知る案内役としては使える」
駒。
力不足。
案内役。
リュシアは、黙って頭を下げた。
「次の使者団を編成する」
エルドランは文官へ視線を向けた。
「強硬派を出す。法務官、森術師、護衛を増やせ。黒枝も影につける。表向きは再度の正式交渉。だが、目的は明確にする」
「目的は」
文官が尋ねる。
「一つ。シルフィ・リーフェンの身柄確認および帰還要求。二つ。世界樹の若木の所在確認と管理権の主張。三つ。人間の付与術師アレンの研究協力要請。拒否する場合は、リーフェン家の森術資産への不当干渉として抗議する」
リュシアは思わず顔を上げた。
「世界樹を、リーフェン家の資産と主張するのですか」
「当然だ。世界樹は古代森術の根幹だ。人間の村が管理できるものではない」
「ですが、あの若木がリーフェン家の森から出たものかどうかは」
「関係ない」
エルドランは冷たく言った。
「管理できる者が管理する。資格ある家が保護する。それが秩序だ」
「……それを、リーフェル村が受け入れるとは思えません」
「受け入れさせる」
エルドランの声に、迷いはない。
「リーフェル村は人間領の村です。強硬に出れば王国側との問題に」
「だから、まずは正式な使者団として行く。書面を整え、言葉を選び、相手に拒否の責任を負わせる」
まるで契約の罠だ。
リュシアはそう思った。
昨日のシルフィの言葉がまた蘇る。
私は、家には戻りません。
リュシアは静かに拳を握った。
「リュシア」
「はい」
「お前も同行しろ」
「私も、ですか」
「シルフィがお前にはまだ反応する。完全に拒絶していない。ならば利用価値はある」
「……承知しました」
リュシアは頭を下げた。
声が震えないよう、必死に抑えた。
エルドランは、彼女の内心など興味もなさそうに文官たちへ指示を飛ばしていく。
「法務官セラドを呼べ。森術師は二名。護衛は四名でよいが、黒枝は別に三名。リーフェル村に人間の騎士団やギルド関係者がいる可能性も考慮しろ。表立って剣は抜くな。だが、引くな」
「御意」
「それから、アレンについて追加で調べろ。勇者パーティー時代の記録、王都ギルドの評価、追放の経緯、現在の立場。人間の中での扱いも把握する」
「はい」
「弱点があるはずだ」
エルドランは水晶板に映る粗い記録映像を見た。
リーフェル村で、アレンがシルフィの隣に立っている場面。
「この手の人間は、必ず誰かを守ろうとして自分を差し出す。村か、シルフィか、子供か、あのスライムか。何かを押せば動く」
リュシアは、その言葉に息が詰まった。
その分析は、間違っていない。
アレンは優しい。
だからこそ、狙われやすい。
でも、リュシアは昨日見た。
あの村では、アレンの優しさを守る人々がいた。
シルフィがいた。
村長がいた。
ぷる太がいた。
彼はもう、一人で差し出されるだけの人間ではない。
そのことを、エルドランは分かっていない。
「報告は以上か」
エルドランが問う。
リュシアは一瞬、迷った。
シルフィが泣いていたこと。
ぷる太に触れて落ち着いていたこと。
村の人々が食事を用意していたこと。
アレンが、彼女の代わりに答えすぎないように気遣っていたこと。
それらを報告しても、エルドランには価値としてしか届かないだろう。
だから、リュシアは静かに言った。
「一点だけ」
「何だ」
「シルフィは、もう昔のようにただ従う子ではありません」
「それは報告で分かった」
「いえ。違います」
リュシアは顔を上げた。
「彼女は、強くなったのではありません。支えられる場所を得たのです。ですから、単に命じても戻りません」
エルドランはしばらくリュシアを見た。
そして、薄く笑った。
「ならば、その支えを取り除けばよい」
リュシアは、何も言えなかった。
言えば、今この場で自分が外される。
同行できなくなる。
それでは、シルフィに警告する機会すら失うかもしれない。
「下がれ」
「……はい」
リュシアは頭を下げ、執務室を出た。
◇
廊下に出た瞬間、リュシアはゆっくり息を吐いた。
手が冷たい。
家の中にいるのに、森の冬に立っているようだった。
「リュシア様」
後ろから声がかかる。
振り返ると、若い文官が控えめに立っていた。
幼い頃からリュシアに仕えているセインという青年だ。
「顔色がよくありません」
「大丈夫です」
「……本当に、第二使者団に同行なさるのですか」
「命令です」
「ですが、強硬派が出れば、シルフィ様は」
「分かっています」
リュシアは窓の外を見た。
森は今日も美しい。
美しいのに、息苦しい。
「セイン。あなたは、外の村を見たことがありますか」
「人間の村ですか? 任務で数度だけ」
「人は、食卓で笑うのですね」
セインは戸惑った。
「はい?」
「いえ。何でもありません」
リュシアは首を横に振る。
だが、頭から離れなかった。
リーフェル村の広場。
鍋の湯気。
子供の声。
スライムの旗。
木札を握るシルフィ。
あの場所は、格式などなかった。
でも、息ができる場所だった。
「私は、報告役として同行します」
リュシアは言った。
「ただし、見たものは正しく見るつもりです」
「当主代理は、それを望まないかもしれません」
「でしょうね」
リュシアは小さく笑った。
その笑みは、少しだけ苦かった。
「でも、昨日のシルフィを見てしまったから」
セインは何も言えなかった。
リュシアは歩き出す。
次の使者団は、昨日より厄介なものになる。
それでも、彼女は同行しなければならない。
シルフィが再び家の言葉に潰されないように。
せめて、自分の見たものを歪めずに持ち帰るために。
◇
同じ頃、リーフェル村では、シルフィがくしゃみをした。
「くしゅっ」
井戸のそばで、ぷる太が驚いたように跳ねる。
「ぷる?」
「大丈夫です」
シルフィは鼻先を押さえた。
俺は薬草の束を持ったまま振り返る。
「風邪か?」
「いえ。また誰かに噂されているような気がします」
「リーフェン家かな」
「たぶん」
シルフィは森の方角を見た。
昨日より、表情は落ち着いている。
でも、完全に不安が消えたわけではないのだろう。
俺は薬草の束を籠へ置いた。
「次も来ると思う?」
「来ます」
シルフィは迷わず答えた。
「昨日の様子なら、必ず」
「そっか」
「しかも、次はリュシア姉様だけではないと思います。もっと強い立場の者が来るかもしれません」
「強い立場」
「法務官や森術師、護衛。リーフェン家の権利を主張する者たちです」
難しい相手だ。
力で来るだけなら、まだ分かりやすい。
でも、権利や家名や歴史で来られると、俺にはすぐに答えられないことが多い。
そんな顔をしていたのだろう。
シルフィが少し笑った。
「師匠」
「何?」
「分からない時は、その場で決めず持ち帰る、です」
村の商売ルール。
俺は思わず笑った。
「そうだった」
「エルフ相手でも同じです。分からないことは、一人で抱えない」
「うん」
「私も、抱えません」
シルフィはそう言って、井戸の縁に座るぷる太を撫でた。
「ぷる太もいますし」
「ぷる」
ぷる太は頼もしく揺れた。
少し光った。
「ぷる太、今はいいけど、外の人が来たら光るなよ」
「ぷるっ」
慌てて消える。
その様子に、シルフィが笑う。
遠くの森では、すでに次の使者団が動き始めている。
王都でも、貴族や騎士団がそれぞれ別の思惑で動いている。
でも、リーフェル村の井戸端には、今日も小さな笑いがあった。
俺はそれを見ながら思った。
この笑いを守りたい。
相手が勇者でも、商人でも、貴族でも、エルフの名家でも。
村の人たちと考えながら、守りたい。
そのために、俺はもう一度、木札の重みを思い出した。
リーフェル村付与相談役。
まだ慣れない肩書き。
でも、今は少しだけ、胸を張ってもいい気がしていた。




