第25話 シルフィ、家には戻りません
朝のリーフェル村は、昨日より少しだけ静かだった。
昨日、リーフェン家の使者団が来た。
シルフィに戻れと言い、俺に研究協力を求め、丁寧な言葉で村の空気を重くして帰っていった。
その影響は、村のあちこちに残っていた。
井戸端の会話はいつもより小さい。畑へ向かう若者たちも、森の方角を気にしている。ミナたち子供も、ぷる太と遊びながら、時々シルフィの家の方を見ていた。
ぷる太は井戸の縁で、いつもより真面目に揺れている。
小さな旗が朝風に揺れた。
『井戸守り ぷる太』
その文字を見ると少し安心するのだから、不思議なものだ。
俺の家では、シルフィが机の前に座っていた。
目の前には、リーフェン家からの書簡。
その横には、彼女自身が昨日の夜に書いた記録が置かれている。
昨夜、シルフィは遅くまで眠れなかったようだった。
羽ペンを持ち、何度も書き、何度も消していた。俺は途中で声をかけようとして、やめた。彼女が自分の言葉を探しているのが分かったからだ。
竈では、豆粥が静かに煮えている。
今朝の火加減はいつもより穏やかだった。
竈まで空気を読んでいるのかもしれない。
「シルフィ」
「はい」
「朝飯、食べられるか?」
彼女は少し振り向いた。
目元に疲れはある。
でも、表情は昨日より落ち着いていた。
「食べます。今日は、ちゃんと食べてから答えると決めましたので」
「いいと思う」
「マルタさんの教えです」
「あの人の教えは生活に強いな」
「はい。とても強いです」
シルフィは小さく笑った。
その笑顔を見て、少しだけほっとした。
俺は木椀に豆粥をよそい、彼女の前に置く。
ぷる太も窓辺から降りてきた。
「ぷる太も食べるか?」
「ぷる」
「少しだけな。今日は大事な日だから、食べすぎて光るなよ」
「ぷるっ」
ぷる太は緊張したように返事をした。
最近、本当に会話が成立している気がする。
シルフィはその様子を見て、目元を柔らかくした。
「ぷる太も、心配してくれているのですね」
「たぶん」
「昨日、足元に来てくれた時、少し落ち着きました」
「ぷる」
ぷる太が得意げに揺れる。
シルフィは木匙を手に取り、豆粥を一口食べた。
ゆっくり噛む。
飲み込む。
それから、小さく息を吐いた。
「温かいです」
「うん」
「私は、こういう朝を手放したくありません」
その声は、静かだった。
でも、昨日の震えはなかった。
「師匠」
「何?」
「今日、リュシア姉様たちが来たら、私は自分で答えます」
「うん」
「ただ、途中で声が出なくなったら」
「その時は、隣にいる」
「はい」
「でも、代わりに答えすぎないようにする」
シルフィが少し驚いた顔をした。
「師匠が、そこまで考えてくださるとは」
「俺も少しは学ぶよ」
「……はい。師匠は、学ぶ方です」
「褒めてる?」
「褒めています」
シルフィは笑った。
昨日より、ちゃんと笑えていた。
◇
昼前に、リーフェン家の使者団は再び現れた。
白木の馬車。
銀葉の紋章。
白鹿のような獣。
護衛のエルフ。
そして、リュシア・リーフェン。
昨日と同じ姿だ。
だが、今日は昨日より少しだけ表情が硬かった。
こちらの返答を聞くために来たのだろう。
村の入口には、村長と門番老人が立った。
その少し後ろに、俺とシルフィ。
マルタさん、ミナ、村の若者たちも控えている。
ぷる太は井戸の縁ではなく、今日はシルフィの足元にいた。
普通のスライムのふりをする気はあるらしい。
ただ、気合いが入りすぎて、表面がほんの少しきらめいている。
「ぷる太」
俺が小声で呼ぶと、ぷる太は慌てて光を抑えた。
リュシアはその様子を見ていたが、何も言わなかった。
村長が先に口を開く。
「昨日の書簡は読んだ」
「ありがとうございます」
リュシアは丁寧に頭を下げた。
「では、本日はご返答をいただけると考えてよろしいでしょうか」
「シルフィが答える」
村長は短く言った。
リュシアの視線が、シルフィへ移る。
「シルフィ」
その声に、シルフィの肩が少しだけ揺れた。
俺は何も言わず、隣に立つ。
シルフィはゆっくり息を吸った。
「リュシア姉様」
「はい」
「私は、リーフェン家へ戻りません」
言えた。
その一言が空気を切った。
リュシアの表情が止まる。
護衛のエルフたちが、わずかに反応した。
村人たちは黙っている。
シルフィは、もう一度言った。
今度は少し強く。
「私は、家には戻りません」
リュシアはしばらく沈黙した。
それから、柔らかい声で言う。
「理由を聞かせてください」
「私は、ここで生きたいからです」
「ここで?」
「はい。リーフェル村で、師匠の弟子として、村の記録係として生きたい」
シルフィは胸元の木札に触れた。
『付与相談役補佐兼記録係 シルフィ』
昨日、村長から渡された木札だ。
リュシアの目がその木札に向いた。
「その肩書きは、人間の村が与えたものです」
「はい」
「あなたはリーフェンの血を引く者です。古い森の名を持つ家の娘です。人間の村の小さな役目と、リーフェン家の名を同じ重さで考えているのですか」
シルフィの指が、木札を握る。
でも、俯かなかった。
「同じではありません」
リュシアの表情が少し和らぐ。
だが、シルフィは続けた。
「私にとっては、この木札の方が重いです」
空気が止まった。
リュシアの瞳が、初めて大きく揺れた。
護衛の一人が険しい顔をする。
「シルフィ。言葉を慎みなさい」
リュシアが静かにたしなめる。
「リーフェン家の名を軽んじる発言です」
「軽んじているわけではありません」
シルフィは首を横に振った。
「でも、あの家で私に与えられた名前は、失敗作でした。欠けた器でした。制御できない魔力でした」
リュシアは唇を結んだ。
「それは、一部の者の言葉です」
「止める人はいませんでした」
その一言で、リュシアの顔に痛みが走った。
シルフィは見逃さなかった。
けれど、止まらなかった。
「私は、あの家で自分の魔力を怖がることしか覚えませんでした。笑われること、叱られること、失敗しないように息を殺すことを覚えました」
「……シルフィ」
「でも、この村では違います」
シルフィは俺を見た。
それから、村長、マルタさん、ミナ、ぷる太、村人たちを見る。
「師匠は、私を欠けていないと言ってくださいました。村長様は、怖くてもよいと言ってくださいました。マルタさんは、食べてから考えればよいと言ってくださいました。ミナは隣にいると言ってくれました。ぷる太は、足元に来てくれました」
「ぷる」
ぷる太が小さく鳴く。
今度は光らなかった。
偉い。
シルフィは木札を握り直す。
「私は、この村で初めて、自分の力を怖くないと思えました。だから、戻りません」
リュシアは何も言えなかった。
少なくとも、すぐには。
かわりに、護衛のエルフが一歩前へ出た。
「リーフェン家の要請を拒むという意味を理解しているのか」
声は鋭かった。
「当主代理は、あなたの魔力回路の確認を求めている。これは家の権利だ」
「私の体は、家の所有物ではありません」
シルフィの声は震えた。
でも、言い切った。
その瞬間、俺の胸の奥が熱くなった。
昨日なら出なかった言葉かもしれない。
でも今日、彼女は言った。
ちゃんと、自分の言葉で。
護衛が眉を吊り上げる。
「あなたはリーフェンの血を」
「血があっても、私は私です」
シルフィは続けた。
「私は、リーフェン家の研究材料にはなりません。師匠を研究協力という名で連れていくことも認めません」
「認めない?」
護衛が低く言う。
「あなたに認める認めないを決める権限があると?」
その言葉に、俺は一歩前に出ようとした。
だが、シルフィが手で止めた。
自分で答える。
そういう目だった。
「あります」
シルフィは言った。
「私は、師匠の弟子です。師匠が望まない場所へ連れていかれるなら、弟子として止めます」
俺は思わずシルフィを見た。
弟子。
彼女は、その言葉を逃げ場ではなく、立つ場所として使っている。
リュシアは静かに言った。
「あなたは、ずいぶん変わりましたね」
「はい」
シルフィは頷いた。
「変わりました」
「その変化が、良いものだと本当に言えますか」
「言えます」
即答だった。
「少なくとも、昔のように自分を失敗作だと思いながら生きるより、ずっと良いです」
リュシアは目を伏せた。
その横で、護衛のエルフが苛立たしげに言う。
「話にならない。人間の村に情を移し、家への義務を忘れたか」
「義務」
シルフィがその言葉を繰り返す。
「私が森で命を狙われた時、家の義務はどこにありましたか」
護衛が黙った。
リュシアの顔色も変わる。
黒枝。
追跡者。
シルフィを傷つけた呪矢。
正式な使者団は、それを表では認めない。
だが、シルフィは知っている。
俺も知っている。
村長も、マルタさんも知っている。
「私は、家から守られませんでした」
シルフィは静かに言った。
「この村に守られました」
その言葉が、広場に落ちた。
護衛たちは何も言えなかった。
リュシアだけが、苦しそうに息を吐く。
「……その件について、私は詳しく聞かされていません」
「そうでしょうね」
シルフィの声には、責める色は少なかった。
それが逆に痛かったのか、リュシアは目を逸らした。
「リュシア姉様。あなたが私を心配してくださった気持ちが、もし少しでも本当なら」
シルフィは言葉を選ぶように言った。
「私を、今の場所から連れ戻そうとしないでください」
リュシアは何も言わなかった。
しかし、護衛のエルフは違った。
「これ以上の対話は無意味だ。リュシア様、当主代理へ報告を。シルフィは人間の付与術師に惑わされていると」
惑わされている。
その言葉で、俺の中に小さな火がついた。
でも、今回は俺が怒るより早く、村長が杖を突いた。
「その言葉は聞き捨てならんな」
低い声だった。
「シルフィは自分の言葉で話した。都合の悪い答えを、人に惑わされたせいにするな」
マルタさんも腕を組んだ。
「そうだよ。あんたたち、昨日からシルフィちゃん本人のことを見てるようで見てないね」
ミナがぷる太を抱きしめて叫ぶ。
「シルフィ先生は、ちゃんと自分で言ったよ!」
「ぷる!」
ぷる太が同意する。
今度は少し光った。
「ぷる太、抑えて」
「ぷるっ」
ぷる太は慌てて光を消そうとした。
だが、その時だった。
村の奥で、風が鳴った。
さわり、と。
幻視術で隠していた世界樹の若木の葉が、一斉に揺れた。
シルフィがはっと振り返る。
俺も気づいた。
世界樹が反応している。
リュシアも護衛たちも、同時に森の奥ではなく村の内側を見た。
「……今の魔力は」
リュシアが呟く。
シルフィの足元に、淡い緑の光が広がった。
彼女の胸元の木札が、ほんのり光る。
シルフィ自身も驚いたように、自分の手を見た。
「これは……」
古代森術の紋様が、彼女の指先に浮かび上がっていた。
以前、弟子入りの時に現れたものより、少しはっきりしている。
リュシアの顔色が変わった。
「古代森術の基礎紋……?」
護衛のエルフたちも息を呑む。
「まさか」
「シルフィが……?」
世界樹の幻視術が揺らいだ。
一瞬だけ、若木の本来の姿が見えた。
普通の若木ではない。
淡い銀緑の葉。
幹に流れる光。
周囲の土を静かに浄化する、古い森の気配。
リュシアは完全に固まった。
「世界樹……?」
その声は、かすれていた。
シルフィは慌てて俺を見る。
俺もどうすればいいか分からない。
シルフィの意思に反応して、世界樹が隠れきれなくなったのだ。
リュシアは一歩前へ出た。
「なぜ、人間の村に世界樹の若木が」
村長が杖を前に出す。
「そこから先へは入れるわけにはいかん」
「村長殿。あなた方は、自分たちが何を抱えているのか分かっているのですか」
「分かっていない部分もある。だからこそ、勝手に触れさせん」
リュシアの目が揺れていた。
昨日までの丁寧な使者の顔ではない。
エルフとして、古い森術を知る者として、信じられないものを見た顔だった。
彼女はシルフィを見た。
「シルフィ。あなたは……世界樹に認められたのですか」
「分かりません」
シルフィは正直に答えた。
「でも、この村で、私は自分の魔力を怖くなくなりました」
「……」
「それが世界樹にどう見えたのかは、分かりません。でも、私はこの村で学びたいのです」
リュシアは唇を震わせた。
その表情には、任務とは別の感情が混じっていた。
驚き。
動揺。
少しの羨望。
そして、後悔のようなもの。
護衛の一人が低く言う。
「リュシア様。これは当主代理へ報告すべきです。即刻」
「分かっています」
リュシアは静かに答えた。
そして、シルフィへ向き直る。
「今日の返答は、当主代理へ伝えます」
「はい」
「ただし、これで終わりにはなりません」
「分かっています」
「世界樹の若木、古代森術の覚醒、人間の付与術師。どれ一つ取っても、リーフェン家が見過ごせるものではありません」
俺は一歩前へ出た。
「だからといって、シルフィを無理に連れていく理由にはなりません」
リュシアは俺を見る。
昨日より、俺を見る目が違った。
ただの人間の付与術師を見る目ではない。
警戒と興味と、少しの恐れが混ざっている。
「アレン殿」
「はい」
「あなたは、自分が何をしているのか分かっていますか」
「正直、分からないことが多いです」
「……でしょうね」
リュシアは苦く笑った。
「ですが、一つだけ覚えておいてください。リーフェン家は、森術の歴史そのものを背負う家です。世界樹の気配を知ってなお、黙ってはいないでしょう」
「それでも」
俺は言った。
「シルフィが戻りたくないなら、戻させません」
リュシアは、長い沈黙のあと、静かに頷いた。
「その言葉も、伝えます」
エルフ使者団は、それ以上何も言わなかった。
馬車へ戻り、森の道へ消えていく。
去り際、リュシアだけが一度振り返った。
彼女の視線は、シルフィに向けられていた。
そこにあったのは、命令ではなかった。
けれど、祝福とも言い切れない。
複雑な、言葉にならない何かだった。
◇
使者団が去ったあと、村の広場には大きな息が戻った。
村人たちが一斉に喋り出す。
「世界樹、見えちゃったぞ」
「一瞬だけだ。たぶん一瞬だけ」
「一瞬で済むのか?」
「済ませたい」
「ぷる太、光ってたな」
「ぷる……」
ぷる太は少し反省しているようだった。
ミナが撫でる。
「ぷる太も頑張ったよ」
「ぷる」
村長は世界樹の方を見ながら、深く息を吐いた。
「隠しきれなかったな」
「すみません」
シルフィが頭を下げる。
村長は首を横に振った。
「謝るな。あれは、お前さんが自分の言葉で立った証だろう」
「でも」
「なら、悪いことではない」
マルタさんも笑った。
「そうだよ。あんなにはっきり言えたんだから、今日はお祝いでもいいくらいだ」
「また食事ですか?」
俺が言うと、マルタさんは堂々と答える。
「そうだよ。怖い相手に言えた日は、ちゃんと食べるんだよ」
シルフィは少し笑った。
涙が一粒、頬を伝った。
「私、言えました」
「うん」
俺は頷いた。
「ちゃんと言えた」
「戻りません、と」
「言えた」
「師匠」
「うん」
「私、ここにいたいです」
「うん」
「この村で、師匠の弟子でいたいです」
「俺も、シルフィにいてほしい」
言ってから、少し照れた。
シルフィも目を丸くし、それから耳の先を赤くした。
「師匠は、すぐそういうことを言います」
「本音だから」
「……困ります」
「ごめん」
「謝らなくていいです」
シルフィは袖で涙を拭った。
ぷる太が足元に来て、ぷるんと揺れる。
シルフィはしゃがみ、ぷる太に触れた。
「ぷる太も、ありがとうございます」
「ぷる」
その光景を見て、村人たちが静かに笑う。
世界樹の若木は、もう幻視術の中に戻っていた。
ただ、その葉はまだ少しだけ揺れている。
まるで、シルフィの答えを肯定するように。
◇
その夜、リーフェン家へ戻る馬車の中で、リュシアは一言も喋らなかった。
護衛の一人が、重い沈黙を破る。
「リュシア様。当主代理には、ありのままを?」
「ええ」
「シルフィは人間の村に心を奪われています。あの付与術師も危険です。世界樹の若木まであるとなれば、すぐにでも強硬策を」
「黙りなさい」
リュシアの声は静かだった。
護衛は驚いたように口を閉じる。
「報告はします。ですが、私の見たものを、あなたの怒りで勝手に歪めないで」
「しかし」
「あの子は、自分の言葉で答えました」
リュシアは窓の外を見た。
森の影が流れていく。
「私が昔、一度もできなかったことを」
護衛は意味が分からないという顔をした。
リュシアはそれ以上語らなかった。
ただ、シルフィが木札を握りしめていた姿が頭から離れなかった。
リーフェン家の名より重い、と言った木札。
人間の村で与えられた、小さな役目。
その小さなものに、リュシアはなぜか胸を刺された。
「当主代理は、動くでしょうね」
彼女は呟いた。
「ええ、必ず」
世界樹。
古代森術。
人間の付与術師。
そのどれも、エルドランが見逃すはずがない。
森の奥で、次の波が動き始めようとしていた。




