第24話 エルフ使者団、リーフェル村へ到着する
その日の朝、シルフィはいつもより早く起きていた。
俺が竈の火を見に行った時には、すでに机に向かい、羊皮紙を広げていた。窓から入る朝の光が白銀の髪に触れて、細い糸みたいに淡く光っている。
ぷる太は窓辺で丸くなっていた。
いや、丸いのかどうかは分からない。スライムなのでだいたい丸い。
「おはよう、シルフィ」
「おはようございます、師匠」
「早いな」
「少し、眠りが浅かったので」
そう言って、シルフィは羽ペンを置いた。
顔色は悪くない。
けれど、いつもの落ち着きの奥に、張りつめた糸のようなものがある。
「また、嫌な感じがする?」
「はい」
シルフィは正直に頷いた。
「森の方角から、誰かが近づいている気がします。黒枝ほど隠れた気配ではありません。もっと……表の道を使ってくる気配です」
「表の道?」
「正式な使者、かもしれません」
正式な使者。
その言葉だけで、家の中の空気が少し冷えた。
リーフェン家。
シルフィを失敗作と呼び、傷ついた彼女を追い立てた家。
そこからの使者が来る。
俺は鍋の蓋を開け、豆粥の様子を見た。火加減は今日も勝手に安定している。竈は、こちらの緊張など知らないように、ちょうどよく湯気を上げていた。
「朝飯、食べられそうか?」
シルフィは少し驚いた顔をした。
「この流れで、朝食の心配ですか」
「こういう時ほど食べた方がいい。腹が空いてると、嫌な相手の言葉が余計に刺さる気がする」
「……師匠らしいですね」
「褒めてる?」
「はい」
シルフィは少しだけ笑った。
その笑い方を見て、俺は少し安心した。
完全に怖くないわけではないのだろう。
でも、昨日よりは自分の足で立っている。
少なくとも、そう見えた。
ぷる太が窓辺からぷるんと降りてきた。
「ぷる?」
「ぷる太も朝飯か?」
「ぷる」
「今日は光るなよ。何か来るかもしれないから」
「ぷるっ」
ぷる太は急いで光を抑えた。
最近はかなり器用になってきた。
ただ、抑えているつもりでも嬉しい時と怒った時には漏れる。そこが心配だ。
「ぷる太にも、今日は井戸守りとして落ち着いてもらわないと」
「ぷる」
ぷる太は真面目な雰囲気で揺れた。
シルフィがそれを見て、ほんの少し肩の力を抜く。
「ぷる太がいると、不思議と緊張が少し和らぎます」
「分かる」
「見た目が丸いからでしょうか」
「それはあるかもしれない」
「ぷる?」
ぷる太は、褒められたのか判断に迷っているようだった。
◇
朝食のあと、村長の家で短い打ち合わせが開かれた。
村長、マルタさん、門番老人、俺、シルフィ。
そして、なぜかぷる太。
ぷる太は小さな桶に入っている。井戸守りの正式役職者として参加している、ということらしい。
「シルフィ」
村長が低い声で尋ねた。
「来るのは、お前さんの家の者だと思うか」
「可能性が高いです」
「数は?」
「正確には分かりません。ただ、黒枝のような暗殺者ではなく、表向きの使者団なら、護衛を含めて五人から十人程度かと」
「目的は何だ」
シルフィは少しだけ口を閉じた。
それから、静かに答える。
「私の確認。そして、おそらく師匠です」
「アレンか」
「はい。私の魔力回路が修復されたと知られたなら、リーフェン家は必ず師匠の付与術に興味を持ちます」
村長の眉間に皺が寄る。
「またアレン目当てか」
「最近、師匠は外部勢力に人気ですね」
シルフィが真面目な顔で言った。
「嬉しくない人気だな」
俺が言うと、マルタさんが腕を組む。
「王都の商人、勇者パーティー、今度はエルフの名家かい。うちの村はいつからそんな大物が来る場所になったんだろうね」
「世界樹が生えてからでは」
シルフィが小声で言う。
「それは言わない約束だ」
村長が即座に返した。
世界樹の若木は、今日も幻視術で隠してある。
遠目にはただの若木。
近づいてよく見れば、葉の色や空気の澄み方で普通ではないと分かるかもしれない。だが、村の外から来た者に簡単に見せるわけにはいかない。
「使者が来た場合、村の中へ入れるか」
門番老人が聞いた。
村長は少し考えた。
「まずは門前で話す。名乗りと用件を聞く。必要なら広場まで通すが、井戸と保存庫と世界樹には近づけん」
「ぷる太は?」
「普通のスライムのふりだ」
「ぷる」
ぷる太は真面目に返事をした。
俺は少し心配になった。
「ぷる太、怒っても光るなよ」
「ぷる」
「本当に?」
「ぷるる」
「今のは、たぶん努力するって意味だな」
シルフィが訳した。
「本当に分かるのか?」
「最近、なんとなく」
シルフィまでぷる太語を理解し始めている。
村の進化が妙な方向へ進んでいる気がする。
村長はシルフィを見た。
「シルフィ。もし戻れと言われたら、お前さんはどうする」
その問いに、部屋が静かになった。
シルフィは膝の上で手を握った。
少し震えている。
でも、声は出た。
「私は、戻りたくありません」
「そうか」
「ですが、相手がリーフェン家の名を出せば……怖いです」
「怖くていい」
村長は短く言った。
「怖い相手なのだろう。なら、怖いのは当然だ」
マルタさんも頷く。
「怖がったら負け、なんてことはないよ。怖くても、誰かの後ろに隠れてもいい。最後に自分の気持ちをなくさなければね」
シルフィは目を伏せた。
「ありがとうございます」
俺はシルフィの隣で言った。
「一人で答えなくていい。俺もいる」
「師匠」
「村長もいる。マルタさんも、門番さんも、ぷる太もいる」
「ぷる」
「ぷる太もいるそうだ」
シルフィは小さく笑った。
その笑顔は、まだ少し不安そうだったけれど、ちゃんと前を向いていた。
◇
昼前、森の方角から馬車が現れた。
王都の商人が使う荷馬車とは違う。
細く高い車輪に、白木の車体。横には、銀色の葉を模した紋章が描かれている。
馬ではなく、角の小さな白鹿に似た獣が二頭、馬車を引いていた。脚が長く、歩くたびに首元の飾りが澄んだ音を立てる。
村人たちは仕事の手を止めた。
「エルフの馬車だ……」
「本当に来たのか」
「鹿じゃないのか?」
「馬車って言っていいのか?」
緊張しているはずなのに、村人たちの感想が少し生活寄りなのがリーフェル村らしい。
馬車は村の入口の手前で止まった。
まず降りてきたのは、護衛らしきエルフの男が二人。
どちらも細身だが、腰に曲刀を下げている。人間の兵士とは違う静かな身のこなしだった。
続いて、淡い金髪のエルフの女性が降りてきた。
年齢は分かりにくいが、見た目は二十代半ばほど。品のある衣服をまとい、胸元にはリーフェン家の紋章がある。
その女性を見た瞬間、シルフィの息が小さく止まった。
「リュシア姉様……」
「知っている人?」
俺が小声で聞くと、シルフィは頷いた。
「分家筋の方です。幼い頃、訓練場で何度か一緒に……」
最後まで言わなかった。
いい思い出ばかりではないのだろう。
リュシアと呼ばれたエルフは、村長の前に進み出て、優雅に頭を下げた。
「突然の訪問、失礼いたします。私はリュシア・リーフェン。古き森の家、リーフェン家の使者として参りました」
声は柔らかい。
だが、その言葉には家の重みがあった。
村長は杖を突いたまま応じる。
「リーフェル村の村長だ。用件を聞こう」
リュシアは一瞬だけ村長を見る。
人間の村長に対して、少し意外そうな顔をしたように見えた。
おそらく、もっと怯えたり、へりくだったりすると思っていたのだろう。
「まず、我が家の血縁であるシルフィ・リーフェンの生存を確認しに参りました」
シルフィの肩がわずかに揺れる。
リュシアの目が、こちらへ向いた。
「シルフィ」
その声は、懐かしさを含んでいるようにも聞こえた。
でも、シルフィはすぐに返事をできなかった。
俺は半歩だけ、彼女の隣へ寄った。
何も言わない。
ただ、ここにいると伝えるために。
シルフィは小さく息を吸い、顔を上げた。
「お久しぶりです、リュシア姉様」
「本当に生きていたのですね」
「はい」
「皆、心配しておりました」
シルフィの目が一瞬だけ揺れた。
俺は、その言葉に少し違和感を覚えた。
心配。
それが本当ならいい。
けれど、シルフィを追わせた家が使うには、少し軽すぎる言葉にも聞こえた。
シルフィも同じだったのか、すぐには答えなかった。
リュシアは続ける。
「あなたが森で行方知れずになったと聞き、リーフェン家は深く案じていました。こうして無事な姿を見られたこと、何よりです」
「……そう、ですか」
シルフィの声は硬かった。
リュシアの後ろに控える護衛の一人が、わずかに眉を動かす。
その視線が、シルフィを責めるように見えた。
俺は無意識に一歩前へ出かけた。
シルフィが小さく俺の袖を掴んだ。
大丈夫、と言うように。
リュシアの目が、俺へ移る。
「あなたが、アレン殿ですね」
「はい。リーフェル村の付与相談役をしています。アレンです」
「付与相談役」
リュシアは、村の入口に掛けられた木札を見た。
表情は変わらない。
だが、わずかに考えるような間があった。
「シルフィから、師と仰がれていると聞いております」
「まだ師匠らしいことはあまりできていませんが」
「謙遜を。焼き切れた魔力回路を修復する付与術など、リーフェン家でも容易には成し得ません」
空気が一気に変わった。
村人たちが息を潜める。
シルフィの手に力が入る。
やはり、そこが目的か。
俺はリュシアを見た。
「俺は、シルフィを助けたかっただけです」
「助けたかっただけで、魔力回路を再生したのですか」
「再生というか、流れを整えたというか」
「その方法を、ぜひ伺いたいものです」
リュシアは柔らかく微笑んだ。
でも、その目は笑っていなかった。
「リーフェン家は古代森術の研究家系です。あなたの付与術は、エルフの魔術体系にとっても極めて貴重なものとなるでしょう」
「研究の話なら、俺自身も自分の力をよく分かっていません」
「それならなおさら、リーフェン家で調べるべきです」
リュシアの声は丁寧だった。
だが、言葉の中に「当然」が混じっている。
村長が間に入った。
「アレンはこの村の付与相談役だ。村の用がある」
「承知しております。ですが、彼の力は一村に留めるにはあまりに大きい」
まただ。
俺は胸の奥が少し冷えるのを感じた。
勇者パーティー。
ガリオン男爵家。
そしてリーフェン家。
みんな、似たようなことを言う。
大きな力なのだから、村に置いておくのはもったいない。
もっと大きな場所で使うべきだ。
その言葉の中に、俺自身がどうしたいかは入っていない。
リュシアはシルフィへ向き直った。
「シルフィ。あなたにも、戻っていただきます」
シルフィの顔色が変わった。
声が出ない。
リュシアは柔らかく続ける。
「あなたの魔力回路が修復されたなら、リーフェン家で正式な検査を受ける必要があります。家の者たちも、あなたの帰還を望んでいます」
「私は……」
シルフィの声がかすれた。
リュシアは一歩近づく。
「あなたはリーフェンの血を引く者です。どれほど外で過ごしても、その事実は変わりません。人間の村で情を得たとしても、帰るべき場所は森です」
帰るべき場所。
その言葉に、シルフィの瞳が揺れた。
リュシアはたぶん、そこを狙っている。
家名。
血筋。
故郷。
幼い頃の記憶。
そういうものを一つずつ並べて、シルフィの足元を揺らそうとしている。
俺は静かに言った。
「シルフィが決めることです」
リュシアの目が俺へ戻る。
「アレン殿」
「はい」
「これはリーフェン家の問題です」
「シルフィの問題でもあります」
「もちろんです。だからこそ、家として彼女を保護するのです」
「保護したいなら、まずシルフィの意思を聞いてください」
リュシアの表情が、ほんの少しだけ変わった。
笑みは残っている。
でも、目の奥が冷えた。
「人間であるあなたには、エルフの家の重みは分からないでしょう」
「分かりません」
俺は正直に答えた。
「だから、俺が決めることじゃない。リーフェン家が決めることでもない。シルフィが決めることです」
村人たちは黙っていた。
シルフィは俺の袖を掴んだままだ。
その手が震えている。
リュシアは少しだけ沈黙した。
そして、声を落とす。
「では、シルフィ」
「……はい」
「あなたの口から答えなさい。リーフェン家へ戻りますね?」
問いではなかった。
命令に近い確認だった。
シルフィの唇が震える。
村長が静かに立っている。
マルタさんも、門番老人も、ミナも、ぷる太も、みんな見守っている。
ぷる太が、ほんの少しだけ金色に光りかけた。
「ぷる太」
俺が小声で呼ぶと、ぷる太は必死に光を抑えた。
シルフィは何度も息を吸った。
それでも、声が出ない。
リュシアはそれを見て、わずかに目を伏せた。
「やはり、あなたはまだ迷っているのですね。ならば、家へ戻ってから考えればよいのです」
「待ってください」
俺が言った。
「怖くてすぐ答えられないことと、戻りたいことは違います」
リュシアは俺を見た。
「あなたは、ずいぶん彼女を庇うのですね」
「弟子ですから」
口に出してから、少し自分で驚いた。
その言葉を、自然に使っていた。
シルフィも驚いたように俺を見る。
俺は彼女に向かって言った。
「今すぐ言えなくてもいい。怖いなら、俺の後ろにいてもいい。だけど、シルフィが言いたくなった時は、ちゃんと聞く」
シルフィの目に、涙が浮かんだ。
リュシアは静かに息を吐く。
「……どうやら、今日すぐに話がまとまるわけではなさそうですね」
彼女は護衛へ視線を送った。
護衛が一歩下がる。
「では、正式な文書をお渡しします」
リュシアは筒状の書簡を取り出した。
「リーフェン家当主代理エルドランより。シルフィ・リーフェンの帰還要請、およびアレン殿の付与術に関する研究協力要請です」
村長が受け取ろうとしたが、リュシアは一瞬ためらった。
「これは、本来シルフィとアレン殿へ」
「この村での話だ。まず村長である儂が預かる」
村長の声は揺るがなかった。
リュシアはしばらく村長を見た。
そして、書簡を渡した。
「よろしいでしょう。ただし、これはリーフェン家の正式な要請です。軽んじれば、森との関係に影響が出ます」
「脅しか」
門番老人が低く呟いた。
リュシアは笑みを保ったまま言う。
「事実です」
シルフィの顔が白い。
俺はその横に立ったまま、リュシアを見た。
「俺たちは、内容を読んでから答えます」
「賢明です」
リュシアは優雅に頭を下げた。
「シルフィ。また来ます」
その声だけは、少しだけ本当に柔らかかった。
「あなたが無事でいたことは……よかったと思っています」
シルフィは何も答えられなかった。
エルフ使者団は馬車へ戻る。
白鹿のような獣が静かに首を振り、馬車は森の道へ引き返していった。
◇
馬車が見えなくなるまで、誰も喋らなかった。
シルフィは、その場に立ったままだった。
俺は声をかけようとして、迷った。
先に動いたのは、ぷる太だった。
ぷる太はぷるぷるとシルフィの足元へ近づき、そっと体を押しつけた。
「ぷる……」
シルフィはゆっくりしゃがんだ。
ぷる太に触れる。
ひんやりした体に触れた瞬間、彼女の肩が震えた。
「……怖かったです」
小さな声だった。
「はい」
俺は隣にしゃがむ。
「怖かった」
「戻れと言われると、体が動かなくなりました。もう違うと分かっているのに、家の名前を聞くだけで、昔に戻ったようで」
「うん」
「言えませんでした」
「今日は言えなくてもいい」
シルフィは俺を見る。
「でも、師匠はカイル様に言えました」
「俺も、すぐには言えなかった。村のみんながいてくれたから言えたんだと思う」
俺はぷる太を指で軽く撫でた。
「だから、今度はシルフィの番なら、みんなでいる」
村長が書簡を握ったまま近づく。
「アレンの言う通りだ」
マルタさんも頷く。
「今日は怖かったで終わりでいい。腹が空いている時に大事な決断をするもんじゃないよ」
「また飯ですか」
俺が思わず言うと、マルタさんは胸を張った。
「飯だよ。怖い相手が来た日ほど、ちゃんと食べるんだ」
シルフィが小さく笑った。
涙がこぼれたけれど、笑った。
「リーフェル村は、すぐ食事になりますね」
「いい村だろ」
村長が言った。
「はい」
シルフィは、今度ははっきり頷いた。
「とても」
その日の昼、村の広場にはいつも通り鍋が出た。
けれど、誰も今日の出来事を軽く扱わなかった。
笑いながらも、皆どこかでシルフィを気にしている。
ミナはシルフィの隣に座り、ぷる太を膝に乗せて言った。
「シルフィ先生、今日はミナが隣にいるね」
「ありがとうございます、ミナ」
「ぷる太もいる」
「ぷる」
「心強いです」
シルフィの声は、少し震えていた。
でも、朝よりはずっと温かかった。
◇
夜。
村長の家で、リーフェン家からの書簡が開かれた。
内容は丁寧だった。
丁寧すぎるほどに。
シルフィの帰還を求めること。
魔力回路修復の経緯を確認したいこと。
アレンに対し、リーフェン家での研究協力を求めること。
必要なら、相応の謝礼と保護を与えること。
そして、要請に応じない場合は、シルフィの身分とリーフェン家の権利について、正式な申し立てを行う可能性があること。
村長は最後まで読み、書簡を畳んだ。
「脅しだな」
「はい」
シルフィは静かに言った。
「丁寧な脅しです」
「どうする?」
村長が聞く。
シルフィはすぐには答えなかった。
でも、今度は俯かなかった。
「……明日、考えさせてください」
「よい」
「逃げるためではありません。ちゃんと、自分の言葉で答えたいのです」
村長は頷いた。
「なら、明日だ」
俺はシルフィを見た。
「一緒に考える」
「はい、師匠」
ぷる太が桶の中で、ぷるんと揺れた。
シルフィはその音に少し笑った。
「ぷる太も、ありがとうございます」
「ぷる」
リーフェン家の使者団は去った。
けれど、本当の対立はこれからだ。
シルフィが自分の言葉で立てるかどうか。
俺が、彼女の意思を守れるかどうか。
リーフェル村が、外から来る大きな名前に飲まれずにいられるかどうか。
それは、明日から始まる。




