第18話 エルフ名家、シルフィの生存を知る
エルフ領の森は、静かすぎるほど静かだった。
人間の村にあるような鶏の声も、鍛冶場の槌音も、子供たちの笑い声もない。風が枝葉を撫で、霧が幹の間をゆっくり流れ、古い魔力を含んだ苔が淡く光っている。
美しい場所だった。
だが、美しいからといって、優しいとは限らない。
森の奥深く、銀灰色の大樹を囲むように建てられた館があった。
リーフェン家。
古代森術と魔力理論を受け継ぐ、エルフの古い名家である。
その名は、かつては誇りだった。
今は、誇りというより鎖に近い。
少なくとも、館の奥にある執務室で報告を受けていた男にとっては、そうだった。
「……もう一度言え」
低い声が、薄暗い室内に落ちた。
声の主は、リーフェン家の当主代理、エルドラン・リーフェン。
長い銀髪を後ろで束ね、細い金縁の眼鏡をかけた男である。顔立ちは整っているが、目元が冷たい。笑っていても、そこに温度はないだろうと思わせる顔だった。
彼の前には、黒い外套をまとったエルフが膝をついていた。
黒枝の追跡者。
表向きには存在しない、リーフェン家の影だ。
「シルフィ・リーフェンは生存しています」
追跡者は淡々と報告した。
「場所は人間領東部の辺境、リーフェル村周辺。追跡中、棘狼の群れと村周辺の結界反応により、接近を断念しました」
エルドランの指が、机の上を軽く叩いた。
こつ、こつ、と乾いた音がする。
「シルフィが生きていること自体は、まあいい。始末に失敗したのは褒められた話ではないが、黒枝にも失敗はある」
追跡者の肩がわずかに動いた。
だが、顔は上げない。
エルドランは続ける。
「問題は、その先だ。お前は今、結界反応と言ったな」
「はい」
「人間の辺境村に?」
「はい」
「誰が張った」
「不明です」
「不明?」
エルドランの声が少しだけ冷えた。
追跡者は頭を下げたまま答える。
「通常の結界術とは異なります。術式の起点が読めませんでした。柵、土、水、村全体に薄く広がっているような反応です」
「村全体に」
「はい。さらに、シルフィ・リーフェンの魔力反応にも変化がありました」
エルドランの指が止まった。
「変化とは」
「魔力回路の損傷が確認できませんでした」
室内の空気が、すっと凍った。
壁際に控えていた文官たちが、互いに視線を交わす。
エルドランは、眼鏡の奥で目を細めた。
「……冗談か?」
「事実です」
「あれの魔力回路は、黒枝の呪矢で焼いたはずだ」
「はい」
「ならば、治るはずがない」
「通常は、その通りです」
追跡者は一度、言葉を切った。
そして、続けた。
「ですが、現在のシルフィ・リーフェンからは、安定した森術系魔力が検出されました」
エルドランは立ち上がった。
椅子が床を擦る音が、やけに大きく響く。
「安定した森術系魔力だと?」
「はい」
「あの失敗作が?」
失敗作。
その言葉を、彼は何のためらいもなく口にした。
まるで、物の欠陥を説明するような声音だった。
「あれは幼い頃から魔力が乱れていた。初歩の発芽術すら暴走させる。古代森術の器としては欠陥品だ。だからこそ、家から外した」
「報告では、シルフィ・リーフェンは人間の付与術師と行動を共にしています」
追跡者が言う。
「付与術師?」
「名はアレン。元勇者パーティー所属。追放後、リーフェル村へ流れ着いたと思われます」
「勇者パーティーを追放された付与術師」
エルドランはその言葉を繰り返し、薄く笑った。
「人間どもは相変わらず愚かだな。不要なものを追放したつもりで、価値あるものを捨てる」
「その付与術師が、シルフィ・リーフェンの魔力回路を修復した可能性があります」
「可能性ではなく、ほぼそれしかないだろう」
エルドランは机の上に置かれた水晶板へ手をかざした。
水晶の中に、ぼんやりとした映像が浮かぶ。
黒枝が遠距離から記録したものだ。
森の縁。
人間の村の柵。
そして、白銀の髪の少女。
シルフィが、見知らぬ青年の隣に立っている。
映像は粗い。
だが、分かる。
シルフィの姿勢が、以前と違った。
家にいた頃の彼女は、いつも肩をすぼめていた。自分の魔力を恐れ、周囲の顔色を窺い、何かを言われるたびに小さく萎縮していた。
映像の中のシルフィは違う。
青年の隣に立ち、まっすぐ前を見ている。
「……気に入らないな」
エルドランが呟いた。
文官の一人が恐る恐る尋ねる。
「当主代理。シルフィ様を連れ戻されるのですか」
「様?」
エルドランがその文官を見る。
文官は顔を青くした。
「い、いえ、シルフィを」
「呼び方には気をつけろ。あれはリーフェン家の失敗作だ。だが」
エルドランは水晶板の中のシルフィを見た。
「修復された失敗作には、利用価値がある」
その言葉に、室内の者たちは誰も返事をしなかった。
「人間の付与術師、アレン」
エルドランはその名を口の中で転がすように言った。
「魔力回路を修復できる付与術など、聞いたことがない。古代森術でも、完全な回路再生は極めて難しい。それを人間が行ったなら……」
彼の目に、欲が灯った。
「リーフェン家の研究は、一気に数百年進む」
「捕獲しますか」
追跡者が問う。
エルドランは少しだけ考えた。
それから首を横に振る。
「馬鹿を言うな。相手の力が分からないうちに手荒な真似をすれば、また失敗する。何より、人間領の村だ。下手に血を流せば、王国側が騒ぐ」
「では」
「使者を送る」
エルドランは静かに言った。
「表向きは丁寧にな。シルフィを案じる親族として、リーフェン家の名を背負って行かせる」
「シルフィが拒んだ場合は」
「拒めると思うか?」
エルドランは薄く笑った。
「エルフにとって家名は重い。まして、あれは捨てられたとはいえリーフェンの血を引く。人間の辺境村で拾われて、少し居場所を得た程度で、その重さに耐えられるほど強くなったとは思えん」
文官の一人が言った。
「しかし、報告ではその人間の付与術師を師と仰いでいると」
「師?」
エルドランは鼻で笑った。
「人間の付与術師を? あれも落ちたものだ」
追跡者は黙っていた。
彼は実際に見ている。
村の柵に近づいた時、弾かれた矢。
森の魔物すら近づくのをためらう気配。
そして、シルフィの周囲にあった安定した魔力。
あれは、ただの辺境村ではない。
ただの人間の付与術師でもない。
だが、ここでそれを強く言えば、エルドランの機嫌を損ねるだけだ。
エルドランは机に戻り、羊皮紙を一枚引き寄せた。
「使者は、リュシアを出せ」
文官が驚いた顔をする。
「リュシア様を、ですか」
「そうだ」
「ですが、リュシア様はシルフィと幼少期に……」
「だからいい」
エルドランは羽ペンを取った。
「少しでも情を刺激できる駒の方が使いやすい。表では親族の情を見せ、裏ではリーフェン家の権威を突きつける。シルフィが揺らげば連れ戻す。揺らがなければ、付与術師を観察する」
「アレンという人間は、どう扱いますか」
「まずは招く」
「招く?」
「リーフェン家へ。研究協力という名目でな」
エルドランは文面を書きながら、冷たく笑った。
「応じればよし。応じなければ、シルフィの処遇を材料にする。人間は情に弱い。まして、報告にある通りなら、その付与術師は倒れていたシルフィを助ける程度には甘い男だ」
追跡者は、そこで初めてわずかに顔を上げた。
「当主代理。あの村の力を軽視するのは危険かと」
「軽視などしていない」
エルドランは言った。
「だからこそ、欲しいのだ」
その一言に、室内の全員が沈黙した。
「準備しろ。三日以内に使者団を出す。護衛は表向き少数、黒枝は別動でつけろ。相手が何を隠しているか、すべて調べる」
「御意」
追跡者は深く頭を下げた。
エルドランは水晶板に映るアレンの姿を見た。
映像の中の青年は、村人に何かを頼まれて困ったように笑っている。
いかにも人が良さそうな顔だった。
エルドランは、それを見て小さく笑う。
「この手の人間は扱いやすい。誰かを守りたいと言わせれば、自分から首輪をつけに来る」
その声は、森の奥の霧より冷たかった。
◇
リーフェン家の別棟。
白い蔦に覆われた小さな部屋で、リュシア・リーフェンは一通の書状を受け取っていた。
彼女はシルフィより少し年上のエルフで、淡い金色の髪を肩のあたりで切りそろえている。リーフェン家の分家筋にあたり、家内では礼法と交渉を担う立場にあった。
書状を読み終えた彼女は、深く息を吐いた。
「シルフィが……生きていたのね」
小さな声だった。
安堵とも、驚きとも、恐れともつかない声。
部屋には、幼い頃の記憶があった。
魔力制御の訓練場。
震える手で小さな芽を育てようとしていたシルフィ。
失敗して、土が凍った。
周囲の大人たちは眉をひそめた。
同年代の子供たちは笑った。
リュシアはその時、笑わなかった。
けれど、助けもしなかった。
ただ見ていた。
そのことを、今でも覚えている。
「人間の村で、師を得た……」
書状にはそう書かれていた。
人間の付与術師アレン。
シルフィの魔力回路を修復した可能性。
リーフェン家として接触し、必要なら連れ戻すこと。
文面は丁寧だが、命令だった。
断る余地はない。
部屋の外から侍女が声をかけた。
「リュシア様。お支度を」
「分かっています」
リュシアは書状を畳んだ。
鏡を見る。
そこには、リーフェン家の使者として整った自分の顔が映っている。
彼女は小さく呟いた。
「シルフィ。あなたは、戻りたいの?」
答えはない。
ただ、森の風が窓を揺らした。
◇
同じ頃、リーフェル村では、シルフィがくしゃみをした。
「くしゅっ」
小さな音だった。
畑の端で水路を見ていたアレンが、すぐに振り返る。
「風邪か?」
「いえ、大丈夫です」
シルフィは鼻先を押さえた。
「少し、変な感じがしただけです」
「変な感じ?」
「誰かに名前を呼ばれたような」
アレンは首を傾げた。
「噂かな」
「師匠がくしゃみをした時も、そのようなことを言っていましたね」
「あれは本当に噂だったかもしれない」
「勇者パーティーの方々が噂していたのでしょうか」
「それはありそうで嫌だな」
アレンが苦笑すると、シルフィも少し笑った。
リーフェル村の午後は穏やかだった。
水路は昨日より澄んでいる。
畑の芽は少しずつ伸び、世界樹の若木は幻視術の下で静かに葉を揺らしていた。ぷる太はミナたちと井戸の周りを回っている。どうやら「井戸番の見回り」らしい。
村長は保存庫の棚を確認し、門番老人は膝をさすりながら「今日こそ診てもらう」と隙を狙っている。
穏やかで、少し騒がしくて、温かい日常だった。
シルフィはその光景を見て、そっと胸元に手を当てた。
魔力は安定している。
怖くない。
以前なら、少し不安になっただけで魔力が乱れていた。今は違う。アレンの近くにいると、流れが穏やかに整う。
だが、さっきの感覚は消えなかった。
遠い森から、古い鎖が鳴ったような感覚。
「シルフィ?」
アレンが心配そうに覗き込んでくる。
「顔色、少し悪いぞ」
「……師匠」
「うん」
「もし、私の家の者が来たら」
言いかけて、シルフィは止まった。
アレンは急かさなかった。
ただ、待ってくれる。
その沈黙が優しかった。
「もし、私に戻れと言ったら……私は、ちゃんと断れるでしょうか」
言ってしまってから、シルフィは自分の声が震えていたことに気づいた。
リーフェン家。
失敗作と呼ばれた場所。
それでも、自分が生まれた家。
恐れ、憎み、離れたいと思いながら、心の奥にはまだ影が残っている。
アレンは少し考えた。
そして、いつものようにまっすぐ答えた。
「怖いなら、一人で断らなくていいんじゃないか」
「一人で……」
「うん。俺もいるし、村長もいる。マルタさんも、ミナも、ぷる太もいる」
「ぷる太もですか」
「ぷる太は、たぶん怒ると光る」
シルフィは思わず笑った。
「それは頼もしいですね」
「頼もしいだろ」
アレンも笑う。
その笑顔を見て、シルフィの胸の強張りが少しほどけた。
「師匠は、私が戻らないと言ったら、止めてくださいますか」
「もちろん」
アレンは即答した。
「シルフィが自分で戻りたいなら止めない。でも、戻りたくないのに無理やり連れていかれそうなら、止める」
「……ありがとうございます」
「弟子だからな」
アレンが少し照れくさそうに言った。
シルフィは目を丸くした。
「師匠が、その言葉を使うのは珍しいですね」
「便利な言葉なんだろ?」
「はい」
シルフィは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「とても、便利です」
その時、井戸の方からミナの声が響いた。
「アレンお兄ちゃーん! ぷる太が井戸の中で寝ようとしてるー!」
「ぷる太! そこは寝床じゃない!」
アレンが慌てて走っていく。
シルフィはその背中を見て、小さく笑った。
怖さはまだある。
けれど、一人ではない。
そう思えるだけで、昔よりずっと息がしやすかった。
◇
夕方、リーフェル村の外れに一羽の黒い鳥が降り立った。
鳥は森の影に紛れ、村を見下ろせる枝に止まる。
その足には、小さな黒い符が結ばれていた。
鳥の目を通して、遠くの誰かが村を見ている。
井戸。
畑。
柵。
村人たち。
そして、白銀の髪のシルフィと、その隣に立つ人間の青年。
青年が何かを言い、シルフィが笑う。
その瞬間、黒い鳥の目がわずかに光った。
遠く離れたエルフ領で、黒枝の者が低く呟く。
「対象、確認」
そして報告は、リーフェン家へ向けて放たれた。
リーフェル村の穏やかな夕暮れに、まだ誰も気づいていない影が差し始めていた。




