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 夜も更けて、外の世界はしんと静まり返っていた。部屋に響くのはゲームのガチャガチャとした音。耳障りというわけではないが、憚られるような背徳感にいつも襲われる。小学生の頃にDSを夜な夜な隠れて遊んでいたせいかもしれない。

「今日はあと一試合で終わろー」

 咲来のその言葉に、詠は思わず机上の小さな置時計に目をやった。時刻は午前一時を回ったばかりだ。

「あえ、早くない?」

 あまりの珍しさに、詠は拍子の抜けた返事をしてしまった。終わってくれた方がいいには越したことはないのだが、ここまで早いとなんだか怖い。

「ヨミ君忘れてるよね~」

 その一言は詠がかなり恐れている部類のものだった。聞くだけで心臓がチクリと痛む。これは文字通り詠が何かを忘れている時に放たれるジャブだ。今、試されている。あ、そういえば。

 数日前に交わした会話の、微かな断片が顔を見せてくれた。咲来のバイトの面接や、きたこれ!

「いやいや、覚えてるよ。明日バイトの面接やろ」

 伝えられたかは定かではないが、どこのバ先、何時に行くかなんて毛頭知らない。これ以上詰められたら詰みだが、たいていこれが答えられたら大丈夫だ。

「そー。めっちゃ緊張する……」

「大丈夫やって。バイトの面接なんて受け答えしっかりしてれば受かるよ。午前中やし確かにはよ寝なあかんな」

 知りたい情報を何とか会話に混ぜながら、バレるかバレないかの瀬戸際を攻める。ゲームをしながら。

「違うで、午後やって言うたやん」

「んっ……」

「やっぱり覚えとらんやん」

 咲来のため息が妙に長かった。そこに自分のため息も混ぜ込んで、一緒にこの肺にたまった反吐を吐き出したかった。吐き出せたら、食道からごろごろと塊が溢れ出てくるかもしれない。

「でも午後でも早く寝たほうが寝坊もしーひんし」

「そーやな、今日は早く寝たほうがええな」

「なんか嬉しそうちゃう?」

「いやいや、そんなことないやん」

 こんなのだから結局頑張って記憶しても、すーぐ頭から抜けてしまう。そもそも、咲来が面接の予定があると言い出したのも数日前のゲーム中だ。なんでこうも大切なことをゲーム中に言うのか。わずかな気遣いからか、試合が始まる前のロビーとか、待ち時間の間とかに彼女は教えてくれる。だがそんなのは誤差だ。十数秒の待機時間の後は、すぐにゲームが始まる。その一試合一試合で、詠は咲来を血眼になって死守する。一試合済んだ後には、咲来から聞いた情報なんて頭の片隅にも残っていないことがほとんどだ。

 今日みたく稀に思い出すことがあっても、完璧に思い出せたことなんてほぼない。詠がたとえ忘れていたとしても、彼女は泣くほど怒ったりはしない。あからさまに不機嫌にはなるが。しかしまわりまわってその不機嫌さが、彼女のプレーに影響を及ぼすのだ。

 咲来はたとえゲームでも、結果に満足できないような試合ばかりが続くと泣いてしまうこともあった。そうなってしまえばその日の二人の空気も最悪なものになる。

 カスみたいなプレースキルで何を誇ってるんだと思うこともあるが、まぁそれは人それぞれというやつだ。そんなことを面と向かって言い放てば、もう一巻の終わりだということくらい、詠には読める。

 結局その日は久しぶりに、喧嘩エンドを回避したままゲームからログアウトできた。過去にはゲームが終わり、ロビーで駄弁ってる間に詠がヘマを犯して険悪な空気になったこともあった。最後の最後まで気は抜けない。

「今日は楽しかった!」

 咲来が目を細めて、詠の腕にもたれかかってきた。目の前の儚くも幼げな女の子は、とてつもなく恐ろしい。

「それはよかった。俺も楽しかったよ」

 降参の白旗は、いつの間にか真っ赤な嘘で染まっていた。


 静謐な朝。詠がネクタイを動かすたび、シルク繊維の擦れる音が鼓膜に届く。咲来は未だに布団の中で気持ちよさそうに眠っている。彼女が健康的な生活習慣を送っていたなら、どれだけよかっただろうか。早寝早起き。趣味はゲームではなく読書。料理も頑張って、たまに一緒に作ったりする。たまにする喧嘩も、お互いが優しい故のすれ違いで起こる。

「はぁ……」

 そんな訪れるはずのない理想の生活を思い描きながら、二人分の朝食をまとめて作った。目玉焼きに醤油を数滴たらし、片方はラップをしておく。白米は昨日炊いて余っていた分。一人で食べる朝食は、いつだってちょっぴり寂しい。

 身支度を整えて、ジャケットに腕を通す。靴棚にある全身鏡でもう一度身なりを確かめた。靴を履くために玄関と廊下の境目で腰を落とす。

「うっ……」

 眩しい。見ると、ドアポストにチラシの束が挟まっていた。その隙間から見えるのは真っ青な空と太陽。わずかな太陽光でも、暗い部屋で身支度を済ませた詠にとっては大層強烈な光だった。

 靴を履き、チラシを抜き取る。刹那、玄関はより一層の闇に包まれた。ドアを開けると、気持ちのいい春の空気が漂っていた。しかし見える青空は、隙間から謎いた時の方がきれいだった気がする。鍵を閉め会談に歩みを進めた。瞬間的に目に入ったのは、隣人のドアポストにぶっ刺さったチラシの束。はたと後ろを振り返ると、二〇三のドアポストにはその郵便物はなかった。

 なぜだか心臓が高鳴る。頭の中ではよからぬ行動計画が、詠の好奇心を激しく駆り立て始めた。ちょっとだけなら……。手始めに二〇一の部屋の前に立つ。生活音は聞こえない。ゆっくりと床に付けた膝。スーツが汚れることなんて、気にもならなかった。息を殺して……。

「……ほぉ」

 部屋の構造は同じ。正面には見慣れない台。その上には固定電話らしきものが置かれていた。リビングは安っぽい色の電気が灯っている。これならワンちゃんある。家を出てからまだ一分ほど。詠の脚は勝手に三階への階段を上り始めてしまった。

 昇り詰める直前、詠は目前の光景を見て胸郭がざわめいた。背徳感で押しつぶされそう。別に何か特別なことをするわけでもないのに。

 同じように広告の束が詰まった玄関ドア。摺りガラスから見える窓の奥はまだ暗そうだ。

 ドアの前に立ち鞄を腹の前で抱え、ゆっくりと屈んだ。隙間から見える暗がりの空間。部屋の中はまだ電気が灯っていないように思える。蓋の重みによって潰されたか、広告がぺしゃんこでよく中がしっかりと見えない。玄関に並ぶのは、乱雑に脱ぎ散らかされたサンダル。

 せっかくなら。そんな曖昧な言葉が詠の指先に力を込めさせた。親指の腹でそっとその蓋を持ち上げる。部屋の中はかなり荒れて――。

 突如耳元で何かが滑る音。『シュー』心臓が跳ね、詠は思わず目を離した。その瞬間、見えたチラシの尾っぽが部屋の中に吸い込まれた。その光景がスローモーションのようにゆっくりと目に流れ込んできた数瞬後、バサッと乾いた音が扉越しに聞こえた。

「あっ」

 心音が鼓膜を突き破りそうだ。詠は逸る心臓の中、ゆっくりとポストの蓋を下ろして、一目散に階段へと飛び込んだ。抜き足差し足降りる最中は生きた心地もしなかった。

 音を立ててポストの蓋を閉めたほうが、まだ自然だったというものを。

 

 仕事中にもかかわらず、詠は目の前のモニターから幾度となく視線を外す。その目線の行き先は、沈黙を貫くスマホの画面。詠は咲来からの連絡を待っているのだが、気が気ではない。面接がうまくいくことを祈るばかりだった。

 詠の昼休憩が始まったと同じタイミングで、咲来は面接会場となる場所に向けて出発した。幸か不幸か、詠が休憩であったためにその時間の大半を、咲来とのビデオ通話に費やす羽目になった。食事をしながら携帯を見るのは好きではないし、自分でもやらないように徹底している。だがこれはもちろん例外だった。

 咲来の面接は〇時四十五分からだった。今の時刻は午後一時十一分。そろそろ終わってもいい頃合い。いや、むしろちょっと遅い。こういう時はたいてい、終わった直後に連絡を寄越してくるものだ。ある時を除き。

 『バス乗った』

 焦れったくも穏やかだった画面に、ぱっといつかのツーショット写真が灯った。その一部を覆い隠すように現れた、咲来からのメッセージ。この簡素さ、バスに乗ったタイミングでの連絡。確定で何か良からぬことが起こってしまった。

 詠は無意識のうちにスマホを持ち上げていた。

 『面接お疲れ様。どうだった?』

 かといって、断定はするべきではない。詠は当たり障りのない言葉を選び、送信した。まるで詠のメッセージを待ちわびていたかのように、既読のマークはコンマ数秒でついた。

 『面接はよかった。でも同じ部屋にいたおばさんがちょっと嫌な感じだった……』

 ここでそうだったのか。と流してしまえば、その怒りの矛先が向くのは詠だった。仕事中はなるべくというか、絶対に携帯は触りたくなかったし、触るべきではないのだが……。不可抗力で詠はトイレの個室に駆け込んだ。

 『それはまた嫌なパターンやな。そのおばさん、咲来みたいなかわいい子が来るから嫉妬したんとちゃうか』

 『えーそれやったら戦う土俵違うってw それ本気やったら怖いんやけど』

 『それなw 面接の方はどうやった?もしあれやったら』

 『面接はよかったと思う!担当のおじちゃんも結構いい人やったよ』

 『そっか!それはよかった。でも嫌な気分させられたら、全然気軽の辞めていいんやで。思いつめて働かなあかんほど大切な仕事ってこの世にないからさ』

 咲来と付き合いだしてからというもの、メッセージのやり取りは格段にうまくなった気がする。相手が何を言ってほしいのか、手に取るようにわかるのだ。

 『できるだけ頑張ってみる』

 『うん、愚痴ならいくらでも聞くしな』

 便座に座っていると、尻に優しい温度で眠気に負けそうにる。しかしトイレのドアが勢いよく開かれ、詠はスマホを落としそうになった。まずいまずい……。こんな所でスマホ落したら何を疑われるかわからん。咲来のメッセージの終わりは今のところ見えない。小便だけ済ませて便所から出ていく誰かの音が、詠の心臓にかなりの負荷をかけた。咲来とのメッセージを無理に断ち切っても、トイレに籠ってさぼるのも、どちらも罪悪感一色だ。

 『ヨミ君は仕事戻らんくていいの?』

 キター! いや、戻らなあかんわ! 俺がどんな気持ちでメッセージやり取りしてると思ってんねん。

 『今実はトイレでメッセージ連絡してるw 確かにそろそろ戻らなあかんかも』

 『それはやばいw わたしは寂しいけど……』

 『ごめんね。でも家帰ったらいっぱいゲームしようね。 面接の話も聞かせて!』

 『わかった~』

 『じゃ、気をつけて帰ってね。咲来の帰りはビデオ通話できんくてごめん!』

 『だいじょうぶよー』

 詠はようやく一息ついて立ち上がった。スーツの腿裏の部分は、便座の温度と体温によってほかほかに仕上がっていた。


 その日の夕飯もスーパーで揃えられたでき合えであった。咲来と付き合い始めて、はや半年。これまで彼女の手料理を口にしたことはほとんどなかった。どうやら彼女の母親はかなり、咲来に対して甘いところがあるらしい。それ故にか、咲来は自分の食べる朝食でさえ、まともに作ったことがなかった。

 どうやら咲来は、極度に失敗を恐れているようだ。夕飯のこと以外にもそうだが、もれなく料理に関することも。詠自身は別に完璧においしいものを食べたいわけではない。むしろ好きな彼女が作ってくれた手料理なら、涙を流してうまいうまいと食べたことだろう。しかし現実はそう、うまくは運ばない。

 幾度か説得を試みたことはあったが、彼女が首を縦に振ることはなかった。わからない……。失敗したら怖い……。しまいには、キッチン爆発させちゃう……。そんな冗談を抜かしていた時もあったが、実際は彼女自身が、自分の弱みを見られたくないだけだろう。まるで反抗期の子供を育てているような気分になる。

 そんなことを思いながら、衣たっぷりの唐揚げにかぶりついた。それ以上に咲来の面接の話は重たかった。胃もたれの代償に得られたのは、彼女の多少の機嫌だった。


 翌日。その日の勤務も終わりに近づいていた頃。詠の脳内では天秤に載せられた二つの選択肢が、シーソーのように不安定に揺らめいていた。

 今日の昼休憩中に、例の部長から飲みの誘いがあった。この飲み会に行くという危なっかしいが快楽を誘う選択肢と、まっすぐ家に帰るという安全で地獄のような選択肢。詠はこの二つから、自分が従うべき方向を選べないでいた。

 普段ならこんな誘いなんて断っていただろう。必ず咲来には悪い印象しか与えない。しかし今回は何とも断りづらい理由があった。この飲み会は詠の歓迎会を含んでいるらしい。

 おこがましい言い方にはなるが、メインとなる人物が出席しないのは失礼にあたるのではないか。そんな思考が頭から離れない。この職場に異動してきて未だ二週間ほどだ。人間関係はなるべく良好なものを保ちたい。この飲み会に出るか否かは、今後の詠の将来を決定する大事な一打であるともいえる。

 それに加えだ。昨日の咲来の機嫌はめっぽうよかった。詠が全身全霊で彼女の愚痴を受け止めたおかげかもしれない。二日連続で平和な夜が訪れたのは、いつぶりだろう。この貯金があるから、咲来も多少は許容してくれるかもしれない。会社主催の参加必須の飲み会だと説明すれば、もっと安全だろう。

 『ごめん咲来』

 『急遽会社での飲み会に誘われちゃった。基本全員参加で俺の歓迎会やってくれるらしい。ごめんやけど、ちょっと今日は帰りが遅くなる。』

 『なるべく早く帰る』

 土下座の絵文字を加えて。

「んで、深奥はどうするんだよ? 参加するのか?」

「あ、もちろん参加させていただきます!」

「よっしゃ、じゃ決まりだな」

「よろしくお願いします!」

 そう言うと、上司はにかっと笑って見せた。よかった。この笑顔を守れて。その時ちょうど、スマホが一件のメッセージを受信した。

 『わかった~』

 詠は大仰にため息をついた。詠は抱えきれないほどのぶちまけたいネタをもって、飲み会に参加した。週の始まりだというのに歓迎会として、飲み会に誘い出された。しかしそれは本当に断れない誘いであったのだろうか、あるいは詠自身がその誘いにしがみついただけかもしれない。

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