結
酩酊とまではいかないものの、詠は随分ふらふらとした意識の中帰路に就いた。はっきりとした時間はわからない。でもふわふわとした感覚。肩の荷が一瞬でも降りた気がしてとても心地よかった。春の夜風が頬を撫でる。気持ちいい。
居酒屋では日々の鬱憤をありったけぶちまけた。思い出すだけで腹立たしく、ついその勢いで酒を何杯も煽ってしまった。
飲み会で余った唐揚げを、パックに詰めて持って帰らせてくれた。こっちに来たばっかりで忙しいだろうと気を遣ってくれたのだった。
自宅アパートの前に着くと、詠はある光景を目撃した。三〇二号室の部屋の電気がついていた。外階段をのぼり、二階にたどり着く。なぜだか足はそのまま階段を上がり始めた。
廊下に面するすりガラスにも部屋の中の光が写っていた。古ぼけた換気扇がその家の空気を外に送り出す。甘重い柔軟剤の香りとその隙間に入り込む微かな副流煙が、呼吸をためらわせた三〇二の玄関前。
完全に酔った勢いだった。おもむろにインターホンへと指が伸びる。あの少女の立ち姿がはっきりと蘇る。高なる心臓。自分の奇妙さなんて思考の中に微塵もなかった。少女の纏う服が、以前訪れた時と同じものであればどれだけ嬉しかっただろうか。
震える指先がインターホン押し込む――。
『ビシャーン』
刹那、部屋の中のガラス扉が激しく叩かれる音が聞こえた。古ぼけたインターホンの音なんて聞こえない位の大音量。そして直後、甲高い音を伴って何かが割れた。
詠の思考はわずかながらに停止した。だがその数瞬後には、詠は逃げるようにして外階段を降りた。
その後、何事もなかったかのように詠は震える指で自宅玄関を開けた。
「ただいまあ〜」
返事はない。咲来は奥のリビングで机に肘をついて、畳の上に脚を放り出していた。その横顔からは、彼女がどこか一点を見つめているように見える。
「さくら〜? どーしたん?」
廊下を進みながら、咲来の座る部屋まで歩みを進める。普段なら頭の中で必死に勘ぐるところを、今日の詠はなんとも率直に聞いた。
「……」
二人の沈黙がリビングに立ち込める。すると、先ほど目の前で起きた出来事を詠みは思い出した。あ、あれのせいに違いない。立膝になりながら、咲来の横に近いた。
「そ、そういえばさっき上からすごい音聞こえたよな。怖かったよな。でも俺ちょっと前さ、猫の声聞こえてん。だからさっきのも猫のせいちゃうかな……」
あの奇妙な音にも慣れたと思っていたが、咲来はまだ怖がっているのかもしれない。さっきまで一人だったし。
しかし彼女は、言葉一つ発さない。やがて外に放り出されてた脚を抱え、膝に顔を埋めた。それでも詠の耳に届いたのは、剥き出された色白の脚と畳と擦れる音だけだった。静かな空間にそれは嫌にうるさかった。全体重がかけられた詠の左膝は少しずつ痛みを訴え始めた。
「階段登ってきてどこ行ったの?」
そんな言葉を予想していなかった。思わず口をついて漏れ出そうになった間抜けな声を、抑えるのに精一杯だった。
「どういうこと、」
そうやってとぼけるしかできなかった。さっきまでの膝の鈍い痛みが、今はヒリヒリと鋭い。
「もうそれはいい。でも詠はもうわたしのことどう思ってるの」
「んへ?」
間髪入れずに漏れた咲来のため息は、酔いが覚めるほどだった。急に話題を逸らされて、詠の胸にはずんとした錘が引っかかった。気体のようにモヤモヤしていて、それでいて重たい。
「スマホも見てないやろ、どうせ」
その一言で、居酒屋から家までの帰路が、あれほど心地よかったのか直感的に理解した。一人だったからだ。しかしあのふわふわした感覚は残ってない。アルコールが回って体がだるい。それに加えてこの状況だ。もう自分が何を言い出すかわかったもんじゃなかった。とりあえず冷静を保ちたい……。
咲来の一言でカバンの中を弄って、スマホを取り出す。電源が入ったロック画面には、重なり合う数多の通知が溢れていた。
「窓から見てたんやで。帰ってきたと思ったら三階行くし、音のこと知ってたのに帰ってきて不安なところを優しくしてくれるんかと思ったら、なんか急に音の理由について話し出すし……」
「あのな、そこまで行くとさすがにキモイわ」
言ってやった。詠はそう思った。しかし直後、向けられた視線り咲来の目は溢れんばかりの涙で揺れていた。
「あ、ごめ――」
途端に酔いが吹っ飛んで、理性が戻ってきた。しかし謝ろうにも、咲来は立ち上がって鋭い眼光で詠を睨みながら見下ろしていた。
「それだけは言わんといて、ほしかった……」
そう残すと、寝室へと飛び込んで行ってしまった。頭が痛かった。また明日冷静になってから、話し合えば元通りになるだろ。そう楽観して詠は風呂場へと向かった。
目が覚めた。なんだか嫌な予感。寝すぎた気がする。
スマホに電源を入れる前に、詠は今日の曜日を思い出した。水曜日。ちゃんと平日。
祈るような気持でスマホに電源を入れる。表示された時刻は『8:06』。急いで準備すれば間に合わない時間でもない。ただ、今日は行く気になれない。二日酔いのせいか頭は痛いし、昨日の咲来との出来事も解決しておきたい。今日急いで仕事に行ったらさらに関係は悪化するのは目に見えている。前の職場では結構真面目に振舞っていたし、その時の評価もある。平日に飲み会を開催した会社のせいにして今日は休んでやろう。
最初はそんな妄想も、考えるほどにどうやったらなるべく自然に伝えられるかという思考にしかなっていなかった。
ベッドから体と頭だけを乗り出す。一段下の様子を確認してみると、既にそこに咲来の姿はなかった。それだけのことで、ますますベッドという安全地帯から、踏み出す勇気を削がれた。
『おはようございます。深奥です。今朝から倦怠感と頭痛の症状があり、出勤することが難しいです。午前中に症状が落ち着けば、昼頃から出勤させていただきたいです。申し訳ありませんがよろしくお願いします。昼からの出勤に関しては再度連絡させていただきます。』
朝から出勤しなければ、昼から行くなんて到底無理だとはわかっている。それでもあの言い方をすれば少しは誠意を見せられるというものだ。
閉ざされた寝室とリビングの間のガラス扉。その奥でぼやけた影が動いている。
重たい体と足を動かして、ベッドから降り立つ。その扉をゆっくりと開いても、咲来は詠に背を向けたまま振り返ることさえしなかった。
「おはよ」
ちょっと素っ気ない声で言ってみたものの、返事ももちろんなし。
「昨日はごめん」
そう言い残して詠はトイレへと向かった。途中ちょっと振り返ってみたが、咲来がこちらを見てはいなかった。
「もう別れよ」
トイレから戻り、机についた詠。早々に咲来の口から放たれたのは、あまりに唐突な宣告だった。
「え、なんで」
忌々しい束縛から解放される、と思えたのはほんの一瞬だけだった。途端に目の前の咲来の頭を、撫でることさえ憚られた。絶対に乗り越えられない、強力な一線を引かれた感覚に陥った。
「ヨミ君が昨日帰ってきた時、一番最初に何ゆうたか覚えとる?」
詠は思考をフル回転させた。昨日の夜、上の階に行ったのは覚えてる。それから降りてきて、咲来がなんか座ってて。俺がなんて言ったか……。
「いや、ごめん覚えてない」
酒のせいもあったのだうろか。昨日の物となってしまった記憶は曖昧だった。とりあえずあの日は、なんだか嫌な終わり方になったということだけが記憶の中央を陣取っていた。すると咲来から当然といったよう呆れが喉で蠢いた。言葉を何とか出そうとしている。
「まぁ……。いつものことやしな」
いつもはゲーム中に言うからだろ。という反論はしなかった。別れられるな最後くらいは綺麗な終わり方に持っていきたい。そればかりが先行して詠の口を封じる。
「昨日ヨミが帰ってきた時、大きい音したんは知ってるよな。それでわたしのこと気遣ってくれるんかと思ったら、急に上のこと話したよね。あと、最後の言葉はショックやった」
最後の言葉。記憶の隅っこで、なんとなく思い出される。確かあの時は清々しいほどに爽快な気分だった。言ってやったという快感。あぁ思い出した。
しかし今手元に残るのは、咲来を引き留めるメリットと手放すことで得る自由を計る冷徹な天秤。
「わたしさ、これまでちょっとはヨミ君の行動とか気遣いがそっけなくてもさ、優しくしてくれてるんやとか、わたしのわがままにも頑張って付き合ってくれてたことは知っててん。だから我慢できひんくて拗ねちゃうこともあったけど、ヨミ君のことは大好きやった。でも昨日さ、キモいって言われて……。悲しかった。わたしの過去知ってるやろ。思い出したくもないけど父親のさずっと暴言とか暴力とかさ。ヨミ君はそれがないからわたし安心できてたけど……もう怖い」
別にあれは暴言のつもりじゃなかった。単にちょっとイラッとして口が滑っただけ。そういうことは簡単だった。しかしこれまでどれほど空気が悪くなっても、彼女がここまでいうことはなかった。それはつまり、そういうことなのだろうか。もう取り返しがつかないのだろうか。しかし、今更謝って関係を取り戻したとしてもこれ以上うまく行くだろうか。いっそ少しの悲しみは伴っても、この束縛から解放された方がマシではないだろうか。そんな思考が延々と自由勝手にせめぎ合っていた。
「悪気はなかったけど、咲来を傷つけたのはごめん。別れよう」
「引き止めもしないんだね」
零れ落ちたため息が天秤の受け皿に流れて、その不均衡を絶対的なものに仕立て上げた。
翌日。今朝、咲来は荷物をまとめて出て行ってしまった。最後まで、彼女は詠に引き留めの言葉を言ってほしそうにしていた。しかしもうこの生活から解放されることを考えてしまえば、今更引き留めるのはむしろ逆に地獄へと逆戻りするだけに思えた。
咲来が出て行く時、詠はこう告げた。
『咲来は最高の彼女やった。もう俺、咲来が最初で最後の彼女や』
これは詠が常々、咲来に言っていた言葉だった。添い遂げるにしても惜別するにしても、詠はこれ以上に彼女を作らない。つまり咲来が最高の彼女であった。冗談半分のつもりで言ってたが、これから彼女を作るエネルギーなんて、一瞬で消し飛んでしまった。次に付き合ったとしても、再び束縛されてしまうかもしれない。そんな恐怖にも似た感情は、図らずも詠のよこしまな欲望をごっそりと削り切った。
家に帰っても、そこは静かだった。それなのに皮肉にも、猫の鳴き声なんてどこからも聞こえなかった。この部屋からも、上の階からも。
咲来が詠の下から居なくなった後。意外なことに、通り過ぎるタイプの女性が目に入っても、目で追うことはなくなった。
そんなこともあり、咲来が出て行ってから幾日か。何度か外階段やゴミ捨て場で、上の階の少女とすれ違っても、詠は全く気にすることはなかった。その際は自分でも驚くほどだった。あれほど執着していた対象は、今やただの不気味な存在と化していた。顔を隠し、傷を負った少女。横を通り過ぎるたびに鼻腔を差すような刺激臭と、明らかに入れすぎな柔軟剤の香りの渋滞。服装も恐ろしいほど、全く変わらない。家の中を想像するだけで吐き気を催すぐらいだ。
以前は挨拶をするときでも、詠から声をかけていた。しかし今となっては、まるで全く面識のない者同士のような振舞いだ。相手がどう思っていようが関係ない。今の詠にはそれが心地よかった。顔も知らない相手に、興味を抱くなんてばかばかしい。詠は咲来に言い放った最後のきめ台詞を、難なく保っていた。別に破ろうが誰かに指摘されるわけでもない。だが、なんだか自分の心がいたたまれなくなる気がした。
半年ぶりの、独りの土曜日。清々しいほどの目覚め、だったが時刻は既に十時半を指していた。でもこれで、この半年間の睡眠負債をそろそろ完済し終えそうだった。以前の詠ならば、間違いなく目覚めるのは午後であった。
そんな日の昼間際。インターホンが鳴った。別に配達も頼んでない。宗教の勧誘か。NHKの職員か。いやまさか……咲来。いや、ないない……とは言い切れない。立ち上がって、一応返事を返す。
「はい」
ドアの向こうから返事はなかった。左目を閉じて、そっとのぞき穴に右目の焦点を据える。そこに立っていたのは黒いフード……を外した少女だった。上の階の……だろう、か。長くてちょっと乱れた黒髪。頬に付いた切り傷が儚く見えるほど、美しい少女だった。
「ネコの話、聞いてくれますか」
こんにちは
鬼の駆け足で幕を閉じてしまいました。
プロットぶっ飛ばして書いたもので、中身も結構雑なものになってしまいました。
ただ、筆致のレベルを上げるために書いた中編なのでそこまで気にしていません。
これでもたわわな収穫があったので。
でも次試験的に中編を書くときはもう少し頑張ってもいいかな。
これでも修正しようと思ったんだけど、如何せん純文学的っぽくなって、ハッピーエンドにならなくて心が苦しかったのでここで放棄しました。




