承
「いってきます」
かわいい咲来の頭を撫でて、家を出た。詠の気分はすこぶる快調。左手に持つゴミ袋も軽い軽い。詠が未だにこの関係を、正気を保って続けていられる訳は日曜の夜にある。一人の女の子の体温を、自分が思うままに独り占めできる時間。その時間は二人が喧嘩したこともない。
関係を続けている理由はそれだけではないが、それがなければ辛すぎる。おまけに激しければ激しいほど、その日は早く寝られるときた。
朝日に向かって詠は心地のいい欠伸を逃がした。すっきりした足取りで錆びた外階段を下りる。すると踊り場付近で、フードをすっぽりと覆った人とすれ違った。
「あ、おはようございます」
「おはよう、ございます」
その声はかすれていた。しかしはっきりとわかる。目の前のフーディーは女の子だ。口元までチャックを上げ切った黒のパーカー。灰色のショートパンツから剥きだされた細い脚。ぶかぶかのサンダルで、錆びた一段を一歩、また一歩と上がっていく。無意識だったとしても、その魅惑的な膝裏に吸い寄せられたのは事実だった。その左ふくらはぎの後ろには赤みの引きかけた、大きなひっかき傷。
その少女を見送る。コンコンと、詠の頭上で足音が聞こえる。はっとした。詠は急いで残り半分の外階段を降りきった。そうして急ぎ足でアパートから離れる。堪えていた衝動を開放するように後ろを振り返った。アパートの玄関たちが見える。そこにはもう少女の姿はなかったが、三〇二の扉が微かに動いていたように見えた。
お昼休憩。詠は今朝詰めた弁当を頬張りながら、左手にはスマホをもって咲来とやり取り。右に座る同僚とは、昼休みには話す仲にはなった。
左手は厄介だ。いつもいつもインスタのリンクばっかり送ってくる。しかし詠が一本でも目を通さなかったら、咲来は漏れなく指摘してくる。詠が余計に脳のリソースを使って感想を書いても、結局そのメッセージには何の反応もないのが常。そんなやり取りの合間を縫って、詠は箸を動かした。
この職場に異動して一週間が経った。まだまだ不慣れなことも多いが、何とか食らいつけている。そんな折、部長の一声がオフィスに響いた。
「声を大に言えることじゃないんだが、みんなこれ、持って行ってくれたらうれしい」
そう言って部長が大きな紙袋を片手に二つ、計四つを掲げて見せた。その手にオフィス全部の視線が集まるのがわかる。なんだろう、後で確認しよう。そんなことを思いながら視線をそのままにしておくと、部長の禿げ頭が映った。こっちはふさふさのリング天使だな。
そのバカげた思考を断ち切るように、左手にバイブレーションが走った。
「っと」
ほぼ忘れかけていた左手を見ると、新着メッセージが届いていた。
『お兄ちゃんの誕生日プレゼントなにがいいかな?』
今は咲来の兄の誕生日の話だった。かなりどうでもいい。すると、右がから咳払いとともに、黒い影が動くのが見えた。
「ん? 嫁さんか?」
「あぁ。いえ、まだ彼女です」
話しかけてきたのは隣のデスクに座る三つ上位の先輩。直接指導してもらってるわけじゃないけど、かなり気さくに話しかけてくれる。ただ、名前を聞くタイミングをこの時すでに失っていて、どうやって聞けばいいのか判りかねているのだ。
「そうなんだ。仕事中に連絡くれるってまめだね。仲いい感じ?」
「どうですかね。尻に敷かれてる感じです」
わざわざここで愚痴ることもないか、と思いそうはぐらかしてみたものの、当の先輩はあからさまにぎこちない笑みを浮かべた。
「あはは、そうか。それは頑張らないとね」
多分彼にはこの言葉の意味が伝わっていない。『先輩直伝の尻に敷かれないコツとかありますか?』なんて言う意地の悪い質問もできたが、ここではやめておいた。楽しいと正しいは相いれない。
それにわざわざ見える位置にきらきら光らせたリングをはめて、他人の交友関係に足を突っ込んでくるあたり、どうせ奥さん自慢なのだろう。そう高をくくって適当に言葉を返した。
「ですねぇ。仲良くやれるコツとかありますか」
言い方次第だ。先輩の顔が優位性を示した時の馬のような顔つきになる。
「やっぱり褒めるのが一番かな。あとはお金かかるけど、深奥君の彼女さんは甘いもの好き?」
「なるほど。甘いものは好きですね」
「じゃ何かプレゼントとか買ってあげるのはいいかもね」
大したアドバイスではないと思いつつも、ふと先ほどの部長の声が聞こえてきて、さっきの掲げていた何かを思い出す。ふと画面に目を落とすと、すでに咲来のメッセージを受信してから五分は経っていた。だが先輩の前で携帯を触るなんてできない。詠はぐっとこらえて話を続ける。
「そういえばさっき部長が見せてたのって何だったんですか」
「あぁ、あれは開発商品の試供品的な? 気になるんだったら持ってっていいよ」
「ほんとですか。帰り際にいただきます」
「遠慮しなくていいからな。ってか悪いなお昼邪魔して」
「いえいえ。勉強になりました」
スマホをちらちら見すぎたかと思ったが、先輩は自分の話たかったことが話せたらしい。にやつきながらスマホを見始めた。なんとなく詠は苦笑いしながらスマホに目をやった。
これは口実になる。隣人挨拶と言う切り札に。十枚入りワンパックのラスクを二パック。ビニール袋を引っ提げて、意気揚々と玄関ドアを開けた。
「ただいま」
「おかえりー」
ドラマでいつか見た時のように、左手をひょいと持ち上げて袋を見せる。
「え! なんか買ってきてくれたの?」
「会社で余ってる的なラスクがあったからもらってきてん」
「ホンマ! めっちゃうれしい。ありがとヨミ君大好き」
「どういたしまして。かわいい咲来のためやから俺もうれしい」
「かわいくない」
むっとした顔がたまらなく可愛かった。一瞬だけ、隣人に分け与えるもう一パック分が惜しく思えた。
「二パック? 全部わたしたちで食べる?」
「あーうん。えっとな、一応お隣さんとか上の人にも挨拶代わりに持っていこうかなって」
咲来は一瞬怪訝な表情を浮かべたが、すぐに軽く頷いて見せた。無駄に世間体を気にする彼女の性格に付け込めば、ここは容易い。
「わかった。右と左はいいと思う。でも上はやめてほしい」
「え? なんで」
「なんでってさ、だって変な人かもしんないよ。わざわざこっちから絡みに行く必要ないでしょ」
「まぁあそうだけど」
完全に裏目に出た。逸り過ぎた思考はそんなことも忘れていた。しかし咲来の封じ込めは止まらない。
「しかも上に挨拶するなら、まず下ちゃう。しかも一パック十枚やし隣だけで五枚五枚の方が数的にもちょうどいいんちゃうん」
「まぁ。そうだね」
結局、その日のうちに咲来と一緒にお隣さんにお菓子は渡した。しかしこれでは何の意味もなかった。
その後部屋に戻り、早速ラスクを食した。
「うーん! 美味しい。わたしもう一枚食べちゃおうかな」
「甘いから一日二枚ぐらいにしとけよ~」
「うんうん、わかってるってー」
十枚入りを二人で分けて詠は一枚を消費。残りの四枚を上の階の人へ……。そう考えた。
キッチンに置いたラスクたち。咲来がキッチンからリビングに戻ったのと入れ替わりに、七枚残る中から四枚を抜き取った。詠はビニール袋に包んだラスク四枚を、仕事用のカバンに忍ばせた。
翌日の夜。帰宅した詠が押したインターホンは、三〇二のものだった。あの少女が住むであろう三〇二の部屋。インターホンに伸ばした人差し指。ぎゅっと押し込む。
『ブー』と古臭い電子音が響いたのが、微かに開いている窓から漏れ聞こえた。下の階にまで聞こえてしまわないか。それだけが心配で何度も外階段に目をやった。
「はい、」
「あ、!」
ドアが開け放たれた瞬間、獣っぽい鼻をつく匂いが風に乗ってきた。だが同時に聞こえたのは脳内にこびりついているあの掠れた声。出てきたのはあの時の服装と寸分変わらない少女だった。セーターのチャックを顎まで上げて、力ない双眸だけでこちらを窺っていた。
「あ、夜分遅くにすみません。最近ここに引っ越してきた深奥と言うものです。挨拶回りに来ました。よければこれ食べてください。」
今更ながらに思ったのは、ラスク四枚と言う中身に対して、ビニール袋が大きすぎたということだ。袋の底の方に、わずか感じる重み。
「ありがとう……ございます」
差し出されたしそれを受け取った彼女は、軽く一礼して見せた。詠も軽くお辞儀すると、真っ白な彼女の足が目に入った。裸足で石張りの玄関を踏みつけている。ふっくらとした足の親指が、その上でぎゅっと曲げられていた。はっとして顔を上げると、するとその少女は再び軽く会釈する。
「では……」
一歩後ずさった少女に焦った詠は、不意に言葉を走らせた。
「あ最近、大丈夫ですか?」
「はい……?」
「いやこの頃大きな振動が聞こえたりとか、ちょっと泣き声、みたいなのが聞こえたりしたので。お子さんとかいらっしゃるんですか?」
「あ、いない……です。多分気のせいだと思います」
口元まで隠れていてその表情は読み取れない。だが彼女のいうことが明らかな嘘である、というのがわかっただけでも、詠には十分な収穫に思えた。あまりここで攻めすぎても、イメージダウンに繋がりかねない。
「あ、そうですか。いきなり変なこと聞いてすみませんでした。もしお互いなんかあったら助け合いましょうね。困ったことがあったらなんでも声かけてください」
「あ、もしかしたら猫のせい……かもしれないです。猫飼ってるんで。お皿とかもよく割っちゃって」
その瞬間、詠の心中には重石のような、何かどっしりとした不快感を感じた。なんだ、ただの猫か。猫、ね……。確かにさっきドアが開いた時も生き物臭いにおいがしたし。
「あ、そうなんですね。それはよかったです」
その時、がさりと何かが部屋の中で音を立てた。
「すみません。そろそろ中にも中に戻らないと……」
「あ、そうですね。猫ちゃんが逃げ出しちゃいますもんね」
「えへへ、はい。では」
嫌味ったらしく言ってみたものの、その少女はにこやかに目を細めるだけだった。
「ただいま」
「おかえり、今日も仕事終わったメールなかったね」
「あぁ、ごめん。充電あらへんかった」
そうは言ったものの、今日連絡しなかったのは意図的だった。万が一、少女と話し込んでも大丈夫なように送らなかっただけ。
「ちゃんと充電して。迷惑なのはわかってるんだけど、ヨミ君が心配だから」
「ごめんね。これからはちゃんとする。俺も咲来が大好きだよ」
「ま、それはええんだけどさ」
咲来がジャージのポケットに手を突っ込むと、プラスチックのビニールが激しく蠢く音が聞こえた。グシャグシャグシャ、とその中から現れたのは、蛇――のようなラスクの細長い包装。
「ヨミ君、ラスクもう全部食べたの?」
「あ、うん。食べちゃった」
少女と会ったことが勘繰られた気がして、詠はとっさに出まかせのウソをついた。
「へー。じゃなんでゴミないのかな?」
心臓が跳ねた。言い訳、言い訳。あ、ビジネスバック。
「あーいや食べたっていうか。えーと会社に持っていった。おやつタイムとかに……うん」
「へー。一日に二枚って言ったのは誰かな?」
「あぁ、全部は食べてない。間違った。まだ全部は食べてないよ。昨日咲来がちゃんと一日二枚で我慢してたからね」
「あぁそう……ならいいけど! ってか今日もヨミ君お仕事お疲れ様。今日はわたしからなでなでしてあげる」
甘えてくる咲来。いつもは力いっぱいに抱きしめたくなるが、今日だけは難しかった。あの強烈な異臭は女の勘を働かせるかもしれない。詠は咲来の背に手を回すので精いっぱいだった。
その後夕飯を済ませて団らんしているところに電話があった。
詠の母親からだった。
あまり長電話すると咲来が拗ねてしまうため、久しぶりの電話も後ろ髪惹かれながら手短に終わらせようと努めた。
「まぁなんか適当に考えとくわ。はい、ほんならまた電話するわー」
詠が耳からスマホを外すと、待ってましたと咲来が尋ねてきた。
「誰からの電話?」
「家族やで」
「え、それだけ? 内容は?」
単に父親の誕生日が近かいからお祝いの品を考えておいて、と言う母親からの電話だった。ついでに咲来にも相談相手になってもらおうと、軽い気持ちでプレゼントの相談をした。
「咲来はお父さんの誕生日って何送ったことある?」
刹那、咲来の目が見開かれた。しかし口は真一文字。詠はこの瞬間、ある地雷を踏み抜いていた。あっと口を押えたが、もうどうにもならなかった。地雷というより、言葉のミサイルだっただろうか、なんて考えている暇だけはあった。
「正気で聞いてる?」
彼女がここまで激怒する理由。それは彼女の家族関係にあった。
「いや、ごめん。マジでなんとなく聞いてしまっただけで……」
「なんとなくで聞くとか余計にありえへんねんけど」
「ごめん、完全に意識の外やった。今のはさすがにない」
「はぁ。ヨミはもう前に話したことなんて忘れたんや」
その話は二人が付き合って幾月かの時。詠は咲来の過去について教えてもらったことがあった。
彼女の父親は家族に暴力を振るうタイプの人間だった、らしい。その後両親は離婚したが、平穏が訪れたのは表面的。咲来の心に大きな傷を残していたのだ。
彼女はその話をするのを非常に拒嫌がる。その地雷を、詠はしっかりと踏み抜いてしまった。こんな失態は過去にはなかった。絶対絶対、疲れているせいだ。
「わたしは忘れてないで。あの時ヨミが前言ってたこと。覚えてる? そんな辛い思いしてたんやな。大丈夫これからは俺がその思いで思い出さへんぐらいに幸せにしてあげるって。わたしまだ忘れてないんだけどね」
それは事実だった。咲来の気を引くため、つい甘い言葉を並べていた。そんな過去の自分が酷いほど醜く感じた。
「マジで、ごめん。それは軽率やった。謝らせてほしい」
「ちょっと今は一人にさせて」
咲来は寝室に駆け込んでいった。泣かせてしまった。自分のことを空いてくれている彼女を泣かせてしまった。申し訳なさがぐぐぐと込み上げてくる。だけど、今日はゲームはないだろう。こんな状況でそれを微かに喜んでいる自分は、あまり醜く思えなかった。この後、どれだけの心労を重ねて彼女の機嫌を取り戻さないといけないか。そんなことを思うと、一気に気だるさが頭痛へと変換された。
二段ベッドの一段目で、油断した顔を見せながら寝息を立てる咲来。部屋のスペースの都合で致し方なく二段ベッドを使う二人。口元は緩んでいて幼げだ。こんなおっとりした寝顔を見たら、二段ベッドにしたのがもったいなく思える。
穏やかな表情、染まる頬。その表面には乾いた痕が残っていた。こんな俺でごめんね。それが最初に浮かんできた正真正銘の心持だった。前髪のかかる額を羽のように撫でると、咲来は布団の中で心地よさそうに身じろぎした。もっと眺めていたかったが、早く寝なければいけなかった。明日も仕事なのだ。
ベッドの二階に上がる。ベッドの床板が軋まないように、そっとマットレスに体を預けた。天井が近い。ここ最近は朝起き上がるときに頭を打つこともなくなった。そんなことを思っていると、例のあの少女やら天井から降る砂のこと、かつて一度聞こえた男の怒鳴り声や少女の泣き声、それから自身のような振動。天井から降りかかる様々な怪奇が脳裏を巡った。
そういえばここ最近は声はおろか、砂が落ちてきてる様子もなくなった。下に人が住み始めたことを知ったのだろうか。忽然と消えた音が謎でたまらない。
いやしかしあの少女は猫のせいだといったよな。猫なら下に人が住み始めたからと言って、途端におとなしくなるのは無理があるだろう。ケージにでも入れたのか。だがそうだとしても、あの男の罵声や少女の泣き声については合点がいかない。例の猫に対しての躾の罵声か、あの少女が負っていた脹脛の傷は引っかかれた跡だろうか。だとしても! 猫があんな振動音を生み出せるわけ……。
寝たいというのに、脳はヒートアップするだけだった。まさか、猫って嘘、か。いやわからん。獣臭いと思ったけど、あれは猫のせいなのか。あの少女の服装も変わってなかった気がする。前に見た時と同じだったよな……。
とりあえず一人でいろいろ考えるには情報が足りなさすぎる。ただ悶々としてしまうだけだ。疑い始めてしまえば、好きでもなかった少女に対して、途端に嫌悪感が湧いてきた。
絶対俺が今日上の階を訪ねたことは秘密にしなければならない。大好きな咲来との関係にも亀裂が入りかねない。もうかなりどうでもいいし、あの少女にラスクの袋のゴミだけ返してくれって一応言っとくか。なんてな…………。
「あ、おはよう」
「……うん」
今日の咲来は珍しく早起きだった。寝ぼけ眼をこすりながら、ベッドの上で鎮座していた。
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん」
おそらくは昨日、あまりに早く寝すぎたからだろう。そんなことはわかっていても、でも一応謝っておくが安全策というものだ。
「咲来、昨日は悪かった。悲しませたくないし、咲来といろいろ情報共有したかっただけで」
彼女は詠の話を淡々と聞いているように見える。脚を放り出してシーツの上に座る咲来。後頭部をゆっくりなでると、頭の温もりが手に伝って来た。
「今その話したくない」
その一言で詠は、脊髄反射のように手を引っ込めてしまった。刹那、左手は物寂しさを覚えて咲来の背中付近を彷徨った。腕時計の重みだけを感じて。
「確かに、ご……もっともです」
「でも、わたしもごめん」
「いや、咲来は悪くないやろ……」
急に謝罪されて一瞬は戸惑った。しかし、三角に引き寄せた膝の上で咲来は目を伏せた。彼女が泣くときの仕草だ。
「だって……いつも詠の家族のこと知りたいって言うから、昨日も教えようとしてくれたんやろ。そこから話広げてくれようとしたんやろ……」
まぁ半分は正解だが、半分は全然違う。昨日は単に詠が油断して、口を滑らせただけだ。しかしここに便乗しない手はない。否定の便乗で彼女を肯定するのだ。
「いやいや、昨日は全部俺が悪い。咲来は悪くないって。しかも俺の家族のこと知りたいのと昨日はまた別やろ」
咲来自身はなぜか、詠の家族に自分がどう思われているかを執拗に気にするのだ。それと同じくらい、世間からの視線をも気にする。誰も見てないというのに。
「うん……」
「わかるよ。俺だって咲来と付き合ってるって言いたいけど、ちょっと恥ずかしいし。咲来は言ってほしいんやろうけど、俺はまだ準備できてないっていうか」
「わたしはもうママにも伝えてるよ」
「そやな、」
ため息を抑えて呼吸する。いつの間にか、体側に吸い付いていた左腕を見る。
「あ、もうそろそろ家出なあかんわ」
「そう、わかった」
「じゃまた仕事終わりに今日はちゃんと連絡する。いってきます」
玄関を締めると、詠はようやく息を吐いた。このまま百八十度振り向いてただいまって言いたい。もう、今日仕事するエネルギーないって……。
今日一日、咲来のメッセージは素っ気ないものばかりだ。こういう大概まだ怒ってるときだ。いつもは詠の返信が遅いとイライラしだす咲来。だが今日は彼女からの返信自体が遅い。ありがたいのか、不安なのか。詠は自分の胸中さえはっきりわからずでいた。申し訳なさに混じる気だるさ。
「おつかれ~」
「お、おつかれさまです」
二日前、ラスクの移動販売を教えてくれた先輩が、昼休憩で戻って来た。昨日は一日中出張に言っていたので、一昨日ぶりだった。
「先輩の教え通りやってみたら効果覿面でしたよ」
あえてこういう切り口で話すと、相手は無駄に期待してくれる。
「んえ? 何の話や?」
「あれですよ、定期的なプレゼントってやつです」
すると得心したように、泳いでいた視線が詠に定まった。
「でしょ? 結構使えるから、もし困ったあことがあったら頼りなよ」
「ありがとうございます」
「ちなみに何渡した?」
詠はためらいもなく答えた。
「あの試供品ってやつでいただいたラスクです」
その瞬間、先輩は抑えきれなかったように吹き出した。まさに、口から飛沫が大量に。
「ずいぶんとけち臭いなぁ」
「いやそれほどでも」
「褒めてないよ~」
今日も一歩、一足早い昇進につながったと思えたら、それで全部よく思えた。
充電はある。
帰りのバスの車内。詠は思い出したように、砂の正体について調べ始めた。勿論いまさらその正体が気になるわけではない。
そもそも、咲来の機嫌が悪くなったのは上の怪異が始まったころからだ。転勤前でも、似たような喧嘩はあったものの、比較的すぐ解決していた。翌日までケンカの種を持ち越すなんてなかったのだ。それがここに来てからというもの……。
当てつけだとはわかっていつつも、詠は咲来と関係性の悪化を上の階のせいにしたかった。そうすれば、詠自身への日が少しでも軽減されるからだ。おまけに砂の正体でもつかめれば、咲来の機嫌を少しでも和らげられるかもしれない。
『古いアパート 振動の後に天井から砂 なぜ』
AIに聞いてみれば、答えはすぐに返ってきた。
『古いアパートで、上の階の足音や外のトラックなどの振動のあとに天井から砂が落ちてくる場合、最も多い原因は長い年月をかけて天井裏に溜まったチリやホコリ、砂です。古い建物では、壁や屋根のわずかな隙間から風に乗って砂や土が入り込みます。 天井を支える木材や石膏……』
あーそんな単純な理由なんだ。詠にはこれを疑う理由もなかった。特大ネタだ。砂の正体がこんなちっぽけなものだとわかれば、咲来も安心できるはずだ。機嫌取るのにもちょうどいい材料が手に入った。スマホの時間を確認する。
『18:09』
退社して直後に『仕事終わった』の連絡してしまうと、そこから再び咲来との無意味なメッセージのやり取りが始まってしまう。九分は稼げたのは大きい。あまり引き伸ばしすぎてもバレるからね。
「じゃ家の前付いたから電話切るね」
「はーい」
これはたまに発生するバスを降車した後の電話イベント。咲来はメッセージのやり取りだけでは飽き足らず、詠がバスを降りた後はビデオ通話をしたがるのだ。しかしそれはまぁ悪くない。一人で道を歩くのは退屈で、何よりも女の子と会話しているアピールを道行く人間にできるからだ。
そんなレアイベントや、仕事終わったメッセージを忘れなかったおかげか、咲来の機嫌は朝に比べて見違えるほど回復していた。
そんな十五分ほどの帰路も終わりを告げ、詠は第二の勤務地である自宅の玄関ドアを開いた。
「ただいまー」
「おかえりー」
「今日は音とか砂とか大丈夫だった?」
「うん。まぁ」
最近は階上での不可解な現象も少なくなっていた。しかし詠が咲来に、異変があったかどうか尋ねることは、詠の日課になりつつあった。咲来の機嫌に探りを入れる意味でも。
「そうか、ならええんやけど。あ、そういえば……」
そこで詠はついさっきAIで調べた情報を、早速咲来に共有することにした。
「ちょっと調べててんけど、あの砂の正体分かったかもしれん」
「へー。そうなんや」
「ここのアパートって結構古いやん。だからチリとか埃とかが入ってるんやって。それが振動とかで落ちてくるらしい。風に乗って砂とかも入ってくるみたい。だから古いタイプの家とかやったら結構一般的な事何やって。だから、あんまり怖がる必要なさそうやな」
その話を粛々と聞いていた咲来。咲来の心に刺さったか、と祈る詠だったが、彼女の返答は想像していた部分の外からやってきた。
「なぁヨミ君」
「ん?」
「最近上の階のこととか、わたしのこと心配してくれてるやんな? 嬉しいんだけどわたしも、もうちょっとは慣れたし毎日気にしんくて大丈夫やで」
「あ、あぁ、ほんまに?」
口では冷静を装いつつも、しかしその宣告は詠にとって残念でならなかった。これ以上に、詠が上の階を気にする理由がなくなるからだ。
「わたしはヨミ君と楽しく暮らせたらそれだけで十分やから」
咲来がそう言うなら、それに従うしかない。わざわざ詠がリスクを冒してまで首を突っ込む必要もないのかもしれない。自分を納得させようとするも、何かの手綱が千切れた感覚は拭えなかった。
「今日はご飯作れてないの」
「そっか、じゃ俺がなんか適当に作るよ」
その日の夕食は卵かけご飯だった。手を抜いたことが当てつけではないと言い切れない自分がいた。




