起
生まれてから毎年嗅いでいた地元の春の香りを、今年は転勤と言う二文字のためだけに楽しむことができなかった。それでも奈良の辺鄙な地域から、東京の本社への転勤とは大したものだと、自画自賛もしたくなる。
久しぶりの平日の休みは、転居という名目で与えられた無休の休日だ。金曜日の昼下がり、引っ越し作業が既に完了した新居のアパートへと足を運んだのは深奥詠と、他一名。新と言う字が似つかないほど、そのアパートは寂れていた。
三階建ての二階。左右に一部屋ずつ。詠が二〇二の玄関ドアを引くと、やはり嗅ぎ慣れない誰かの香りが鼻腔をひん曲げた。
「んっ……変なにおい。ヨミ君ちゃんと内見したよね?」
隣から、明らかに落胆する声が聞こえた。その声の主は胡乱気な目遣いで詠を見上げていた。諏訪波咲来は、詠の恋人だ。
「やったよ。ちょっと臭う?」
「んーわかんない」
咲来は不機嫌な投げやりの目線だけで、詠の脚を前へと進めた。壁に手をついて右靴のかかとを左で踏む。
「めっちゃ狭い玄関」
咲来が強引に玄関へと侵入してくるが、半畳ほどの玄関は二人が一挙に動くのはあまりに狭い。先に行かせたくせに、なんで一緒に入って来んねん。
「ごめんごめん、もうちょい待ってや」
二足の靴が爪先を同じ方向を向いて、横並びに整列する。突き当り奥に見える和室から、陽光が差し込んでいる。対になるカーテンの隙間。
「電気点けへん?」
「あ、うん」
玄関からその部屋までの廊下は暗い。玄関横のスイッチには、丁寧にどのボタンが廊下のライトかが書かれていた。ぱちんと弾かれたスイッチ。乳白色の蛍光灯が廊下に影を作った。首筋だけを覆う咲来の茶髪は、その陰気漂う光をチラチラと反射していた。彼女の髪の毛には天使のリングは現れなかった。
玄関から右手にはトイレと風呂、左手にはキッチン。廊下を進む。咲来が左右に設置された摺りガラスをスライドさせた。
「こっちは和室で反対も和室か。和室多いね」
この廊下を挟むように二室の和室がある。左手は三畳ほどの納戸。突き当りには和室のリビング。その部屋と廊下のフローリングの間には敷居がある。しかし肝心の引き戸は設置されていなかった。
「ひぇ、何これ。砂?」
咲来が片足を持ち上げながら、靴下の裏を撫でた。
「砂?」
「なんかざらざらしてるんやけど」
ちょうどドアの載っていない敷居を差しながら、咲来が気味悪がるような声音を作った。その床を指の腹でなぞる。確かに固い砂粒のような感触があった。
「ヨミ君今触ったけど、あんまり触らん方がいいんちゃう?」
俺だって触りたくて触ってんちゃうねん。
「うーんそうやな」
天井を見上げるも、そこにあるのは木でつくられたただの天井。原因はわからなかった。
「俺があとで掃除機しとくわ」
「ありがと」
しかし詠にはそんなことはどうでもよかった。ただ単に咲来の機嫌が損ねられなかったことに安堵した。
それはその日の午後のことだった。咲来と二人で近くのスーパーを下見に行き、帰ってきたときのこと。
「え、ちょおヨミ君ー。まだ砂落ちてんやけど。さっき掃除してくれたんちゃうの?」
「え、うそや」
「うそちゃうし」
「じゃごめん。もしかしたらさっき吸い切れてなかったのかも」
詠はキッチンに置いた食材を放り出してリビングへ向かった。
「ほらここ」
咲来が指し示す場所を見る。確かにそこには砂状の何かが広範囲に散乱していた。しかし詠は疑問を抱かずにはいられなかった。
「ここは俺がさっき掃除した場所と違うんやけどな」
「もしかしてさ、ヨミ君の服についてるとかじゃないの?」
「いやいや、それはないと思うけど」
「じゃおかしくない? さっき掃除したんでしょ?」
「さっきの場所だけじゃなくて、もっと散らばってただけかも?」
「ふーん」
詠は再び掃除機を取り出して、その周辺を入念に吸い取った。その和室の天井はすべて木で作られている。詠は首をかしげながらも、和室を一瞥して後にした。
「なぁなぁヨミ君ー。これ見てみてやー。面白いで」
咲来がクツクツと笑みを零しながら、詠にスマホを差し出してきた。はぁ、またかと心のため息が漏れる。いつも見せられる動画の内容は至って幼稚なものだ。SNSの海から漂流してきた粗悪なインスタントドーパミン。詠はそれら漂着物に何か宝物のような高揚感を見いだせなかった。だが、詠自身はそれを美徳だと感じていた。欲望のままに流される若者が醜くて仕方がない。ドブに捨てる時間があるなら俺にくれ。いや、ある意味彼らも被害者なのかもしれないがな。詠は動画を流し見ながら、なんとか咲来の気に入りそうなポイントを見つける。
「ははは、確かに。この恐竜の鳴き声とかも変で可笑しいな」
「ふふーん、でしょ? ヨミ君がインスタやらへんのホンマ変やと思うんだけど」
またそれか。
「まあね。ずっと見てると時間が足りへんっていうかさ」
「でも今の若者でインスタやってへんって変やと思うけど」
「うーん、そうかな」
「もうええよ。どうせ入れへんねやろ」
「まあ、うーん今のところは、」
この手の会話は三度目くらいだろうか。詠はいつも同じ返答を、何とか言い方を変えながら誤魔化す。それでも咲来が不機嫌になるのは必至だ。
「ふん」
「……どしたん?」
「なんでも」
「そか、」
「……」
正直言っていいか? だるすぎる。そうしてこの場の空気は険悪なものへとすり替わった。咲来は、詠がインスタをやってないことが不服らしい。しかし咲来はその理由を一向に教えてはくれなかった。理由はなんとなく思い当たる。おそらく咲来からしたら、彼氏がインスタをやっていない変人だと思われるのが嫌なのだろう。それか匂わせ投稿ができないからか。
どちらにしても詠にはどうでもいい。しかし詠自身も自分の意志が強いとは、ことさら思っていない。インストールしたくないのは、自分もその沼に延々にハマってしまうことが怖いからだ。
幸いなことにこの手の険悪さはすぐに動画とともにスクロールされて流れていく。手からインスタントドーパミンが出せればなぁ、とつくづく思う。
一日進んで土曜日。目覚めた詠は、枕もとの時計に鋭い視線を飛ばした。午後二時。世間的には遅すぎるが、これが詠の平均的な休日の起床時間だった。その原因は紛れもなく咲来。しかし決して彼女だけが悪いわけではない。詠も断れないのだ。
詠と咲来の日課は深夜までのゲーム。特に彼女の予定がない前日なんて、日が昇るまで付き合わされるのだ。
詠が咲来と出会った時、詠は咲来だった。つまり、延々とスマホ画面に自分の寿命を投げ込んでいた、ということだ。今も状況はさほど変わらない。しかし唯一違うのはそれが能動的か受動的か、と言う点だ。今は後者。自分の時間なんてありゃしない。だから詠はそんな状況の中でも早起きに努めるのだ。彼女が起きて来るまでの間が、詠に与えられた唯一の自由時間。
かといって特にすることはない。いつも通り、結局はブルーライトで網膜を焼くだけ。だが一人でやるゲームは格別に楽しかった。何せ、誰の機嫌を取る必要もないからね。
「昨日言うてたアニメ見よ~」
「あ、そうやな……」
詠が一人時間を楽しめたのも束の間。咲来は起きてきた。彼女が目を覚ます直前に布団を手繰り寄せる音が聞こえる。それが聞こえた時は物音ひとつ立てたくないと思ってしまう。
彼女が身支度を終えると、昨日言っていたアニメを一緒に見始めた。あまり興味はなかったが、二人でゲームするよりは幾分もマシだった。
だが、それもそれで疲れる。中坊のガキの恋愛アニメをひたすらに流し込まれるのだ。興味がなければただの拷問に等しい。全体重を預かる尻が、畳に押し付けられて"苦しい"と叫んでいる。それに加えて、咲来の反応を窺いながら視聴しなければならないのだ。結果どう転んでも、詠の休日は地獄だ。
「ん~ めっちゃキュンキュンした~」
そういう咲来のその表情は可愛い。だから一筋縄に嫌いになることはできない。自分はイケメンでもないし、身長が高いわけでもない。そんな詠には咲来というカワイイ彼女はもったいないぐらいだと常々思う。咲来とのツーショットなら胸を張って友達にも自慢できる。それだから簡単に切り捨てるのも勿体ないように感じる。しかし詠にはそんなことはできなかった。
これまでにも何度か咲来を泣かせてしまったことがある。それは暴力とか暴言のせいではない。彼女の重たい気質故、詠の些細な行動が咲来を傷つけるのだ。そんなときは、申し訳なさが一番に出てしまう。いつもいつも、悲しませてから後悔するのがオチ。でも、だからと言って自分の都合を無視できるかと言われれば、そんな単調なものではない。咲来を大切にしたいと思うほどに、詠は自信を犠牲にしなければならない。板挟みだ。
「ね、もう一本見ようよ~」
「あと一本観るか。そしたら俺夕飯つく――」
『ドンっ!』
「ひゃ!」「うぉ」
突然、階上から大きな音と鈍い振動が響いた。一瞬、地震かと思うほどだった。
「ねぇ……なに今の?」
「いや、わからん。でも大丈夫」
「こわい……」
詠の右腕に必死に抱き着く幼気な彼女。こんな怯える姿を見たら、男なら誰だって守りたくなってしまう。ゆっくり頭を撫でてあげると、詠の腕を絡みついていた掌が解かれた。
「もう大丈夫かな……」
「収まったね。怖かったね」
胸の中で抱いてあげると、シャンプーのいい匂いが鼻に香った。その時目に入ったのは黄色っぽいカス。咲来の頭皮に載るそれを指でつまむと、指の腹はその硬さを訴えた。
「なんか机の上、落ちてるよ」
「お、ほんまや」
咲来が指さす。座卓の上には、先程までは絶対になかった砂粒が散乱していた。
「ほら、」
ほら、俺のせいじゃなかっただろ? なんて言い出すことはできなかった。少し落ち着きを取り戻した咲来を、胸から解放した。途端に柔らかな感触が離れて行ってしまう。
「ほら、掃除機取ってくるから。ちょっと手離すね」
あれから数日。階上からの音はたびたび鳴るようになった。しかしあれだけ怖がっていたはずの咲来も、気が付けばその音を無視するぐらいにはなっていた。
最初の方はその音のストレスの矛先が、詠に向いていた。彼女お得意の八つ当たりだ。だがそれにも飽きたのか、昨日今日はその音に関してはなにも言ってくることはなかった。音の音源に言及しないのは、確実にそれが人のせいであるからだろう。動物や住宅の欠陥だと分かれば、すぐに管理事務所に電話を掛けさせる咲来の姿が浮かぶ。
詠のほうも、新しい職場環境という中で、必死にいろいろなことを吸収し始めていた。楽しいと同じくらいに疲れる日々だ。
だが詠としても咲来が音に無関心になってくれたのは都合がよかった。この音のせいで、疲労困憊な上に彼女の機嫌を逐一気にかけなければいけないからだ。彼女の心が安定し始めたとともに、詠もその音のことは蚊帳の外になっていた。その話を聞くまでは――。
「え、どうしたの?」
午後七時。詠が仕事から帰宅した時、咲来は玄関前で座り込んでいた。その横には中身の入ったエコバッグが置かれていた。
「なんで、連絡したのに……」
「あ、ごめん」
上擦る声で咲来が告げた。詠は逸る気持ちで鞄からスマホを取り出す。ロック画面には複数回の不在着信と、数通のメッセージ。送信時間は今から二時間ほど前だ。
「仕事終わったの連絡もなかった」
「ごめん、バスの中で寝てしまってた」
「もういつものことやし慣れた……」
「ごめん……」
詠はバレないように、吐息に溜息を混ぜた。しかし咲来が玄関前の廊下に座っている理由がつかめなかった。詠は思い切って聞いてみた。すこし心配するように聞けば、彼女の機嫌も多少はマシになってくれるかもしれないという希望的観測の下に。
「でも大丈夫? なんかあったんか家の中で? ゴキブリとかやったら俺が処理したるから……」
「もう全部メッセージで言ってるし」
「あ、はぁ」
さすがに今回の溜息は隠しきれなかった。それは間違いなく、自分への落胆から出たものだったが。そうだろ、なんでメッセージを先に確認しないんだよ。
「あ、そうやな。ごめん」
「ごめんごめんばっかりいいから」
「うん、」
険悪な空気の中、詠はラインを開いた画面に視線を落とした。
『ヨミ君……こわい』
『天井から女の子の泣き声が聞こえる』
女の子。どうでもよかった咲来のメッセージを、なぜかスクショしたい気分に駆られた。少なくとも、これがいい知らせに思えた。
『なんか、男の人が起こってる声も聞こえる』
『不在着信』
『不在着信』
『どうすればいいかわかんない……家出たほうがいいかな』
そこから数分空けて再びメッセージの群れ。
『仕事中にごめんね。もうお家出てスーパー来た』
『家で作りたくないし、お惣菜買うね』
『玄関で待ってる』
『通りかかった人から心配された』
『ヨミ君が何してるか知らんけど、もう仕事終わってるよね』
『不在着信』
後半はどうでもよかった。最後の連絡が午後六時三分。基本詠の仕事には残業がないので、確かにこの時間には仕事は終わっていた。だが、詠は疲労困憊ゆえに『仕事終わったメッセージ』を忘れていた。いつからか自然に始まった日課を忘れた自分が心底腹立たしかった。最後の連絡から四十分以上も待たせていた。
「ほんまに待たせた。家入ろう」
手を差し伸ばすと、彼女は素直にその手を取った。安堵安堵。
家の中の電気は点けっぱなしだった。玄関に入ってもなお、咲来の手は詠の手と繋がっていた。
「ごめん、靴脱ぐし手離していいかな」
「ふん」
すっと手の中から温もりが消え去った。物寂しさを覚えながら、詠はその空いた手で靴を乱雑に脱いだ。咲来が靴を並べてこちらに向き直ったとき、詠はその手を有無を言わさずに再び握った。その瞬間、咲来の表情は少し緩んだように見えた。
「ありがと、」
「ううん。これぐらいしかできへんけど」
二人はそのまま廊下を進んだ。
「泣き声が聞こえたのって、この部屋の上?」
詠がリビングの天井を指さしながら尋ねると、咲来は小さく相槌を落とした。部屋を見回してみると、あの砂が机の上に散らばっていた。
その日の夜、詠は再び険悪の種を蒔いた。
時刻は午前一時。咲来にとっては詠が翌日、仕事であるかどうかは関係なかった。彼女は眠たくなるまでゲームできれば、それだけで満足なのだ。
「GGいぇ~い! ヨミ君次はなにしたい? CTFはハッカー多いし、マーダーとかする?」
「そうやなぁ……でも明日も仕事やし、今日はこれくらいで終わらん?」
そう言ってしまえば、咲来が不機嫌になるのは火を見るよりも明らかだった。だが、ここ最近は詠自身も自分の緩みを感じている。こんなことを言えるほど、俺は咲来のことをどうでもいいと思っているのだろうか。咲来はこうやって俺とゲームしたいと言ってくれているにもかかわらず。
なんにせよこの悪天候は残念ながら明日までも続く。放置しても改善することはない。しかし詠は疲れているうえに、考えたいこともあった。
「はぁ……どうぞ? わたし一人でプレーするし。寝ていいよ」
「ごめんな……次の土曜は仕事ないしその時いっぱい遊ぼ」
「ごめんってなに? 疲れてるんでしょ? 早く寝なよ」
「うん、おやすみ」
「…………」
「わたしがオンラインでほかの男と一緒にゲームしてもなんとも思わないの?」
質問の意図はたいてい文言通りではない。試されているとはわかりつつも、微かな仕返しとしてあえてその意図を無視して答える。
「俺が一緒に遊んであげられなんだし、それは仕方ないと思ってる」
「あっそ……」
一人の彼女を放置する以上に怖いことはない。だが、それ以上に日頃のストレスや疲労が自分をむしばんでいないか、という心配のほうが勝ってしまう。
二段ベッドの上から見下ろす咲来の後ろ姿。わずかに聞こえるゲームの音から、咲来のプレー画面を想像する。とりあえず咲来が理不尽なチーターに巻き込まれて、さらに機嫌を損ねないことを祈った。
それに飽いた詠は、咲来から今日聞いたことに思考を巡らせた。
『女の子の泣き声』
女の子というのだから、おばさんではないだろう。長髪の可憐な十代後半の少女を想像する。ここ最近の振動にも似た衝撃音。それと伴て落ちてくる砂。それから少女の泣き声。
確証なんてちっぽけもないが、男ならこの場では虐げられている少女を助けて、好意を持たれるという妄想をするのが定石だろう。どんなに可愛い彼女を持っていても、慣れてしまえば他の女の子を夢の中に登場させてしまうものだ。薄れゆく意識の中であんなことやこんなことを想像すると、うつ伏せになりたくなった。
付き合わされてやるゲームは、仕事以上の精神労働だ。
そうして約束通り、金曜日の夜は詠と咲来のゲーム時間になった。咲来の機嫌は未だ不安定だ。昨日のことは忘れているはずはないが、とりあえずゲーム中だけはその姿も影を潜めてくれる。だが、こういう時は現実世界で甘やかしても全く効果はない。ゲームの世界で男らしさを見せることで、彼女の気分は途端に晴れるのだが。
「ねぇヨミ君助けに来て! 多分挟まれたかも」
「わかった、場所どこ? 今行くから待って」
「橋のところに今いる。あ、ちょちょやばい、死んじゃうって」
「まじか、もうちょっと頑張って逃げてくれ」
「うわ……死んだ」
ゲームでうまくいかなかったときも、咲来は調子を損ねるのだ。
「がちか……敵さすがに挟み撃ちは卑怯だろ。咲来は下手じゃないからな。大丈夫だぞ」
詠がこう言うのもただのご機嫌取りだ。しかし詠の本音はきれいなほどに真逆。ゲームなんぞどんな手を使ってでも相手を倒すべきだろうがよ。しかしそんなこと言えたもんじゃない。彼女をこうやって庇い励ますことである程度はマシになるからやってるだけ……。しかし、時折怒りの矛先は詠に向くことがある。
「敵もそうやけどさ、ヨミどこにいたの」
「いや俺も一回死んだから、武器庫で装備整えてて」
「わたしと一緒に来てくれれば死んでなかったかもだったのに」
「」
「いつも、敵のせいとか味方のせいにするけど、ちゃんと守てくれればいいのに」
ゲームなんて自由にプレーできるから楽しいの。これだけ拘束されていたら、ほんと一切楽しくない。
「そうだな……」
『パリン』その時、二人の険悪な空気を吹き消すようにガラスの割れた後が部屋に響いた。
「ひゃ……」
多分お皿のような軽い音。それでいて詠の胸はぐっと熱くなる。
「夜になんなん。また上の階?」
「やろう、な。夜に何してんや」
大きな音じゃなかったおかげか、咲来はその音が響いた後も、変わらずスマホに集中していた。
「うっさいよな。俺らのゲーム邪魔すんなって感じ」
「それな。いい加減迷惑なんやけど」
しかし刹那。微かに聞こえたのは女の嗚咽。はっとした詠は思わず視線が天井に固定された。電子音を極力無視した中、聞こえてきたのはやはり女の子のすすり泣く声だった。
「ちょ、ヨミ君復活してるって」
「あ、あうん」
「なぁヨミ、何してんの?」
「いや、なんか女の声が聞こえたと思って」
その瞬間、咲来の目が数瞬の間に忙しなく瞬かれた。
「うそ。今も聞こえる?」
咲来が音量を消して、詠にすり寄りながらも耳を澄ませ始めた。その静寂に混じってちゃんと女の子の泣き声が聞こえた。
「あ! この声! ヨミ君もやっぱり聞こえるよね」
「うん、聞こえる聞こえる」
なぜだか詠はガッツポーズを作りたくなった。
「ま、いいんじゃない? ほら、ゲームしよ」
もっとその泣き声を聞いていたかった。しかし咲来を前にそんなことは口が裂けても言えなかった。放り出された詠の携帯を拾い上げ、手渡してくれた咲来。その顔には恐怖の色なんて一切滲んでいなかった。




