6.山脈越え
朝日が昇る前に、俺たちはオルドの家を出発した。
薄闇の中、魔狼の遠吠えが一度だけ聞こえた。
夜露に濡れた草を踏みしめて進むと、しだいに水音が聞こえるようになった。谷底には雪解け水が透明に澄んで岩の上を流れていた。谷沿いの細い道は、川のせせらぎとともにゆるやかに高度を上げていく。
「ここから先は、少し険しくなるぞ」
ラヴァンが振り返り言った。
道は急に傾斜を増し、手を使いながら岩をよじ登る場所も増えてきた。息が白くなり背中に汗が滲む。ひとつ目の峠を過ぎた頃には、空の端が紫色に染まり始めていた。風は冷たく、火照った体から熱を奪っていく。
「今日はここまでだ。大丈夫か?」
「はぁ、ひぃ、・・・」
俺がようやく息を整えた頃には、ラヴァンはすでに風を避けられそうな窪地を見つけ、手際よく荷物を下ろしていた。遅れまいと俺も荷物を下ろし、指先がかじかむ前に、焚き火の準備に取りかかる。
火のはぜる音が、静まり返った峠に響いた。
ラヴァンが荷物から携帯食料の包みを取り出していていると、ケトが口を開いた。
「昨日のオルドのシチュー、めっちゃ美味かったな」
「そうだなぁ。悪いが、今日はこれで我慢してもらうしかないな」
俺は干し肉と乾燥豆を鍋に放り込んだ。
ふと思い出して、俺はケトに尋ねた。
「そういえば、ケト、母さんのことを命の恩人って言ってたよな。それって、何があったんだ?」
ケトは鍋から立ち昇る湯気をぼんやり眺めながら答えた。
「ワイが腹壊して、ほんまに死にかけとった時や。ハンナはんが助けてくれたんや」
「ケト……お前、また拾い食いしたのか?」
ラヴァンが呆れたように笑う。
「うるさいわ、ボケ」
軽口を叩き合う二人を横目に、俺はさらに聞いた。
「それだけで母さんの従魔になったのか? 腹を下してただけだろ?」
「それだけちゃうわ! それだけちゃうけど……」
ケトは急に口ごもり、視線を落とした。
「……ハンナはんが病気になったん、ワイのせいかもしれへんねん」
「どういうことだ?」
俺が問うと、ケトは苦し気に耳を伏せた。
「魔力のない人間に、従魔契約なんて、負担が大きかったんかもしれん」
「いや、それは違うな」
話を聞いていたラヴァンが、きっぱりと言った。
「魔力のない人間とは、そもそも従魔契約はできないぞ。理屈の上でも不可能だ」
「・・・は? どういうこっちゃ?」
ケトが目を丸くする。
「つまり、お前が契約したつもりになっていただけだろうな」
「話についていかれへんねんけど」
「つまりだ・・・」
ラヴァンの話はこうだった。
魔物は、従魔契約が成立した瞬間から主人と魔力を共有し、わずかにずれた異界に存在できるようになるらしい。だから、犬や猫などの仮の姿で物理世界に留まっていても、異界を通じていつでも主人と話せて、呼ばれればすぐに駆け付けられるのだそうだ。
「お前は今、ハンナさんと繋がれるのか?」
ケトは固まったままなので、俺が代わりに答えた。
「いや、全然。母さんはいつも、姿の見えないケトを探し回ってた」
「まあケトは昔から、おっちょこちょいだったからな」
ラヴァンが笑った。
鍋の中からふわりと美味しそうな匂いが立ちのぼった。
「できたみたいだ」
俺はスープを取り分けて二人に渡す。
「うまそうだ」
ラヴァンは薄焼きのレンバスをスープに浸し、さっそく食べ始めた。
ケトはやっぱり、口を開けたまま動かなかった。
夜が深まると雲が切れ、頭上に満天の星が広がった。
俺は空を見上げる。
ケトも隣に座り、同じ星の海を眺めた。
「そないやったんか。ワイ、会話ができたらいける、思てたんやけど・・・」
ケトがぼそりと呟いた。
母さんの病気が自分のせいではないと知って、ケトはどこかほっとしたようだった。
見上げる星空は、俺がケトと旅に出る決意をしたあの夜と同じだった。
けれど、静かな夜はそこまでだった。
「交代の時間に起こしてくれ」
ラヴァンがそう言って外套を体に巻き、横になろうとしたその時だった。
どこか遠くで、低く長い声が響いた。
獣の声だ。
ラヴァンは上体を起こし、俺と目を合わせた。
暗闇の奥で、何かが動いた気配がする。
「魔狼か?」
暗闇の中に、小さな光がいくつも浮かび上った。
ラヴァンは焚火から松明になりそうな木を掴む。
「それにしても、……数が多いな」
光る眼が、距離を測るようにこちらを囲んでいる。
「……十五、いや二十か。月が出ていればよかったな」
ラヴァンが低くつぶやく。
俺は焚火のそばに立ち、火を背にして周囲を見渡した。
狼たちは、まだ飛びかかる気配を見せない。
その横で、ケトは人間の背丈の半分ほどに大きくなり、二本足で立っていた。
「お前、ケト……ケット・シーって、それが本当の姿なのか?」
「男前やろ?」
ケトが二本足でポーズを決めた。
子供ほどの背丈の猫。その金色の目が、闇の中で怪しく光っていた。
「……って言っとる場合ちゃうぞ。あそこになんかおんで」
俺はケトが指さす方へ目を向けた。
「……光る狼?」
暗闇の向こうに、青白い光をまとった獣が立っていた。
「あれは・・・フェンリルだ」
ラヴァンの声が低く響く。
丘の上に、巨大な狼が立っていた。それは狼という言葉では到底表せない程の、圧倒的な存在感を放っていた。青白い光がその輪郭を縁取り、まるで月そのものが獣の姿を借りて降り立ったかのようだった。
俺は周囲の狼たちを警戒することすら忘れ、ただ丘の上に立つフェンリルに目を奪われていた。
「あれが・・・フェンリル・・・」
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