表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/12

6.山脈越え

朝日が昇る前に、俺たちはオルドの家を出発した。


薄闇の中、魔狼の遠吠えが一度だけ聞こえた。

夜露に濡れた草を踏みしめて進むと、しだいに水音が聞こえるようになった。谷底には雪解け水が透明に澄んで岩の上を流れていた。谷沿いの細い道は、川のせせらぎとともにゆるやかに高度を上げていく。


「ここから先は、少し険しくなるぞ」

ラヴァンが振り返り言った。


道は急に傾斜を増し、手を使いながら岩をよじ登る場所も増えてきた。息が白くなり背中に汗が滲む。ひとつ目の峠を過ぎた頃には、空の端が紫色に染まり始めていた。風は冷たく、火照った体から熱を奪っていく。


「今日はここまでだ。大丈夫か?」

「はぁ、ひぃ、・・・」

俺がようやく息を整えた頃には、ラヴァンはすでに風を避けられそうな窪地を見つけ、手際よく荷物を下ろしていた。遅れまいと俺も荷物を下ろし、指先がかじかむ前に、焚き火の準備に取りかかる。


火のはぜる音が、静まり返った峠に響いた。

ラヴァンが荷物から携帯食料の包みを取り出していていると、ケトが口を開いた。

「昨日のオルドのシチュー、めっちゃ美味かったな」

「そうだなぁ。悪いが、今日はこれで我慢してもらうしかないな」

俺は干し肉と乾燥豆を鍋に放り込んだ。


ふと思い出して、俺はケトに尋ねた。

「そういえば、ケト、母さんのことを命の恩人って言ってたよな。それって、何があったんだ?」

ケトは鍋から立ち昇る湯気をぼんやり眺めながら答えた。

「ワイが腹壊して、ほんまに死にかけとった時や。ハンナはんが助けてくれたんや」

「ケト……お前、また拾い食いしたのか?」

ラヴァンが呆れたように笑う。

「うるさいわ、ボケ」

軽口を叩き合う二人を横目に、俺はさらに聞いた。

「それだけで母さんの従魔になったのか? 腹を下してただけだろ?」

「それだけちゃうわ! それだけちゃうけど……」

ケトは急に口ごもり、視線を落とした。

「……ハンナはんが病気になったん、ワイのせいかもしれへんねん」

「どういうことだ?」

俺が問うと、ケトは苦し気に耳を伏せた。

「魔力のない人間に、従魔契約なんて、負担が大きかったんかもしれん」


「いや、それは違うな」

話を聞いていたラヴァンが、きっぱりと言った。

「魔力のない人間とは、そもそも従魔契約はできないぞ。理屈の上でも不可能だ」

「・・・は? どういうこっちゃ?」

ケトが目を丸くする。

「つまり、お前が契約したつもりになっていただけだろうな」

「話についていかれへんねんけど」

「つまりだ・・・」


ラヴァンの話はこうだった。

魔物は、従魔契約が成立した瞬間から主人と魔力を共有し、わずかにずれた異界に存在できるようになるらしい。だから、犬や猫などの仮の姿で物理世界に留まっていても、異界を通じていつでも主人と話せて、呼ばれればすぐに駆け付けられるのだそうだ。


「お前は今、ハンナさんと繋がれるのか?」

ケトは固まったままなので、俺が代わりに答えた。

「いや、全然。母さんはいつも、姿の見えないケトを探し回ってた」

「まあケトは昔から、おっちょこちょいだったからな」

ラヴァンが笑った。

鍋の中からふわりと美味しそうな匂いが立ちのぼった。

「できたみたいだ」

俺はスープを取り分けて二人に渡す。

「うまそうだ」

ラヴァンは薄焼きのレンバスをスープに浸し、さっそく食べ始めた。

ケトはやっぱり、口を開けたまま動かなかった。



夜が深まると雲が切れ、頭上に満天の星が広がった。

俺は空を見上げる。

ケトも隣に座り、同じ星の海を眺めた。


「そないやったんか。ワイ、会話ができたらいける、思てたんやけど・・・」

ケトがぼそりと呟いた。


母さんの病気が自分のせいではないと知って、ケトはどこかほっとしたようだった。

見上げる星空は、俺がケトと旅に出る決意をしたあの夜と同じだった。

けれど、静かな夜はそこまでだった。


「交代の時間に起こしてくれ」

ラヴァンがそう言って外套を体に巻き、横になろうとしたその時だった。

どこか遠くで、低く長い声が響いた。

獣の声だ。

ラヴァンは上体を起こし、俺と目を合わせた。

暗闇の奥で、何かが動いた気配がする。

「魔狼か?」

暗闇の中に、小さな光がいくつも浮かび上った。

ラヴァンは焚火から松明になりそうな木を掴む。

「それにしても、……数が多いな」

光る眼が、距離を測るようにこちらを囲んでいる。

「……十五、いや二十か。月が出ていればよかったな」

ラヴァンが低くつぶやく。


俺は焚火のそばに立ち、火を背にして周囲を見渡した。

狼たちは、まだ飛びかかる気配を見せない。


その横で、ケトは人間の背丈の半分ほどに大きくなり、二本足で立っていた。

「お前、ケト……ケット・シーって、それが本当の姿なのか?」

「男前やろ?」

ケトが二本足でポーズを決めた。

子供ほどの背丈の猫。その金色の目が、闇の中で怪しく光っていた。


「……って言っとる場合ちゃうぞ。あそこになんかおんで」

俺はケトが指さす方へ目を向けた。

「……光る狼?」

暗闇の向こうに、青白い光をまとった獣が立っていた。

「あれは・・・フェンリルだ」

ラヴァンの声が低く響く。


丘の上に、巨大な狼が立っていた。それは狼という言葉では到底表せない程の、圧倒的な存在感を放っていた。青白い光がその輪郭を縁取り、まるで月そのものが獣の姿を借りて降り立ったかのようだった。


俺は周囲の狼たちを警戒することすら忘れ、ただ丘の上に立つフェンリルに目を奪われていた。

「あれが・・・フェンリル・・・」


ここまでお付き合いありがとうございました。

このお話が「面白い」「続きが読みたい」と思ってくださいましたら、ブックマーク登録、★★★★★評価いただけると嬉しいです。励みになりますので、よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ