奈緒 17
舞台に立って観客に事情を説明すると、会場は一時騒然となった。
しかし、私がただ謝ること以外どうすることもできずに茫然としていると、来生さんが突然ステージに上がり、観客をなだめにかかった。
そして、彼が、自分をピアニストの来生晃だと言うと、観客たちの中には違う種類のどよめきが起こった。
私には聞き覚えのない名前でも、彼らにとっては、それほどの価値を持った名前だったのだろう。
その後、彼は、結城さんが弾くはずだったベートーベンの「テンペスト」を弾くと言い、観客はそれを受け入れた。
彼はピアノへ向かって歩いた。
そして椅子に座った。
あまりの静寂さに、私は、自分の耳が聞こえなくなってしまったのではないかと思った。
彼は自分の手をじっと見たあと、神に祈るように目をつぶって天を仰ぎ、鍵盤に指を乗せた。
音はピアノから出ているのに、私には彼の身体から出ているようにしか思えなかった。
そして、そこからほとばしるメロディーは、最初は優しく、そしてだんだんと大きなうねりとなって私の心をゆさぶり、私は、抑えようとしても抑えきれない、全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
そして、演奏が終わった時、再び静寂が訪れた。
彼の演奏は魂そのものだった。
自分の生き方は神に許されるのか。
自分の魂はこの世に存在すべきものなのか。
私はその数分の間に二十五年を生きた気がした。
彼の演奏に、観客たちも、意識をどこかへ見失ってしまったように見えた。
しかし、彼が静かに観客に頭を下げると、会場は拍手と喝采の渦に飲み込まれた。
彼は、咲ちゃんと、涙でボロボロの私を見てにこっと微笑んだ。
そして、聞こえなかったけれど、「ありがとう」とひとこと言うと、少しふらふらした足取りで舞台の袖に消えた。
私はすぐに彼を探した。
彼に対する感謝と感動を少しでも早く伝えたかった。
しかし、ロビーにいたのは咲ちゃんだけだった。
彼女も彼を探していた。
彼女は私に一通の手紙を手渡した。




