奈緒 16
クリスマスイブの当日、私は発表会の準備に追われていた。
咲ちゃんも見事にオーディションを通過し、あとは今日の本番を待つだけだった。
彼に心を打ち明けた翌日、私は結城さんに別れを告げた。
彼への愛に気づいた私は、一刻も早く古い世界から抜け出したくなった。
結局それまでの自分は、子どもの頃のトラウマを引きずりながら生きてきたに過ぎなかった。
彼がそばにいれば、そういう自分を捨て去り、新しい人生を歩み出すことができるかもしれない。
私はそう思った。
別れの理由を聞く結城さんに、私は、「他に好きな人ができた」とだけ答えた。
結城さんは、それがどんな男なのかを知りたいと言ったが、私にはうまく説明できなかった。
結城さんは、「自分よりも何が勝っている男なのか」を知りたいのだ。
来生さんには定職があったわけでもないし、育ちも経歴もよく分からない。
そんな人をどう説明しろというのだろう。
結局、私には、「私にもよく分からないような人」としか答えられなかった。
結城さんは納得できない様子だったが、プライドもあったのだろう。
それ以上は追及しなかった。
発表会の演奏は予定通りお願いしたいと頼むと、拍子抜けするくらい、彼は、あっさりとそれを引き受けてくれた。
午後二時開演予定だというのに、一時半には千四百席ある市民ホールはほぼ満席になり、プログラムは順調に進んでいった。
特に咲ちゃんのケ・セラ・セラは素晴らしかった。
演奏が終わって、咲ちゃんが彼のもとへ走っていって抱きついた時、私は思わず涙ぐんでしまった。
私は、結城さんの到着をロビーで待っていた。
予定ではもうとっくに来ていなければいけないはずの彼が、まだ姿を現していなかったのだ。
私は、彼の携帯に何度も電話したが、誰も出なかった。
前半最後の子どもの演奏が終われば、わずかな休憩の後、彼の演奏を始めなければならない。
その日の観客のほとんどは、彼の演奏を目当てにチケットを買ってやってきていたのだ。
そんな時、メールが来た。
「誠に申し訳ありませんが体調不良のため、そちらには行けません」
私は目の前が真っ暗になった気がした。
すぐに返信をしたが、返事はない。
どうすればいいのか。
後になって考えてみれば、あの時、彼があれほどあっさりと演奏を快諾したこと自体、不自然だったのかもしれない。
なぜ別れた男を頼るようなことをしてしまったのだろう。
自分の甘さが情けなかった。
しかし、何を言っても手遅れだった。
もうその時は目前に迫っていたのだ。
観客に全てを打ち明けるのなら休憩の前がいい。
私は決心した。




