明日もし死ぬとしたら
予め分かっていたことならどうにかして避けようとする。
迫りくる死という恐怖は私には分からない。
死を受け入れる覚悟はその時、その人にしか分からない。
よくテレビ番組で、余命何か月を宣告され何か残そうと一生懸命何かする。
一生懸命にだ。
残された時間が短ければ短いほど詰め込む物事は多くなる。
実際に提出期限間近のレポートはギリギリになるまでそのスペースを埋めることは少ないのではないでしょうか?
大器晩成といいますか、やはり「最期の最後」に近づけばそれだけ詰め込もうとする。
勉強では毎日地道にやった方が身につくと言いますが、テストになれば徹夜で勉強し、テストが終われば触れないなんてよくある話。
結局のところ覚える気が無ければ勉強も無駄だし、私自身も学校で習った勉強は日常使わないし無駄だったと思う。
今こうして文章を書いてる姿は昔の自分では想像もつかないことでした。
それはともかく、死に際に残したモノというのは人々の心に残りやすい。
何故なら生きる為の希望や勇気が詰め込まれているから。
だが、皮肉なものだ、そのモノを発した人はもうこの世からいないのだから。
生きたい希望は死の現実には勝てなかったのだ。
これを恐怖と言わずなんという?
健常に生きている人がどんなに愛や希望な言葉を口にしても、心に響かないのは私の心が腐っているわけではなく、
周囲に当たり前にある「生」があるせいで「死」が霞んで見えるからだろう。
銃弾を受けた兵士の最期の言葉はどうして感動するのだろうか、言葉が死を纏うことで鮮やかな彩りを与えてくれるから。
死は突然訪れる。
昨日までは元気に過ごしていたが、急に死ぬ、誰にも分からない死刑だ。
病気などで予め知らされていない死は悲しみよりも驚きの方が大きい。
私の爺さんがその例で、元気そのもので介護なんてものとは無縁だった。
それが急に逝ってしまったのだ。
後で聞いた話では数週間前に自らの写真の整理などをしていたらしい。
死期を悟っていたのだろうか、不思議なものだ。
爺さんはその時恐怖を感じていたのだろうか。
年老いていたが、まさか死ぬなんて思っていなかっただろう。
余命が少ないことに怯えている老人はいるかもしれないが、それを悲観している人は見たことがない。
若い時と違って考え方が違っているのかもしれない。
それに周りでは長くて短い人生の中で親が、友人が隣近所が死にいき、死は身近な存在になっているはずだ。
今更自らの死は不自然ではないだろう。
怯えながら生きてはいない、そう思う。
死は近くに多く存在する。
床を這う虫は先ほど潰してしまった。
私が明日死ぬかもしれないだろう、だけども恐怖は無い、私は宣告を受けていないし健康なもので。
そして、誰の心にも響かない文章を書き綴っている。
私が死んだ暁にはこれらが誰かの心に残るかもしれない。




