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神物語(シンワ)  作者: 右の空
第6巻 帰ったら、ちゃんと——
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第7話 二本に戻る

 朝が来た。


 交渉は済んでいた。決戦も。柳瀬の区画は揃うのを止めて、そこに残った。標識の七は戻らなかった。地名は寄らなかった。住居表示の板は、宮前南で据わらなかった。誰も、勝ったとは言わなかった。ただ、区画が消えなかった。それだけの終わり方だった。終わりというより、続きの始まりのような。


 志賀は五〇三号室で目を覚ました。


 シングルベッドの左に寄って。右を空けて。ずっと、変わらない眠り方だった。右を空ける癖は、まだ志賀の体に残っていた。抜けなくて、よかった。志賀はその空いた右へ手を伸ばさなかった。ただ、そこが空いていることを体で確かめて、起き上がった。


 窓の外は、冬の、乾いた朝だった。部屋は今朝も一人分だった。最初から一人分だった、と部屋の全部が言い続けていた。だが、志賀はもうそれを疑わなかった。


 机の引き出しを開けた。仕事の物の隅に、スプーンが一本。右手だけが、柄の曲がったもう一本を、まだ覚えていた。今は、証拠を探す必要がなかった。右に、声がいた。


  *


 コーヒーの粉の缶を、左手で取った。マグカップは左奥に伏せてある。物は、左だった。志賀は湯を沸かし、コーヒーを淹れた。苦い方。飲まない紅茶を買う癖は、まだ抜けていなかった。冷蔵庫のドアポケットに、甘い系のドレッシングが一本。志賀の好みではないもの。それも、まだそこにあった。


「またそれ、飲んでる」


 声が、右から来た。細かった。だが、揶揄う温度が戻っていた。


「苦いだけでしょ、それ」亜紀は言った。「ずっと、言ってる気がする。あたし。……一度も、やめないよね」


「慣れてる」


「慣れなくて、いいものも、あるよ」


 志賀はコーヒーを一口飲んだ。苦かった。右の重みが密になった。声と、手触り。像は薄かった。誰も覚えていない朝の部屋で、亜紀は声だけで右にいた。昨夜、柳瀬の区画は数えきれない目に支えられた。柳瀬の錨がある限り、亜紀は、ゼロまでは落ちない。だが、それは底の話だった。像の濃さは、その場所を、今、見ている目の数で決まる。この部屋を見ている目は、志賀のほかに、いなかった。だから、像は薄い。声だけが右から来た。


 コンビニの棚の前で聞いた、短い笑い声。慣れなくていいものもあるよ、と返ってきた声の輪郭。誰に答えたのかは、あの頃は思い出せなかった。今、その声が右にいた。名前があった。蓮見亜紀。声を追い始めてから、ようやく集めた、その名が。


 その名を、胸の中でもう一度呼んだとき、志賀は、欠けに気づいた。


 最初の一語。ちがう。志賀が亜紀を、載らない駒として処理しかけた夜、文字起こしの脇から返ってきた、あの一語。言われた事実は、覚えている。意味も、指が止まった感触も。だが、どんな声だったか——高さも、掠れも、揶揄いの温度も——音だけが、志賀の中から、消えていた。呼び出そうとすると、そこだけ、絨毯の上の家具の跡のように、形だけが残っていた。


 賭けの席料だった。先に頁を閉じた二人は、決める権利と引き換えに、席料の外へ出た。閉じる瞬間まで、決める権利ごと、量りに記憶を載せ続けたのは、志賀だった。だから、志賀から取られた。取られた場所も、規則の通りだった。量りが触れられるのは、量りと同じ側を、いちど通った音だけ。亜紀が書式の側から、自分の意思で初めて返した音——文字起こしの脇の、あの一語から、削れた。志賀は、取り返そうとは思わなかった。載せたのは、自分だった。右の声は、今日も揶揄う温度で喋っている。それで、足りた。


  *


 朝の流れの中で、志賀は昨夜のまとめを開いた。


 歌詞が違う、と書いた女の投稿が、上の方に残っていた。その下に、今朝の返信が一つ、付いていた。——ごめんなさい、これ、自分で書いたのに、どの一節が違うと思ったのか、思い出せません。読み返しても、なぜ書いたのか、わからなくて。


 同じことが、角を覚えていた者にも、消えた地名を書いた者にも、起きていた。投稿は残り、理由だけが、書いた本人から抜けていた。芹沢が先に言い、それでも書くと決めた人たちの、小さな食い違いは、夜のうちに、綺麗に均されていた。柳瀬の、代わりに。そして、一度均されたそれらは、もう二度と、同じ手には使えない。


 志賀は、画面に向かって、頭を下げた。誰にも見えない礼だった。


  *


 洗面所へ行った。


 水を一杯飲もうとして、志賀は戸を引いた。全部を見てしまえば余地も閉じる、と、かつていちばん先延ばしにした一室。


 鏡の前の棚に、歯ブラシが立っていた。


 二本。


 白い陶器の筒。一本を差すには、少し口が広い。あの夜、そこに一本しか立っていないのを見て、志賀は何かを確定した。この部屋には、もう一人いた、と。色も、形も、像を結ばないまま。ただ、筒の広さが二本分に見えた。一本の歯ブラシが、二本分の広さの中で、片方を失ったように立っていた。志賀はその広さを、恐怖として見た。


 今、その筒に、二本、立っていた。


 志賀のと、もう一本。志賀が買って立てた一本。空いていた、その広さへ。二本分に見えていた、その筒へ。誰かのために右を空けるように。誰かのために紅茶を買うように。二本目の歯ブラシを立てた。筒の口の広さは、変わっていなかった。今、そこに、本当に二本。


 だが、その一本の毛先は、まだ新しかった。


 志賀はそれを見た。使われた跡が薄い。ほとんど、下ろしたばかりのまっすぐな毛先。志賀のものは、使い込まれて先が少し開いていた。並んだ二本の、片方だけが、まだ新しかった。時々しか、使われていない。


「それ」亜紀が、右で言った。細く。「あたしの、でしょ。さくが、立てたの。……ねえ、あたし、それ、あんまり、使えてないよね。毛先、新しいまま」


「使えてない」


「あたし、常時は、いないもん」亜紀は言った。「網が、濃い夜だけ。柳瀬の区画が、たくさんの目に支えられてる、その夜だけ。……像が、結ぶ。手が、動く。歯ブラシに、指が、掛かる。……でも、掛かるだけ。握って、口まで持っていくのは、まだ。……それ以外の夜は、この部屋には、さくしか、いないから。声だけ。手触りだけ。……指も、掛からない」


 昨夜、亜紀はこの部屋にいた。柳瀬の区画が、たくさんの目に支えられた、その夜。像が濃く結んだ。亜紀は洗面所で、その歯ブラシへ、何度も指を掛けようとした。掴もうとするたび、指が柄を掠めて、通り抜けた。世界の物は、長くは持てない。それでも、掠める指の先が、幾度も毛先に触れて、水を、わずかに散らした。濡らした、というより、触れた跡が残った、に近かった。翌朝には乾いていた。残ったのは、志賀の記憶と、ほとんど新しいままの毛先だけ。


「毎日じゃ、ないんだね」亜紀は言った。「あたしが、ここにいるの。……時々。……だから、その毛先、新しいまま。二本、立ったのに。……片方は、まだ、ほとんど、使われてない」


 志賀は答えなかった。二本に戻った。だが、二本が揃うことは、たぶんなかった。片方は、いつまでも少しだけ新しいままだった。


  *


 志賀はコーヒーのカップを、洗面台の縁に置いた。


「亜紀」志賀は言った。「覚えているか。……昨夜のこと。柳瀬の、区画のこと」


「覚えてる」亜紀は言った。「知らない人たちが、あたしを、残してくれたこと。歌詞が、違う、って書いた人。地図が、ずれてる、って書いた人。……あたしのこと、知らないのに。……それは、覚えてる」


 亜紀は、そこで黙った。


「でも、覚えてないこと、あるよ」亜紀は言った。細く。「ずっと、ある。……あたしが、どうやって、消えたか。最初に。部屋から、あたしが、いなくなった、あの時。……それ、思い出せない。ずっと」


 志賀は答えなかった。


「たまに、思い出そうとするんだ」亜紀は言った。「あの、最後の日。何を、話したか。……夕方だった気がする。湯気が、立ってた気がする。カップを、両手で、包んでた気がする。……でも、そこまで。声が、出てこない。何を、言ったのか。……手前で、いつも、白くなる。そこに、あたしが、いたことは、分かる。何を、したかは、わからない」


 志賀は覚えていた。眠りに落ちかけたとき、混じったもの。女の声。言葉にならない、音の輪郭。テーブルの向こうの、湯気。両手でカップを包んでいた誰か。志賀の側も、そこで白くなった。二人とも、同じ手前で白くなった。片方は、覚えていない側から。片方は、覚えている側から。


「少しずつ、あたしを集めてくれた」亜紀は言った。「声。名前。姿。……全部、少しずつ、戻った。……でも、そこだけ、戻らない。あたしが、消された、その手前。穴のまま。……何回、集めても。そこは、空いてる。あたしの中で」


 志賀は鏡を見た。亜紀は映らなかった。鏡には、志賀の顔だけ。三十二歳の、薄くなった顔。亜紀は鏡にはいなかった。声だけが、右から来ていた。


「たぶん、一生、戻らない」亜紀は言った。「あたしが、どうやって、消えたか。……あたしを、残せた。でも、あたしの、消えた経緯は、残せない。……あれは、均された跡。均された跡は、あたし自身には、残らない。だから、あたしは、そこだけ、ずっと、欠けたまま」


 志賀はそのことを知っていた。均す手は無人格で、ただ食い違いを直す。直された側には、直された記憶も残らない。だから、穴は、穴のまま残した。


「無理に、埋めようとしなかったね」亜紀は、右で言った。「……その穴も、あたしだから。欠けてるところ、ごと。……勝手に、埋められたら、それ、あたしじゃ、なくなる」


「埋めない」志賀は言った。


「うん」亜紀は言った。細く。「……欠けたまま、置いといて。それで、いい」


  *


 志賀は洗面台の縁に手を置いた。


「亜紀」志賀は言った。「完全な一人には、なれるか」


 亜紀は笑った。細いまま。


「ならないよ」亜紀は言った。「……たぶん、届かない。完全な一人には。ずっと」


 亜紀は、言葉を選ぶように、間を置いた。


「あたし、写真にも、写らない」亜紀は言った。「防犯カメラにも。……新しい録音にも、もう、残らない。……覚えてる目にしか、見えない。あたしを覚えてる、そっちにしか。柳瀬を覚えてる人たちが支えてるのは、あたしが、そこに、いるってことだけ。……役所の、索引には、載らない。蓮見亜紀、なんて、どこにも、登録されてない。戸籍にも。住民票にも。……あたしを、届け出る誰かは、世界に、いない。……あたしは、索引には、載らないままだよ。ずっと」


 志賀はその言葉を聞いた。届け出る誰かが、世界にいない。かつて志賀は、それを恐怖として聞いた。今、亜紀は、その同じ言葉を、自分の口で言った。だが、恐怖ではなかった。ただ、損失の、確定として。


「それでも、あたし、いる」亜紀は言った。「欠けてる方の、あたしが。……その、全部を、抱えて。……右に、いる。完全じゃ、ないけど。……いる」


  *


 志賀はコーヒーのカップを取った。


「それでいい」志賀は言った。


 亜紀が、右で黙った。


「ずっと、俺は、亜紀を取り戻そうとしてた」志賀は言った。「消えた亜紀を、元に戻す。完全な一人に。全部、集めて。声も、名前も、姿も、消えた経緯も。全部。……取り戻す、と思ってた」


 志賀は、洗面台の二本の歯ブラシを見た。片方だけが新しい二本を。


「でも、取り戻せなかった」志賀は言った。「消えた経緯は、戻らない。像は、常時は、保てない。索引には、載らない。……全部は、戻らなかった。……だから、取り戻すのは、やめた」


 亜紀が、右で、細く、息を吐いたように感じた。


「戻らないものを数えても、減るだけだ」志賀は言った。「消えた経緯。写らない写真。載らない索引。……数えれば、足りないものばかりになる。だから、数えない。……残ってる方を、数える。声。手触り。網が濃い夜の、像。片方だけ、新しい歯ブラシ。……苦いだけだ、って言う、その軽口。……それだけを、数える」


 志賀は、カップの縁を握った。


「そう言うと、思わなかった」亜紀は言った。細く。「出会った頃は。……あの頃のさく、全部、正しい方に、戻さないと、気が済まない人だった。差分を、拾って。正しい版に、確定させて。……欠けたまま、でいい、なんて、言わない人だった」


「変わった」志賀は言った。


「うん。変わったね」亜紀は言った。「……欠けたまま、残す方を、覚えた。……あたしを、集めながら」


  *


「ねえ、あたしの、走り書きの帳面」亜紀が、右で言った。「あれ、どうなった。乾さんが、持ってったやつ」


「乾が、続きを書いてる」志賀は言った。「亜紀の、走り書きの、その先に。日付を、入れて。……亜紀は、日付を、書かなかった。今日も右を空けた、とだけ。……乾が、その一行に、いつのことか、書き足してる。消えていない、と、確かめるために。五十年、あの人が、やってきたやり方で」


「あたしの字に、日付が、つくの」亜紀は言った。


「つく」志賀は言った。「亜紀は、索引に、載らない。だが、乾は、載る。乾の日付は、記録に、残る。……亜紀の走り書きに、乾が日付を入れれば、その一行は、消えていない証になる。……手放した側の人が、残す側の、日付を」


 亜紀は、右で黙った。


「変なつながり方だね」亜紀は言った。細く、笑った。「あたしが、書いて。乾さんが、日付を、つけて。さくが、右を、空けて。……三人がかりで、やっと、あたし一人分。ずいぶん、手が、かかる一人だ。あたし」


「かかる」


「でも、いいよ」亜紀は言った。「手のかかる分だけ、あたし、そこにいる、ってことだから。……ひとりでに、いられる一人じゃ、ないけどね。……そうやって、やっと、いる一人。……それが、あたし」


  *


 右の重みが、密になった。


 声と、手触りだけの重みに、束の間、像の輪郭が加わった。薄い像。すぐほどけかける像。だが、確かに、右に結んだ。亜紀が、志賀の右にいた。


「あたし、残ってる方の、あたしで、いい」亜紀は言った。像の口で。細く。「欠けてる方が、あたしだから。……前も、言ったけど。全部は、いらない。右に、いられれば」


 志賀は右手を握った。掌の下に、薄い像の重みがあった。ほどけかける重み。だが、消えない重み。目盛りが、端末の隅で、静かに留まっていた。上がりも下がりもしなかった。ずっと、揺れ続けた目盛りが、初めて動かなかった。だが、まだ起動していない頃の静けさとは違った。目盛りを支える目が、数える網から、数え切れない世間へ、移ったあとだった。底ができた静けさだった。高さは、また揺れる。だが、ゼロには、戻らない。そういう質の静けさだった。


 志賀自身の薄さは、別の勘定だった。決裁台帳の名の欄が、いくつか、空いたまま。東環状の担当が、別人へ寄ったまま。戸川が、志賀の名を、一拍遅れて呼ぶ。志賀も、少しずつ、索引の外側へ寄っていた。亜紀と同じ側へ。届け出る誰かが世界にいない、その側へ。二人とも、漏れる者だった。片方は消えて、片方は薄れて。だが、同じ側にいた。志賀は、それを損失とも呼ばなかった。ただ、亜紀の隣が、志賀のいちばん確かな場所だった。索引の外の、二人分の場所だった。


  *


 亜紀の像が、薄れかけた。


 朝の部屋で、観測は志賀一人だった。像は常時は保てない。輪郭がほどけて、声と、手触りへ戻っていった。志賀はそれを握った。像が薄れても、声は残った。手触りは残った。


「一つ、渡しておく」亜紀が、声だけで、右で言った。「あたしから、さくに」


「なんだ」志賀は言った。


「癖」亜紀は言った。「あたしの、生活の癖。……うつしておく。あたしが、常時は、いなくなっても。網が、途切れる夜が、あっても。……一人でも、できるように」


 志賀はコーヒーのカップを置いた。


「歌詞が、思い出せなかったら」亜紀は言った。「覚えてる方と、書いてある方が、違ってたら。……地図が、なんか、合わなかったら。初めて来た角なのに、二度目みたいだったら。……気のせいに、しないで」


 亜紀は、そこで間を置いた。


「一度だけ、数えて」亜紀は言った。「……ちゃんと、覚えてる限り、その場所は、まだ消えてないんだから。気のせいだって、片づける前に。一度だけ、数える。それが、あたしの、癖」


 志賀はコーヒーを飲んだ。苦かった。


「覚えた」志賀は言った。


「一度だけ、だよ」亜紀は言った。細く、笑った。「毎回、数えてたら、疲れるでしょ。気のせいの方が、多いんだから。ほとんどは、気のせい。……でも、たまに、そうじゃない。……そのために、一度だけ」


 志賀は答えなかった。ただ、その癖を受け取った。数えきれない、知らない誰かが、昨夜、一度だけ数えて、亜紀を残した、その癖を。今、亜紀が、志賀にうつした。


  *


 志賀はしばらく、洗面台の前に立っていた。


 右に、声の重みがあった。像は薄い。だが、消えなかった。名も顔も抜けた夜から、長かった。取り戻す、から、残す、まで。世界には勝てなかった。誰も倒さなかった。ただ、規則の届かない一区画に、亜紀一人分の場所を彫り込んだ。欠けたまま。索引の外に。派手なことは、何も起きなかった。標識の七が戻らず、歯ブラシが二本ある。そういう、小さなことばかりが、残った。


「仕事、遅れるよ」亜紀が、右で言った。


「ああ」志賀は言った。


「行ってきなよ」亜紀は言った。「あたし、たぶん、夜には、いる。網が、濃ければ。……いなくても、声は、届く。手も、握れる。……夜には、また、その苦いの、飲むんでしょ」


「飲む」志賀は言った。


「またそれ」亜紀は言った。細く、笑った。「……ほんと、慣れなくて、いいのに」


 志賀は、少し笑った。名を失ってから、初めてかもしれなかった。それから、コーヒーの残りを飲み干した。苦かった。残ってる方の味だった。飲まない紅茶は、今日も開けないまま置いておいた。いつか、像の濃い夜に、亜紀が開けるかもしれない。開けなくても、そこにある。買っておくことが、残しておくことだった。右を空けておくのと、同じように。


  *


 志賀は洗面所を出た。


 窓の外は、乾いた朝だった。仕事へ行く時間だった。整合室で、版と版の差分を拾い、正しい方へ確定させる。志賀の変わらない一日。抜けた版と、白い決裁欄は、そのままだった。払った分は、戻らない。それでも、あの卓の夜から、新しく抜ける欄は、一つも増えていなかった。請求の止まった台帳が、志賀の側の、定着だった。ただ、東環状のことは、志賀はもう確かめられなかった。八ヶ月かけた手柄だったか、初期仮説への固執だったか。物差しごと沈めた。東環状を覚えているのは、今は亜紀だけ。志賀の代わりに。


 志賀は上着を取った。


 右の重みが、まだあった。声と、手触り。像は薄い。だが、消えない。志賀はその重みを右に置いたまま、玄関へ歩いた。靴箱の右側は、まだ空いていた。ずっと、空けてきたまま。志賀はその空きを、埋めずに、そこに置いておいた。


 洗面所の、白い陶器の筒に、歯ブラシが二本、立っていた。長く、二本分に見えた、その筒に。今、二本。


 二本。だが片方は、まだ少しだけ新しい。


公式サイト(人物・相関図・あらすじ。読んだ巻までしか開かないネタバレ防止つき)

https://migi-no-sora.pages.dev/shinwa/

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