第8話 帰ったら、ちゃんと——
夜だった。網の、濃い夜だった。
志賀は仕事を上げて、川沿いへ出た。柳瀬の一区画。欄干の続く道を、街灯が水面へ細く落としていた。標識は五の隣が七のまま。六番は欠番のまま。喫茶店も、クリーニング店も、古アパートの白い外壁も、そこにあった。整えるものが退いて、穴の開いた場所。誰も勝ったとは言わなかった、その一区画に、今夜は数えきれない目が向いていた。
柳瀬を覚える、名も知らない誰かたちが、同じ夜に同じ場所を見ていた。前の夜に散らされた直す手は、まだ世界じゅうの帳尻に取られたままだった。会ったこともない人たちだった。志賀のことも、亜紀のことも、知らない人たちだった。ただ、この一区画が、正しい版へ戻ろうとするのを、同じ夜に、それぞれの手元で、見ていた。それだけで、区画は戻らなかった。だから網が濃かった。だから、像が結べる夜だった。
志賀はスマホを見なかった。数えなくても、右の重みで分かった。今夜は、亜紀が座れる夜だった。歩いてくる間、風が少し出ていた。川の匂いがした。志賀は上着の襟を立てなかった。寒さは、いつものことだった。右を空けて眠る夜と同じ、体に馴染んだ寒さだった。
ベンチはそこにあった。ずっと、志賀が右を空けて座ってきたベンチ。乾が一人で座り、川の向こうを見て、地図帳へ一言を落とした場所でもあった。覚えている限り、その場所はまだ消えていない。返す者のいない独白だった。あのとき、乾の隣は空いていた。
志賀は座った。左に寄って。右を空けて。
いつものように、体が左へ流れた。右半分が空いた。この街に来てから、いや、名を失った夜から、変わらない座り方だった。マグカップを左奥に置き、靴を左に寄せ、ベッドで左に寄って眠り、ベンチで右を空ける。右は空けておく側だった。今夜も、志賀は何も考えずに、そこを空けた。
缶コーヒーを一本、来る途中で買っていた。温かい缶。左手に持って、ベンチの左の縁へ置いた。物は左だった。
右の空気が、密になった。
*
網の目が、志賀の右半分へ集まっていた。声と手触りだけだった重みに、輪郭が加わった。薄い像。夜の空気が透けるほどには薄くなかったが、生身ほど濃くもなかった。だが、確かに結んだ。亜紀が、志賀の右に座っていた。膝を揃えて。川の向こうを見て。
「来たね」亜紀は言った。像の口で。
「来た」
「今日も早いんだ」亜紀は言った。「仕事、ちゃんと行ったんでしょうね」
「行った」志賀は言った。「上げて、来た」
「相変わらず」亜紀は言った。細く、笑った。「日付、版数、差分。……済んだら、川。一日、そればっかり」
志賀は缶を持ち上げて、ひとくち飲んだ。苦かった。
「またそれ持ってきたの」亜紀は言った。「夜のは、特に苦いでしょ、それ」
「慣れてる」
「慣れなくていいのに」亜紀は言った。「会ってから、ずっと言ってる。あたし」
志賀は少し笑った。缶の温もりが左の掌に残っていた。右には、声と、薄い像の重みがあった。二つの温度が、志賀の左右にあった。冷めない方を左に持って、冷めていく方を右に置いている、と志賀は思った。逆かもしれなかった。どちらも、志賀の隣にあった。
「さく」亜紀は言った。「今日、どうだった。仕事」
「変わらない」志賀は言った。「版と版の差分を拾う。矛盾を、正しい方へ確定させる。……いつも通りだ」
「正しい方って」亜紀は言った。「昔と、少し、違うようになったよね」
「そうか」志賀は言った。
「うん」亜紀は言った。「昔は、確定させたら、それで終わり、って顔してた。今は、確定させたあとも、こっち来る。川に。……確定しないものの方に、来るようになった」
志賀は答えなかった。ただ、缶を持ち替えた。右にいる亜紀は、確定しない方だった。写真に写らず、索引に載らず、網が緩めば声だけに戻る方だった。志賀は、その確定しない方の隣に、座っていた。
通りを、仕事帰りらしい男が一人、川を見ながら通り過ぎた。男は志賀を見た。ベンチに一人で座る男を。右半分は、男の目には空いていた。膝を揃えて座る亜紀を、男は通り抜けるように見て、そのまま行った。亜紀を覚えて見ている者だけが、亜紀を見る。覚えていない者には、志賀の右はただの空いたベンチだった。
「見えてないね、あの人」亜紀は言った。「あたし」
「見えてない」志賀は言った。
「いいよ」亜紀は言った。「知らない人には、見えなくて。……あたしのこと、覚えてる人にだけ、見えれば。……そっちと、網の目にだけ。それで、いい」
亜紀はそう言って、また川の向こうを見た。橋本町の灯りが、水の向こうにあった。志賀もその灯りを見た。並んで、同じ方を見た。乾は、この場所を一人で見た。志賀は、二人で見ていた。
*
志賀は缶を左に置いて、上着の内から、スマホを出した。
通話履歴を開いた。登録のない番号。市外局番のついた十桁の番号。発信すれば、現在使われておりません、と返る番号。基盤にも、電話帳にも、割当表にも、どこにもない番号。履歴に残ったのは、一件だけ。あの夜の、四十二分。
志賀は、その一件を、名を失って間もない頃に初めて見た。用件だけの長さではなかった。四十二分。長く繋いで、たいした用もなく、ただ声を聞いていた——そういう長さだった。あの頃、志賀はその一件を、異常として見た。誰と、こんなに長く、何を話したのか。相手は、どこにもいなかった。
志賀は、画面を下へ送った。芹沢。乾。芹沢。整合室。柊。このふた月ほどで積み上がった、新しい名前の列を、一つずつ越えていった。その、ずっと底に、あの一件があった。
文字起こしの欄に、一行だけ残っていた。
帰ったら、ちゃんと——。
その先は、空白だった。途切れた印のダッシュを引いて、あとは何もなかった。
初めから、志賀はそれを再生できなかった。再生を押しても、無音だった。声は鳴らなかった。文字だけが、そこにあった。あの書庫の夜、その一行は毒になった。棚の谷間で、亜紀が言った。あれも、外に出すための合図だったの、と。志賀は答えられなかった。あの声の続きを、志賀は聞いていなかった。誰も聞いていなかった。ちゃんと、の先は、無音だった。本心だったのか、合図だったのか、志賀には確かめる物がなかった。
「それ」亜紀が右で言った。「まだ、消してないんだ」
「消してない」志賀は言った。
「ずっと、消せなかったやつ」亜紀は言った。「あたしの声、なんでしょ。そこにあるの」
「そうだ」志賀は言った。「亜紀の声だ。……鳴ったことは、一度もない」
志賀はスマホを見た。文字起こしの脇に、波形があった。あの書庫の夜、一本の線まで痩せた、あの波形。今夜、その線に、山と谷が戻っていた。声のあった形が、戻っていた。網が濃いからか。亜紀が右にいるからか。あの一行が、もう補正の側の持ち物でなくなったからか。志賀にはわからなかった。
あの通話の波形は、志賀が最初に観測の断片として固定した部分だった。今夜、それが、音へ解けようとしていた。
志賀は、再生を押した。
*
鳴った。
初めてだった。これまで一度も鳴らなかった声が、鳴った。スマホの小さな穴から、声が、出た。
亜紀の声だった。
今の、細い像の声より、少し若かった。生身の重みがあった。消される前の。まだ、世界の表側に、名も、顔も、生活の履歴も持っていた頃の。その声が、言った。
「帰ったら、ちゃんと——」
そこで、切れた。
録音は、そこで終わっていた。ちゃんと、の先へ、声は続かなかった。無音だった。だが、今夜のそれは、これまでの無音とは違った。再生できない無音では、なかった。最後まで鳴って、そして、終わった無音だった。志賀は初めて、その一行を、最後まで、再生した。最後まで再生して、その先に言葉が無いことを、聞いた。
あの、最初の一語の声色は、戻っていなかった。ちがう、と言った、あの音。卓の席料に削られたまま、これからも、戻らない。志賀は、それでいいと思った。いま鳴ったのは、失った音の払い戻しではない。もっと前の、生身の声だ。世界が一度も返したことのなかったものを、初めて、受け取った。それだけだった。
志賀はスマホを、膝の上に置いた。
右の像が、川の向こうを見ていた。志賀は、その横顔を見た。少し薄い、亜紀の横顔。録音の中の若い声と、隣の細い声が、同じ声だった。同じ人の声が、あの夜から今日まで、初めて、志賀の耳へ届いた。ちゃんと、まで。その先は、鳴らないまま。
志賀は、名も、顔も、声も、抜かれた男だった。名を失った夜、体の癖だけが、残っていた。右を空ける癖。飲まない紅茶へ伸びる手。声は、思い出せなかった。それから、志賀は、それを少しずつ集めてきた。名を。姿を。像を。だが、この録音の声だけは、鳴らなかった。集めた声とは、別の声だった。集める前の、生身の、消される前の声。それを、志賀は、今夜、初めて、聞いた。
志賀の顔が、動いた。
ずっと、日付と版数と差分の顔だった。矛盾を見ても、崩落を剥がしても、亜紀が消えても、動かなかった顔。その顔が、今、動いた。口元が、先に負けた。結んでいた線が歪んで、堪えるかたちに折れた。肩が、一度、落ちた。スマホを持つ手が震えて、志賀はもう片方の手で、それを押さえた。声は、出さなかった。だが、気づいたときには、頬が、濡れていた。一筋だけ。拭わなかった。拭えば認めることになる気がして、拭わないまま、認めていた。
亜紀は、それを、右で見ていた。何も、言わなかった。揶揄いも、慰めもしなかった。ただ、志賀の頬のそれが乾くまで、隣にいた。
やがて、顔は戻った。涙は、名を失ってから、一度きりだった。
外から見れば、何も起きていなかった。スマホの小さな穴から声が出て、ちゃんと、まで言って、切れた。それだけの、夜だった。だが、志賀は、その声を、しばらく、耳の奥に置いていた。もう一度、再生しようとは、しなかった。一度で、よかった。
志賀は、口を開きかけた。
その先を、訊こうとした。ちゃんと、の続きを。何を言おうとしたのかを。ずっと、志賀が知らずにきた、その一言を。
亜紀が、志賀を見た。像の目で。川の向こうから、隣の志賀へ。
*
「もう」亜紀は言った。「分かってるでしょ」
志賀は、言葉を止めた。
亜紀は、笑っていた。細いまま。揶揄うでも、慰めるでもなく、ただ、笑っていた。
「あたし」亜紀は言った。「その先、思い出せないよ。何を言おうとしたのか。……あの書庫の夜も、言ったでしょ。あたしが言ったはずなのに、覚えてないって。今も、覚えてない。ちゃんと、の先。……たぶん、一生、思い出せない」
志賀は、川の向こうへ目をやった。
「でも」亜紀は言った。「言わなくても、いいでしょ。その先。……もう、分かってるもん。あたしが、何を言おうとしてたか。……言葉は、忘れた。でも、意味は、忘れてない。二人とも」
志賀は、スマホの文字起こしを見た。帰ったら、ちゃんと——。途切れた一行。志賀は、その空白を、ずっと、恐れてきた。埋まらない一行として。異常の言葉として。あの書庫では、毒として。
だが、今夜、志賀はそれを、初めて、別のものとして聞いた。
世界を変える言葉ではなかった。帰ってから話すはずだった、ただの続きだった。
「そう」志賀は言った。
「うん」亜紀は言った。「そう」
それ以上、二人とも、言わなかった。志賀は、続きを訊かなかった。亜紀も、続きを言わなかった。言葉は、無音の側へ置いたまま。意味だけを、二人で持っていた。
*
「さく」亜紀は言った。「なんか、ほっとした顔してる」
「してない」志賀は言った。
「してるよ」亜紀は言った。「日付、版数、差分、みたいな顔の、下の方が。……ちょっと、ゆるんでる。あたし、隣で見てるんだから」
志賀は缶を取って、ひとくち飲んだ。苦かった。
「ずっと、あの一行を、異常だと思ってた」志賀は言った。「留めておけば、いつか分かる。分かったら、亜紀が、戻る、と。……戻らなかった。続きも。亜紀も、失う前のままの形では。……欠けたまま、隣にいる。それでいい」
亜紀は、川の向こうの灯りを、しばらく見ていた。
「あたし、あの一行、ずっと、気にしてたの」亜紀は言った。「……あの書庫の夜、あれを毒にして、返したでしょ。合図だったの、って。……あのとき、怖かったの。あの一行が、命じられた言葉だったら。外に出すために、言わされた言葉だったら。……そしたら、あの続きを話そうとしたことすら、あたしのものじゃ、なくなる」
「今は」志賀は言った。
「今は、怖くない」亜紀は言った。「……命じられてても、なくても。どっちでもいい。あたしが、帰りを、待ってた。それは、あたしのものだから。……誰かに、置かれた言葉だったとしても。待ってたのは、あたしだったから」
志賀は、それを聞いた。待っていたのは自分だった、というその一つを、亜紀は確かに握っていた。
*
右の重みが、少し、揺れた。
網の目が、緩みかけていた。夜が深まって、見ている者が、一人、また一人と、眠りへ落ちていく。像の輪郭が、わずかにほどけかけた。だが、消えはしなかった。まだ、たくさんの目が、柳瀬を覚えていた。まだ、亜紀は、右にいた。
「あたし、もう少ししたら、薄くなる」亜紀は言った。「網が、ほどけてきたら。……声だけに、戻る。像は、保てない。今夜みたいに結べるのは、網が濃い夜だけ。……あたし、常時は、いないから」
「分かってる」志賀は言った。
志賀は、その言葉を聞いた。恐怖では、なかった。損失の、確定として。
志賀自身も、少しずつ、索引の外側へ寄っていた。今朝も、戸川が、志賀の名を、一拍遅れて呼んだ。亜紀と同じ側へ。
「そっちも」亜紀は言った。「だんだん、こっち側だね。……薄い方の。載らない方の」
「そうかもしれない」
「この前、話してたでしょ。戸川さん」亜紀は言った。「今日も、名前、間に合わなかったんじゃない?」
「一拍、遅れた」志賀は言った。
「揃うね」亜紀は言った。細く、笑った。「あたしと。……消えた方と、薄れた方で。似た者同士、って、前も言ったっけ」
志賀は缶を、飲み干した。苦かった。残ってる方の味だった。空になった缶を、左の縁へ置いた。物は左だった。
*
志賀は、立ち上がった。
膝の上のスマホを、上着の内へ戻した。文字起こしの一行は、そこに残っていた。帰ったら、ちゃんと——。続きは、無音のまま。だが、もう、恐れる一行ではなかった。留めておく火種でも、なかった。ただ、そこに、ある一行だった。
志賀は、川の向こうを、しばらく見ていた。橋本町の灯りが、水の向こうにあった。柳瀬の川向こう。正式地名では橋本町。
乾が、一人で見た灯りだった。同じベンチ。同じ川。同じ向こうの灯り。
それから、志賀は、座り直そうとした。
亜紀が、立ち上がった。像の足で。ゆっくりと。それから、ベンチの左へ、移った。志賀のいた側へ。膝を揃えて、川の向こうを見て、左に座った。
「こっち、座るよ」亜紀は言った。「あたし。……たまには、左も、いいでしょ」
右が、空いた。
志賀の体は、いつものように、左へ流れかけた。
志賀は、止まった。
「さく」亜紀が、左で言った。「そっち、あたしの席だったんだけど」
「知ってる」志賀は言った。
「名前も顔も忘れたまま、ずっと空けてくれた席」亜紀は言った。細く、笑った。「……今さら、座るの?」
「座る」志賀は言った。
亜紀は、それを聞いて、川の向こうを見た。何も、言わなかった。志賀も、訊かなかった。あの一行の、その先を。
——だから志賀は、初めて右に座った。
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