第6話 スマホを持つ全員
柳瀬の、夜だった。
川沿いの一区画。欄干の続く道。街灯が、水面に細く映っていた。標識は、五の隣が七だった。六番は、欠番のまま。喫茶店も、クリーニング店も、コンビニも、古アパートの白い外壁も、そこにあった。志賀が幾度も歩いた、番地のない街。整えるものが退いて、穴の開いた場所。届かない一区画。
志賀はその区画に立っていた。右手に、亜紀の重みがあった。声と、手触りだけの重み。像はなかった。網が集まっていないから。今、亜紀を覚えているのは、志賀一人だった。だから亜紀は、声だけで右にいた。
亜紀が右で言った。細かった。「ここ、あたしの、残る場所なんだよね。穴の、開いた場所。……でも、なんか、揺れてる。ねえ、さっきより、標識、薄くない?」
志賀は標識を見た。
五の隣の、七。その字が、わずかに薄れていた。輪郭が滲んで、数字の角が丸くなりかけている。まるで、別の数字へ戻ろうとするように。志賀はそれを監査官の目で見た。差分を拾い、正しい方へ確定させてきた、その目で。七が、六へ戻ろうとしていた。欠番が、埋まろうとしていた。
「リグ」志賀は端末に打った。「区画が、戻りかけてる」
——夜だからだ。
リグの声は、平らだった。
——昼は、人が見ている。見られている場所は、直しにくい。……夜は、人が寝る。見る目が減る。……見る目が減った隙に、直す手が来る。穴を、塞ぎに。開いた一区画を、元の、揃った版へ。……今、来ている。
志賀は区画を見渡した。標識だけでは、なかった。地図アプリの画面で、柳瀬の文字が、宮前南三丁目へ、じわりと寄っていた。角の住居表示の板が、街灯の届く縁で、また濃く戻りかけていた。夜の街が、少しずつ、正しい版へ綴じ直されようとしていた。誰も見ていない、この時刻に。
喉が乾いた。志賀はこれまで、この揺れを見てきた。だが、今夜のそれは速かった。整えるものが退いた、その穴を、夜が埋めに来ていた。人型も、微笑もなかった。ただ、揃えようとする圧だけが、区画の隅々から、じわりと上がっていた。顔のない、無人格の手。志賀の武器が、いちばん届かない相手だった。
*
「示し返しています」柊が言った。
柊は、区画の入口に立っていた。銀縁の眼鏡。地味な色のコート。消す側を降りて、見張る側に回った者。柊は、標識を見ていた。七が六へ戻ろうとする、その字を。
「ここは規則だ、と」柊は言った。静かな敬語だった。「あの手に、示し続けています。……亜紀さんは偏差じゃない、と。……でも」
柊は、そこで切った。
「私一人では」柊は言った。「足りません。……昔、あれに仕えた私が、いちばん近くで示せる。それは、本当です。……でも、一区画を、丸ごと押さえるには、一人の目では、足りない。……あれは、一人の観測なら、記憶違いとして、押し戻せる。一人が見張っていても、その一人が、間違えているだけだ、と、揃えてしまう。……一人は、押し戻される」
志賀は標識の薄れを見た。柊が示し返しているのに、七は、まだ、薄れていた。留まってはいた。だが、押し返せてはいなかった。柊一人と、志賀一人。二人の目では、区画は、揃うのを、止められなかった。
欄干の向こうから、乾が来た。
濃茶の地図帳と、緑の野帳を、一緒に、小脇に抱えていた。日付のある一冊と、日付のない一冊。二冊を、一つに。乾は、欄干の傍で、足を止めた。それから、野帳を開き、柳瀬の項へ、今夜の日付を、書き入れた。赤黒のインク。走り書きの、途切れた一行の、その先へ。乾が、五十年やってきた手つきで。消えていないと、確かめるために。
「わしが、書いても」乾は言った。低かった。「一つだ。……お前が見ても、一つ。悠が見張っても、一つ。……三つになった。だが、一区画には、三つでも、足りん。……広すぎる。三対の目には、一区画でも、街ひとつ分だ」
志賀は標識を見た。三人の目でも、七は、薄れたまま、留まっていた。乾の日付が、野帳に、一つ、増えた。だが、区画は、まだ、揺れていた。
亜紀が、右で細く言った。「あたし、また薄くなる。声、遠くなってる。……ねえ、区画が戻ったら、あたしも戻るの? 元の、消された方に?」
志賀は掌の下の重みへ、力を込めた。だが、その重みは、細くなる一方だった。誰も覚えていない夜の場所で、像は薄い。声も、遠い。志賀と、柊と、乾。三人の観測でも、この区画は、明日の朝には、宮前南三丁目に戻っている。標識は五、六、七と揃い、住居表示の板は宮前南で濃く据わり、亜紀の残る一区画は、なかったことになる。
志賀は端末を握った。
*
電話が、鳴った。
スマホだった。画面に、芹沢の名。柳瀬へ入るとき、志賀は芹沢へ現在地を送っていた。見張りを頼むための、合図だった。志賀は出た。
「志賀さん、今、柳瀬ですよね」芹沢の声は、早口だった。「位置、届いてます。区画、揺れてるでしょう。地図アプリ、宮前南に寄ってません? こっちのまとめでも、今夜、柳瀬の投稿が消えかけてます。ラベルが勝手に戻る。何人かが、もう、柳瀬って打てなくなってる」
「見えてる」志賀は言った。「標識が、戻りかけてる。三人で押さえてるが、足りない」
「三人じゃ足りないです」芹沢は言った。「一人でも、三人でも、足りない。記憶違いにされて、押し戻される。……でも、数が要るんです。同じ場所を、同じ時に、たくさんの目で見れば、押し戻せない。あたし、それ、ずっと、見てきました。七人。十四人。二十人。……網が増えるたびに、固定が、強くなった。……ただ、数だけじゃ、ないです。同じ二十人でも、その場所を自分の思い出で見てる目と、人の合言葉をなぞってるだけの目は、重さが、ちがいました。数と、あと、本当に覚えてる目。両方です」
芹沢は、そこで、息を継いだ。
「一回、思ったんです」芹沢は言った。声を落として。「見たから、いる。見なかったら、いない。……あたしが、見なきゃ、その人は、消えるのかって。それ、こわかった。……でも、今は、逆に、思ってます。あたしが見れば、消えない。あたし一人が見れば、一人分。……なら、たくさんが見れば、その分、消えない。……見る、って、そういうことだって」
芹沢は、息を、吸った。
「今夜」芹沢は言った。「まとめの、全員に、声をかけます。……今まででいちばん、大きく。柳瀬だけじゃなくて。……消えたものを、覚えてる人、全員に」
「全員」志賀は言った。
「特別な力なんて、要らないんです」芹沢は言った。早口のまま。「あたしのまとめをフォローしてる人、消えた地名を集めてる人、そういうのじゃなくて、もっと、普通の人にも。……歌の歌詞が、記憶と違う人。地図が、なんか一本ずれてる人。初めて来た角なのに、二度目みたいだった人。……そういう違和感、みんな、持ってるんです。気のせいだって、片づけてるだけで。……その、片づけてるのを、今夜だけ、片づけないで、書いて、って。同じ時刻に。……それだけです」
志賀は標識を見た。七が、まだ、薄れていた。
「合言葉が、要ります」芹沢は言った。「みんなが、同じ言葉で、書けるやつ。……志賀さん、乾さんから、聞いてますよね。あの、言葉」
志賀は覚えていた。乾が、五十年、地図帳へ落としてきた言葉。返す者のいない言葉として。初めて乾に会った、あの喫茶店で、志賀が受け取った言葉。
「覚えている限り」志賀は言った。「その場所は、まだ消えていない」
乾が、欄干の傍で、顔を上げた。自分の言葉が、電話の向こうへ、渡っていくのを、聞いていた。
「それです」芹沢は言った。「それを、今夜の、合言葉にします」
*
志賀は区画に立ったまま、スマホの画面を見た。
芹沢のまとめが、更新された。短い文だった。今夜、同じ時刻に、みんなの違和感を、一つ書いてほしい。歌詞でも、地図でも、見覚えのある知らない角でも。気のせいに、しないで、書いて。——ひとつだけ、先に言います。書いた違和感は、明日のあなたから、消えるかもしれません。何が違っていたのか、二度と思い出せなくなるかもしれません。それでも、いいと思った人だけ。覚えている今のうちに、書いてください。覚えている限り、その場所は、まだ消えていない。
——言っておく。リグの文字が、脇に流れた。——宣言された食い違いは、機構の処理の列に載る。朝までに、均される。書いた本人から、理由ごと。そして、一度均された違和感は、二度と、飽和には使えない。……これは、繰り返せる手じゃない。世界に残っている小さな食い違いを、今夜一晩ぶん、燃やす。それだけだ。
志賀は、その文字を、芹沢の呼びかけの隣に置いて読んだ。芹沢は、先に言っていた。消えるかもしれません、と。網の者の違和感が朝には薄れるのを、この半年、何度も見てきたのだろう。差し出すかどうかは、書く者が自分で決める。機構が黙って均すのとは、そこが違った。それだけが、こちら側の、行儀だった。
それが、流れていった。
最初は、静かだった。一つ、二つ。芹沢のまとめを、いつも見ている者たち。柳瀬の標識の写真。宮前南に戻ったラベルの、スクリーンショット。濃く戻りかけた、角の住居表示の板。その合言葉を、短く添えて。志賀はそれを見た。標識の七が、少しだけ、輪郭を取り戻した。薄れが、止まった。だが、まだ、戻ってはいなかった。
「もっと」芹沢の声が、電話の向こうで言った。「まだ、足りない。……柳瀬を知らない人にも、届けます」
まとめが、広がっていった。
柳瀬を知らない者たちが、合言葉だけを、受け取った。その合言葉に、自分の違和感を、乗せていった。柳瀬の話では、なかった。自分の街の、自分の記憶の、小さな食い違い。それを、今夜だけ、気のせいにしないで、書いた。
*
画面が、灯りはじめた。
子どものころ歌った歌の、二番の歌詞。あれは、こうじゃなかった気がする。まがりくねった、だったか、くねりまがった、だったか。教科書には、片方しか、載っていない。でも、自分が覚えているのは、もう片方だ。覚えている限り、まだ消えていない。
実家へ帰る道が、地図アプリで、一本、ずれている。昨日までは、合っていた気がするのに。曲がる角が、一つ、多い。親に訊いたら、昔からこうだ、と言われた。でも、自分の足は、別の道を、覚えている。
初めて降りた駅の、初めて曲がる角。なのに、二度目のように、感じた。この先に、赤い庇の店があるはずだ、と、体が言った。曲がったら、本当に、赤い庇があった。初めてなのに。
一つ、また一つ。知らない誰かの、小さな違和感。歌詞違い。地図のズレ。二度目の初めての角。どれも、派手なものでは、なかった。誰もが、一度は感じて、一度は、気のせいだと片づけたもの。その、片づけていたものを、今夜だけ、片づけずに、書いた。同じ時刻に。同じ合言葉で。
志賀はスマホの画面を、握った。流れが、止まらなかった。数えきれない、灯り。指が、画面を、追いきれなかった。
*
「志賀さん」芹沢の声が、電話の向こうで言った。掠れていた。「……増えてます。まとめの通知が、止まらない。こんなの、初めてです。柳瀬を知らない人が、こんなに。自分の違和感を、書いてる。……ねえ、これ、みんな、ずっと、持ってたんですよ。気のせいだって、しまってただけで。……今夜、いっぺんに、出てきた」
志賀は画面を、繰った。柳瀬の写真は、もう、流れの底に、沈んでいた。かわりに、知らない街の、知らない角の、知らない誰かの、小さな食い違いが、次々と、上がってきた。どれも、柳瀬とは、関係がなかった。ただ、同じ合言葉を、載せていた。覚えている限り、その場所は、まだ消えていない。
これも長くは残らないだろう、と志賀は思った。朝が来れば、投稿は流れの底へ沈み、公式は一時の障害として処理するのかもしれない。世界は、たぶん、騒ぎにならない。
「関係ない街の話ばっかりです」芹沢は言った。「柳瀬なんて、誰も、書いてない。……でも、いいんですよね。志賀さん。みんなが、自分の場所を、数えれば。……あの手は、全部の場所に、行かなきゃいけなくなる。柳瀬に、来られなくなる」
「そうだ」志賀は言った。
志賀は区画を見た。標識の七が、まだ、薄れていた。だが、もう戻ってはいなかった。留まっていた。その一字を直すために、あの手が下りてこようとして、下りてこられずにいた。世界じゅうの、数えきれない食い違いに、袖を引かれて。志賀はずっと、この揺れの一区画だけを、二人で、三人で、守ろうとしてきた。今夜は、違った。一区画のために、世界じゅうの知らない街が、それぞれの違和感を差し出していた。守っている、という自覚すら、なく。
「リグ」志賀は端末に打った。「これで、区画は、固定できるのか」
応答欄が、灯った。長い、沈黙のあと。
——直す手は、一つずつなら、消せる。
文字が、震えるように、明るくなった。
——一つの違和感を、記憶違いだと揃える。二つでも、揃える。だが、これは、一つでも二つでもない。同じ夜に、同じ時刻に、何千も、何万も、同時に来ている。別々の場所の、別々の違和感が、一斉に。……直す手は、一つを揃えれば、隣が食い違う。追いつかない。どれから直せばいいか、決められない。……柳瀬の標識に、手を割けなくなる。世界じゅうの違和感に、手を取られて。
志賀はその一行を、見た。
——柳瀬の一区画は、その隙に、固定される。……直す手が、他へ取られて、ここへ、来られない、その隙に。……あんたの言う、届かない一区画が。あれの手の、届かない場所が。……今夜、閉じないように、押さえられる。……あんた一人でも、柊一人でも、乾一人でも、なく。……柳瀬を直接押さえる網の目と、別々の場所の違和感で直す手を散らした、見知らぬ全員に。
志賀は標識を見た。
五の隣の、七。その字が、輪郭を取り戻していた。滲みが、退いていた。丸くなりかけた角が、まっすぐに戻った。七は、六へ戻らなかった。欠番は、欠番のまま、残った。地図アプリの柳瀬の文字が、宮前南へ寄るのを、やめた。角の住居表示の板が、濃く戻りかけたところで、止まった。区画が、揺れるのを、止めた。
志賀はそれを監査官の目で見た。これまで、志賀は記録を互いに食い違わせて、直す手の基準を奪ってきた。三軒の店を。角の一つを。芹沢の座標を。小さな盤の上で。手元で。今、同じことが街の上で起きていた。数えきれない食い違いが同時に載って、直す手が、どれを正とも決められない。志賀が指先でやってきたことを、今夜は、見知らぬ全員が、それぞれの掌の中でやっていた。誰も、自分が手を打っているとは思わずに。ただ、自分の違和感を、一つ書いただけで。
これも借りになるのか、と志賀は打った。
——ならない。濃くすれば借りだ。だが、これは濃くしていない。もう在る食い違いを、大勢が同時に数えるだけだ。総量は動かない。直す手を散らして、飽和させるだけだ。
*
直す手が、退いていくのを、志賀は感じた。
姿はなかった。前に、一度、微笑む顔で現れた、あの人型はいなかった。今夜のそれは顔を持たなかった。ただ、区画を揃えようとする、夜の圧だった。標識を戻し、地名を寄せ、住居表示の板を濃く据えようとする、無人格の手。その手が、他の何千もの違和感へ取られていった。世界じゅうの、片づけられなかった小さな食い違いへ。柳瀬の一区画から、その圧が抜けた。抜けて、留まった。区画は揃わないまま、そこに残った。
誰も、勝ったとは、言わなかった。
芹沢も、電話の向こうで、何も宣言しなかった。柊も、区画の入口で、静かに標識を見ていた。乾も、欄干の傍で、野帳へもう一つ日付を書いた。志賀も、勝ちという言葉を探さなかった。ただ、標識の七が戻らなかった。地名が寄らなかった。住居表示の板が、宮前南で据わらなかった。それだけの出来事だった。区画が揃うのを止めた。数えきれない、知らない誰かの、小さな違和感が、それを止めた。
*
志賀の右で、重みが、密になった。
声だけだった重みに、手触りが戻り、手触りに、輪郭が加わった。志賀は右を見た。ずっと、空けてきた、その位置を。
亜紀が、そこに、いた。
像として。声と、姿と、匂いが揃って。区画の街灯の下に、亜紀の輪郭が結んでいた。ここまで少しずつ上げて、また火種まで退いた、その重みが、今、像を取り戻していた。だが、志賀一人の観測ではなかった。柊一人でも、乾一人でもなかった。網の目が柳瀬の区画を固定し、固定された区画の中で、志賀の覚えている目が、亜紀の像を結んでいた。その像を直す手から守っていたのは、別々の違和感を数えた見知らぬ人々だった。
亜紀が言った。像の口で。だが、少し、揺れていた。輪郭が、灯りの流れに合わせて、濃くなったり、薄くなったり。「あたし、戻ってきた。像。声。……ねえ、これ、そっちだけが、支えてるんじゃ、ないんだね。……知らない人たちが。あたしのこと、知らない人たちが、場所ごと」
志賀は亜紀を見た。像は揺れていた。投稿が増えれば濃く、途切れれば薄く。誰かが眠れば、その分、輪郭がほどけかけた。完全な像ではなかった。
「あの人たち」亜紀は言った。像の声で。「あたしの名前、知らないよ。蓮見亜紀、なんて、一人も書いてない。柳瀬が、消えてない、って書いてるだけ。歌詞が、違うって。地図が、ずれてるって。……あたしのことなんて、誰も知らない。……なのに、あたし、その人たちに支えられてる」
志賀は答えなかった。
「変なの」亜紀は言った。像のまま、笑った。「あたしを残してるのは、あたしを知らない全員なんだ。名前も、顔も、知らない人が。……自分の、小さな違和感を書いただけで。それが、あたしの区画を押さえてる。……あたし、その人たちに、お礼も言えない。あの人たちには、あたし、見えないもん。索引に、載らないもん」
名を広めても届かない、と志賀は思った。皆が違和感を持てる柳瀬という区画を通してしか、亜紀は間接に支えられなかった。
*
区画を、一人の通行人が、横切った。
夜道を歩いていく人だった。芹沢のまとめを知らない人。柳瀬を覚えていない人。その人は、街灯の下を、まっすぐに通り過ぎた。亜紀の像の、すぐ横を。振り向きもしなかった。見えていなかった。亜紀を覚えている者の目にしか、亜紀は映らない。その人は覚えていなかった。だから、亜紀は、その人にはいなかった。
「あの人にも」亜紀は言った。「あたし、見えてない。すぐ、横なのに。あたしの区画を、通ってるのに。……ねえ、あたしを、残してる何万人も、こうなんだよね。あたしを、支えてるのに。あたしを、見てはいない。……自分の場所の、違和感を、一つ書いただけで。……あたし自身は、一度も、見ないまま」
志賀は通行人の背を、見送った。夜道の先へ、消えていく背を。亜紀を見ないまま、通り過ぎるだけの一人。亜紀を支えている何万人も、見ていないことでは、この一人と同じだった。
「それでも」亜紀は言った。像のまま。揺れながら。「……あたし、いる。欠けてても。名前を、知られてなくても。見えてなくても。……この区画が、消えてない。それだけで、あたしは、まだ、いる」
志賀は右手を、握った。掌の下に、亜紀の像の、重みがあった。揺れる重み。完全でない重み。だが、消えなかった重み。
*
スマホの画面で、合言葉が、まだ、流れていた。
覚えている限り、その場所はまだ消えていない。知らない誰かが、また一人、自分の違和感を書いた。二番の歌詞が、違う気がする。地図が一本、ずれている。初めての角が、二度目のようだった。窓の外を、今日すでに見た気がした。一つ、また一つ。柳瀬を知らない、亜紀を知らない、数えきれない、誰か。その一人ひとりが、自分の街の、自分の記憶の、小さな食い違いを、今夜だけ、気のせいにしないで、数えた。
志賀は区画に立っていた。右に、揺れる像を置いて。柊が、入口で標識を見ていた。乾が、欄干で、二冊の帳面を抱えていた。芹沢の声が、電話の向こうで、まだまとめを動かしていた。夜の街の、無数の窓に、無数のスマホの画面が、それぞれの違和感を灯していた。その灯りが、一つの区画を、光で囲んでいた。標識の七が、戻らない一区画を。
志賀はその画を、見た。
英雄はいなかった。区画を固定したのは、志賀でも、柊でも、乾でも、芹沢でも、なかった。柳瀬を見つづけた網の目と、それぞれの違和感で直す手を散らした、見知らぬ人々。その両方だった。
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