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神物語(シンワ)  作者: 右の空
第6巻 帰ったら、ちゃんと——
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第5話 柊と乾

 棚を出ると、川沿いだった。


 夕方だった。欄干の続く道。街灯が、水面に細く映っていた。志賀はその道に立っていた。右手には、亜紀の重みがあった。声と、手触りだけの重み。像は、なかった。網が集まっていないから。今、亜紀を覚えているのは志賀一人だった。だから、亜紀は、声だけで右にいた。


「さく」亜紀が右で言った。細かった。「あたし、まだ、いる。……声、届いてる。手も、握れてる。……薄いけど。……消されなかったんだよね。あたし」


「消されてない」志賀は言った。


 開いた穴のことを、志賀は思った。整えるものが退いた場所。届かない一区画。だが、開けるのと、開けたままにするのは別だ、とリグは言った。整えるものは消えていなかった。次の乱れを直しながら、いつか、また戻ってくる。審が重ねた参照は、あの一件を測るあいだだけのものだった。整えるものが次の処理へ移れば、手元は、持たされた古い書式へ戻る。あれ自身に、棚を見渡す目はない。戻ってきたときには、また、あの一行を、乱れとして数え直す。戻ってきたとき、誰かが、その穴を押さえていなければならなかった。


「リグ」志賀は端末に打った。「穴を押さえるものは、見つかったか」


 ——見つかっていない。……計算は変わらない。穴を開けたままにするには、そこに立ち続ける、何かが要る。あの手が戻ってきたときに、ここは規則の一部だ、と示し続ける、何かが。……一度示せば済むものじゃない。あの手は、何度でも数え直す。だから、何度でも示し返す者が要る。


 ——それが、誰かは。……私は言わない。前と、同じだ。


 志賀は端末を握った。押さえ続ける者。何度でも示し返す者。志賀には、まだ、それが誰かわからなかった。志賀自身が立てばいい、とも思った。だが、志賀は盤の外の駒だった。索引に載らない者は、示す側に立てなかった。示すには、覚えている者で、消える側にいなければならなかった。志賀の観測は、亜紀を一度なら留められた。だが、誰の観測かを索引へ綴じられない以上、それは、直す手に規則だと繰り返し示す記録には、ならなかった。


  *


「私が」柊が言った。「その穴を、開いたまま支えます」


 志賀は柊を見た。


 柊は、少し離れて立っていた。銀縁の眼鏡。地味な色のコート。棚から出ても、柊は志賀の側にいた。半歩、離れたまま。だが、その半歩は、もう、敵の距離では、なくなっていた。


「私が」柊は言った。静かな敬語だった。「あの手のことを、いちばん知っています。……私は、あれに仕えました。あれが、どう数えるか。どこを乱れと見るか。……だから、私がそこに立てば、示し続けられる。ここは規則だ、と。何度、あれが戻ってきても」


「なぜ」志賀は言った。「あんたは、消す側だった。亜紀を、揃える側だった。なぜ、今、逆のことをする」


 柊は、目を伏せた。


「消す側でしたから」柊は言った。「あれを止められる場所を知っているのは、あれに仕えた者だけです。……あなたには立てない。あなたは、盤の外の駒だ。……乾先生にも立てない。先生は、手放した側だ。あれの近くには、いなかった。……立てるのは、私だけです。最後まで戻して、あれの近くまで行った、私だけが」


 柊は、自らを、穴の固定点に据えようとしていた。消す側の役割を、静かに降りて。長いあいだ、撃ち合ってきた者が。


 亜紀が、右で言った。「あの人、あたしのために、そこに立つの。あたしのこと、見えないのに。……あの人が覚えてるのは、自分の失った人でしょ。……なのに」


 志賀は、亜紀の声を柊に伝えなかった。柊には、亜紀の声は届かなかった。覚えている者の目にしか、亜紀は映らない。だが、柊は、志賀の右の、空いた場所を見た。かつて、自分がそこを見て、何も見つけられなかった、その位置を。


  *


 志賀は、乾へ短い連絡を入れていた。川沿いへ、と。それだけで足りる相手だった。


 しばらくして、川沿いの道の向こうから、乾が来た。


 濃茶の表紙の地図帳を、小脇に抱えていた。日付の入った、古い地図帳。乾は、志賀と柊の手前で足を止めた。それから、柊を見た。川を見ながらでは、なかった。柊の、正面から。


「悠」乾は言った。


「先生」柊は言った。


 これまで、乾は柊と正面から向き合わなかった。旧称で呼んでは、川を見た。柊は、先生、と返して、目を伏せた。二人は、互いをまっすぐには見なかった。今、乾は柊の正面に立っていた。地図帳を抱えたまま。柊も、乾を正面から見返していた。


「悠」乾は、もう一度言った。「お前は、最後まで、戻したな」


「戻しました」柊は言った。


「わしは、戻す前に、手放した。怖くて。……戻し切る、その手前で、諦めた。だから、わしは、まだ名を持っておる。顔も、記憶も。……お前は、手放せなかった。最後まで戻して、そして、失った」


「はい」柊は言った。


 乾は、黙った。川の音が、二人の間を流れた。


「わしは、長いあいだ、思うておった。お前が間違えたと。……手放したわしの方が、正しかったと。……そう思うて、地図に日付を書いてきた」


 乾は、地図帳を抱え直した。


「だが、違うた。……お前も、間違えた。わしも、間違えた。……戻し切ったお前も。手放したわしも。……どちらも、間違いだった」


 乾の抱えた地図帳の、表紙の角が、一つ、めくれていた。古い、折り目だった。柊の手が、半分、上がった。その折り目へ、指が、伸びかけた。角をそろえ、皺を伸ばす——その手つきの、途中まで。……柊は、手を、戻した。乾は、それを、見た。何も、言わなかった。それから、自分の指で、その角を、押さえた。


 柊は、乾を見ていた。まっすぐには、問わなかった。問うて返る答えでは、ないと、知っていた。


  *


 乾は、志賀を見た。それから、川を見た。かつて亜紀が座った、ベンチの方を。乾は、この場所で、独白を落としたことがあった。覚えている限り、その場所は、まだ消えていない、と。地図帳へ。一人で。返す者のいない言葉として。


「戻しも、手放しも、せんことだ」乾は言った。「……隣に、残す。それだけだ。……あの男が、やっておる。戻し切りもせん。手放しもせん。欠けたまま、隣に置いておる。……わしにも、お前にも、できなかったことを、あの男が、やっておる」


 柊は、志賀を見た。


 志賀は右手を握った。掌の下に、亜紀の重みがあった。声と、手触りだけの、欠けたままの重み。志賀は、それを完全な一人には戻せなかった。だが、手放しもしなかった。欠けたまま、右に残した。


「私は」柊は言った。声が、揺れた。「戻し切れば、正しいと、思っていました。満ちるまで戻せば、その人が帰ってくると。……戻し切って、失いました。満ちても、その人は、帰ってこなかった。……でも、間違いは、戻し方ではなかった。戻し切ろうとしたことが、間違いだった。……完全な一人に、戻そうとしたことが」


「そうだ」乾は言った。「わしは、その逆をやった。……手放せば、楽になると。だが、手放しても、楽にはならなかった。名は残ったが、隣は空いたままだ。……五十年、空いたままだ」


 乾は、地図帳を抱えたまま、川を見た。それ以上は、言わなかった。


  *


 志賀は、右手の重みを握った。


「亜紀は、完全な一人には戻らない」志賀は言った。「本人が、言った。像も、保てない。写真にも、写らない。索引にも、載らない。……それでも、欠けたままでいい、と言った。……覚える苦しみから解放されるより、覚えたまま、右にいることを、選んだ」


 柊は、動きを止めた。


  *


 柊は、川を見た。


 長いあいだ、黙っていた。川の音が流れた。街灯が、水面に細く映っていた。柊の横顔。銀縁の眼鏡の奥。その奥に、ずっと、翳りが差していた。志賀を救うと言った、その言葉の奥で、一度だけ翳った、あの温度が。今、その翳りが、少しずつほどけていくのを、志賀は見た。


「私は、解放が、いちばんの優しさだと思っていました」柊は言った。低かった。「覚えている苦しみを、私がいちばん知っていましたから。……でも、それは、私の答えでした。私が、覚えていられなかった。だから、解放が答えだと思った。……亜紀さんは、違った。彼女は、覚えたまま残ることを、選べた。私が、選べなかったことを」


 柊は、そこで、微笑んだ。


 だが、今度の微笑は翳らなかった。責める色もなかった。ただ、静かな微笑だった。これまで、半分を置いて閉じてきた、その口が、初めて、閉じずに開いていた。


「私は、消す側を降ります」柊は言った。「もう、解放しません。その代わりに、見張ります。亜紀さんの、残る一区画を。……あの手が戻ってきたら、示し返します。ここは、規則だ、と。何度でも。……消す側だった私が、見張る側に回ります」


  *


 亜紀が、右で言った。「あの人、あたしのために、消す側を降りたの。……あたし、あの人の敵だと思ってた。ずっと」


「敵だった」志賀は言った。「今は、違う」


「あたし、覚えてないこと、いっぱいあるよ」亜紀は言った。「自分が、どうやって消えたか。それは、戻ってこない。ずっと、穴のまま。……でも、覚えてる。右を空ける癖も。苦い方を頼むのも。半分しか言わないのも。……その、覚えてる分だけ、苦しいのかもしれない。あの人が言ったみたいに」


「苦しいか」志賀は言った。


「わかんない」亜紀は言った。「でも、消えたら、それもなくなる。さくのことも、忘れる。苦しみも、忘れる。……そっちの方が、楽なのかもしれない」


 亜紀は、そこで笑った。細いまま。


「でも、いやだ」亜紀は言った。「忘れて、楽になるより。覚えたまま、右にいたい。欠けたまま。苦しくても。……それが、あたしの選んだこと」


 志賀は右手を握った。掌の下の重みが、密になった。柊には、その声は届かなかった。だが、志賀は、その届かない声を、右手に握っていた。


  *


 乾が、欄干へ歩いた。


 地図帳を、欄干の上に置いた。濃茶の表紙。開くと、座標と、注記と、日付が、並んでいた。赤黒のインク。五年間隔ほどで、重ねられた、確認の記録。戸倉の項に、赤丸と、複数の日付。乾が、五十年、消えていないと確かめ続けた、その手の記録だった。日付の、ある帳面。


 志賀は、鞄から、緑の野帳を出した。


 欄干の上、乾の地図帳の隣に置いた。くすんだ緑。角の擦れた、日付のない一冊。柳瀬の項。座標の列。その隙間の、走り書き。今日も右を空けた、の一行。亜紀が、命じられずに、窪むくらい力を込めて、書いた字。日付の、ない帳面。


 二冊が、欄干の上に並んだ。


 日付のある地図帳と、日付のない野帳。時間を書き続けた手と、場所を書き留めた手。乾の五十年の観測と、亜紀の任務外の観察。二つが、並んで置かれた。志賀は、その二冊を見た。ずっと、差分を拾って正しい方へ確定させてきた、その目で。


 柊が、欄干へ歩いた。


 柊は、二冊のうち、日付のない一冊へ手を伸ばした。地図帳では、なかった。緑の野帳の、走り書きの一行へ。今日も右を空けた、の、その字の上へ。柊の指が、一点で止まった。消す側から降りて、見張る側に回った、その手が、任務の外の一行に触れた。


 三つの観測が、その一点で、噛んだ。


 志賀の、差分を確定する目。乾の、消えていないと確かめ続けた手。柊の、覚えて否定され続けた記憶。三人の別々の観測が、亜紀の走り書きの一行の上で、一点に集まった。三枚の手書きの記録が並ぶはずだった画が、今、二冊の帳面と、その一行に触れる柊の指で、成っていた。


 亜紀が、右で言った。「あたしの走り書きに、誰かの指が、触れてる。……分かる。ねえ、あたしの字、続いてくの。これから」


  *


「乾さん」志賀は言った。「この野帳を、あんたに託したい」


 乾は、志賀を見た。


「あんたは、五十年、日付を書いてきた」志賀は言った。「消えていないと、確かめるために。……この野帳には、日付が、ない。亜紀の走り書きが、書きかけで、途切れている。柳瀬の項で。……あんたが、続きを、書いてくれ。日付を入れて。消えていないと、確かめるために」


 乾は、地図帳を欄干から取った。それから、緑の野帳を手に取った。二冊を抱えた。日付のある一冊と、日付のない一冊を。


「わしが、書くのか。……この、走り書きの、続きを」


「あんたにしか、書けない」志賀は言った。「亜紀には、俺が書くと言った。だが、俺は、盤の外の駒だ。俺が書けば、字は紙に残る。だが、盤は、俺の字を観測として掴まない。続きの固定に、数えられない。……あんたは、載る。あんたの日付は、盤の側にも、記録として残る。……あんたが、亜紀の走り書きに日付を入れれば、それは、消えていない証になる。あんたが、五十年、やってきたことだ」


 乾は、野帳を見た。走り書きの、途切れた一行を。今日も右を空けた、の、その先の、空白を。


「わしは、途中で、手放した側だ。……戻し切る前に、諦めた。……その、わしが、続きを書くのか」


「あんたが手放したから、残ってるものが、ある」志賀は言った。「名も、顔も、記憶も。……手放して残したものを、今度は、書き留めてくれ。手放すためじゃない。残すために」


 乾は、長いあいだ、野帳を見ていた。それから、地図帳と、野帳を、一緒に、小脇に抱え直した。二冊を、一つに。


「書こう」乾は言った。低かった。「……日付を、入れて。消えていないと、確かめて。……あの男の、右が、まだ、空いていないと」


  *


 志賀は、川を見た。


 欄干の続く道。街灯が、水面に映っていた。その先に、ベンチがあった。いつか亜紀が座った、右半分。今夜、そこには誰もいなかった。網が集まっていないから。像は結ばなかった。志賀はベンチへ歩かず、欄干の傍に立ったまま、右手の重みを握っていた。右は、ずっと、空けてきたまま。座らせるには、網が要った。今夜は、まだ、その夜ではなかった。


 柊が、志賀の隣に来た。


「見張ります」柊は言った。「今夜から。……私には見えません。亜紀さんは。覚えているのは、私の失ったものだけです。……でも、あなたが覚えている。乾先生が書き留める。私は、そのあなたたちの観測を見張ります。見えないものを、見えている人たちのために守る。……それが、私のできることです」


 志賀は、柊を見た。


「あんたの、失った人は」志賀は言った。


 柊は、川を見た。


「戻ってきません」柊は言った。「もう。満ちるまで戻して、失いました。……私には、あの人の書式の外に、一行も見つけられなかった。命じられていない何かを、あの人が持っていたのか。私には、分からないままです。見つけられなかった、というだけで。……私が覚えているだけです。一人で。……でも、あなたが、亜紀さんを残せたなら。欠けたまま、隣に残せたなら。……私が失った意味も、少しはあったかもしれません。私に見つけられなかったものを、あなたが、隣に置けたのなら。……私が、いちばん近くで、それを見られますから」


  *


 審が、そこにいた。


 いつからか、川沿いの道の、少し離れた場所に。人の形をした、最古の一体。棚で、亜紀の項から、指を離した者。今、審は、何も言わなかった。回収の申請欄も、灯さなかった。ただ、志賀と、柊と、乾を見ていた。二冊の帳面を抱えた乾を。見張ると言った柊を。右を空けたまま立つ、志賀を。


 審は、動かなかった。止めもせず、進めもせず。ただ、見ていた。長いあいだ、亜紀を各世界に配置してきた者が、今、その亜紀が欠けたまま残ろうとするのを、見届けていた。審は、何も宣言しなかった。勝ったとも、負けたとも。ただ、見届ける、という所作だけが、そこにあった。


 志賀は、審を見た。


 審は、少し頭を下げたように見えた。あるいは、そう見えただけかもしれなかった。それから、審は、川沿いの道を離れていった。人の形が、街灯の外へ、静かに退いた。何も言わずに。志賀は、それを見送った。追わなかった。長いあいだ亜紀を置きつづけ、今度は回収に来た者が、降りて、去った。所作だけで。


  *


 志賀は、右手の重みを握った。


 低い方の目盛りが、上を向いていた。火種の高さから、少しずつ。上がって、留まって、また少し上がった。暴れもしなかった。急ぎもしなかった。ただ、静かに、上へ。ずっと、揺れ続けた目盛りが、初めて、静かに上がっていた。


 亜紀が、右で細く言った。「あたし、少し濃くなった気がする。声、さっきより、はっきりしてる。……ねえ、これ、続くのかな。あたし、残れるのかな」


「残れる」志賀は言った。


「欠けたまま」亜紀は言った。「像も、保てないまま。索引にも、載らないまま」


「そのままで」志賀は言った。「残れる」


「いいよ」亜紀は言った。細いまま、笑った。「……欠けてる方が、あたしだから。……右に、いられれば。……全部は、いらない」


 柊が、川を見ていた。乾が、二冊の帳面を抱えて、川を見ていた。志賀は、右手の重みを握ったまま、川を見た。街灯が、水面に、細く映っていた。ベンチの右は、まだ、空いていた。網が集まる夜が来れば、そこに、亜紀は、座る。まだ、その夜では、なかった。だが、目盛りは、静かに、上がっていた。


 柊が、口を開いた。志賀にでは、なかった。川へ、落とすように。乾が、五十年、そうしてきたように。


「解放して、あげたかった」柊は言った。「でも、彼女は、覚えたまま、残るほうを、選んだ」


公式サイト(人物・相関図・あらすじ。読んだ巻までしか開かないネタバレ防止つき)

https://migi-no-sora.pages.dev/shinwa/

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