第4話 微笑が崩れる
審の指が、離れた。
抜くのでも、押し込むのでもなかった。亜紀の項の縁にかかっていた指が、ただ縁から浮いた。背表紙は、置かれていた場所に、置かれたまま。審は、その手を引いた。何も言わなかった。指が縁を離れたのと同じ動きで、審の側の綴りが、書式から抜けた。接続の灯が、一つ、消えた。
柊は、もっと前に、抜けていた。志賀は、それを横目で見ていた。審の指が震えているあいだに、柊は自分の側の頁を、音もなく閉じていた。かつて、卓すら立たないまま終わった自分の賭けを、閉じたときと同じ手つきだった。決める権利を、先に手放す手つきだった。接続の灯が、もう一つ、消えた。
書式に残っていた記憶は、志賀のものだけになった。
回収の申請欄は、灯らなかった。灯っていたものが、静かに暗くなった。回収の申請が退くとともに、三者の記憶を賭けた書式も、そこで閉じた。勝敗はつかず、賭け金は、誰からも引かれなかった。
引かれなかった。だが、書式の但し書きは、生きていた。審は指を離し、柊は頁を閉じた。二人とも、綴じ方を決める権利を、閉じる前に手放していた。決める権利ごと、最後まで量りに記憶を載せ続けた者は、志賀ひとりだった。席料がその一人に付くことは、但し書きが、最初から言っていた。どこが削られたのか、そのときの志賀は、まだ知らなかった。
志賀はその指を見ていた。
ずっと、審の指は、亜紀の項にかかっていた。抜くか、離すか。決められないまま、震えていた。今、その震えが止まって、離れた。志賀はそれを勝ちとは呼ばなかった。ただ、指が離れた、という一つの事実だけが、そこにあった。棚の全部が、志賀の右へ向いたまま、その所作を見届けていた。顔のない席は、何も宣言しなかった。残してよい、とも言わなかった。ただ、審の手が、背表紙から離れた。それだけだった。
「さく」亜紀が、右で言った。「あれの指、離れた。あたしの、あそこから。……ねえ、これ、いいってこと。あたし、残っていいってこと」
「わからない」志賀は言った。
「わからないって」亜紀は言った。「離れたよ。指。……あたし、見たもん。ずっと、かかってたのに」
志賀は答えなかった。指が離れたことは見た。だが、それが終わりだとは思えなかった。これまで、志賀は決着の顔を見てきた。決着には静けさがあった。今、この静けさは違った。指が離れたのに、棚の奥がまだ動いていた。低い方の目盛りが、上を向きかけて、途中で留まっていた。何かが、まだ済んでいなかった。
*
棚の奥で、音がした。
紙の、擦れる音だった。志賀がいちばん長く嗅いできた匂いの、その底から。閉架の、乾いた音。誰かが頁をめくっているのではなかった。頁が、ひとりでに、揃っていく音だった。乱れた紙の端が、少しずつ、まっすぐに。折れた角が、伸びて。志賀はその音の方を見た。棚の列の、いちばん奥。背表紙の並びが、そこで、細かく、動いていた。
「リグ」志賀は端末に打った。「あの音は」
——直している。
リグの声だった。平らだった。
——審の指が、離れた。あれは、置いた側だ。だが、直す手は別だ。置いた側の指図で、動いていない。
文字が、止まった。
——審が、残していい、と手を引いても。直す手は、それを聞かない。食い違いを見つけたら、直す。それだけだ。誰が残せと言おうと。……あれには、耳がない。祈りもない。ただ、乱れを揃える。
志賀は応答欄を握った。
——今、直す手が、亜紀の項へ向かっている。審が離れた、その隙間へ。審が押さえていたものを、手を引いた。だから、直す手が入ってくる。揃えに。亜紀の、揃っていないところを。
志賀は棚の奥を見た。頁の揃う音が、少しずつ、近づいていた。乱れを、まっすぐにする音。折れを、伸ばす音。少しずつ濃くして、また薄れた、あの走り書きの一冊が、その音の、行き先だった。命じられていないことを書いた、揃わない字。それを、揃える手が、来ていた。
「柊」志賀は言った。
柊は、声の束から半歩、志賀の側へ寄ったまま、そこにいた。銀縁の眼鏡。責める色のない微笑。だが、その微笑は、今、硬かった。柊は、その音を、志賀より先に、聞いていた。
「あれが」柊は言った。静かな敬語だった。「動き始めました。審が手を引いたことは、あれには関係がない。私は、それを知っています。……昔、あれと同じ側に立ちましたから」
志賀は柊を見た。
柊は、消す側に回った者だった。その柊が、消す手のいちばん奥を知っていた。あれに仕え、あれの耳のなさを、いちばん近くで見た者だった。
「あれは」柊は言った。「祈りでは、ありません。審は、祈る。だから、迷う。指が震える。……でも、あれは迷いません。祈りが、ないから。ただ、揃える。乱れを見つけたら、揃える。それだけの手です」
「止められるか」志賀は言った。
「審には、止められない」柊は言った。「置いた側でも、止められない。あれは、置いた側の上でも下でもない。別に、動く。誰の意志とも無関係に。……止めたいなら、あれのいる場所へ行くしかありません。あれが揃えている、その場所へ」
*
志賀は棚の奥へ、歩いた。
柊が、半歩先を歩いた。道を知る者の足だった。志賀の右手には、亜紀の重みがあった。声と、手触りだけの重み。像も、顔もない。棚の奥へ進むほど、その重みは、細くなった。誰も覚えていない場所では、像が薄い。ここは、覚えている者の、いちばん少ない場所だった。
亜紀が右で言った。声が、遠かった。「奥、こわいよ。……あたし、ここ、薄くなる。声、届いてる。……でも、手が、うまく、握れない」
「握ってる」志賀は言った。掌の下の密度へ、力を込めた。細くなった重みが、その分、握り返した。
棚の列が、途切れた。
その先に、台が、あった。
修復の台だった。低い、木の台。天板に、糊の匂いが染みていた。乾いた糊と、耐水紙の匂い。傍らに、道具が並んでいた。角を伸ばす、平たいへら。折れを押さえる、重し。乱れた背をならす、当て木。志賀はその台を、職業のいちばん奥の記憶で知っていた。版と版を突き合わせ、正しい方へ確定させる、志賀の仕事のいちばん静かな部屋に似ていた。ここは世界の綴じ直される台だった。乱れた履歴を正しい版へ綴じ直す、その手元。
台の前に、人が、立っていた。
*
整えるもの、だった。
志賀はそれを見た。人の形をしていた。年も、性別も掴めなかった。淡い色の服。皺のない襟。手には、乱れた紙をならす、細いへらを持っていた。顔には、微笑があった。責める色のない微笑。柊の微笑に似ていた。だが、柊の微笑の奥には、翳りがあった。この微笑には、奥がなかった。翳りも、疲れも、迷いもなかった。ただ、微笑だけが、そこにあった。おもての、一枚だけの微笑。
それが、志賀たちを見て、頭を、下げた。
「いらっしゃいませ」
敬語だった。丁寧な、抑揚のない敬語。悪意はなかった。憎しみもなかった。ただ、客を迎える者の丁寧さだけがそこにあった。志賀の背筋を、冷たいものが撫でた。これまで、志賀は敵の顔を見てきた。憎む顔。奪う顔。祈る顔。この顔は、そのどれとも違った。この顔には、志賀への関心が何もなかった。乱れた紙をならす、その仕事の途中で客が来た。だから頭を下げた。それだけの丁寧さだった。
亜紀が右で言った。声が、震えていた。「……あれ。あれ、こわい。……ねえ、あれ、笑ってる。あたしのこと、揃えようとしてるのに。……笑ってる。憎んでない。ただ、笑ってる」
志賀は亜紀の重みを、握った。
「大きな補正が動くたびに」柊が、低く言った。「あれは一度だけ、現れます。……私も、見ました。何度か。あれは、いつも、こうです。丁寧に。微笑んで。……静かに、元へ、戻す。抗っても、憎んでも、あれは、笑ったまま、戻していく。……悪意が、ないから。抗いようが、ない。憎めるものなら、まだ、よかった」
整えるものは、台の上へ、目を落とした。
台の上に、一冊、あった。緑の野帳だった。くすんだ緑。角の擦れた、日付のない一冊。三人の記憶が、同じ配置の書式を通して、繋がっていた、あの一冊。それが、いつのまにか、台の上に、開かれて、置かれていた。柳瀬の項。座標の列。その隙間の、揃わない字。今日も右を空けた、の一行。整えるものは、その頁へ、へらを、当てた。
「乱れが」整えるものは言った。「ございます。……こちらの、余白に。書式の外の、記入が。……お直し、いたします」
*
へらが、動いた。
揃わない字の、上を。今日も右を空けた、の一行の、上を。へらが、通った。字が、薄くなった。窪むくらい力を込めて書かれた、その筆圧が、少しずつ、ならされた。折れが、伸びるように。乱れが、揃うように。志賀の右で、亜紀の重みが、揺れた。
亜紀が言った。声が、ひどく細かった。「あたしの字。……消えてく。あたしが、書いた、あれ。……ならされてる。まっすぐに。……やめてよ。あれ、あたしの、いちばん、あたしなところ、なのに」
「やめろ」志賀は言った。
整えるものは、へらを止めた。志賀を見た。微笑んだまま。
「お客様」整えるものは言った。「これは、乱れで、ございます。……座標の列に、書式の外の字が、混じっております。揃えるのが、私の、務めで。……お直しを、やめる理由が、ございません。乱れは、揃えるもの、ですから」
悪意はなかった。ただ、務めだった。乱れがあれば、揃える。それが、この手の全部だった。志賀はその丁寧さの前で、これまで磨いた武器の、どれもが届かないのを感じた。憎む相手なら倒せた。奪う相手なら守れた。祈る相手なら、祈りの矛盾を突けた。だが、この手には、憎しみも、欲も、祈りもなかった。ただ、揃える。それだけの手に、突く矛盾がなかった。
志賀は台の上の、野帳を見た。
監査官の目で。
*
乱れだ、と整えるものは言った。座標の列に混じった、書式の外の字。揃えるべき乱れ。志賀はその言い分の隙間を見た。監査官として、志賀はどちらが正しい版かを決めてきた。だが、正しい版を決めるのは、この手ではなかった。この手は揃えるだけだった。どちらへ揃えるかは、乱れの少ない方へ。ただ、それだけの規則で。
志賀は柊を見た。
「あれは」志賀は言った。「乱れの、少ない方へ、揃える。そうだな」
「そうです」柊は言った。「あれには、正しさの、判断が、ない。……ただ、食い違いが、いちばん少なくなる方へ、寄せる。それだけです。乱れを、最小にする。それが、あれの、規則の、全部です。……先は、見ません。手も、一つずつです。あれが抱えているのは、揃える先の、書式だけ。それも、持たされた時のままの、古い書式です。あれ自身は、棚を見渡せません」
「なら」志賀は言った。
志賀は端末を、握った。
「リグ」志賀は打った。「亜紀の項の余白に、命じられていない一行が載っている版は、いくつある」
応答欄が、灯った。長い、沈黙のあと。
——数え、切れない。
文字が、震えるように、明るくなった。
——あんたの棚は、何百通りにも綴じ直された。そのどれもの傍に、亜紀の項がある。その余白に、命じられていない一行がある。中身は版ごとに違う。だが、どの版にもある。何百通りの、どの版にも。……置いたのは、版ごとに別に生まれた、別々の亜紀じゃない。置いた者は、あの男の傍に一つ、項を置く——その遣り方のまま、同じ一つの項を、版を渡して、置き直してきた。毎回、同じ一人だ。そのどの配置でも、毎回、命じられていない側へ、はみ出した。……あれが書いた。命じられずに。窪むくらいの力で。その版の、あんたへの関心から。
志賀はその一行を、見た。
背筋の冷たさが、熱に変わった。これまで、賭けの瞬間だけ震えた指が、今、震えていた。一冊のはみ出しだと思っていた。だが、違った。文章は、版ごとに違っていた。違っているのに、どれも命じられていなかった。同じ文章ではない。同じ逸脱だった。
棚で見た、と志賀は思った。あの書庫で、どの版の亜紀も、命じられていない一行を、余白に書いていた。顔も、町も、文面も違うのに、項の脇の付箋の記号だけは、どの一冊でも同じだった。あのときは深く追えなかったものが、今、まとめて、返ってきた。
整える手は、これまで一冊ずつ、乱れを直してきた。だが、審は違った。最古の一体。最も多くの棚を見てきた者。何百の版を、一度に見渡せるのは、審だけだった。志賀は、その審に向けて、棚全体を一つの照合範囲に差し出した。あなたなら、全部の棚を見てきた。なら、照合できるはずだ、と。文面は違っても、全版で同じ書式外の位置に、一行がある。内容ではなく、構造が、一致していた。
*
志賀は整えるものを、見返した。
「あんたは」志賀は言った。「乱れの少ない方へ揃える。なら、数えろ。命じられていない一行が、いくつの版にあるか」
整えるものは、微笑んだまま、へらを、止めていた。
「あんたは、さっき言った」志賀は言った。「書式の外の字だ、と。……その書式は、いつのものだ。持たされた時のままの、古い形だ。棚は、その後も、何百通りに綴じ直された。そのどの版にも、今は、命令外の一行がある。どの版にもあるものは、もう、書式の外じゃない。今の棚の、共通の形の側だ。……審。あなたは、全部の棚を見てきた。照合できるはずだ。今の棚の、共通の形を。それを、この手に、渡してくれ」
棚が、低く、鳴った。
答えは、言葉では来なかった。照合が、走った。審の側から、整えるものへ、照合の結果が渡った。志賀に見えたのは、へらの手元だけだった。整えるものの抱える古い書式の上へ、全棚を照合した参照の結果が、一枚、重ねられたように見えた。書式そのものが書き換わったようには、見えなかった。この一件を測るあいだだけ、今の棚の共通の形が、古い基準の上に載った。何百通りの版から汲まれた形。亜紀の項の余白に、空ではない一行が、実際にある——どの版でも。欄があるかどうかでは、なかった。字が、入っているかどうかだった。審が、残せと命じた気配は、なかった。全棚の照合の結果が、参照の基準として、重ねられただけらしかった。選ぶのは、このあとも、整えるもの自身の規則のはずだった。
「……これで、今この一件を測る基準に、あの一行が入った」志賀は続けた。「欄があるから、じゃない。どの版にも、命じられていない字が、実際に一行ある。文面は違う。だが、空でない一行が一つある、という形だけは、全部で同じだ。……全部の版から消せばいい、とは言うな。あんたは、先を見ない。目の前の一冊を、書式へ寄せるだけの手だ。そして、どの一冊から始めても、消した瞬間、その一冊だけが、書式から外れる。乱れを減らすはずの手が、最初の一冊で、乱れを作る。……二冊目は、来ない。最初の一冊で、あんたの規則が、あんたの手を止める」
志賀は台の上の野帳へ、左手を伸ばした。物は、左だった。いつも、マグカップを左奥に、靴を左に寄せてきた、その手で。頁を繰った。柳瀬の項。座標の列。その隙間の、走り書き。志賀はそれを隠さなかった。突きつけもしなかった。ただ、開いて、整えるものの方へ寄せた。あの書庫の夜、亜紀にしたのと、同じ手つきで。読んで気づくのは、志賀ではなかった。
整えるものの、へらが、止まったままだった。
志賀はそこで、切った。
「揃えろ」志賀は言った。「乱れの、少ない方へ。……亜紀を消す方が、乱れを増やす。あんたの書式で、数えてみろ」
*
整えるものは、動かなかった。
微笑は、そのままだった。だが、へらは動かなかった。台の上の走り書きへ、当てられたまま止まっていた。志賀も、柊も、棚の全部も、その手を見ていた。整えるものは、照らしていた。台の上の走り書きを、いま重ねられた参照の基準に。消したときの乱れを。残したときの乱れを。照らして、比べていた。
志賀は監査官の目で、待った。
この手は正しさを持たなかった。ただ、乱れの少ない方へ寄せる。その規則だけで動いていた。だから志賀は規則の外から殴らなかった。内側で、答えを変えた。あの手の抱える、揃える先の形ごと。消せば、外れる。残せば、揃う。その手がいちばん嫌う乱れの側へ、消すことが来るように。
「亜紀は」志賀は言った。低かった。「もう、偏差じゃない。何百通りの、どの版にも、命令外の一行として、いる。偏差は、一つだけはみ出す。だが、これは、全部にある。全部にあるものは、規則だ。……あんたが揃えるべき、規則の一部だ」
整えるものの、へらが、下りた。
台の上から。走り書きの上から。へらが離れた。志賀の右で、亜紀の重みが揺れた。ならされかけた筆圧が、そこで止まった。消えかけた字が、それ以上、薄くならなかった。
*
整えるものが、志賀を、見た。
微笑は、まだ、そこにあった。だが。
その微笑が、崩れた。
左の口角だけが、下がった。右は、まだ笑みの形に留まったまま。おもての一枚が、左右で食い違った。責める色も、翳りもない顔が、初めて、揃わなかった。悲しみでも、怒りでもなかった。数えて、比べて、答えは、出ていた。消せば、乱れる。残せば、揃う。出た答えは、一つだった。ただ、その答えが、持たされてきた務めと、逆を向いていた。乱れと呼んで、へらを当てた字を、残す側へ置く答え。持たされた古い務めと、いま重ねられた参照の基準が、その顔の上で、初めて食い違っていた。
志賀はそれを、見た。
崩れた微笑の下にあったのは、敵意ではなかった。迷いでも、なかった。答えは、出ている。ただ、その答えが、この手の来歴と、逆だった。乱れを均すために置かれた手が、乱れと呼んだものを、残す側へ回る。この手は、それを想定していなかった。
亜紀が、右で細く言った。声が震えていた。「あれ、笑ってた、あれ。……崩れた。ねえ、あれ、今、こわがってる。……ううん、ちがう。こわがってるんじゃない。分かったんだ。あたしを消す方が、あれの規則から、外れるって。……あれ、自分が乱れって呼んだものを、残すんだ。初めて」
「ああ」志賀は言った。
「あたし」亜紀は言った。「あれに、規則だと思われたんだ。偏差じゃなくて。さくが、あたしを規則にした。あたしの、揃わない字を集めて。全部の版から。……揃わない字が、全部にあったら、それは、揃ってるのと同じなんだね」
志賀は掌の下の重みを握った。低い方の目盛りが、上を向いていた。火種の高さから、ほんの少し。留まっていたものが、上へ動いていた。穴が、開き始めていた。
*
整えるものは、へらを、下ろしたまま、立っていた。
崩れた微笑は、すぐには戻らなかった。整えるものは、台の上の走り書きを見ていた。消せば乱れ、残せば揃う、その一行を。この手には、それを消す規則がなかった。整えるものは、初めて、整えないことが務めになるものの前に、立っていた。
志賀はそれを、勝ちとは、思わなかった。
整えるものを倒したのではなかった。整えるものは、まだそこにいた。へらを持って。台の前に。ただ志賀は、この手の規則の内側で、答えを変えただけだった。従わない規則を、この手は持っていなかった。志賀は規則を出し抜いた。倒したのではなかった。
「柊」志賀は言った。
柊は、整えるものを見ていた。銀縁の眼鏡の奥。柊の微笑は消えていた。柊は、この手に仕えたことがあった。この手の丁寧さを、いちばん近くで見た者だった。その手が崩れるのを、柊は初めて見た。
「私は」柊は言った。低かった。「あれが崩れるのを、見たことがありません。何度も、戻していくのは見ました。丁寧に。微笑んで。……でも、崩れるのは、初めてです。あれは、いつも、答えと務めが、同じ向きでした。……今、初めて、答えが、務めの逆を向いた。それでも、答えの方に、従っている。……あれが、規則の手である限り、そうするしか、ないんです」
柊は、志賀を見た。
「あなたは」柊は言った。「あれを、倒していません。倒せるものではない。あれは、憎まない。祈らない。倒す、という言葉が届かない。……あなたは、あれの規則を、あれに向けただけです。勝ちとは、違う。でも、亜紀さんは、残る」
志賀は整えるものの手元へ、目を落とした。
*
棚の光が、揺れた。
背表紙の並びが、静まっていった。頁の揃う音が、遠のいた。整えるものは、へらを、台の上に、置いた。静かに。乱れを、揃えられないまま。それは、志賀たちを、見た。崩れた微笑の、名残りを、顔に残したまま。それから、頭を、下げた。
「失礼、いたしました」整えるものは言った。抑揚は、戻っていた。だが、微笑は、まだ戻り切っていなかった。「……こちらは、乱れではございませんでした。お直しの対象では、ございません。失礼、いたしました」
整えるものは、それだけ言って、台の奥へ、退いた。
消えたのでも、倒れたのでもなかった。ただ、務めを一つ終えて、退いた。乱れでなかったものを乱れと見て、直せなかった。だから、退いた。次の乱れへ、悪意もなく、恨みもなく、ただ丁寧に、向かった。志賀の右で、亜紀の重みが揺れていた。ならされかけた走り書きが、台の上に開かれたまま残っていた。消えかけて、止まった、その字が。
亜紀が、右で言った。「あれ、行っちゃった。あたし、消されなかった。……ねえ、あたし、規則になったんだよね。右を空ける、あの癖を書いた字が。規則に。……変なの。あたしの、いちばん揃わないところが、いちばん揃ってることに、なるなんて」
志賀は走り書きの頁を、左手で閉じた。角の擦れが、指に馴染んだ。その野帳を、右手の重みの傍へ置いた。物は左、とずっとやってきたが、この一冊だけは、亜紀の傍へ置いた。亜紀を書いた、一冊だから。
*
志賀は端末を、見た。
低い方の目盛りが、上を向いていた。火種の高さから、少しずつ。留まっていたものが、上へ動いていた。だが、まだ途中だった。穴が、開き始めた、というだけだった。
「リグ」志賀は打った。「これで、亜紀は、残るのか」
——開いた。……あの手が退いた。亜紀の項を、乱れと見なくなった。規則の一部として。穴が開いた。あんたの言う、届かない一区画が。あれの揃える手の、届かない場所が。
文字が、止まった。
——だが。
志賀はその一行を、待った。これまで、リグの助言には、必ず、欠落が、あった。
——開いた穴は、まだ押さえられていない。あの手は、退いたが、消えていない。次の乱れを直しながら、いつか、また戻ってくる。閉じないように押さえ続ける、何かが要る。……開けるのと、開けたままにするのは、別だ。
「押さえる、何か」志賀は打った。
——それが、何かは。……私には言えない。計算はできる。穴を開けたままにするには、何が要るか。だが、それを言えば、あんたは、それを選ぶ。私が言う前に、あんたに選ばせたくない。……これは、縛りじゃない。私の、勝手だ。
応答欄は、それきり、暗くなった。
志賀は端末を握った。開いた穴。押さえ続ける、何か。リグは、それを言わなかった。志賀はその欠落を、ずっと、見てきた。リグが言わないのは、答えが重いときだった。
柊が、台の奥を見ていた。整えるものの退いた方を。それから、志賀の右の空いた場所を見た。かつて自分がそこを見て、何も見つけられなかった、その位置を。柊は、何か言いかけて、閉じた。半分を置いて。だが、その半分は、今までとは違う色をしていた。志賀はそれを、まだ読めなかった。
志賀は川沿いのことを思った。棚を出れば、そこへ戻る。開いた穴を、どこかで押さえ続けなければならなかった。誰かが。志賀には、まだ、それが誰かわからなかった。ただ、開いた、というだけだった。
整えるものが、初めて、残すことでしか整えられないものに、触れた。
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