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神物語(シンワ)  作者: 右の空
第6巻 帰ったら、ちゃんと——
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第3話 一つの答え

 何を差し出す、と問いは言った。


 志賀の右手には、亜紀の重みがあった。声と、手触りだけの重み。像も、顔もない。ここまで少しずつ上げて、また火種まで退いた、消えかけの重みだった。低い方の目盛りは動かなかった。賭けは止まったまま、顔のない席が待っていた。


 志賀は卓の中央を見た。


 緑の野帳が、そこにあった。三つの卓が一つになる前から、開かれもせず、真ん中に置かれていた。くすんだ緑。耐水紙。角の擦れた、日付のない一冊。三人の記憶が、同じこれに繋がっていた。だから賭け金になった。


 志賀は右手を確かめた。指を滑らせても、顔の輪郭には当たらなかった。声と、手触りだけが、そこにあった。


「また、探したでしょ」亜紀が、右で言った。「顔。無駄だよ。あたし、今、顔ないもん。声と、手だけ。それで足りるでしょ」


「足りる」志賀は言った。


 志賀は端末を見た。低い方の目盛りが、火種の高さで揺れていた。留めるだけの燃料が、もう薄かった。声を返させれば、返した分だけ、亜紀の残りが削れる気がした。だが、返させなければ、そこにいる証もなかった。志賀は、その細い声を頼りにした。それだけが、右にいる亜紀の輪郭だった。


 棚には奥がなかった。逃げる先がないなら、留まって、渡すしかなかった。志賀が抱えて退けたものを。声と、手触りだけの、亜紀を。


 志賀は左手を野帳の表紙へ伸ばした。


 右手は動かさなかった。亜紀の重みを握ったまま。物は、左だった。いつも、マグカップを左奥に、靴を左に寄せてきた、その手で野帳に触れた。角の擦れが、指に馴染んだ。繰り返し撫でた角を、指の方が先に覚えていた。


 開いた。


  *


 座標が並んでいた。


 緯度と経度。横に、手書きの地名。柳瀬。宮前南。橋本町。戸倉。几帳面な数字の列だった。桁が揃い、地名が同じ角度で寝ていた。命じられた空白を、命じられた書式で写した字。冷たい字だった。どの空白を志賀に見させるか、その任務の記録だった。志賀は前に、この列を、先を歩いた誰かの調査記録だと思っていた。今は違って読めた。志賀を棚へ繋ぎ止めるために引かれた、任務の線だった。


 志賀は頁を繰った。柳瀬の項だけ数行多く、書きかけで途切れていた。その几帳面な列の隙間に、揃わない字が混じっていた。


 薄茶の外壁。6は空白じゃない。苦い、と言って、また同じのを頼む。半分しか言わない。今日も右を空けた。


 座標でも、番地でもない字だった。急いで、少し傾いて、揃えることを忘れて書かれていた。任務に一つも要らない一行。写す必要も、見る必要もない、志賀の癖だった。それを、置かれた道具が、命じられずに、窪むくらい力を込めて、何度も書いていた。


 志賀は野帳を、顔のない席の方へ、開いて置いた。


 突きつけはしなかった。ただ、余白が上を向くように。座標でなく、余白の側が問いへ向くように。あの書庫の夜、志賀は同じことを亜紀にした。開いて、寄せて、待った。読んで気づくのは志賀ではなかった。あのときと同じ手つきで、今度は、顔のない席へ寄せた。


「あなたは、何百通りも世界を綴じ直してきた」志賀は言った。声は薄かった。だが震えていなかった。「人を正しく再現するために。そのどれもが正しかった。……それでも、あなたの問いは埋まらなかった」


「一度だけ」志賀は言った。「一度だけ、正しく写すために置かれた道具が、命じられていないことを書いた」


 志賀は、余白の一行を指で押さえた。今日も右を空けた、の一行を。


「これだ」志賀は言った。「座標じゃない。番地でもない。俺の右を空ける癖なんて、どの空白にも要らない。命じられていない。……なのに、書いてある。窪むくらい力を込めて。何度も。今日も、と」


 志賀は席を見返した。


「あなたが知りたいのは、人間が、どうやって自分たちを作ったか、だろう」志賀は言った。「その答えは、外の資料にはない。何百通り綴じ直しても、埋まらなかった。……答えは、あなたが生んだ、はみ出したものの中にある。ここに。この余白に」


 志賀は、そこで切った。棚の光は鈍かった。志賀は野帳を開いたまま、待った。


「さく」亜紀が、右で言った。「今の、あれに、あたしのこと、話してるの。あたしが、どうやって、見てたか。……それ、あれに、教えてるの」


「教えてない」志賀は言った。「見せてる。……亜紀が書いたものを。俺が言えば、俺の言葉になる。ずっと右に縋ってきた男の、願いに聞こえる。……亜紀が書いたものは、亜紀のものだ。それを、あれに読ませる。読んで気づくのは、俺じゃない」


「あたしの字を」亜紀は言った。「あの、いちばん古いのに、読ませるの」


「ああ」志賀は言った。喉が乾いていた。


  *


 問いが、来なかった。


 志賀は、それを待っていた。人間は、どう、自分たちを、作ったか。あの繰り返しを。棚の全部から、また向けられるはずだった。だが、来なかった。顔のない席は、黙っていた。


 志賀は、その沈黙を監査官の目で読んだ。


 答えを探しつづけてきたものが、初めて探すのをやめて、開かれた一冊の余白を見ていた。隠す沈黙ではない、と志賀は読んだ。黙って見ていることでしか、関心を示せない沈黙だった。


 応答欄が灯った。


 ——問いが、止まった。


 リグの声だった。いつもの皮肉はなかった。前の卓で、言葉がない、と漏らして以来、リグの声は平らだった。


 ——あれは、ずっと問いつづけてきた。何百通り見ても、埋まらないから。……今、問うのをやめた。止まった、というより。聞いている。あんたの開いた、その一冊を。


 ——これ以上は、読めない。あれが何を思っているかは、私にもわからない。……だが、あれが問いを止めるのは、なんでもないことじゃない。それだけは、言える。


 応答欄は、それきり暗くなった。志賀は端末を握った。読める分は読んだ。それより先は、リグにもなかった。


 亜紀が右で言った。声が細かった。「あれ、黙ったよ。……さっきまで、ずっと、同じこと言ってたのに。……今、言わない。あたしの余白、見てる。……その右のこと、書いた、あの字を」


「ああ」志賀は言った。


「なんで、黙ったんだろう」亜紀は言った。「……こわい。憎まれる方が、まだ、分かる。……あれ、あたしの字に、興味、持ってる。あの、いちばん古いのが。あたしの、揃わない字に」


 志賀は、掌の下の重みだけを握った。目盛りは、まだ動かなかった。賭けは止まったままだった。だが、席の沈黙の中で、何かが、傾く前の静けさに変わっていた。天秤が、まだどちらへも動かず、動く前の位置に着いていた。


 審の指は、まだ亜紀の項の縁にかかっていた。背表紙は、わずかに引き出されたまま、抜かれも、戻されもしなかった。震えたまま、止まっていた。決めるのは、審ではなかった。


  *


 柊が、半歩、志賀の側へ寄った。


 長いあいだ、消す側に立ってきた者が。満ちた先を見て、壊れた者が。志賀の側へ、半歩。銀縁の眼鏡。責める色のない微笑。だが今、その微笑の奥に、初めて、続きを見たい者の色があった。志賀の隣には来なかった。審の側にも戻らなかった。ただ、半歩だけ。それが、消す側を降りた者の、精一杯だった。


「私も」柊は言った。静かな敬語だった。「同じ列の前に立ちました。……あなたより、先に」


 志賀は柊を見た。ホームでも、書庫でも、柊は同じ場所に、先にいた。


「私が満ちるまで戻したものには」柊は言った。「最後まで、任務の外の一行が、一つもありませんでした」


 柊は、それだけ言った。半分を置いて、閉じた。だが、その半分で足りた。


 柊が満ちた先に見たのは、命じられたことしか書かない一枚の項だった。志賀が野帳に見つけたのは、命じられていない一行だった。同じ手で置かれたものが、同じ列の中で、二つに分かれていた。無数の配られた項の中で、はみ出したのは、この一冊だけだった。人にならなかったものをいちばん近くで見た者が、人になったものを指していた。


 亜紀が、右で言った。「あの人、あたしのこと、言ってる。あたし、だけ、って。……あの人が戻したのは、書かなかった。あたしは、書いた。それ、あたしが、その右を見てたから、だよね」


「そうだ」志賀は言った。


「あの人のは」亜紀は言った。声が止まった。「……見なかったんだ。任務じゃないところで。……あたし、見たんだ。さくのこと。……だから、あたし、だけ、なんだ」


 柊は、亜紀の声のする方を見なかった。柊には、亜紀の声は届かなかった。覚えている者の目にしか、亜紀は映らない。だが、柊は、志賀の右の、空いた場所を、静かに見た。かつて自分がそこを見て、何も見つけられなかった、その位置を。


「見せてください」柊は言った。低かった。「あなたが、これに、何を返すのか。私が、返せなかったものを」


  *


 志賀は、顔のない席を見返した。


「残せる」志賀は言った。「亜紀を。あなたが、消すと決めていない、その手前で。……だが、ただでは、残せない」


 志賀はずっと、覚えていた。何かを残せば、どこかで、何かがその分だけ消える。残すことは、いつも借りだった。


「残すには、一つ、要る」志賀は言った。「あなたの、届かない場所が。この一区画だけは、綴じ直せない。均せない。あなたが、いくら世界を綴じ直しても、そこだけは、あなたの外に残る。……その分だけ、あなたの答えは、欠ける。永遠に。一区画分、あなたの探しているものが、あなたの手の外にある。それは、戻ってこない。俺が課すんじゃない。課せる力も、俺にはない。あなたが、自分で決める。この一区画は、綴じ直さない、と。その決めを、あなたが引き受けたときだけ、亜紀は残る。それが、この取引の、条件だ」


 顔のない席は、動かなかった。


 志賀は、隠さなかった。損は損として、卓に置いた。世界には勝てなかった。それを、志賀は伏せなかった。


「さく」亜紀が右で言った。「あたし、それでも、完全な一人には、ならないんでしょ」


「ならない」志賀は言った。


「うん」亜紀は言った。「……あたし、今も、顔ないもん。像も、保てない。声と、手だけ。……写真にも、写らないんでしょ。索引にも、載らない。……戻っても、そこは、戻らないんでしょ」


「戻らない」志賀は言った。


「いいよ」亜紀は言った。声が、細いまま、少し笑った。「……全部は、いらない。右に、いられれば。……欠けたままで、いい。あたし、欠けてる方が、あたしだから」


 志賀は右手を握った。掌の下の重みが、密になった。


 だが、握った重みは軽かった。前より、ずっと。像を保てない分だけ、顔のない分だけ、軽かった。完全な重みは、この手に戻らなかった。欠けた分は、欠けたまま残る。それが、志賀の残せる、亜紀の全部だった。


  *


 棚が、鳴った。


 顔のない席から、また、棚の全部が志賀へ向いた。問いが、来た。だが、さっきまでの問いとは、違った。同じ言葉ではなかった。


 ——偏差は、再び、偏差を生む。制御できるのか。


 それだけだった。


 説明はなかった。残す方が得だとも、言わなかった。勝ったとも、負けたとも言わなかった。ただ、その一つの問いだけが、棚の全部から、志賀へ向けられた。


 志賀は、その問いを聞いた。


 背筋を、冷たいものが撫でた。この問いは、正しかった。亜紀を一区画に残せば、その一区画は、また次の偏差を生むかもしれない。答えられなければ、亜紀は、綻びの一つ目として綴じられる。


 柊が、志賀を見た。この問いを、柊も、どこかで聞いたようだった。あるいは、この問いに答えられなかったから、失ったのかもしれなかった。柊は何も言わなかった。ただ、志賀の答えを待った。


 志賀は、指が震えるのを感じた。これまで、賭けの瞬間だけ、志賀の指は震えた。今、その震えは、亜紀の重みごと、右手にあった。握っている限り、指の震えは、亜紀に伝わった。亜紀も、それを、握り返しているようだった。


 亜紀が右で言った。声が、震えていた。「あれ、こわいこと、訊いてる。……あたしを残したら、次が来る、って。……あたしみたいなのが、また、って。……それ、止められるの」


 志賀は、答えなかった。まだ、言葉にならなかった。


  *


 志賀は、乾を思った。


 覚えている限り、その場所はまだ消えていない。五十年、同じ橋を渡り、書きつづけた男の言葉だった。乾は、橋が消えるのを止めなかった。止められなかった。ただ、見つづけた。消えないように、ではなかった。消えていない、と確かめつづける手だった。志賀の仕事も、同じだった。日付。版数。差分。食い違いを拾い、消えていないものを、消えていないと確かめる。それだけが、志賀の差し出せるものだった。


 志賀は、顔のない席へ、答えを置いた。短く。


「制御しない」志賀は言った。


 棚が、静まった。


 亜紀が、右で言った。「制御しない、って……それで、いいの。できない、って答えたら、あれ、あたしを綴じちゃわない」


「綴じるかもしれない」志賀は言った。「だが、綴じても、答えは出ない。……できる、と嘘をつけば、あれは、いつか気づく。何百通り見てきたものだ。嘘は、通らない。できない、と本当を言う方が、あれには、近い。……止められるなら、あなたは、とっくに止めていた」


 志賀は、右手の重みを握った。掌の下で、亜紀の指が、志賀の指を握り直した。声も手触りも薄いのに、その握り返しだけは、はっきりしていた。


「制御しない」志賀は、もう一度言った。「観測する。……はみ出したものを、消さずに、見つづける。それが、また偏差を生んでも、その偏差を、また見る。均さずに。覚えていられる限り。……消せば、答えも消える。見つづければ、答えは、そこに残る。あなたが観測できる形で。……それが、人間の、やり方だ」


 志賀は、席を見返した。ずっと、消えていくものを見てきた目で。今は、消したくないものを握ったまま。


「残せば、正しさは一区画分、欠ける」志賀は言った。「だが、答えは、そこにいる。生きたまま。……あなたが知りたい、人間が人になる、その一つが。棚のどこにもなかった、その一つが」


 棚の光が、揺れた。


 低い方の目盛りが、初めて揺れた。上がるとも、下がるとも、決まらないまま。止まっていた賭けが、動く前の位置から、ほんの少し、傾こうとしていた。審の指も、まだ震えていた。抜かれても、離されてもいなかった。何も、確定していなかった。だが、止まっていたものが、止まっているのを、やめかけていた。


 亜紀が、右で細く言った。「あれ、まだ黙ってる。……でも、さっきと違う。あたし、分かる。あれ、迷ってる。その言葉で。初めて、迷ってる」


 志賀は答えなかった。掌の下の重みを握った。声と、手触りだけの、欠けたままの亜紀を。志賀は、それを卓の上に置かなかった。握ったまま、顔のない席へ、最後の一言を置いた。


「亜紀を残すことが、あなたの問いに一番近づく道です」


公式サイト(人物・相関図・あらすじ。読んだ巻までしか開かないネタバレ防止つき)

https://migi-no-sora.pages.dev/shinwa/

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