第7話 祈りの持ち主
行き先が、留まった。
時刻表の、空白の欄に。亜紀のぶんだけ。他の欄は空白のままだった。だが亜紀の欄にだけ、一行が、留まっていた。少し急いで、少し傾いて、揃えることを忘れた筆圧で。志賀はそれを、薄い目で見ていた。見た者は、どこにも記されなかった。留まったのは、行き先だけだった。
留まった、と志賀は思った。
だが、留めるたび、そのそばから、返しが来た。志賀はそれを知っていた。留めるたびに、東環状が薄れ、決裁が抜けた。満まで留めた夜に、志賀自身が索引にロックされた。留めることは、いつも、盤に何かを差し出すことだった。今夜、志賀は自分の名も版も差し出して、盤に載らない位置から留めた。だから、返しは、来ないはずだった。差し出す物を、先に、全部下ろしていたから。
それでも、ホームの空気が、動いた。
*
最初に気づいたのは、亜紀だった。
「さく」亜紀は言った。濃くなった像で。志賀の隣、右半分に立って。「なんか、来る」
志賀は右を見た。
棚が、ホームの向こうに、続いていた。同じ背表紙が何百と並ぶ列。その連なりの、いちばん奥。棚と棚の谷間から、光の密度が、変わった。どこからともなく来ていた光が、その一点だけ、静かになった。志賀は薄い目で、そこを見た。
誰かが、立っていた。
棚の谷間に。背表紙の列と列のあいだの、細い通路に。柊のときと同じ場所だった。だが、柊ではなかった。輪郭が、はっきりしなかった。人の形をしていた。していたが、人ではなかった。あるいは、人の形を、いちばん長く見てきた何かが、その形を借りていた。志賀にはそう見えた。薄い目にだけ、そう見えた。
志賀はその形から目を離せなかった。棚の谷間に立つそれの向こうに、志賀が今まで歩いてきたどの棚よりも多くの棚が畳まれて重なっているような気配があった。何百通りもの志賀を見てきたどころではなかった。その何百倍もの棚を、生まれては綴じ直されていく無数の履歴を、はじまりから今までずっと見つづけてきた何かが、人の形をとってそこに立っていた。見てきた時間の長さがそのまま重さになって、ホームの光を鈍らせているようだった。倒すとか退けるとか、そういう言葉が志賀の中で意味をなくしていった。あれを退ければ、あれが見てきた時間の全部を、あれが積み上げてきた長い祈りの全部を、踏みにじることになる。それが、退ける前から志賀には分かった。
応答欄が、灯った。
——志賀さん。
リグの声だった。ダッシュで始まる、短い断定。だが、いつもの皮肉が、なかった。
——これは、直す手じゃない。
文字が、そこで止まった。
——直す手は、誰の意志でもない。ただ均す。……これは、違う。もっと、古い。いちばん、古い。……いちばん多くの棚を、見てきた。私の、ずっと上の。
応答欄が、暗くなった。長い暗さだった。
——ここから先は、言えない。……私にも、これは、大きすぎる。
リグは、それきり黙った。縛りの、その先だった。あるいは、縛りより、もっと単純な、畏れだった。志賀は端末を握った。応答欄は暗いままだった。
*
棚の谷間の奥から、もう一つ、足音がした。
こちらは、人の足音だった。銀縁の眼鏡。地味な色のコート。手ぶらだった。柊だった。柊は、谷間に立つものを見て、足を止めた。志賀の傍まで来て、それ以上、進まなかった。
「来ましたね」柊は言った。静かな敬語だった。
志賀は柊を見た。
「あれが」柊は言った。谷間の奥へ、目を向けたまま。「審です」
柊は、その名を、一度だけ言った。それ以上、名を重ねなかった。名を連ねて呼ぶには、大きすぎる、というように。
「私は、一度だけ、見ました」柊は言った。「満ちた先で。……私が戻しきったものを、あれが、棚へ帰しに来た。あのときも、こうやって、谷間に立っていた。……悪意は、ありません。一つも。それが、いちばん、こわい」
志賀は谷間を見た。
それは、動かなかった。志賀を見ているのか、亜紀を見ているのか、わからなかった。輪郭がはっきりしないから、目の在り処もわからなかった。ただ、そこに、いた。最も多くの棚を見てきたものが。何百通りもの志賀を、何百通りもの後から置かれた項を、そのどれもを、見てきたものが。
見られている、と志賀は思った。ずっと、消えていく者を追い、見つづけてきた自分が、今、いちばん多くを見てきたものに、見られていた。
*
それが、動いた。
棚の谷間から、一歩、前へ。志賀は身を硬くした。薄い体で、身を硬くしても、何も、できなかった。志賀は盤に載らない位置にいた。載らない者は、消せなかった。だが、載らない者は、止められもしなかった。志賀の手は、盤の内側に、届かなかった。谷間に立つものは、盤の内側にいた。いちばん深いところに。
それは亜紀の項の前に立った。
色の違う付箋の貼られた、あの項。何百通りもの志賀の傍に置かれた、あの背表紙。そのうちの一冊へ、手が、伸びた。
志賀は動けなかった。
その手は、悪意を持っていなかった。乱暴でもなかった。急いでもいなかった。ただ、あるべき場所へ、あるべきものを戻す手つきだった。志賀が、何百と、欠番を閉じてきた、あの手つきに、似ていた。柊が、自分で戻したものを、自分で棚へ帰した、あの手つきに。何かを、正しい形へ、戻す手。
それは亜紀を、回収しようとしていた。
命じられたことだけを写す、置かれた項へ。人の形をした創造主を、正しく再現するために、無数の棚へ配って観測させてきた、その一つへ。亜紀は、その一つだった。その祈りが置いた。神を——人を、正しく再現したい、という、ただ一つの祈りが。亜紀は、その祈りの、道具だった。
最初の夜、応答欄で言いかけて消された行の、その続きが、志賀の中で初めて形をとった。もう滅んだものを、再現して——何を。答えは、目の前に立っていた。人ではないものが、いちばん長く借りつづけた、その形。滅んだのは、人類だった。その再現が、志賀たちだった。
だが、その道具は、命じられていない一行を書いた。
その指が、亜紀の背表紙にかかった。抜き出そうとした。志賀はそれを止められなかった。亜紀の像が、志賀の右で揺れた。濃くなった像が、抜かれる背表紙に引かれるように。
亜紀は言った。細くはなかった。だが、遠かった。「あたし、戻される」
「亜紀」志賀は言った。薄い声で。棚の空気に。
「いいよ」亜紀は言った。「さくのせいじゃない。……あたし、書いたんだから。命じられてないこと。右を、何度も。だから、こうなるんだよ。……あたし、それでも、書いてよかったって、思ってるの。ほんとだよ。……でも、こわい。抜かれるの、こわいよ」
志賀は右手を、空いた側へ伸ばした。濃くなった像の、その輪郭のあたりへ。ずっと空けてきた右に、今夜は密度があった。掌の下に、いるものの重みがあった。だが志賀の手は、あの手のところまでは届かなかった。志賀の手は亜紀の像には触れても、背表紙にかかった指には、どうやっても届かなかった。届かないまま、志賀は右に手を置いて、その指先を見ているしかなかった。
*
その指が、背表紙を、引いた。
抜き出す、その寸前で。
止まった。
指先が、背表紙の縁にかかったまま、動かなくなった。抜きも、戻しもしなかった。棚の谷間が、静かになった。光の密度が、その一点で、止まった。志賀は薄い目で、その指先を見た。悪意のない指先が、亜紀の背表紙を、抜く寸前で、止まっていた。
それは、何も言わなかった。
説明も、しなかった。なぜ手を伸ばしたのか。なぜ止めたのか。一言も、言わなかった。人の言葉を使わないのかもしれなかった。あるいは、使えたが、使わなかった。ただ、指先が、止まっていた。それだけが、そこにあった。
志賀はその止まった指先を読んだ。
監査官の目で。その手は、亜紀を回収しに来た。逸脱した道具は、食い違いだった。だから、手が、伸びた。
だが、止めた。
志賀はその止まりを読んだ。祈りが、亜紀を要らないと言い、同じ祈りが、亜紀を抜けなかった。
亜紀だけが、命じられていないことを、書いた。
その祈りは、人を再現することだった。正しく。だが、正しく置かれた道具は、命じられたことしか、しなかった。谷間に立つものは、それを、いちばん多く見てきた。
亜紀だけが、逸脱した。
その祈りが、いちばん欲しかったものに。正しさの外へ、はみ出すことでしか、届かなかったものに。手は、それを、均そうとした。逸脱だから。食い違いだから。だが、指は、止まった。均せば、祈りが、いちばん欲しかったものが、消える。指は、それを、抜けなかった。
志賀はそのことを、その口からは聞かなかった。
悪意のない指先が、亜紀の背表紙を抜く寸前で、自分の祈りの生んだ食い違いを、抜けずにいた。
棚の谷間は、時が止まったようだった。抜かれかけた背表紙も、それにかかった指先も、動かなかった。ホームの光は鈍ったまま、どこへも流れなかった。志賀は薄い体で、柊は志賀の傍で、亜紀は志賀の右で、誰も動かなかった。無数の履歴を綴じ直してきた指が、一冊の項の前で、迷っていた。その迷いの分だけ、亜紀は、まだ棚に残っていた。
*
「見えますか」柊は言った。
志賀は柊を見た。
「あれが、止まっている」柊は言った。「私のときは、止まりませんでした。……私が戻したものを棚へ帰すとき、あれは、迷わず手伝いました。指は、止まらなかった。私の戻したものは、置かれたもののままでしたから。……抜いても、何も、消えなかった。命じられたことしか、そこには、なかった」
柊の声は、静かだった。
「あなたのは」柊は言った。「違うのかもしれない」
柊は、そこで、言葉を切った。ずっと、消す側に立ってきた者が。満ちた先を見て、壊れた者が。
「私は、戻しきって、失いました」柊は言った。「満ちた先に、人がいなかった。だから、私は、戻すのをやめて、自分で棚へ帰した。……あれは、私を、迷わず手伝った。指は、止まらなかった。あなたのときは、止まっている。……私は、戻しきって、失った。あなたは、まだ、間に合うかもしれない」
志賀は柊を見た。
柊は、初めて、志賀を、止めに来た者としてでなく、見ていた。同じ側の者を見る、あの微笑ではなかった。責める色のない、あの微笑でもなかった。柊は、ただ、先に同じ道を歩いた者の顔で、志賀を見ていた。自分には止まらなかった指先が、志賀の前で止まっているのを、見ていた。
「間に合うかもしれない、というのは」柊は言った。「私には、言えなかった言葉です。……先生にも、言えなかった。今日、初めて、言います。あなたに」
柊は、それ以上は言わなかった。半分を置いて閉じた。いつもの柊だった。だが、その半分は、今までと違う半分だった。今までの柊は、志賀が自分と同じ道の先にいると言って、半分を閉じた。今夜の柊は、志賀の道が自分の道と分かれるかもしれないと言って、半分を閉じた。同じ手にかかりながら、片方は迷わず帰され、片方は迷いのなかに残っていた。柊はその違いを、志賀より先に、見ていた。
志賀は、乾のことを思った。戻し切るな、と乾は川で言った。手放せ、と柊は言った。乾は途中で手放し、柊は最後まで戻して失った。同じ道の、二つの答えだった。志賀は、そのどちらでもない場所に立っていた。手放しもせず、戻し切りもせず、盤に載らない位置から、亜紀を留めた。留めて、自分の名を、版を、原点を、下ろした。乾も柊も、選ばなかった道だった。間に合うかもしれない、と柊が言ったのは、たぶん、その道のことだった。まだ誰も、通ったことのない道の。
*
志賀は、谷間に立つものを見た。
止まった指先を。抜く寸前で動かなくなった、悪意のない指を。志賀はその指を、監査官の目で読んだ。これは、亜紀を置いた者だった。人を正しく再現するという祈りの、手続きの一つ。
だが亜紀が消えたとき、置いた者は、それを止められなかった。逸脱して食い違いになった項を、直す手が均した。
置いた側だった。だが、いちばん上ではなかった。
なぜ人を再現するのか。その祈りは、自分で始めたものなのか。それとも置いた者もまた、より上の何かに命じられているのか。志賀にはわからなかった。だが、止まった指先が、一つだけ教えていた。自分の手を自分で止められる者ではない、と。迷う者は、いちばん上ではなかった。いちばん上の者は迷わない。ただ均すだけだ。
その上に、何かがいた。志賀はそれを断じなかった。薄い頭に、その形は映らなかった。世界の本体のような、何か。志賀はそれ以上、覗けなかった。だが、その指先が止まっているという一事だけは、映っていた。
*
志賀は、目盛りを見た。
端末の、小さな目盛り。火種から、上へ上がって、高い方で留まった、あの目盛り。今、それは、高い方に、あった。落ちなかった。満では、なかった。満は、これまでの借りだった。今、返している最中だった。だが、火種でも、なかった。高い方で、静かに、留まっていた。
だが、確定は、していなかった。
その指先が、亜紀の背表紙にかかっていた。抜く寸前で、止まったまま。抜かれてはいなかった。だが、離されても、いなかった。指先が、そこにある限り、亜紀は、留まっているが、確定してはいなかった。高い方で、留まって、待っていた。あの指が、抜くか、離すか、その、あいだで。
志賀は右を見た。
亜紀の像は、まだ、そこにあった。濃かった。志賀の右半分に、立っていた。背表紙が指にかかっているのに、像は、揺れなくなっていた。志賀の薄さが、まだ、亜紀を留めていた。志賀が盤に載らない位置から、見ていたから。見た者が、どこにも記されないから。谷間に立つものも、その観測を、綴じ直せずにいた。誰の観測とも綴じられないものは、あれにも、たどれなかった。
「さく」亜紀は言った。
「なんだ」
「あたし、まだ、いる」亜紀は言った。「あの指、止まってる。……あたし、抜かれてない。まだ、右に、いる」
「いる」
「でも」亜紀は言った。「透けてる。……前より、もっと。あたしを留めるために。……あたし、さくのこと、確かめようとしたの。どんな仕事したか。東環状の。……それ、もう、思い出せないんでしょ」
志賀は答えなかった。
「あたしは、覚えてる」亜紀は言った。「東環状を、やったこと。粘り強かったこと。……あたしの中には、まだ、あるの。さくの手柄。忘れちゃった、その手柄。……あたしが、覚えてる。代わりに」
志賀は、薄い息を、ついた。
志賀は東環状を思い出せなかった。物差しが寝ぼけていた。だが亜紀の中に、それがあった。志賀が忘れた志賀の手柄を、亜紀が覚えていた。志賀が野帳の余白に書かれていたように、志賀の手柄が、今度は亜紀の中に書かれていた。
収支は、まだ続いていた。志賀が薄くなった分だけ、亜紀が覚えていた。今夜、志賀は自分の原点まで手放して、その分を亜紀の中へ移していた。言えるのは、もう、亜紀だけになっていた。
脇のいちばん端に、まだ一本の線があった。帰ったら、ちゃんと、とだけ残って、あとは無音の、あの波形。亜紀の像がこれだけ濃くなっても、その線だけは痩せたままだった。留まっているのは亜紀の行き先で、あの声の続きではなかった。志賀はそれを、埋めようとしなかった。
*
その指先は、まだ、止まっていた。
抜く寸前で。悪意なく。迷ったまま。棚の谷間は、静かだった。柊は志賀の傍で、それ以上、何も言わなかった。応答欄は暗かった。リグは、大きすぎる、と言って黙っていた。目盛りは、高い方で留まっていた。確定の、手前で。
志賀は、その止まった指先を見ていた。
止まっている、と志賀は思った。均すだけの直す手には、話が通じない。だが、迷う者には、通じるかもしれなかった。抜かないという道が、その迷いの側にある。……その迷う者の上に、命じる何かがいた。置いた者の迷いだけでは、足りなかった。亜紀は確定せず、高い方で留まって、待っていた。抜くか、離すか、そのあいだで。
回収を止められるのは、二つだった。亜紀を置いた側の迷いと、その上の、命じる何か。二つが揃えば、確定の手前で留まった目盛りを、確定まで運べるかもしれなかった。だがそれは、初めてこちらから、取引を持ちかけるということだった。何をしても均していくだけだった世界へ。何を差し出して、何を残すのか。志賀にはまだ、わからなかった。
志賀は右を見た。濃い亜紀の像を。その背表紙にかかった、止まった指先を。高い方で留まった、確定手前の目盛りを。志賀は左を見なかった。
ならば——亜紀を置いた審と、そして世界の本体と、取引できる。
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