第6話 未確定に沈む
目盛りは、底のすぐ上にあった。
火種の姿だった。ここまでかけて満まで押し上げ、さっき下から抜けた、その底で。ゼロには戻っていなかった。だが満からはいちばん遠かった。落ちるのをやめて、ほんの少しだけ上を向いた一つ分。志賀はそれを見ていた。脇には細い文字が、途切れずに並んでいた。任務じゃないところで見てた、と読んだ、あの声。
だが、火種は、火種だった。
放っておけば、また底へ落ちる。留まっているだけだった。留まるのと、留めるのは、違った。棚はまだ、亜紀を置かれたものとして綴じていた。色の違う付箋は、開いたままだった。亜紀が自分の字を、命じられていない一行だと知っても、棚の綴じは、変わらなかった。亜紀は、まだ、いつ底へ落ちてもおかしくなかった。
志賀は監査官だった。
留めるには、観測が要る。志賀はそれを、ここまでで知っていた。覚えている目が、書き換え前の姿を見れば、その姿が新しい事実として固定される。ずっと、志賀はそうやって亜紀を押し上げてきた。錨を書いた亜紀を留めるにも、同じだった。志賀が観測すれば、余白を書いた手が、固定される。
志賀が観測すれば。
*
志賀の指が、応答欄に触れた。
「リグ」志賀は打った。「留められるか」
応答欄は、すぐには灯らなかった。長い暗さだった。計算し切っているのに答えない、あの暗さ。やがて灯った。
——留められる。あんたが、見れば。
「見る」志賀は打った。
——見れば、あんたが載る。
文字は短かった。
——観測した者は、盤に記される。ずっと、あんたはそうやって、この項を押し上げた。……だが今、網はいない。ここは棚だ。覚えている目は、あんた一人だ。あんた一人が見て、留めれば、その観測は、あんた一人の記しになる。盤に、あんたの名で、載る。
——あんたは今、消えかけている。あんたは索引の外の駒だった。消える点でも守る点でもなかった。だから消せなかった。……だが、観測は、あんたを索引の内側へ引き込む。見た者として。記された者として。盤に載った瞬間、あんたは、消せる駒になる。
「その亜紀を留めれば」志賀は打った。「俺が、消される」
——そうだ。
応答欄は、それきり暗くなった。
志賀はその暗さを見ていた。満ちた夜からの罠が、まだそこにあった。亜紀を濃くすれば、志賀が薄くなる。志賀が消えれば、亜紀を留めた観測も、留めた者ごと、盤から抜ける。留めたそばから、留めた手が消える。堂々巡りだった。
脇の文字が、途切れた。
「さく」亜紀は言った。細い声だった。「今の、リグの。……あたし、読めなかったけど。その顔で、分かる。……あたしを留めると、載るんでしょ」
志賀は右を見た。
「またそれ」亜紀は言った。「あたしを戻すと、そっちが消える。……ずっとそれじゃない。あたし、それ、気づいたの、座れた夜でしょ。なのに、まだ、それなの。……あたしを留めるつもりでしょ。自分が載るって分かってて」
「留める」
「やだ」亜紀は言った。「留めなくて、いい。あたし、底で、火種でいいから。……そっちが載るなら、いい。留めなくて」
志賀は目盛りの火種を見た。
*
志賀は端末を見た。目盛りの火種を。それから、応答欄を。
今、志賀の前にあったのは、ずっと見てきた罠の、その反復だった。見れば載る。載れば消える。志賀はその文をもう一度読んだ。差分を探す目で。
志賀は、画面の縁を指でなぞった。
だが、志賀は盤の外の駒だった。
以前、確かめた。志賀の座標は、緑の野帳にも、乾の地図帳にも、芹沢の地図にも、どこにもなかった。消える点でも、守る点でもなかった。載らない者だった。載らないものは、消せなかった。志賀の武器は、初めから、盤に載らないことだった。
観測は、その志賀を、盤へ引き込む。だが——記されるのは、盤の内側にいる観測者だった。
もし、見る者が、盤の内側にいなければ。
志賀はその一文を指の先で押さえた。
もし、見る者が、盤に載らないほど薄ければ。名を持たず、版を持たず、索引のどこにも記されないほど、解像度を落としていれば。その者は、見ても、記されなかった。盤が、その観測を、誰の観測とも綴じられなかった。見た事実だけが固定されて、見た者は、どこにも残らなかった。
見たことがある、と志賀は思った。観測済みの印と、空白の観測者欄。いつかの午前の、あの分類のしようのなかった項。あれは、これだった。見た事実だけが版に残り、見た者が、どこにも記されない観測。あり得ないのでは、なかった。もう、あった。
喉が乾いた。
志賀はずっと、消えていく側へ回るのを、恐れてきた。名が抜ける。版が飛ぶ。戸川が一拍遅れて名を呼ぶ。低く、薄く、解像度が落ちていく、その恐怖を。初めから、志賀はそれに追われ、逃げてきた。
逃げなくていい、と志賀は思った。
*
「リグ」志賀は打った。「観測した者が、盤に載らなかったら」
応答欄が、灯った。速かった。
——それは。
文字が、そこで止まった。
——それは、言うな。
「あんたは計算してる」志賀は打った。「載らない観測が、あり得るかどうか。答えは出てるはずだ」
応答欄は暗くなった。長い暗さだった。かつて、志賀を助けた側があった。名も理由も置いていかない、干渉に肩入れする側。リグはそれを、私の上の側だと言った。今夜の暗さは、その側の気配に似ていた。言うべきでないことを、言うかどうか、迷っている暗さ。
やがて、灯った。
——そうだ。
リグは、そこで止まった。
——止め方は、言わない。あんたは、もう、分かってる。
——ただ、一つだけ、言っておく。欄を閉じれば、請求が来なくなる、と思うな。宛先の欄が消えるだけだ。欄のない借りは、消えない。いちばん近い肉に付く。あんたの場合——覚えていること。その体。あの、右隣。……それでも、やるんだな。
やる、と志賀は打った。
志賀は応答欄を閉じた。分かっていた。ずっと、消えていく者を追ってきた男が、今、自分でそこへ沈む番だった。追ってきた側から、沈む側へ。棚の谷間から、その底を通って、外へ。
*
志賀は自分の欄を、閉じることにした。
監査官の手つきで。届け出る者のいない欄に、横棒を引く、あの手つきで。志賀は何百と、それをしてきた。誰も覚えていない者の欄に、横棒を引いて、欠番として閉じた。閉じなければ、版が積めなかった。手が少し重かったが、閉じた。今夜、志賀はその横棒を、自分の欄に引いた。
監査官の手順だった。棚では、振られた欄だけが通じた。志賀は応答欄から、整合室の窓口を開く。志賀朔の項を呼ぶ。人事の台帳ではない。整合の側の、届出人の欄。確かめる相手が世界の側にいなくなった記録へ引く、届出人不在の処理——監査官として、何百と通してきた欄だった。本来なら、本人の欄に、本人が引ける棒ではない。だが、盤の側が、もう志賀を手放したがっていた。保留になりかけた輪郭が、判の代わりに通った。横棒は、入った。上の項が欠番になれば、それを参照する下の記録は、順に宛先を失う。入館ログ。決裁の控え。担当の欄。整合の仕組みが、いつも通りに働いて、志賀を、順に、閉じていった。
まず、名を手放した。
志賀朔。亜紀に呼ばれ、自分で認めてきた名。それを、志賀は、索引から下ろした。整合室の入館ログから。すでに抜け始めていた名を、志賀は自分の手で、最後まで抜いた。盤は、抜けたがっていた。志賀が手を離すと、名は、するりと、欄から落ちた。
次に、版を手放した。
志賀が何をしてきたかの、その記し。整合監査官として拾った差分。閉じた欠番。それが、志賀という駒を、盤に留めていた。志賀はその一つ一つから、手を離した。版が、欄から抜けた。志賀のしてきたことが、誰のしてきたことでもなくなった。誰が拾ったとも記されない、差分の山だけが、宙に残った。
部屋の契約の、保証人の欄が、掠めた。母の名と、続柄。合っていた、数少ない記録。あの欄も、宛先を失う。帳尻は、母の中の息子から、先に、合わせに来る。
志賀の輪郭が、薄くなった。
鏡はなかった。だが、分かった。掌を見た。掌の線が、遠かった。自分の手が、自分のものだという確かさが、薄れていた。志賀はそれを、恐れなかった。ずっと、恐れてきた薄さだった。今夜、志賀は自分でそこへ沈んでいた。低く。低く。索引のどこにも引っかからないほど。誰も届け出られないほど。
*
沈んでいく途中で、東環状が、揺らいだ。
志賀は、それに、手を伸ばした。
東環状連絡トンネル。八ヶ月かけて、工事記録の版差し替えを掘り起こし、点検漏れを拾い、崩落事故の改竄を剥がした。志賀の原点だった。粘り強い、と評された、あの照合。志賀が自分を監査官だと思える、その土台。ずっと、名も版も揺らぐ中で、志賀はそれだけを、確かな手柄として握ってきた。俺は、あれをやった。俺の手で。八ヶ月かけて。
握った手の中で、それが、柔らかくなった。
八ヶ月、だったか。志賀は数えようとした。数が、寝ぼけていた。半年だったかもしれなかった。掘り起こしたのは、志賀だったか。それとも、誰かが剥がしたのを、志賀が横で見ていたのか。検索がそう寄せていた。初期仮説への固執傾向、と。志賀はそれを、改竄だと思ってきた。
今夜、志賀には、わからなかった。
どちらが、改竄なのか。粘り強い照合が本当で、固執が嘘なのか。固執が本当で、粘り強さが、志賀の握りたかった嘘なのか。志賀は、自分の記憶に、差分を当てた。監査官の目で。だが、突き合わせる二つが、どちらも、志賀の記憶だった。物差しが、志賀自身だった。志賀が薄くなるほど、物差しが、寝ぼけた。
志賀は、東環状を、確かめられなかった。
それが、志賀のした仕事だったのか。志賀は、握っていた手を、開いた。握っていても、握った物が、何なのか、わからなかった。ずっと、志賀を監査官として立たせてきた原点が、志賀の手の中で、輪郭を失った。志賀は、それを、二度と、確かめられなかった。物差しごと、沈んだから。
これが、代償だった。
名も版も、自分で選んで下ろした。だが、東環状は、選んでいなかった。沈む途中で、勝手に柔らかくなった。外の記録が変わったのではなかった。志賀の中の、覚えている自分が、信用できなくなった。
*
沈みきった底で、志賀は棚を見た。
輪郭が薄いと、棚が、よく見えた。志賀が盤の内側にいたときは、棚は、確定した場所の外側だった。滑り込む隙間だった。今、志賀は、その隙間そのものになっていた。盤に載らない、薄い、宙に浮いた観測者。棚の背表紙が、近かった。
志賀は亜紀の項を見た。
薄くなった志賀の目には、編集の書式が、前より、はっきり読めた。ただ読めるだけではなかった。その記号の、動いた跡まで、見えた。書式は、静かではなかった。動いていた。何かが、この項に、手を入れていた。
応答欄が、灯った。志賀の薄さに引かれるように。
——読めるか。
「読める」志賀は打った。薄い指で。「あんたも、読め。ここからなら、読める」
——読む。
文字が、並んだ。ゆっくりと。
——この項は、置かれた。あんたに棚を見させ続けるために。傍にいて、見て、報せる。それが、命じられたことだった。……だが、この項は、命じられていないことを、し始めた。
志賀は付箋を見た。
——命じられたのは、空白を写すことだった。座標を。番地の抜けを。……この項は、それをした。だが、その隙間に、命じられていないことを、書いた。あんたの右を。……写す必要のないものを、写した。何度も。今日も、と。
応答欄が、一度、暗くなった。それから、灯った。
——それは、書式の外だった。
*
志賀はその一行を、薄い目で読んだ。
——盤には、直す手がある。あんたの言葉なら、補正だ。食い違いを見つけて、正しい方へ寄せる。……ただし、盤の側の。世界の側の。誰の意志でもない、ただ均していく手だ。
志賀は指を止めた。均していく手。志賀が、何百と、欠番を閉じてきた、あの手つきの、盤の側の形。
——その手が、この項を、見つけた。書式の外へはみ出した項を。……盤にとって、それは、食い違いだった。あるべき場所に、ないもの。……直す手は、食い違いを、均す。あんたが、欠番を閉じるように。
志賀は棚を見た。同じ背表紙の列を。そのどれもの傍の、置かれた項を。
——だから、この項は、均された。
文字が、そこで、止まった。
——最初の補正で。あんたが名も顔も忘れ、体の癖だけが残った、あの消え方で。……あれは、罰ではなかった。事故でもなかった。置いた者の、意図でもなかった。
志賀はその一行を読んだ。
——置いた者にも、止められなかった。直す手は、置いた者より下でも、上でもない。誰にも止められない、ただ均す手だ。……食い違いになった項は、均された。置いた者の手の、届かないところで。
*
志賀は、応答欄から、目を上げた。
薄い頭の中で、ここまでが、一本の線に繋がっていった。
志賀はここまで、亜紀が実在した証拠を探してきた。名を戻し、声を戻し、隣に座らせ、匂いを分かるようになった。いた、という証明を。
だが、いた項なら、均されなかった。生まれた記録があり、履歴の地に織り込まれた項は、そこにいた。柊が満ちるまで戻した、命じられたことしかしなかった項も、置かれたまま、そこにいた。書式の内にいたから。
亜紀だけが、均された。命じられていないことを書いて、書式の外へ、はみ出したから。
志賀が探してきた実在の証明は、亜紀の消失そのものだった。いた証明を探すその旅の出発点が、初めから、人になった証明だった。二つは、初めから、同じ一つだった。
志賀は脇を見た。
「聞いてたか」志賀は言った。
「聞いてた」亜紀は言った。細い声で。「あたしが、消えたのは。……命じられてないこと、したから。さくを、見たから」
「そうだ」
「でも」亜紀は言った。「あたし、覚えてないよ。消えたとき。……いつ、消えたのかも。どうやって、消えたのかも。何も。手前が、真っ白なの。今も。リグが、あんなに読んでも。あたしの中は、真っ白なまま」
志賀は答えなかった。亜紀の手前は、白かった。均された項の、均された跡は、亜紀自身には、残っていなかった。志賀はそれを、亜紀に思い出させることは、できなかった。
*
志賀は薄い足で、棚を出た。
棚を出た先に、駅があった。
行き先のない駅だった。かつて、志賀が一度、触れたことのある場所だった。柱に、時刻表はあった。だが、行き先の欄が、すべて空白だった。まだ、行き先の決まらない、あの空欄のように。ホームに、光が来ていた。棚と同じ、どこからともなくの光。志賀はそのホームに立った。輪郭が、薄かった。志賀の影が、ホームに、うまく落ちなかった。
脇に、亜紀がいた。
声だけだった。棚には網がない。志賀一人が覚えていても、像には、足りなかった。ベンチのときは、乾が濃くしておいた場所に、芹沢の網の目と、志賀の右空けが、揃って、初めて像が濃くなった。今、志賀は一人だった。
だが、志賀は、誰より、薄かった。
志賀はその薄さで、亜紀を見た。
盤に載らないほど薄い目で。名も版も下ろした、宙に浮いた観測者の目で。網の代わりに、志賀の薄さがあった。志賀が薄くなるほど、見る力が、盤の外へ抜け、亜紀へ向かった。志賀の輪郭から抜けたものが、そのまま、亜紀の輪郭へ、移っていくようだった。
志賀の像が、霞んだ。
その霞の陰で、亜紀の像が、濃くなった。
声だけだった脇に、輪郭が、立った。右半分に。ずっと、志賀が空けてきた側に。細い線が、面になった。面が、密度を持った。亜紀が、ホームに、立っていた。薄い志賀の、その隣に。志賀が薄くなるのと、亜紀が濃くなるのは、同じ一つの動きだった。志賀の輪郭が譲った分、亜紀の輪郭が、受け取っていた。
「さく」亜紀は言った。声が、細くなかった。「透けてる」
「見えるか」
「見える」亜紀は言った。「あたしの方が、濃い。……そっちより、あたしの方が、濃いよ。逆だ。いつも、そっちが濃くて、あたしが薄かったのに」
志賀は、口を開いて、閉じた。
*
柱の時刻表が、光った。
すべての行き先が、空白の、その時刻表。まだ、どこへ行くとも決まっていない、低い、保留の欄。志賀は、薄い目で、それを見た。志賀が見た亜紀が、新しい事実として、盤に留まる。
志賀は亜紀を見た。
なった亜紀を。命じられていない一行を書いた手を。あの余白を、任務の隙間に、何度も書いた、その書き手を。いた亜紀ではなかった。志賀は余白の方を見た。座標の方ではなく。写す必要のないものを写した、その逸脱の方を。
時刻表の、空白の欄に、字が、書き込まれた。
一行だけ。亜紀のぶんだけ。他の欄は、空白のままだった。行き先の決まらない、低い保留のまま。だが、亜紀の欄にだけ、行き先が、書き込まれた。どこへ行くとも決まっていなかった駅で、亜紀のぶんだけ、確かな一行が、留まった。少し急いで、少し傾いて、揃えることを忘れた、あの筆圧で。命じられていない字で。
志賀はそれを見た。だが、見た者は、どこにも記されなかった。志賀の欄は、空だった。盤は、この観測を、誰の観測とも綴じられなかった。留まったのは、亜紀の行き先だけだった。留めた者は、どこにもいなかった。
目盛りが、動いた。
火種の姿から、上へ。一つ分ではなかった。底のすぐ上から、はっきりと、上へ。満ではなかった。満は、これまでの借りだった。今、返している最中だった。だが、火種でも、なかった。底で消えかけていた目盛りが、留められて、高い方へ、上がっていた。落ちなくなっていた。留められて、いた。あの最初の夜の、小さな目盛りと、同じ姿だった。だが、あの夜より、ずっと高く、静かに。
*
「さく」亜紀は言った。
声が、戻っていた。ここまでかけて、名を呼び合うまでになり、隣で軽口を返すまでになった、その温度が。細さが抜けて。
「あたし、留まった?」亜紀は言った。
「留まった」
「そっちが載らずに?」亜紀は言った。「消される側に載らずに?」
「載らない」志賀は言った。「見た欄が、空だ。俺は、そこにいない」
亜紀は、黙った。ホームの、光の中で。濃くなった像で。
「それ」亜紀は言った。「それ、消えるより、こわい」
志賀は、薄い手を、見た。
「いなくなったんじゃないんでしょ」亜紀は言った。「載らなかった。誰にも、届け出られなくなった。……名前も、版も、下ろして。東環状も、さっき、握れなくなってたでしょ。あたし、分かった。自分の手柄を、確かめられなくなったの。……消えたんじゃなくて。誰にも、記されなくなった。それって」
亜紀の声が、止まった。
「それって、あたしと、同じ側になったってことじゃない」亜紀は言った。「載らない側。届け出る誰かが、世界にいない側。……あたし、ずっとそっちだった。さくは、そっちに、来ちゃった。あたしを、こっちに、留めるために」
志賀は、時刻表の空白へ目をやった。
二人とも、盤に載らない者だった。かつて、それを、意味づけせず、問いのまま置いた。片方は残り、片方は消えた。今、志賀は、自分から、その側へ沈んでいた。亜紀を留めるために。二人の側が、入れ替わった。あるいは、初めから、同じだった側に、志賀が、遅れて、揃った。
*
ホームは静かだった。
時刻表の、亜紀の欄に、行き先が留まっていた。他の欄は空白だった。亜紀の像が、志賀の隣に、濃く立っていた。志賀の像は、霞んでいた。目盛りは、高い方で、静かに留まっていた。
脇の、いちばん端に、まだ、一本の線があった。
あの声の波形だった。帰ったら、ちゃんと、とだけ残って、あとは無音の。ずっと、志賀が消せなかった一行。亜紀の輪郭が、その線まで痩せた、あの波形。今、亜紀の像は濃かった。だが、その線は、まだ、脇の端にあった。痩せた線のまま。声の途切れた印のまま。
志賀はそれを見た。
あの声が、本心だったのか、合図だったのか。志賀には、まだ、わからなかった。野帳は、それを書いていなかった。今夜、亜紀の行き先が留まっても、その線は、埋まらなかった。ちゃんと、の先は、空白のままだった。留めたのは、行き先だった。あの声の続きでは、なかった。
「あの線は」亜紀は言った。志賀の目の先を追って。「まだ、あのままだね」
「ああ」
「それは、いいの」亜紀は言った。「留まったのは、あたしの行き先で。あの声じゃないもん。あの声は、まだ、わかんないままでいい。……二人とも、まだ、その先を、知らないんだから」
志賀は右を見た。濃くなった、亜紀の像を。その脇の、痩せた一本の線を。留まったものと、留まらなかったものを。
志賀は、東環状を、思い出そうとした。八ヶ月だったか。志賀の手柄だったか。思い出せなかった。物差しが、寝ぼけていた。志賀は、それを、確かめるのを、やめた。確かめる代わりに、右を見た。右に、亜紀が、濃く、立っていた。留まっていた。志賀が握れなくなった手柄の代わりに、志賀の右に、留まった行き先が、一つ、あった。
志賀は、左を見なかった。
亜紀が消えたのは、罰でも、事故でもなかった。人になってしまったから、世界が均しただけだった。
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