第4話 観測させるための道具
付箋は、まだ開いたままだった。
柊の足音が消えてからも志賀はその場を動かなかった。棚と棚のあいだ。確定した場所の外側。同じ背表紙が何百と並ぶ列の前で、志賀は亜紀の項を開いていた。色の違う付箋。いちばん上の一語だけが志賀にも読めた。配置。その下に読めない編集記号が並んでいた。律儀に。何かをあるべき場所へ置くための印が。
志賀は端末を出した。画面は暗いままだった。その暗さの中に、応答欄だけが、薄く灯っていた。
長くいれば綴じられる、とリグはさっき言った。あんたを覚えてる声が脇にいるうちに戻れ、と。志賀はそれを覚えていた。覚えた上で、動かなかった。ここを出れば、この付箋はもう読めない。確定した場所へ戻れば、棚は棚に、付箋は付箋に、亜紀の項は書庫のどこにもない一冊へ帰る。志賀は監査官だった。読めない書式を前にして引き返す手を、体が知らなかった。
「リグ」志賀は打った。「残りを、読め」
応答欄は明るくならなかった。
「さっきは読むなと言った」志賀は打った。「もう遅い。柊が半分を置いていった。あんたも読めるはずだ。全部、読め」
応答欄が明るくなった。
——読めば、戻せなくなる。
「戻し方は、あんたもまだ言わない」志賀は打った。「だったらせめて、何を戻そうとしてるのかは知る」
応答欄はまた暗くなった。長い暗さだった。計算し切っているのに答えない、あの暗さだった。だが今夜のそれはいつもと違った。言えることを言って肝心を伏せる沈黙ではなかった。言うべきことを言うかどうか迷っている沈黙だった。
やがて応答欄が灯った。
——読む。だが読めるところまでだ。それより先は、私にも縛りがある。
「読め」志賀は打った。
*
——この項は、後から置かれている。
応答欄の文字は短かった。
——生まれた記録がない。育った記録もない。ある版からふいに、あんたの傍にいる。他の人々のように履歴の地に織り込まれていない。地の上に、後から置かれた。それは、あんたも見た。
「見た」志賀は打った。
——付箋は、その置いた者の印だ。何のために置いたか、どこへ置いたか、それを書式で記してある。監査の書式じゃない。届出の書式でもない。もっと上の、編集の側の書式だ。……その置いた者は、あんたたちの言葉を使わない。だから、あんたたちの言葉に置き換えて読む。
志賀は指を止めた。
——この項は、一人の男にこの棚を観測させ続けるために置かれている。
志賀は、その一行を二度なぞった。
——男は優秀な誤差だ。索引に載らない。消える点でも守る点でもない。盤の外にいる。盤の外にいる者だけが、盤の全部を外から見られる。……置いた者は、その男に見させ続けたかった。世界の履歴を。棚を。綴じ直されるその一つ一つを。だが盤の外の者は、放っておけば外へ出ていく。見なくなる。棚に興味を失う。……だから傍に一つ、項を置いた。
「傍に」志賀は打った。
——男が外へ出ないように。男が見ることをやめないように。傍に置かれた項が、男を棚へ繋ぎ止める。男が消えていく者を追い続けるように。追う先にいつも、その項がいるように。……男を観測に繋いでおくための項だ。
志賀は棚を見た。同じ背表紙の列を。何百通りもの志賀と、そのどれもの傍に後から置かれた項を。
志賀はここまでを思い返した。手が紅茶へ伸びた、あの朝。右を空けて眠った、あの夜。名が像を結んだ、あの照合の卓。声が返り、隣に座り、匂いを分かるようになった、あの川沿い。志賀はそれを、自分が取り戻したものだと思っていた。消えた相手を、自分の手で、追って、掘って、戻したのだと。だが付箋は、それも書式の内だと言っていた。志賀の取り戻しの、その一歩ごとが、初めから置いた者の書式の上をなぞっていたのかもしれなかった。
「その男は」志賀は打った。
——あんただ。
志賀は答えを打たなかった。分かっていた。あの列の中の、名前の欄が横棒の、左ではなく右に隙間を残していた、あの男。何百通りもの志賀。そのどれもの傍に亜紀がいた。少しずつ違う顔で。少しずつ違う町で。だが同じ癖で。同じ右の隙間に。
*
「じゃあ」
脇から声がした。文字起こしの脇。亜紀だった。ここまでついてきた声。棚の間の、どこにいるとも知れない場所から。
「じゃあ、あれ」亜紀は言った。「あたしを思い出したのも」
志賀は端末を握った。
亜紀は聞いていた。応答欄の読みを。脇から。志賀の傍で。
「最初、あたしの名前、忘れてた」亜紀は言った。「顔も。声も。ぜんぶ忘れてた。それでも手が紅茶に伸びた。右を空けた。そうやって少しずつ、あたしを思い出したんでしょ。像を結んで。声が返るようになって。……あれ」
亜紀はそこで一度切った。
「あれも、そうなの」亜紀は言った。「あたしが、思い出させたの。外へ出ないように。あたしを追い続けるように。……あたしが、繋いでたの」
志賀は答えなかった。
リグはそこから先を読まなかった。縛りだと言った、その先だった。だが読まなくても亜紀は自分でそこへ行き着いていた。二人の始まりそのものが、置いた者の書式の中にあったのかもしれない。志賀にはそれを打ち消す物がなかった。
「さく」亜紀は言った。「なんか、言ってよ」
「……ああ」志賀は言った。声に出した。応答欄でなく。棚の空気に。
「それだけ」
志賀は言葉を探した。見つからなかった。日付。版数。差分。短く返すのが志賀の癖だった。その短い返しさえ出てこなかった。
*
「またそれ」
志賀はその声を脇に聞いた。
「またそれでしょ」亜紀は言った。「なんでもないって顔で黙るの。……あたし知ってるんだから。黙るとき、たいてい、なんか——」
声が途切れた。
いつもならそこに軽口があった。またそれ、苦いだけでしょ。半分しか言わない。これまでずっと、亜紀はそうやって志賀の黙りを揶揄ってほぐしてきた。その軽口が今夜は途中で途切れた。揶揄う先がなかった。
「ちがう」
短かった。
「ちがうよ、これ。軽口で済むやつじゃない」
志賀は右を見た。誰もいなかった。棚には網がない。像は結ばない。声だけが脇にあった。その声が細くなっていた。ここまで押し上げてきた温度が、細さの分だけ退いていた。
「あたし、思い出そうとしたの」亜紀は言った。「ずっと。柊の人が来る前から」
「何を」
「あたしが、いつからいたのか。その前、どこにいたのか。生まれたのはどこ。育ったのは。……昨日も探した。今も探してる。なんにも出てこない」
志賀の呼吸が、一つ、変わった。
「右は覚えてる」亜紀は言った。「紅茶の癖も。半分しか言わないのも。でもその手前がない。あたし、その手前、どこにもいなかったみたい。生まれた記録がないの。あたしだけ」
志賀は端末を握ったまま動かなかった。
「みんな生まれてる」亜紀は言った。「ちゃんと始めからいる。育って、町に馴染んで、老いて。……あたしだけ途中から。後から挟まってる。付箋を貼られて。……その付箋になんて書いてあったか、さっき、リグが読んだ」
「あたし、探せば探すほど、何にもないの。顔とか、部屋とか、窓の外とか。……普通あるでしょ、子どものころとか。あたし、それが一枚もない。真っ白なの。右から手前が、ぜんぶ真っ白」
志賀は端末へ目を落とした。
棚の他の項には、生まれた町があり、育った家があり、窓の外の景色があった。亜紀の項にはそれがなかった。書かれる前の、まだ行き先の決まらない、あの空欄のように。
志賀は右を見ていた。声のする方を。
「さくを観測させるため」
声は平らだった。
「見させ続けるため。外に出さないため。……そのために置かれた。あたしが。傍に」
*
亜紀はしばらく黙った。
志賀はその沈黙を脇に感じた。棚の、どこからともなく来る光の中で。同じ背表紙の列の前で。
「わかった」
短かった。
「わかっちゃった」亜紀は言った。「あたし、なんで生まれた記録がないのか。なんで途中から挟まってるのか。なんであたしにだけ、色の違う付箋が貼ってあるのか」
志賀は答えなかった。
「……わたしは、君を観測させるための、道具だったんだ」
声は揺れなかった。叫びでもなかった。泣いてもいなかった。ただ平らにそこにあった。
志賀はその一語を脇に聞いた。道具。亜紀が自分をそう呼んだ。ずっと、軽口を返してきた声が。右をあたしの場所と言った声が。今、自分を道具と言った。
呼び方も、変わっていた。あたし、でも、さく、でもなかった。わたし。君。初めて聞く、他人の距離の言い方だった。
「亜紀」志賀は言った。
「いい」亜紀は言った。「言わなくていい。また、なんでもないって顔で嘘つくの、今はやだ」
志賀は口を閉じた。
「あたし、道具だったんだ」亜紀は言った。もう一度。確かめるように。「置かれたの。見させ続けるために。傍にいたのも、右を空けさせたのも、全部そのため。繋いでおくため。あたしがいたんじゃない。あたしは置かれてた」
志賀は何か言おうとした。言葉はいつもの速さで出てこなかった。亜紀が道具と言うのを、止める物を、志賀は持っていなかった。付箋は開いたままだった。
*
「ねえ」
声が細くなった。
「じゃあ、あの声も」
志賀は右手を握った。
「あの、通話の」亜紀は言った。「文字起こしの脇に残ってたやつ。ずっと消せなかったやつ。『帰ったら、ちゃんと——』。……あれも」
志賀は指を止めた。
「あれも、外に出すための、合図だったの」亜紀は言った。「ちゃんと帰ってこいって。ちゃんとまた出かけろって。追わせるための。観測に繋ぐための。……あれも、命じられた一行だったの」
志賀は答えられなかった。
あの声。履歴に一件だけ、消し残された四十二分。発信すると、現在使われておりません。文字起こしの欄に、帰ったら、ちゃんと、とだけ残って、あとは空白。再生は無音。志賀が消せなかった一行。声を選んだ。ずっと、留めてきた。その一行が今、亜紀の口から毒になって返ってきた。
あれは本心だったのか。あれは合図だったのか。
志賀にはわからなかった。あの声の続きを志賀は聞いていない。誰も聞いていない。ちゃんと、の先は空白だった。無音だった。その空白が本心だったのか合図だったのか、志賀には確かめる物がなかった。あると言えなかった。ないとも言えなかった。
「言えないんだ」
平らな声だった。
「言えないんだ」亜紀は言った。「本心だったって。……言えないでしょ。だってそっちも、あの続き、知らないもんね。あたしも知らない。あたしが言ったはずなのに。あたしはそれを思い出せない」
志賀は端末へ目を落とした。
「思い出せないの」亜紀は言った。「あたし、あの声、あたしが言ったはずなのに。帰ったら、ちゃんと、なんて。その先、なんて言おうとしたのか。ちゃんと、なんなのか。……覚えてないの。あたしが言った言葉なのに」
*
志賀は端末を見た。
目盛りがそこにあった。ここまでかけてゼロから満まで動いた、小さな目盛り。あの夜に満ちて、それから止まっていた。満が初めて退いた夜に、一つ退いた。次の夜は横ばい。そして今夜、また少し退いた。志賀はそれを返しの始まりとして見てきた。ほんの一つ分ずつの退き。
今、目盛りは退くのをやめていた。
落ちていた。
一つ分ずつではなかった。返しのゆっくりした退きではなかった。志賀が見ている、その前で、目盛りが内へ引いていった。満の縁が崩れるように。押し上げてきたものが、下から抜けていくように。志賀は指を画面に添えた。止められなかった。目盛りは志賀の指の下で痩せていった。
脇の声が細くなった。
「あたし、なんか薄くなってる」
「亜紀」志賀は言った。
「声、届いてる。あたしの声。なんか遠い。そっちが遠いんじゃなくて、あたしが遠くなってる。脇から離れてく」
志賀は文字起こしの欄を見た。
亜紀の声がそこに文字になって残るはずだった。脇に。いつもそうだった。亜紀が喋れば脇に文字が並んだ。今夜、その文字が短くなっていた。喋る量が減っていた。ここまでかけて名を呼び合う会話になり、隣で軽口を返すまでになった、その声が。短い応答に戻っていた。一語に戻っていた。
「あたし」
文字はそれだけ並んだ。
「あたし、置かれてただけなら」亜紀は言った。「戻す意味、ある」
志賀は答えられなかった。
「あたしを戻すと薄くなるんでしょ」亜紀は言った。「ずっと、削ってきたんでしょ。そっちの側を。右を空ける癖まで。あたしを濃くするために。……でもあたしが道具なら。置かれた項なら。削ったの、道具のためだったことになる。そんなの」
声が途切れた。
文字起こしの脇に、文字が並ばなくなった。
*
志賀は右を見た。
誰もいなかった。その声が細く、遠く、退いていた。志賀はその退いていく声を追った。追いつかなかった。
文字起こしの欄が変わっていた。
亜紀の声の並んでいた脇。そこに今は文字がなかった。代わりに一本の線があった。あの声の波形だった。ずっと、志賀が消せなかった、あの通話の。帰ったら、ちゃんと、とだけ残って、あとは無音の。再生しても鳴らない。その波形が脇にあった。
志賀はそれを見た。
波形は痩せていた。声のあった山も谷も平らになっていた。ただの一本の線だった。文字起こしの欄のいちばん端に残った、あの「——」。声の途切れた印。亜紀の輪郭がその一本の線まで退いていた。ここまでかけて声になり、像になり、匂いを分かるようになった、その全部が。文字起こしの脇の、無音の波形の、一本の線まで。
「亜紀」志賀は言った。
線は動かなかった。
志賀は右を見た。ずっと空けてきた右を。今、誰もいない、その右に。
志賀は右手をその空いた側へ置いた。
空気だけがあった。亜紀が座った夜、網が集まって密度が濃くなった、あの右。今夜そこには密度がなかった。ただの空いた場所だった。誰もいない右半分。志賀の手はその空気に触れた。掴む物がなかった。掌の中がいつもより空いていた。何を握ってもすかすかする、あの感触。志賀はその空いた右に手を置いたまま動かなかった。
*
「それでも」志賀は言った。
声は応答欄でなく棚の空気に出た。細い波形へ。誰も返さない一本の線へ。
「それでも、俺の右側はずっと空いてた。道具のために、ベンチの右を空ける奴はいない」
志賀はそれを一度だけ言った。
言い返すためではなかった。証明するためでもなかった。志賀には証明する物がなかった。付箋は開いたままだった。編集記号は否まれずに並んでいた。柊は満ちた先を見た者だった。志賀はまだ見ていなかった。だから志賀はそれを、亜紀のためにでなく自分のために言った。ずっと右を空けてきたことに縋るために。掴む物のない掌で、空いた右に手を置いたまま。
線は動かなかった。
志賀の言葉は届いたのか届かなかったのかわからなかった。亜紀の声は戻ってこなかった。文字起こしの脇に文字は並ばなかった。志賀の右に密度は戻らなかった。ただ無音の波形の、一本の線がそこにあった。志賀はそれでも手をそこに置いていた。ずっと空けてきた、その右に。誰もいない、その右に。
言ってしまってから、その言葉が心許なかった。志賀がそう思いたいだけなのかもしれなかった。付箋はそう書いていた。あんたを繋ぐために傍へ置いた、と。志賀の言葉はその付箋に勝てていなかった。
だが、それでも、と志賀は思った。手を右に置いたまま。右は、空いていた。それだけを志賀は握っていた。掴む物のない掌で。それだけを。
*
棚は静かだった。
同じ背表紙が何百と並んでいた。何百通りもの志賀と、そのどれもの傍に後から置かれた項と。付箋は開いたままだった。読めない編集記号が律儀に並んでいた。何かをあるべき場所へ置くための印が。リグは縛りの先を読まなかった。彼女がこれから何になるのか、あるいは初めから何でもなかったのか、リグは一言も足さなかった。読んだのは書式だけだった。
志賀は端末を見た。
目盛りはいちばん下にあった。ここまでかけて満まで動いた、その目盛りが。ゼロに戻ってはいなかった。だが満からはいちばん遠かった。押し上げてきた全部が下から抜けた、その底に。志賀はその底を見た。返しの、ゆっくりした退きではなかった。抜けだった。声が道具と自分を呼んだ、その一言で、下から抜けた。
リグは、戻れ、と言わなかった。さっきは言った。あんたを覚えてる声が脇にいるうちに、と。だがその声は、今、脇になかった。波形の一本の線に痩せて、志賀を棚から引く力を、失っていた。志賀を覚えている者が、志賀の傍で、自分を道具と呼んで、退いていた。棚は静かなままだった。引き返す手を、志賀の体は、まだ知らなかった。
文字起こしの脇に、波形の一本の線が残っていた。
志賀はその線をしばらく見た。
あの声。帰ったら、ちゃんと。その先は空白だった。本心だったのか合図だったのか、志賀にはわからなかった。亜紀にもわからなかった。亜紀は自分が言ったはずのその言葉さえ、思い出せなかった。
亜紀は、知って傷ついたのではなかった。
思い出せないまま、自分の根を疑っていた。志賀と、同じだった。
志賀は右に置いた手を動かさなかった。空いた側の空気を、掌でずっと覆っていた。そこにいたはずの温度を。今はもう退いてしまった温度を。志賀は左を見なかった。亜紀が座った夜は、右を見ればよかった。そこに亜紀がいたから。今夜も志賀は右を見ていた。だがそこには、無音の波形の一本の線しか、なかった。掌の下の空気は、もう、何の密度も返さなかった。志賀はそれでも、手を、上げなかった。
「わたしは、君を観測させるための、道具だった」——彼女は、自分が消された日のことすら、思い出せなかった。
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