第3話 索引に、亜紀がいない
あの列が、瞼から消えなかった。
同じ背表紙が、何百と並んだ列。志賀は昨夜、それを瞼の裏に並べたまま眠りに落ちた。朝、目を覚ましても、列はそこにあった。理由が、わからなかった。
監査官の仕事は、食い違いを正しい方へ寄せることだ。だがその前に、食い違いを見つける仕事がある。同じに見えて、どこかが違う。違って見えて、根が同じ。志賀の手はそういう反復を放っておけなかった。理由のわからない反復は、たいてい誰かが手を入れた跡だった。
志賀は、もう一度、書庫へ下りた。
*
地下は同じ匂いがした。古い紙と、黴と、埃。蛍光灯が二本、じじ、と鳴っていた。志賀は照明を確かめ、いちばん奥の列へ歩いた。昨日と同じ道だった。奥の壁まで二十歩もない。それを知った上で、歩いた。
二十歩を数えた。壁は来なかった。
棚が続いた。蛍光灯が、いつのまにか、なかった。光は棚と棚の間から、どこからともなく来ていた。志賀は足を止めなかった。今日は迷い込んだのではなかった。あの列を探しに来ていた。
「——また来たのか」応答欄の声が、ポケットから来た。リグだった。「今度は、自分から踏み込んだな」
「あの列を、確かめる」志賀は言った。
「——やめておけ、とは言わない」リグは言った。「言っても、あんたは来る。……だが、覚えておけ。ここは長くいれば、綴じられる。昨日と同じだ。あんたを覚えてる声が、脇にいるうちに、戻れ」
「分かってる」
「さく」脇から、声がした。文字起こしの脇。亜紀だった。「また、あの、本棚?」
「そうだ」
「あたしも行く」亜紀は言った。「っていうか、勝手についてく。一人だと、すぐ迷子になるでしょ」
「迷子だからな」
「素直」亜紀は笑った。その声が、脇にあった。像はなかった。網は、ここにはない。だが、亜紀の声だけが、棚の間まで、ついてきていた。志賀はその温度を頼りに、番号の繰り上がる方へ歩いた。
*
志賀は請求記号を頼りに歩いた。昨日あの列を見た角を、思い出しながら。棚はどれも同じに見えた。番号だけが少しずつ繰り上がっていく。志賀はその桁を追った。長い番号。志賀の書庫にはない桁の。
棚の角で、足が止まった。
同じ背表紙が並んでいた。昨日と同じ列だった。同じ色の、同じ厚みの、同じ背。棚の一列を埋めていた。百はあった。あるいは、何百と。志賀はその列の前に立った。今日は逃げなかった。
一冊、抜いた。開いた。
昨日と同じだった。台帳のようでも、日誌のようでもある綴り。日付。地名。出来事。誰かが生まれ、橋を架け、死んだ。志賀はページを繰った。昨日は、そこで手を止めた。今日は、止めなかった。読んだ。一冊の、始めから、終わりまで。
途中で、指が止まった。
その一冊の中に、志賀がいた。
名前の欄は横棒だった。「——」。だがその男には、癖があった。右を、空けていた。立つときも、座るときも、体の右側に隙間を残していた。誰もいなくても、右を空ける。志賀はその癖を知っていた。自分の癖だった。名前は横棒でも、その男は志賀だった。
志賀は隣の一冊を抜いた。開いて、同じ男を探した。いた。名前はまた横棒だった。だが右を空けていた。次の一冊も。その次も。同じ男が少しずつ違う人生を生きて、どの一冊にもいた。ある一冊では東環状を掘り起こしていた。別の一冊では、まったく違う町で、まったく違う仕事をしていた。だがどの男も、右を空けていた。名前の欄は、どれも横棒だった。
これは、志賀だった。何百通りもの、志賀だった。
昨日、志賀はこの列を、同じ一つの何かの、少しずつ違う版だと思った。今日、その何かが何なのか分かった。志賀の世界だった。志賀の生きているその一つが、何百通りにも綴じ直されて、この一列に並んでいた。少しずつ違えて。少しずつ直して。同じ男を、何百回も生かし直して。
喉が、乾いた。
*
志賀は、その綴りを、もう一度、始めから読んだ。
同じ男の傍に、もう一人、いた。
志賀は、その、もう一人を、目で追った。一冊ごとに、少しずつ違った。顔も、町も。だが、同じ癖があった。飲まない紅茶へ、手が伸びる。志賀の淹れたコーヒーを、苦い、と言う。志賀の右の隙間へ、当たり前のように、収まる。軽口を返す。志賀が半分しか言わないのを、半分だと、言い当てる。
手が、冷たくなった。
亜紀だった。
どの一冊にも、いた。名前は——読めなかった。だが、癖が、亜紀だった。何百通りもの志賀の傍に、何百通りもの亜紀が、いた。少しずつ違う顔で。少しずつ違う町で。だが、同じ癖で。同じ、右の隙間に。
志賀は綴りを持ったまま、しばらく動けなかった。昨日、瞼の裏に残ったあの列。あれは亜紀だった。志賀はそれを知らずに逃げた。今日、逃げずに読んで、知った。
志賀は、もう一度、隣の版を、続けて何冊か抜いた。今度は、亜紀の項の、余白を見た。どの版でも、座標の列の隙間に、一行あった。どの版にも同じ形で並ぶ、地名にも番号にもない、違う字だった。ある版では「左利きだ」と読めた。別の版では「今日は来なかった」。また別の版では、その版の志賀の、別の癖を書いていた。他の版にも、形を変えた余白があった。どれも、写すだけでいい項に、余分に足された、その版の志賀への、関心の一行だった。
ただ一つ、どの版の志賀にも、同じ癖があった。右を空けることだった。どの版にも、右を空ける志賀への関心が、違う言葉で残っていた。座標の列の外の、その同じ一点に、どの版の亜紀も、筆を割いていた。だが、それが何なのかは、まだ言い切れなかった。志賀は深く追わず、その一つだけを覚えて、次の頁へ移った。
志賀はその綴りを、監査官の目で読み直した。差分を拾う目で。同じに見えて、どこかが違うものを拾う目で。
一冊の中の他の人々は、履歴の始めからそこにいた。生まれ、育ち、町に馴染み、誰かと出会い、老いた。届出があり、版があり、根が張っていた。履歴の地に織り込まれていた。志賀の傍の男たちも、脇の女たちも、通りすがりの誰もが、始めからその一冊の中で生きていた。
だが、亜紀の項だけ、違った。
亜紀は履歴の途中から現れていた。生まれた記録がなかった。育った記録も。ある日、ある版から、亜紀は志賀の傍にいた。まるで後から挟み込まれたように。他の人々のように、履歴の地に織り込まれてはいなかった。地の上に、後から置かれていた。
*
その、置かれた項の脇に、付箋が、貼ってあった。
他の項にはなかった。生まれた記録のある人々には、付箋は貼られていなかった。亜紀の項にだけ、それは貼ってあった。色が違った。綴りの紙とも、他のどの印とも違う、別の色の付箋だった。後から誰かが貼ったものだった。
志賀はその付箋に、指をかけた。
開くと、中に記号が並んでいた。
監査の書式でも、届出の書式でもなかった。志賀の知らない書式だった。だが、書式であることは分かった。何かをあるべき場所へ正しく置くための印。誰かがこの項をここへ置いた。置いて、印をつけた。編集の記号だった。監査官の目でも、その書式は読めなかった。
志賀は、さっき抜いた隣の版を、もう一度開いた。その版の、亜紀の項。同じ色の付箋が、あった。開いた。同じ記号が、並んでいた。次の版も。その次も。顔も、町も、余白の文面も、版ごとに違うのに、付箋の色と、この編集の記号だけは、どの一冊でも、同じだった。同じ手が、同じ印で、この項を、置いて回っていた。
「リグ」志賀は、入力欄に打った。「この記号は、何だ」
応答欄は、明るくならなかった。
「リグ」志賀は、もう一度、打った。
——それは。
応答欄が、明るくなった。
——それは、いま、読むな。
「読める、のか」志賀は打った。
リグは答えなかった。計算し切っているのに、答えない。総量則を教えたとき、いつ請求書に載るかは言わなかった、あの沈黙に似ていた。リグはその付箋の記号を読めた。読めて、読むな、と言った。半分どころか、今日は一つも渡さなかった。
亜紀は言った。脇から。「なに、見てるの」
志賀は付箋を閉じた。
「なんでもない」
「嘘。なんでもない、って言うとき、たいてい、なんかある。……あたし、そういうの、分かるんだから」
「古い綴りだ」志賀は言った。「仕事の、途中だ」
「そう」亜紀は言った。それ以上は訊かなかった。だが、声の温度が下がっていた。志賀が何かを隠しているのを、亜紀は感じ取っていた。訊けば、また志賀に何かを返させる。返させれば、志賀が薄くなる。亜紀はそのことも、半分、知っていた。
*
棚の、暗がりの奥から、足音がした。
志賀は振り返った。棚と棚の間の、細い通路。その奥から、誰かが、来た。銀縁の眼鏡。地味な色のコート。手ぶらだった。柊だった。
志賀は身を硬くした。柊は川沿いにいた。整合室にも、電話をかけてきた。だが、ここは棚の中だった。確定した場所の、外側。志賀が低解像度化で滑り込んだ場所。そこに、柊が立っていた。
「こんなところで」柊は言った。静かな敬語だった。「お会いするとは。……いえ。お会いすると、思っていました」
「あんたも」志賀は言った。「ここへ、来られるのか」
「来られます」柊は言った。「私も、あなたと同じ側に立った者ですから。消えていく側に。……ここは、消えていく者が、片足を滑り込ませる場所です。あなたも、私も、一度、ここへ足を入れた。あなたは、まだ片足。私は、両足で、奥まで入りました」
文字起こしの脇で、亜紀の気配が、静かになった。柊が絡むと引く、あの静けさだった。亜紀は、脇にいた。だが、声を返さなかった。柊の前では、いつもの軽口を、しまっていた。
柊は、志賀の手元を見た。閉じた付箋を。その脇の、亜紀の項を。同じ背表紙の、何百と並んだ、あの列を。見慣れた物を見る目だった。柊が亜紀の名を知っていたのは、ここでだった、と志賀は思った。
柊は、微笑んだ。責める色のない、あの微笑だった。だが、その奥に、川沿いで一度だけ翳った、あの温度が、差していた。
「見つけたんですね」柊は言った。「その、付箋を」
*
「私も昔、その列の前に立ちました」柊は言った。
志賀は柊を見た。
「同じ背表紙が、何百と並ぶ列」柊は言った。「あなたが今、見ているものです。……一つの世界が、何百通りにも綴じ直された、その列。少しずつ違えて。少しずつ直して。……その、どの一冊にも、あなたがいる。名前は、横棒でしょう。でも、右を空けている。……そして、あなたの傍に、いつも、もう一人、置かれている」
「置かれている」
「置かれている、です」柊は言った。「生まれた記録は、ない。育った記録も。ある版から、ふいに、あなたの傍にいる。後から、挟み込まれたように。付箋の貼られた項として」
柊は、目を伏せた。それから、また上げた。
「私が戻した人も」柊は言った。「同じ書式でした」
志賀の指の力が、抜けた。
「後から置かれたものでした」柊は言った。「あなたの傍にいる人と、同じ手で。別の、あなたのような人のために。その人に世界を見させ続けるために、傍へ置かれた。……付箋の貼られた項として。私はそれを知りませんでした。知らずに戻しました。本物だと、信じて」
柊は、川沿いで閉じた半分を、今、開いていた。長いあいだ、誰にも言わなかったその半分を。
「最後まで戻しました」柊は言った。「満ちるまで。……あなたが今、あの目盛りでしているように。私も満ちるまで戻した。声も、姿も、匂いも、揃うまで。……そして、満ちた先に、何がいたと思いますか」
志賀は、口を開いて、また閉じた。
「誰も、いませんでした」柊は言った。
柊の声は静かだった。棚の間の、どこからともなく来る光の中で、その声だけがはっきりしていた。
「満ちた先に」柊は言った。「私が戻したのは、最後まで、置かれたものでした。命じられたことだけが、そこにありました。傍にいて、見て、報せる。それだけをしていた。湯呑みを、二度すすぐ癖も、ありました。……命じられた、手順の、とおりに。命じられていない一行は、どこにもなかった。……私は戻し切った記録を、隅から隅まで読みました。一行ずつ。任務の外の言葉を探して。……なかったんです。一つも。満ちるまで戻しても、その人は置かれたもののままでした。人には、なりませんでした」
志賀は、柊の声を聞いた。
「私は、それを知って、壊れました」柊は言った。「本物だと信じて、戻し切って。満ちた先に、人がいなかった。置かれたものが、置かれたもののまま、そこにいただけだった。……私は何を戻していたのか。何のために、自分の側を削っていたのか。わからなくなりました。名も、顔も、実績も、削って。削り切った先にいたのは、命じられたことしか書かれていない、一枚の項でした」
柊は、そこで言葉を切った。
「私が消す側に回ったのは、そのあとです」柊は言った。「戻し切った先に、人がいないなら。置かれたものを満ちるまで戻して、削られるだけなら。……なら、戻さない方がいい。覚えている苦しみから、解放してあげた方がいい。……あなたに川沿いで言ったことは、そういうことです。私は満ちた先を見て、あの言葉にたどり着いた」
*
柊は、志賀の手元の付箋を、見た。
「あなたの傍にいる人も」柊は言った。「同じ書式です。同じ手で置かれた。付箋の貼られた項として。私は先に、それを見たんです。あなたより、先に。……だから、言えます。満ちるまで戻しても、その先に人はいない。あなたが今、削っている、その分は。戻り切った先の、置かれたものに届くだけです。人には、届かない」
志賀は柊を見た。
「断る」志賀は言った。
だが、その声は、川沿いのときより細かった。
志賀は何か言い返そうとした。亜紀は、右を空ける志賀の隙間に、当たり前のように収まった。声も、姿も、揃った。ずっと空けてきた右に。……それは、置かれたものがするだろうか。志賀はそう言おうとした。
言えなかった。
柊が戻した人も、同じことをしただろう。傍にいて、見て、報せた。命じられたとおりに。志賀の右の隙間へ収まることも、命じられたことの一つかもしれなかった。傍にいて、見させ続けるために。志賀にはそれを打ち消す物がなかった。何もなかった。柊は満ちた先を見た者だった。志賀は、まだ見ていなかった。見ていない者は、見た者に言い返せなかった。
柊はその沈黙を、責めなかった。ただ、志賀の顔を、静かに見た。
「あなたも」柊は言った。「届け出る者のいない欄を、閉じてきたでしょう。監査官として。……誰も覚えていない者の欄に、横棒を引いてきた。閉じるしかなかったから」
志賀の指が、横棒の形を覚えていた。
その閉じてきた欠番の中に、亜紀のように後から置かれ、抜かれた誰かの番地が、あったかもしれなかった。置いた側が誰であれ、抜けた欄に横棒を引いて綴じたのは、志賀だった。柊は満ちるまで戻し、志賀は空いた欄を閉じた。逆の手のようで、同じ書式を触っていた。
柊は、それを言葉にしなかった。だが、志賀の顔を見て、微笑んだ。同じ側の者を見る、微笑だった。
*
「私は、今日は、ここまでにします」柊は言った。「あなたは、まだ、戻し切っていない。まだ、間に合う。……その付箋を、これ以上、読まない方がいい。読めば、あなたは、戻せなくなる。戻せなくなれば、あなたは、私のようになる」
柊は、棚の暗がりへ、一歩、下がった。
「一つだけ」柊は言った。「川沿いで、あなたは訊きましたね。私が戻した相手は今どこにいるか。……あのときは、言いませんでした。今日、その半分を置いていきます。……戻した相手は、もう、どこにもいません。満ちた先に人がいないと知って、私は戻すのをやめました。やめれば、置かれたものは、また薄れて棚へ帰る。……私は、自分で戻したものを、自分で棚へ帰しました。付箋の貼られた項を、閉じた。あなたが、欠番を閉じるように」
志賀は柊を見た。
「あなたには、そうなってほしくない」柊は言った。「自分で戻したものを、自分で閉じる。……あれは、二度としたくない」
柊の姿が、棚の間に下がっていった。足音が、遠くなった。
「また、お会いします」柊は言った。「あなたが、満ちた先を見る前に。……見てしまえば、もう、遅い」
柊の姿が、棚の暗がりに、消えた。足音も、消えた。あとに、同じ背表紙の列と、付箋の貼られた項が、残った。
*
「さく」
脇から、声がした。文字起こしの脇。亜紀だった。柊が消えて、亜紀の声が、戻ってきた。
「今の人」亜紀は言った。「なんか、やだ。……前から、やだったけど。今日は、もっと」
「もう、行った」志賀は言った。
「うん。……ねえ。さっきから、何、見てるの。あたしにも、ちょっと、見える。……本棚でしょ。傍にいる、あたし。……なんか、いっぱい、いる気がする」
志賀は付箋を閉じようとした。
「待って。その、色の違うの。……あたしのとこに、貼ってある。……他の人には、ない。あたしのとこにだけ、ある」
志賀は手を止めた。
「なんで。あたしにだけ、貼ってあるの。……他のみんなは、生まれてる。ちゃんと、始めから、いる。……あたしだけ、途中から。後から、挟まってる。……なんで?」
志賀は答えられなかった。
「あたし」亜紀は言った。声が、細くなった。「あたし、いつから、傍に、いたんだっけ。……思い出せない。生まれたのは、どこ。育ったのは。……なんにも、出てこない。……右の隙間は、覚えてる。紅茶の癖も。半分しか言わないのも。……でも、その前が、ない。あたし、その前、どこにいたの」
志賀は、亜紀の声を、脇に聞いた。
亜紀は思い出そうとしていた。だが、何も出てこなかった。探しても、探しても、履歴の地に、亜紀の根はなかった。地の上に、後から置かれた、その一点しかなかった。
「あたし、変?」亜紀は言った。
「変じゃない」
「嘘。また、なんでもない、って顔で、嘘つく。……あたし、他のみんなと、違うんでしょ。書式が。……あたしにだけ、色の違うのが、貼ってあるんでしょ」
志賀は、棚の背表紙へ目をやった。
「いい」亜紀は言った。「……無理に、言わなくて、いい。……あたしも、思い出せないし。……なんか、変だな、って。それだけ」
亜紀の声が、そこで、途切れた。
志賀は、脇の声が細くなったのを感じた。いつもの軽口の温度が、引いていた。ここまで押し上げてきた濃さが、その細さの分だけ退いていた。亜紀が自分の項に生まれた場所を探して、見つけられなかった。その分だけ、満から、また一つ、内へ引いた。志賀はその退いた一つ分を、自分の薄れと並べなかった。並べれば、また収支が出そうだった。志賀はその計算を、しなかった。
*
志賀は一人で、棚の間に立っていた。柊は消えた。亜紀の声は、細く、脇にあった。同じ背表紙の列が、目の前に並んでいた。何百通りもの志賀と、何百通りもの、後から置かれた亜紀と。
志賀は、もう一度、亜紀の項を開いた。
その脇の、色の違う付箋に、指をかけた。中の記号は読めなかった。編集の記号が、律儀に並んでいた。だが、柊の言葉が、志賀に一つだけ、読み方を渡していた。後から、置かれた。傍へ、置かれた。志賀はその一語を、記号の列の中に探した。
あった。
付箋の、いちばん上に、一つだけ、志賀にも読める印があった。他の記号は、読めなかった。だが、その一つだけ、読めた。
亜紀の履歴には、他の誰にもない一枚の付箋が挟まっていた。「配置」と読めた。
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