第2話 本棚のような場所
翌日、志賀は書庫へ下りた。
整合室の書庫は地下にある。古い台帳や電子化されていない綴りが書架に並んでいる。志賀は照合のために、五年前の決裁綴りを一冊、探しに下りた。請求番号は控えてあった。棚の列を番号の順に辿ればいい。何度もやっていることだった。
地下はいつも同じ匂いがした。古い紙と、黴と、埃の匂い。蛍光灯が二本、通路の天井で、じじ、と鳴っていた。志賀は照明のスイッチを入れ、書架の番号を確かめた。この階には五年より古い綴りが収めてある。志賀の探す一冊は、いちばん奥の列の下から三段目。控えの請求番号をもう一度読んだ。
書架の間を歩いた。請求番号が、棚の側面に貼ってある。志賀はそれを目で追った。番号は順に増えていく。志賀の探す綴りは、いちばん奥の棚のはずだった。奥へ歩いた。
棚が、続いた。
いつもより、奥が遠かった。書庫はそれほど広くない。奥の壁まで、二十歩もない。志賀はそれを知っていた。だが、歩いても、奥の壁が来なかった。棚が、続いていた。請求番号が、志賀の控えた番号を通り越して、まだ増えていた。
振り返った。入口が、遠かった。
来た道が、来たときより長くなっていた。棚の列が、志賀の後ろにも、続いていた。もう一度、奥を見た。奥も、続いていた。前も後ろも、棚だった。天井の蛍光灯が、いつのまにか、なかった。光は、棚と棚の間から、どこからともなく来ていた。
志賀は来た道を、数歩、戻った。数えて歩いた。十歩。二十歩。入口の光は、遠ざかるばかりで、近づかなかった。歩けば歩くほど、棚が、間に増えた。志賀は足を止めた。監査官の癖で、まず、自分の見間違いを疑った。だが、見間違いではなかった。棚は、確かに、続いていた。数えた歩数だけ、確かに、増えていた。
「——踏み込んだな」応答欄の声が、ポケットから来た。リグだった。「あんた、いま、確定した場所の外にいる」
志賀はポケットの端末を出した。画面は、ついていなかった。だが、声は、聞こえた。
*
「ここは、どこだ」志賀は言った。
「——本棚のような場所だ」リグは言った。「あんたたちの言葉で言えば、それが、いちばん近い。……棚だ。本が、並んでる」
志賀は棚を見た。
背表紙が、並んでいた。無数に。古書店の棚のように、高く、隙間なく。どれも、古い綴りの背だった。志賀の書庫にあるものと、同じ手触りに見えた。だが、数が、違った。書庫は一部屋だ。ここは、部屋ではなかった。棚が、どこまでも続いていた。
背表紙に、請求記号のようなものが貼ってあった。番号と、記号。志賀の書庫の請求番号に、似ていた。だが、桁が、多かった。長い番号だった。志賀はその一つに、手を伸ばした。
一冊、抜いた。
開いた。中は綴りだった。台帳のようでも、日誌のようでもあった。日付。地名。出来事。誰かが生まれ、誰かが橋を架け、誰かが死んだ。町ができ、戦があり、選挙があった。一冊の中に、一つの土地の長い履歴が綴じられていた。始めから、終わりまで。志賀は数ページめくった。紙をめくる音が、めくった指より、半拍遅れて、耳に返った。知らない地名ばかりだった。だが書式は、志賀の見慣れた台帳と同じだった。届出があり、版があり、差分を寄せた跡があった。
志賀はその一冊をしばらく持っていた。手に馴染む重さだった。表紙は硬く、綴じは糸で、角が擦れていた。
顔を上げた。棚は、上へも続いていた。天井は、なかった。あるいは、天井まで棚だった。左も、右も、上も、背表紙だった。一つ一つが、一つ分の履歴。志賀の立っているこの場所だけで、いくつの土地が綴じられているのか。数えようとして、やめた。数えられる数では、なかった。
ここにあるのは一つの町でも一つの国でもなく、もっと大きな何かの控えだった。
「これは」志賀は言った。
「——履歴だ」リグは言った。「一冊が、一つ分。……あんたのいる、その世界も、この棚のどこかに、一冊、ある」
志賀は手を止めた。
志賀は綴りを、棚に戻した。戻すとき、背表紙の請求記号が、目に入った。長い番号。志賀の世界にも、こういう番号が振られているのだろうか。
志賀はふと思った。この棚のどこかに自分の町の一冊があるなら、そこには、志賀朔という名も綴じられているのだろうか。東環状も、柳瀬も、あの川沿いのベンチも、一冊の中に、日付と地名と出来事として収まっているのだろうか。志賀はその一冊を、探したくなった。監査官の癖だった。記録があるなら、自分の版を確かめたくなる。
だが、請求記号は志賀の知らない桁で並んでいて、どこから探せばいいのか、見当もつかなかった。仮に見つけたところで、その一冊の中でも、志賀の名は横棒になっているかもしれなかった。志賀は探すのをやめた。
*
志賀は棚の間を歩いた。
戻り道を、探していた。だが、棚はどちらも同じに見えた。志賀は請求記号を頼りに歩いた。番号が、少しずつ増える方へ。あるいは、減る方へ。どこかに、入口があるはずだった。歩いた。棚が、続いた。
棚と棚のあいだは狭く、両側から迫る背表紙の壁が志賀の肩をかすめた。景色は変わらず、請求記号の桁だけが、少しずつ繰り上がっていった。
ある棚の角で、足を止めた。
同じ背表紙が、並んでいた。
一冊ではなかった。二冊でも、十冊でもなかった。同じ色の、同じ厚みの、同じ背表紙が、棚の一列を、埋めていた。百はあった。あるいは、何百と。全部、同じだった。同じ布の、同じ擦れ方の、同じ背。志賀はその列を、端から端まで、目で追った。始まりも、終わりも、同じ背表紙だった。
志賀はその一冊に手を伸ばした。抜いて、開いた。それから、隣の一冊も抜いた。開いた。二冊とも、よく似ていた。だが、同じではなかった。日付が、少しずつ違った。地名が、一つ、入れ替わっていた。出来事の順が、わずかに、ずれていた。同じ背表紙の中に、少しずつ違う履歴が、綴じられていた。
志賀は三冊目を抜いた。四冊目も。
癖だった。版と版の差分を拾うのが、志賀の仕事だった。同じに見えて、どこかが違う二つの記録があれば、志賀の手は、勝手に差分を探す。志賀は同じ背表紙を、次々に抜いた。並べて、見比べた。死んだはずの誰かが、次の一冊では、生きていた。ある一冊では起きた出来事が、隣の一冊では、起きていなかった。
同じ一つの何かの、少しずつ違う版のようだった。
志賀は手を止めた。仕事なら、ここで、どれが正しい版かを確定させる。食い違う記録を突き合わせ、正しい方へ寄せる。それが整合だった。だが、ここでは、どれも正しく見えた。どの一冊も、破綻なく綴じられていた。どれか一つを正しいと選ぶ根拠が、なかった。全部が、正しかった。全部が、少しずつ違った。
志賀はその列を、もう一度見た。
なぜ、同じ背表紙が、こんなに並んでいるのか。他の棚は、どの背表紙も、一冊ずつだった。この一列だけが、同じ背表紙で埋まっていた。何百と。志賀には、わからなかった。背筋が、冷たくなった。理由のわからない反復が、そこに、あった。
志賀は抜いた分を、棚に戻した。同じ背表紙の列から、目を逸らした。逸らしても、その列が、視界の端に、残った。
志賀はその列を背に、歩いた。速く。棚の角を、いくつも曲がった。曲がるたびに、別の棚が現れた。どれも、一冊ずつの背表紙で埋まっていた。もう、同じ背表紙の列は、なかった。だが、志賀は振り返らなかった。振り返れば、また、あの列が、どこかの棚に現れる気がした。何百と並んだ、同じ背が。
*
「さく」
脇から、声がした。文字起こしの脇。亜紀だった。
「そこ、どこ」亜紀は言った。「なんか、あたし、声、遠いところから聞こえる」
「わからない」志賀は言った。「棚の、間だ」
「棚。本棚?」
「そうだ」
亜紀の声は、脇にあった。像は、なかった。網は、ここにはなかった。川沿いの夜でも、川でもなかった。だが、亜紀の声だけは、脇から、志賀についてきていた。志賀はその声と、棚の間を歩いた。
「なんで、本棚なんかにいるの」亜紀は言った。「仕事?」
「仕事の途中だ」志賀は言った。「書庫に、下りた。……そうしたら、こうなった」
「こうなった、って」亜紀は言った。「たまに、そういう言い方する。日付、版数、差分、みたいな顔で、こうなった、って。……それ、迷子でしょ」
「迷子だ」
「素直」亜紀は言った。笑った。「まあ、あたしがいるから。声だけだけど。……一人よりは、ましでしょ」
「ましだ」
亜紀の軽口が、脇にあった。棚の連なりの、どこにいるとも知れない場所で、その声だけが、いつもの温度だった。志賀はその温度を頼りに、歩いた。声のする方が、たぶん、戻る方だった。
棚の連なりが、途切れた。
急に、開けた。棚の続きが、そこで終わっていた。志賀は広い場所に出た。屋根が、あった。長い、庇のような屋根。その下に、板張りの床が、まっすぐ続いていた。片側に、線路のようなものが、あった。志賀はそれが何か、すぐに分かった。
駅の、ホームだった。
人は、いなかった。列車も、なかった。ただ、ホームだけが、そこにあった。
志賀はホームを歩いた。板が、足の下で鳴った。古い駅だった。塗りの剥げた柱。錆びた庇の骨。ベンチが、一つ、ホームの真ん中にあった。木の、背もたれのある、古いベンチ。志賀はそれを見た。見覚えはなかった。だが、そのベンチの前に立ったとき、志賀の体は、いつもの癖で、腰かけるならどちら側に寄るかを、勝手に決めかけていた。誰もいないホームの、ありふれた木のベンチを前に、隣に誰かがいるかのように、片側を空けようとしていた。志賀はその癖を体の途中で押しとどめ、ベンチの前を通り過ぎた。
線路は、片側にだけあった。錆びていた。長く、列車の通っていない錆び方だった。線路の先を、志賀は目で追った。棚の暗がりの方へ、線路は消えていた。どこへも繋がっていないように見えた。
志賀はホームの柱を見た。柱に、時刻表が、貼ってあった。近づいた。
時刻表の、行き先の欄が、すべて、空白だった。
時刻は、並んでいた。何時何分、何時何分と、発車の時刻だけが、律儀に並んでいた。だが、その隣の、行き先の欄が、一つ残らず、空いていた。どこへ行く列車なのか、書かれていなかった。時刻だけがあって、行き先のない駅だった。
志賀は時刻表を、しばらく見た。
時刻表も一つの書式だった。何時にどこ行きの列車が来る。それを律儀に並べた記録。志賀は毎日そういう記録を扱う。届出も、台帳も、時刻表も、同じだ。誰かが決めたことを書式に収める。だが、この時刻表は時刻だけを収めて、行き先を空けていた。列車は来る。時刻どおりに。だが、どこへも行かない。あるいは、行き先がまだ決まっていない。決まっていないから、空欄なのか。志賀にはわからなかった。
空欄の並ぶ時刻表を、志賀は指でなぞった。行き先の欄を、上から下へ。どこも、空いていた。
行き先のない列車がこの錆びた線路に来るとは志賀には思えなかった。だが時刻だけは律儀に刻まれていて、いつか来るはずの列車を、この誰もいないホームがずっと待っているようにも見えた。
亜紀は言った。脇から。「あたし、今、そこ、見えてる気がする」
志賀はホームを見た。板張りの床に、影が落ちていた。庇の下の、薄い光で。影は、二つ、あった。並んで。志賀のいる場所から、二人分。
志賀は振り返った。隣に、誰もいなかった。だが、影は、二人分、あった。志賀の足元から伸びる影と、そのすぐ隣の、もう一つの影と。
志賀は自分の影を見た。
志賀の影の方が、薄かった。隣の、誰もいないはずの影の方が、濃かった。志賀の足から伸びているはずの影が、板の木目に負けていた。透けて、木目が見えた。もう一つの影は、透けていなかった。誰もいないのに、濃い影だった。
志賀はしゃがんで、自分の影に手を伸ばした。手の影が、板の上に落ちた。薄かった。木目が、手の影を透かして見えた。隣の、誰もいない影は、濃いままだった。志賀は自分の手と、その影を、見比べた。手は、ここにあった。だが、影が、追いついていなかった。志賀の輪郭が、影にまで、届き切っていなかった。
「ここ」亜紀は言った。脇から。声が、変わっていた。
「ここ、来たことがある気がする」
志賀は時刻表を見た。行き先のない時刻表を。それから、ホームを見た。誰もいないホームを。亜紀はここへ、来たことはないはずだった。志賀も、来たことはなかった。だが、亜紀は来たことがある気がする、と言った。
「来たことがあるのか」志賀は言った。
「わかんない」亜紀は言った。「わかんないけど。……なんか、この、行き先のない感じ。知ってる気がする。……気のせいかな。うん、たぶん、気のせい」
亜紀はそれ以上、言わなかった。志賀も、訊かなかった。来たことがある気がする、という一語だけが、脇に、残った。志賀はそれを、亜紀の気のせいとして、受け取った。受け取るしか、なかった。
だが、亜紀の声からは、さっきまでの軽口の温度が、抜けていた。来たことがある気がする、と言ったあと、亜紀は黙った。志賀はその沈黙を、脇に感じた。行き先のない駅で、亜紀は何かを思い出しかけて、思い出せずにいるようだった。だが、それが何かは、亜紀にも、志賀にも、わからなかった。
*
「——長居するな」リグは言った。応答欄から。
「戻り道が、わからない」志賀は言った。
「——ここは、編集の側だ」リグは言った。「あんたたちの世界の、外側。履歴が、並べて置いてある場所。……過去も、今も、これから起きることも、ここでは、同じ棚に、並んでる。あんたは、確定した場所から漏れて、ここへ滑り込んだ。低解像度化のせいだ」
志賀の仕事は、起きたことを正しい版へ確定させることだった。まだ起きていないことは、記録の対象ではなかった。だがこの場所では、まだ起きていないはずのことまでが、すでに一冊に綴じられ、棚に挿さっているのだという。志賀のように、行き先の欄がまだ空いたままの履歴も、あるのだった。
「編集の、側」
「あの駅は」志賀は言った。「行き先が、空いてた」
「——まだ、決まってないからだ」リグは言った。「ここでは、これから起きることも、棚に並んでる。だが、まだ綴じ切られてない履歴は、行き先が、空いてる。……あんたも、今、そうだ。低解像度化ってのは、そういうことだ。あんたの行き先が、まだ、埋まってない」
志賀は行き先のない時刻表を、思い出した。時刻だけがあって、行き先の空いた、あの欄を。志賀の欄も、今、空いていた。入館の時刻は残る。だが、その先が、埋まらない。志賀の履歴も、行き先の空いた、一つの時刻表になりかけていた。
「——長居すると」リグは言った。「あんたも、一冊になる。……ここは、履歴を綴じる場所だ。長くいれば、あんたの履歴も、綴じられる。一冊にまとめられて、棚に挿される。そうなったら、もう、確定した場所には、戻れない。……早く、戻れ」
志賀は棚を見た。無数の背表紙を。この、どこかの一冊に、自分が綴じられる。棚に挿されて、二度と抜かれない。志賀はその画を、思い浮かべた。
「戻り方は」志賀は言った。
「——観測だ」リグは言った。「あんたを覚えてる者が、あんたを見れば、あんたは確定した場所へ引き戻される。……幸い、一人、いる。ずっと、あんたの脇にいる」
志賀は脇の声を、聞いた。亜紀の声。文字起こしの脇の。ここまで、ついてきた声。志賀を、覚えている声。
「戻れる?」
「戻る」
「あたし、さくのこと、見てるよ」亜紀は言った。「ずっと、見てる。……脇からだけど。そこにいるの、あたし、分かる。だから、戻ってきて」
志賀は目を閉じた。亜紀の声を、脇に感じた。亜紀が、志賀を見ていた。覚えていた。誰もいないはずのホームに、亜紀の濃い影が、落ちていた。その観測が、志賀を、確定した場所へ引いた。棚の連なりが、遠ざかった。ホームが、薄れた。行き先のない時刻表が、消えた。二人分の影も。薄い方の影が、少しずつ濃さを取り戻した。
誰かに覚えられているというのは、こういうことなのかもしれなかった。志賀はこれまで、消えていく者を覚えてきた側だった。覚えている限りその場所はまだ消えていない、と老人が言った、その言葉の意味を、志賀は今、覚えられる側で受け取っていた。亜紀が脇で志賀を覚えているというただそれだけのことが、綴じられかけた志賀を、棚から引き戻していた。
*
志賀は書庫の、いちばん奥の棚の前に、立っていた。
蛍光灯が、点いていた。奥の壁が、二十歩の距離にあった。棚は一部屋分しかなかった。志賀の探していた綴りが、目の前の棚に、請求番号どおりに挿してあった。志賀はそれを抜いた。手が、少し震えていた。
天井の蛍光灯が、じじ、と鳴っていた。さっきと同じ音だった。何分あそこにいたのか志賀にはわからなかった。腕時計を見た。書庫に下りてから五分と経っていなかった。たった五分のあいだにあれだけの棚を歩いたことが志賀にはうまく信じられなかった。
綴りを持って、階段を上った。上りながら、一度、振り返った。書庫の棚は、ただの棚だった。一部屋分の。同じ背表紙は、一つも、なかった。
*
夜、帰りに、志賀は川沿いに寄った。網は集まっていなかった。像は、立たなかった。ベンチの右は、空いたままだった。志賀はそれでも、少しのあいだ、座った。
「いいよ」亜紀は言った。脇から。「今日、迷子だったし」
*
その夜、部屋で、志賀は目盛りを見た。
昨夜、満から一つ退いた、あの目盛りを。今夜は、そこから、動いていなかった。退いた位置で、止まっていた。増えも、減りもせず。横ばいの、目盛りだった。志賀はそれを確かめて、息をついた。今夜は、動いていない。それだけが、確かなことだった。
だが、志賀の頭には、あの一列が、残っていた。同じ背表紙が、何百と並んだ、あの列が。始まりも、終わりも、同じ背で。少しずつ違う筋書きを、同じ一つの背に収めて。
眠ろうとして目を閉じても、その背表紙の列が瞼の裏に並んだ。何百の、同じ背が。志賀にはまだ、それが何を意味するのか、見当もつかなかった。
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