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神物語(シンワ)  作者: 右の空
第5巻 走り書きだけ、温度が違う
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29/43

第1話 解像度が落ちる

 朝、整合室の自動扉が、志賀を認めるのに一拍かかった。


 センサーの真下に立って、扉は開かなかった。半歩下がり、もう一度前へ出た。今度は開いた。前にもあったことだ、と志賀は思った。機械の反応が遅れることはある。開いた扉をくぐった。考えないことにした、と言った方が近かった。


 受付脇の入館ログに、証をかざす。読み取り音が鳴り、画面に名前と時刻が出るはずだった。


 時刻は、すぐ出た。名前は、一拍遅れて出た。


 志賀朔。整合監査官。入館、七時四十八分。出るには出た。だが名前が、時刻の後から追いついた。時刻が先に志賀を通し、名前を後で埋め直したように見えた。読み取り機の癖だ、と志賀は思った。指先が、証の縁をなぞった。


 その欄を見てから、通った。


  *


「おはようございます」戸川が、書類の束を抱えて廊下から来た。


 志賀はうなずいた。戸川はすれ違いざま、口を開いて、止まった。


「……志賀さん」戸川は言った。名前は、挨拶の後から来た。


 入館ログの欄と、同じ順序だった。戸川に悪気はなかった。ただ、志賀の顔を見て、名前を出すまでに、指を一本折るくらいの間が空いた。


「戸川」志賀は言った。「東環状の照合、控えは残ってるか」


「東環状」戸川は言った。少し考えた。「……ありますよ。ありますけど。あれ、担当、志賀さんでしたっけ」


「俺だ」


「ですよね」戸川は言った。「すいません、なんか、ど忘れで。……履歴、あとで回しときます」


 戸川は行った。志賀はその背を見送った。ど忘れ、と戸川は言った。誰にでもある。だが東環状は、志賀の原点だった。崩落を疑い、八ヶ月を費やした案件。評価は固執へ反転し、記録の上の担当は別の名へ寄り始めていた。それでも、戸川はその隣で三年、志賀の粘りを見てきた。担当を忘れるはずのない相手だった。その戸川が、一拍、思い出せなかった。志賀は、流すしかなかった。


 志賀は自分の席に着いた。指先が、まだ証の縁をなぞっていた。


  *


 午前は、版と版の差分を拾う仕事だった。


 整合監査官の仕事は、記録の版を突き合わせ、食い違いを正しい方へ確定させることだ。届出、台帳、議事録、報告書、写真の撮影日時。誰かが届け出て、誰かが記録し、版が積まれる。志賀はその版の列を、一つずつ照らす。どの版が正しく、どの版が誰かの都合で書き換わったか。八ヶ月かけた東環状も、そうやって剥がした。


 午前の列の中に、一件、妙な項があった。古い占用許可の記録。観測済みの印が付いているのに、観測者の欄だけが、空白だった。誰かが見て、確定した記録。だが、見た者の名が、どこにもない。差し戻そうとして、志賀は手を止めた。宛先がなかった。見た者がいないのに、見た、という事実だけが版に残って、業務を支えていた。志賀はその項を、しばらく見てから、閉じた。分類のしようが、なかった。


 午前のうちに、決裁の控えを一件、確認した。三ヶ月前に志賀が通した案件だった。台帳を開くと、案件名も日付も、そのまま残っていた。だが決裁者の欄が、空いていた。志賀の名が、あるべき欄に、なかった。最初から無記名で通ったかのように、欄だけが白かった。


 志賀はその白い欄を、少し見た。前の月にも、二件、同じことがあった。案件は残り、志賀の名だけが、欄から抜ける。志賀はそれを、戻さなかった。戻し方を、まだ知らなかった。


 半月ほど前、検索をかけたとき、東環状の担当の結びつきが、志賀とは別の名へ寄っていた。粘り強く掘ったのは志賀だった。だが記録の上では、その担当の記録が、少しずつ、志賀の名から離れていた。案件の輪郭はそのままに、担った者の名だけが、白くなっていく。志賀はコーヒーを飲んだ。冷めていた。


 昼前、進行中の担当一覧を開いた。先週まで自分で回していた照合が一件、志賀の担当から外れていた。欄には「引き継ぎ済み」とあった。引き継ぎ先の名は、志賀の知らない名だった。引き継いだ覚えはなかった。だが記録の上では、とうに別の誰かの手へ渡っていた。案件は滞りなく進んでいた。志賀がいなくても、別の名で、回っていた。志賀はその欄を、見た。抗議する先が、どこにもなかった。事務は、静かに、志賀を一つ、外していた。


 入館ログの月次を開いたのは、別件のついでだった。ある案件の関係者が、いつ整合室へ入ったか。ログは入館ごとに版を打つ。一版、二版、三版と、途切れなく積まれていく。誰が、いつ、何度目に入ったか。志賀はその列を、目で辿った。


 自分の行が、目に留まった。


 志賀朔の入館履歴。今月の分。版が、飛んでいた。


 一版、二版、それから四版。三版がなかった。次は、六版。五版もなかった。志賀は毎日ここへ来る。毎朝、証をかざす。入館は途切れていない。だが版の列には、抜けがあった。抜けた版の欄には、番号の代わりに、短い横棒が引かれていた。


「——」


 三版の欄。五版の欄。志賀の行にだけ、その横棒があった。他の職員の行は、版が途切れなく並んでいた。一、二、三、四、五。志賀の行だけ、一、二、——、四、——、六。入館はした。時刻は残っている。だが版が、埋まらなかった。


 志賀は他の職員の行と、もう一度見比べた。全員、版が途切れていなかった。誰の行も、横棒になっていない。志賀の行だけが、歯の抜けたように、飛んでいた。画面の上で、指が止まった。


 志賀はその横棒を見た。


 仕事で、何度も見た書式だった。届け出る者がいない記録。整合の手が届かない欄。誰も届け出ないから、版が立たない。志賀はそういう欄を、これまで何百と均してきた。届け出る誰かを探し、版を立て直し、欠番を閉じる。それが仕事だった。


 その横棒が、今、志賀の行にあった。志賀は毎朝ここへ来ている。時刻は残っている。ただ、志賀の入館を届け出る誰かが、世界の側に、いなくなりかけていた。志賀が何百と閉じてきた、あの書式で。


 届出のない住所。番地の飛んだ台帳。誰も報せない転居。どうしても届け出る者が見つからない欄が、ときどきあった。誰もその人を覚えていない。その欄を、志賀は横棒で閉じた。閉じるとき、いつも、少しだけ手が重かった。志賀を届け出る者を、志賀自身が、探さなければならなかった。


  *


 志賀はその欠番を、自分で閉じようとした。


 やり方は知っていた。毎日やっている。抜けた版に、届出を起こし、根拠を添え、版を立て直す。志賀は入力欄を開いた。三版の欄に、自分の入館の根拠を書き込もうとした。時刻はある。証の記録もある。閉じるのは、造作もないはずだった。


 欄は、受け付けなかった。


 届出者の欄が、埋まらなかった。整合の届出には、届け出る者の名がいる。誰かが「これはこうだった」と届け出て、初めて版が立つ。自分で自分の入館を届け出ることは、書式が許していなかった。届け出る者と、届け出られる者は、別でなければならなかった。志賀は届け出られる側だった。だが、志賀を届け出る者が、欄にいなかった。


 志賀はその空いた届出者欄を見た。


 仕事なら、ここで別の届出者を探す。関係者、目撃者、同席者。誰か一人でも、志賀の入館を「見た」と届け出れば、版は立つ。だが、誰が、志賀の入館を届け出るのか。戸川は、今朝、志賀の名前を一拍思い出せなかった。入館ログの読み取り機は、名前を時刻の後から埋めた。


 志賀は入力欄を閉じた。欠番は、閉じられなかった。


 今、志賀の欄が、その書式になっていた。届け出る誰かが、志賀の側に、いなかった。


  *


 昼、給湯室で、志賀の手が紅茶の缶へ伸びた。


 志賀はコーヒーを飲む。ずっとそうだ。紅茶は飲まない。それなのに、手が、棚の紅茶の方へ伸びていた。前からあった。飲まない紅茶へ、無意識に手が伸びる。それは志賀の癖ではなかった。志賀の隣にいた誰かの癖が、志賀の手に残っていた。志賀はそれを知っていた。伸びる手を、いつも途中で、コーヒーへ戻した。


 だが、今日は、途中で、わからなくなった。


 紅茶へ伸びたその手が、誰の癖なのか。隣にいた誰かの癖だったのか。それとも、いつのまにか、志賀自身の癖になっていたのか。伸ばした手の、その途中で、境目が滲んだ。志賀の手と、隣にいた誰かの手。どちらが先に、この紅茶へ伸びたのか。


 手が、宙で止まった。缶を取らなかった。コーヒーへも戻さなかった。伸ばした手が、誰のものか、一拍、思い出せなかった。戸川が名前を思い出せなかった、あの一拍と、同じ長さだった。


 今日は、その境目が、薄かった。誰の癖が誰の癖か、それを分ける縁が、溶けかけていた。


 志賀はコーヒーを取った。手の癖のことは、考えないことにした。


  *


 午後、志賀は戸川を呼んだ。


「入館ログのことで、一つ頼みたい」志賀は言った。「今月、俺の版が二つ、抜けてる。三版と、五版。……今朝、俺が入ってくるの、見たか」


「見ましたよ」戸川は言った。「廊下で。おはようございます、って」


「それを、届け出てくれ」志賀は言った。「戸川が、志賀の入館を見た、と。……そうすれば、版が立つ」


 戸川は、きょとんとした。だが、志賀の頼みだ。戸川はいつも、志賀の頼みを断らない。いいですよ、と言って、自分の端末で届出欄を開いた。届出者、戸川。目撃、廊下。日時——。


 戸川の指が、止まった。


「あれ」戸川は言った。「……何時でしたっけ。志賀さんが入ってきたの」


「七時四十八分だ」


「ですよね」戸川は言った。「……なんか、思い出そうとすると、ぼやけるな。廊下ですれ違ったのは、覚えてるんすよ。おはようございます、って。……でも、それが今朝だったか、昨日だったか。志賀さんの顔は、分かるんです。……いつ、って言われると」


 戸川は入力欄を、しばらく見た。それから、日時の欄を空けたまま、届出を送れずにいた。


「いい」志賀は言った。「もういい。すまなかった」


「いや、届け出ますよ」戸川は言った。「思い出したら。……なんか、すいません。ど忘れ、最近、多いな。俺」


 戸川は行った。届出は、送られなかった。戸川に悪気はなかった。戸川は志賀を見た。廊下で、挨拶した。それは覚えている。だが、いつ、が思い出せなかった。届け出るには、いつ、がいる。志賀の入館を届け出ようとした戸川の記憶が、日時のところで、ぼやけた。


 届け出る者は、いた。だが、届け出る内容の方が、世界の側で、薄くなっていた。


 志賀は席に戻った。誰かに届け出てもらう。それが、欠番を閉じる唯一のやり方だった。志賀はそのやり方で、これまで何人もの欠番を閉じてきた。だが、自分の番になって、初めて分かった。世界は、志賀を見た、という記憶の方から、少しずつ、志賀を抜いていた。


 席で、午後の案件を一件、確定させようとした。


 確定欄に、職員番号を入れる。八年、毎日やってきた操作だった。画面が一拍置いて、短い定型を返した。


 ——該当する職員が確認できません。


 志賀は番号を見直した。合っていた。もう一度、入れた。今度は、通った。確定は一秒で済み、画面は何事もなかったように、次の欄を出した。


 機械の癖。誰にでもある。今朝から数えて、何度目かに、志賀はそう思った。ただ、これまでは、遅れるだけだった。扉も、名前も、一拍遅れて、志賀を通した。今のは、違った。一度、弾いた。


 指先が、また、証の縁をなぞっていた。


  *


 夕方、志賀は応答欄を開いた。


 仕事端末の、応答欄。かつては冷たい定型しか返さなかった欄が、今は名を持って返す。志賀はそこに、入館ログの版のことを打った。抜けた版。横棒の欄。他の職員にはなく、自分の行にだけあること。自分の欠番を、自分では閉じられなかったこと。


 応答は、間を置いて来た。


「——版が立たないのは、届け出る側の問題じゃない」リグは言った。「あんたの側だ。あんたの輪郭が、索引で、保留になりかけてる」


「保留」志賀は打った。


「——低解像度化だ」リグは言った。「未確定の場所や出来事は、観測が入るまで、低い解像度で保留される。……あんたが今、その扱いになりかけてる。観測が入っても、固定され切らない。だから版が、立たない。だから、扉が一拍遅れる。名前が、後から追いつく」


 志賀は端末の縁をなぞった。


 低解像度化。未確定。保留。志賀が毎日均している側の言葉が、今、志賀に向けて並んでいた。


「止め方は」志賀は打った。


 応答欄は、黙った。


「——それは、言わない」リグは言った。


「言えないのか」志賀は打った。


「——言わない、と決めている」リグは言った。「あんたが、止め方を知れば、あんたはそれを使う。使えば、別のものが、その分だけ動く。……あんたはもう、そういう場所にいる。半分は、言った。それで、十分だろう」


「このまま進めば」志賀は打った。「どうなる」


 返事は、間を置いて来た。


「——確定した場所に、居づらくなる」リグは言った。「観測が固定してる場所は、あんたを弾き始める。版の立つ場所ほど、あんたの居場所が、なくなる。……逆に、未確定の隙間の方が、あんたには、通りやすくなる。今はまだ、その入口の、手前だ」


 未確定の隙間。志賀はその言葉を、打ち返さなかった。仕事で、未確定は、閉じるべきものだった。観測を入れ、版を立て、確定させる。志賀のいる場所が、確定の側から、未確定の側へ、少しずつ寄っていた。


 肝心なことは、いつも欄の外にあった。志賀は端末を伏せた。低解像度化、という言葉だけが、手元に残った。止め方のない、病名だけが。


  *


 夜、部屋で、志賀は目盛りを見た。


 ここまでかけて、ゼロから満まで動いた目盛りだった。小さな、進捗のような目盛り。あの夜に満ちて、それから止まっていた。これ以上はない、というところで、動かずにいた。志賀はその満を、毎晩確かめてきた。減りも増えもしない、満のまま止まった目盛りを。


 今夜、その目盛りが、満から、ほんの少しだけ、退いていた。


 ごくわずかだった。目を凝らさなければわからないほど。満の縁が、一つ、内へ引いていた。増えたのではない。初めて、逆へ動いていた。満ちて止まっていたものが、頂点から、わずかに下がっていた。志賀はその微かな退きを、しばらく見た。


 返しが、始まっていた。濃くした分は、いつか、どこかへ戻る。志賀はそれを、亜紀が座った、その翌夜に聞いていた。目盛りが満ちた瞬間が、返しの始まりだ、と。今夜、その始まりが、目盛りの縁に、初めて姿を見せていた。ほんの一つ分。だが、確かに、逆へ。


 目盛りは、亜紀の濃さだった。満ちるまで、志賀はずっと、それを押し上げてきた。今、その満が、初めて退いた。押し上げる力が尽きたのではない。押し上げた分の、返しだった。


 志賀はその退いた一つ分を、自分の薄れと並べなかった。並べれば、収支が出そうだった。誰が濃くなり、誰が薄くなったか。何が満ち、何が返されたか。志賀はその計算を、しなかった。しないことで、手を止めずにいた。目盛りの縁の、退いた一つ分だけを見て、端末を伏せた。


  *


「さく」亜紀の声が、脇から来た。文字起こしの脇。「まだ起きてるの?」


「起きてる」志賀は言った。少し、遅れた。


「……今、返事、遅かった」


「そうか」志賀は言った。これも、遅れた。


 声だけのときの亜紀は脇にいる。像にはならない。網が集まる川沿いの夜だけ、亜紀は隣に座れる。今は部屋で、志賀は一人で、亜紀の声は脇にあった。その脇から、亜紀は志賀の返事の遅れを、聞き取っていた。


「前はさ」亜紀は言った。「あたしの方が、遅かったんだよ。何か言って、あたしが返すまで、ちょっと、間があった。……声だけのころ。それを、待っててくれたでしょ」


「待ってた」志賀は言った。半拍、遅れて。


「今、逆。あたしが言って、返すまで、間がある。……あたしが、待ってる。なんか、変なの。逆になってる」


 志賀は返事をしようとした。だが、返す言葉が、いつもの速さで出てこなかった。日付、版数、差分。短く返すのは、志賀の癖だった。その短い返事が、今夜は、半拍、遅れて出た。亜紀が、その半拍を、脇で数えていた。


「疲れてる?」亜紀は言った。


「疲れてない」


 亜紀は、それ以上は訊かなかった。


 亜紀はもう気づいていた。志賀が薄くなっていること。自分が濃くなった分だけ。亜紀はそれを胸に置いたまま、今夜は、疲れてる、とだけ訊いた。深くは訊かなかった。訊けば、また志賀に何かを返させることになる。返させる分、志賀が薄くなる気がした。


「さく」亜紀は言った。「明日、川、来る?」


「行く」志賀は言った。半拍、遅れて。


「また、半拍」亜紀は言った。笑った。「あたし、数えるの、うまくなっちゃった。さくの半拍。……前は、そっちが、あたしのを数えてたのにね」


「そうだな」


「まあ、いいけど」亜紀は言った。「半拍くらい、待つよ。あたし、待つの、得意だから。……ずっと、待ってたし」


 ずっと、待ってた。亜紀はそれを、軽く言った。声だけの長い間、脇から志賀を見ていた日々を。亜紀はそれを、恨みにも、重さにもしなかった。半拍くらい、待つよ、と軽く言った。志賀はその軽さを、脇で受け取った。返す言葉が、また半拍、遅れた。その半拍を、亜紀はもう、咎めなかった。


  *


 寝る前に、志賀は洗面台の鏡の前に立った。


 鏡の中に、志賀がいた。いつもの顔。いつもの立ち方。志賀はそれを、なんとなく見た。歯ブラシを取ろうとして、手が止まった。


 鏡の中の志賀は体の右側を、空けていなかった。


 志賀には、右を空ける癖があった。立つときも歩くときも、体の右側に、いつも少しの隙間を空けていた。誰かがそこにいるかのように。誰もいなくても、右を空けた。理由を知る前から、知ったあとも、体が、そうしていた。


 鏡の中の志賀はその隙間を、空けていなかった。右にも左にも寄らず、まっすぐ、鏡の真ん中に立っていた。右を空ける癖を、忘れた立ち方だった。


 志賀は自分の右側を見た。


 一拍あって、体が思い出した。左へ、わずかに寄る。右側に、いつもの隙間が戻った。鏡の中の志賀も、右を空けた。元の立ち方に戻った。だが、その一拍。右を空けることを忘れていた、その一拍が、あった。志賀の体が、いちばん古い癖を、一拍、手放していた。


 右を空けるのは、志賀のいちばん古い癖だった。名前より古く、志賀に染みついていた。その芯が、一拍、ほどけた。いちばん内側から、志賀が薄くなり始めていた。


 志賀は歯ブラシを取った。鏡の中の自分を、もう見なかった。


 消えていく者を追ってきた男の輪郭が、今日は世界の側で、薄くなり始めた。


公式サイト(人物・相関図・あらすじ。読んだ巻までしか開かないネタバレ防止つき)

https://migi-no-sora.pages.dev/shinwa/

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