第8話 戻すほど、消える
その週は、亜紀が、川沿いにいる夜が増えた。
網が集まると、亜紀は像になった。芹沢が声をかければ、柳瀬を覚えている者たちが、夕方の川沿いに目を向けた。見られている間、亜紀はベンチの右に座り、志賀の隣で川の向こうを見た。志賀は仕事を早く上げて、その右へ通った。名前を失ってから、ずっと空けてきた席が、埋まる夜が続いた。
亜紀は、少しずつ、隣の座り方に慣れていった。
「今日も缶コーヒー?」亜紀は言った。志賀が持ってきた缶を見て。
「悪いか」
「悪くないけど。毎日それ。……体、心配になるよ」
「心配するな」
「するよ。隣にいると、余計、気になるんだよね。声だけのときは、何飲んでるかまでは、分かんなかったから」
亜紀は自分の膝に手を置いた。像の手だった。少し薄い。だが、置けた。膝の上で両手を組むこともできた。缶は持てなかったが、自分の手を自分の膝に置くことはできた。亜紀はそれを夜ごとに確かめた。
「あたし、今日、髪、触れた」亜紀は言った。
「髪」
「うん。自分の髪。……こうやって、耳にかける感じ。ちゃんと、指、引っかかった。缶は持てないのに、自分の髪は触れるんだよね。変なの」
「そうか」
「そうだよ。自分の体は、あたしの体だから。缶は、世界の物だから。……なんか、そういう違いがある気がする。うまく言えないけど」
亜紀は膝の手を、もう一度組み直した。
自分の体には触れる。世界の物には長くは触れられない。亜紀はその境目を、夜ごとに一つずつ確かめていた。誰に教わったのでもなかった。缶を持とうとして滑り、自分の髪を触って引っかかり、その二つを並べて、自分で見つけた。
それに、と亜紀は思った。網が濃い夜ほど、指が世界に引っかかる気がした。大勢が川沿いを見ている夜ほど、缶にも、少しだけ近づけた。人の見ていない夜は、髪にすら、指がうまく引っかからなかった。あたしに近い物ほど、触れやすい気もした。世界の隅の、あたしに結びついた物ほど。うまく言えないけど、と亜紀は思った。でも、たぶん、そういう決まりだった。
*
志賀は、亜紀の前では、いつもどおりだった。
台帳のことは言わなかった。戸川が名を思い出せなかったことも。実績が別人へ寄っていることも。柊が止めに来たことも。志賀はそれを亜紀に隠していた。亜紀の前では缶コーヒーを飲み、川の向こうを見て、いつもの短い返事をした。亜紀はその平静を、いつもの志賀として受け取った。
だが、亜紀は、隣にいた。
声だけのときは脇からだった。文字起こしの脇。志賀の手元のスマホの、その脇。亜紀はそこから志賀を見ていた。だが今は隣だった。志賀のすぐ右。同じベンチ。同じ川。隣から見るようになって、脇からでは見えなかったものが見えるようになっていた。
亜紀は言った。「最近、疲れてる?」
「疲れてない」
「ほんとに?」亜紀は言った。「なんか、顔色、前より」
「変わってない」
「変わってるよ。あたし、隣で見てるんだから。……脇にいたときは、その顔、そんなにはっきり見えなかったの。今は、見える。すぐ隣だから。……前より、なんか、薄い気がする」
志賀は缶を止めた。
「薄い」
「うまく言えないけど。疲れてる、っていうのとも、ちょっと違う。……なんか、その、色が。……ごめん、変なこと言った。気のせいだよ」
亜紀は川の向こうを見た。志賀もそちらを見た。二人の間に、缶が一つあった。
志賀は亜紀の言葉を、疲れとして流した。前の夜、亜紀は志賀の輪郭を見て黙り、今夜は、薄い、と言った。像は少し薄い。その薄さを見慣れた目が、志賀まで薄く見たのだろう、と志賀は思おうとした。だが、亜紀の目は志賀の顔から、しばらく離れなかった。
*
その次の夜だった。
志賀は鞄から野帳を出していた。緑の野帳。掌サイズの、くすんだ緑。耐水紙の、日付のない一冊。志賀は川沿いのベンチで、その野帳を膝の上で開いていた。柳瀬の座標をもう一度確かめようとしていた。亜紀はその手元を、隣から見た。
「それ」亜紀は言った。「緑のやつ」
「野帳だ」
「知ってる」亜紀は言った。「その鞄から出てきたやつでしょ。……それ、ずっと持ってるよね」
「持ってる」
亜紀はその野帳を、隣から見た。志賀の指がページをめくった。座標が並んでいた。横に、手書きの地名。柳瀬の項だけ数行多い。書きかけで途切れていた。亜紀はその途切れた行を見た。
「これ」亜紀は言った。「途中で、切れてる」
「亜紀の字だ」志賀は言った。
「知ってる」亜紀は言った。「……なんで、そこで止めたのか、覚えてないけど」
亜紀は、その途切れた行を、しばらく見た。
書きかけで切れていた。自分がここまで書いて、その先を書けなくなった。志賀の指が、その行の下をなぞった。何も書かれていない、その下を。亜紀はその空いた行を、自分の置いていった続きを見た。
亜紀は言った。「この続き、書かないの?」
「書けない」志賀は言った。「亜紀の記録だ。俺の字じゃない」
「そっか」
亜紀は、その空いた行を、まだ見ていた。志賀は野帳を閉じかけた。だが亜紀は、その途切れた行から、目を離さなかった。
*
志賀が、席を立った夜があった。
缶を買い足しに、通りの自販機まで。少しの間だった。網はまだ集まっていた。亜紀は像のままベンチに残った。志賀の鞄がベンチの左に置かれていた。開いた口から、野帳の緑が覗いていた。
亜紀は、その緑を見た。
志賀はいなかった。ほんの少し離れただけだった。網は集まっていた。亜紀は像のまま、そこにいた。膝の上に手を置いていた。その手を、鞄の方へ伸ばしかけた。
野帳を、取ろうとした。
だが、手が、止まった。
缶は持てなかった。世界の物は長くは持てなかった。野帳も世界の物だった。亜紀の手は缶を滑らせた。同じように、野帳も滑るはずだった。持ち上げても、すぐに手が通り抜ける。亜紀はそれをもう知っていた。夜ごとに確かめてきた。
亜紀は、手を、膝に戻した。
*
志賀が戻ってきた。缶を二本、持っていた。一本を自分の側に置き、もう一本を、亜紀の側へ、少しだけ寄せた。
「持てないのに」亜紀は言った。
「置いとくだけだ」志賀は言った。「隣に、ある方がいい」
「へえ。変なの」
亜紀はその缶を見た。持てない缶。だが、隣にある缶。志賀が亜紀の側に置いた缶。亜紀はそれを、いい気持ちで見た。飲めなくても、隣にあった。
亜紀は言った。「さっき、あたし、その野帳、取ろうとした」
「野帳」
「うん。いない間に。……あの、書きかけの続き、あたしが書けないかなって、思って。手、伸ばした。……でも、やめた」
「なぜ」
「持てないから。缶も持てないのに、野帳、持てるわけないよね。……ペン、握れないよ。あたし。……握っても、たぶん、通り抜ける」
志賀は、膝の缶に目を落とした。
「そうか」
「うん。だから、やめた。……なんか、書きたい気がしたんだけどね。あの空いてる行に。……でも、書けないもんは、書けないから」
亜紀は、自分の手を見た。像の手。少し薄い。缶を持てない手。ペンを握れない手。亜紀はその手を、しばらく見た。
*
志賀が、また席を立った夜があった。
その夜も、亜紀はベンチに残った。網は集まっていた。志賀の鞄が左にあった。野帳の緑が覗いていた。亜紀はその緑を、もう一度見た。
書きたい、と思っていた。あの空いた行に。
なぜ書きたいのか、亜紀にもわからなかった。ただ、書きかけで切れたその続きを、埋めたい気がした。誰かが書けなくなった、その先を。亜紀はその気持ちを、うまく言えなかった。だが、書きたかった。あの緑の、あの空いた行に。一行だけ。
亜紀は、手を伸ばした。
鞄から野帳を、そっと引き出そうとした。像の手で。指を、緑の表紙にかけた。触れる感触があった。かけられた。亜紀はそれを、少しだけ動かそうとした。
動いた。
少しだけ。野帳が鞄の口から、少しだけ出た。亜紀の指がそれを引いた。缶よりは軽い気がした。あるいは、書きたいという気持ちの分だけ、指がいつもより粘った。亜紀は野帳を膝の上まで引き寄せた。
開いた。
柳瀬の項。書きかけの行。その下の、空いた行。亜紀は、それを見た。ここに、一行、書けば。誰かが書けなくなった続きを、あたしが。
だが、ペンがなかった。
亜紀は鞄を見た。ペンは鞄の別のところにあった。また手を伸ばした。ペンを探した。あった。細い、志賀のペン。亜紀はそれに指をかけた。
持ち上げようとした。
滑った。
缶と同じだった。ペンは亜紀の指を通り抜けた。触れる感触はあった。だが、握れなかった。持ち上げようとすると、手が通り抜けた。もう一度、指をかけた。もう一度、滑った。ペンは亜紀の手の中で、世界に引っかからなかった。
亜紀は、ペンを、諦めた。
*
だが、亜紀は、野帳を、膝の上に置いたまま、動かなかった。
ペンは持てなかった。字は書けなかった。だが、亜紀はその空いた行を、指でなぞった。像の指で。空いた行の上を、左から右へ。書くように。ペンを持たずに。何も残らないと分かっていて。
書けたら、何を書こう、と亜紀は思った。
考えても、決まらなかった。自分がなぜそこで止めたのか、亜紀は覚えていなかった。書きかけで切れたその先も、覚えていなかった。だが、書きたかった。この緑の、この空いた行に。あたしの字で。一行。あたしがここにいた、という一行を。
書けたら、と亜紀は思った。書けたら、あたし、ここに、残るのかな。
亜紀は、指を止めた。
書いても、たぶん、残らなかった。缶が持てないのと同じで、世界の物に亜紀は長くは引っかからなかった。字を書いても、書いた先から消えるのかもしれない。あるいは、ペンが持てないから、書き始めることすらできないのかもしれない。
書けるのか。書いても、残るのか。
亜紀はその二つの間で、指を止めていた。書きたいという気持ちと、書いても残らないかもしれないという境目で。空いた行の上に、指を置いたまま。書くでもなく、諦めるでもなく。
志賀が、戻ってくる足音がした。
亜紀は野帳を、そっと閉じた。膝の上で。それから、鞄の方へ戻そうとした。だが、手が滑った。野帳は亜紀の膝から、ベンチの上に落ちた。緑が、ベンチの木の上で、落ちた拍子に、開いた。
「落とした」
志賀が戻ってきて、それを見た。缶を置いて、野帳を拾った。開いたページを見た。柳瀬の項。書きかけの行。その下の、空いた行。何も書かれていなかった。志賀は、それを閉じて、鞄に戻した。
「取ろうとした」志賀は言った。
「うん。ごめん。勝手に。……書きたかったの。あの、空いてる行に。一行。……でも、ペン、持てなかった。字、書けなかった。……あたし、書けないんだね。この世界に」
志賀は、緑の覗く鞄に目をやった。
「そうか」
「うん。持てるかな、って思ったの。書けるかな、って。……試したかった。でも、駄目だった。……なんか、悔しいな。その隣に座れるのに、字は、書けないんだ。あたし」
亜紀は、自分の手を見た。それから、鞄を見た。緑の覗く、その鞄を。
「まあ、いいけど。座れるだけで、いいや。……字は、そっちが書きなよ。あたしの分も」
「書く」
「書いてよ。あたしが、ここにいた、って。……その字で。あたし、書けないから」
志賀は黙った。それから、うなずいた。
*
その夜だった。
網が少しずつ解け始めていた。夜が更けて、覚えている者たちの目が、一つずつ川沿いから離れていった。像は、観測の濃い間だけ濃かった。網が解けると、亜紀の像は少しずつ薄くなった。志賀はそれを知っていた。網が解ける前に、志賀はいつも、亜紀の像を目に焼き付けた。
だが、その夜、亜紀は、志賀を見ていた。
網が解けかけて、亜紀の像が薄くなり始めていた。亜紀は自分の薄くなる手を見なかった。志賀を見ていた。隣から、志賀の顔を。それから、志賀の輪郭を。亜紀の目が、志賀の顔の縁をなぞるように追った。
「さく」亜紀は言った。
「なんだ」
「そっち、薄い」
志賀は缶を止めた。
「像は薄い。網が解けかけてる。……亜紀が薄くなってるんだ」
「違う」亜紀は言った。「あたしじゃない。そっちだよ」
亜紀は、志賀を見た。
「あたし、薄くなってる。分かってる。網、解けてきたから。あたしの像、薄くなる。……でも、それとは、別。そっちも、薄い。あたしが薄くなるのと、別に。……その輪郭が、前より、薄いの」
志賀の呼吸だけが、先に戻った。
「気のせいだ」
「気のせいじゃない。あたし、隣で、毎晩見てるんだよ。その輪郭。……前の夜より、その前の夜より、薄い。少しずつ。……そっち、薄くなってる」
亜紀は、手を伸ばしかけた。
志賀の輪郭へ。その縁へ。薄くなっていく、志賀の輪郭へ。像の手を、亜紀は伸ばしかけた。志賀の顔の縁を確かめようとするように。あるいは、その薄さを押し戻そうとするように。
だが、手が止まった。
亜紀はその手を、志賀の輪郭の手前で止めた。伸ばしかけた手を。触れる寸前で。缶を持とうとして滑ったときのように。ペンを握ろうとして通り抜けたときのように。だが、今、亜紀の手を止めたのは、それとは違うものだった。亜紀はその手を、途中で止めた。志賀に触れる前に。何かに気づいて。
*
志賀は、その止まった手を見た。
亜紀の像の手が、志賀の輪郭の手前で止まっていた。触れる寸前で。初めて座った夜、志賀は亜紀の像に手を伸ばしかけて、缶を寄せた。あの夜、志賀の手は空けた右のすぐ隣へ伸びた。あのとき、伸ばしたのは志賀だった。空けた右へ、志賀が手を伸ばした。
今、伸ばしかけて止めたのは、亜紀だった。
志賀の右隣に座った亜紀が、志賀の輪郭へ手を伸ばしかけて、止めた。志賀が空けてきた右。その右に座った亜紀が、今度は志賀の側へ手を伸ばした。志賀の薄くなる輪郭へ。そして、途中で止めた。
「なんで」亜紀は言った。「なんで、そっち、薄くなってるの」
志賀は川の向こうへ目をやった。
「あたし、濃くなった。座れるようになった。声も、姿も、匂いも。……戻してくれたから。あたし、濃くなった。……なのに、そっちが、薄い。あたしが濃くなった、その分」
「その分」
亜紀は止めた手を、引いた。それから、自分の手を見た。濃くなった、自分の像の手。座れるようになった手。それから、志賀を見た。薄くなっていく、志賀の輪郭を。
亜紀は、二つを、並べた。
自分が濃くなったこと。志賀が薄くなったこと。亜紀はその二つを、隣で毎晩、別々のこととして見てきた。だが今、その二つを並べた。同じ夜に起きた、二つのことを。片方が濃くなり、片方が薄くなる。同じだけ。
誰も、亜紀に教えなかった。志賀は隠し、乾も芹沢も言わなかった。リグの言葉は、いつも半分で止まっていた。
だが、亜紀は、隣にいた。毎晩、同じベンチで、自分の濃くなる手を、志賀の薄くなる輪郭の隣に見てきた。亜紀はそれを、自分で見つけた。
*
「さく」
志賀は、口を開いて、閉じた。
「あたしを戻すと」亜紀は言った。「そっちが、薄くなるの?」
志賀は動きを止めた。網がほとんど解けていた。亜紀の像が薄くなっていた。だが、亜紀はその薄い像の目で、志賀を見ていた。まっすぐに。志賀の輪郭を。
「そうなの? あたしが濃くなる分、そっちが薄くなる。……そうなの?」
志賀は亜紀を見た。薄くなっていく像を。だが、その目だけは薄くなかった。志賀を見る、その目だけは。
志賀は否定しようとした。気のせいだ、と。前の夜まで、そう言ってきたように。台帳のことも実績のことも隠し、薄い、という亜紀の言葉は、気のせいにして流してきた。今夜も、そう言おうとした。気のせいだ、と。像が薄いから、俺まで薄く見えるんだ、と。
だが、志賀は、言えなかった。
亜紀の目が志賀を見ていた。薄い像の、薄くない目が。亜紀は自分で、そこまで来ていた。志賀はその目の前で、それを、気のせいにできなかった。
「亜紀」志賀は言った。
「言ってよ。気のせいって言わないで。……いつも、そうやって流すでしょ。日付、版数、差分、みたいな顔で。……今日は、流さないで。ちゃんと、言ってよ」
志賀は黙った。
「戻し切るな、と」志賀は言った。「乾が、言った」
「乾さん」
「柊は」志賀は言った。「手放せ、と言った。……世界へ綴じ切る前に。……亜紀を、手放せと」
亜紀は、それを聞いた。薄い像で。だが、目は、薄くなかった。
亜紀は言った。「あたしを戻すと、そっちが、消えるの?」
志賀は答えなかった。
だが、その答えないことが、答えだった。亜紀はそれを受け取った。志賀が否定しなかった。気のせいだ、と言わなかった。それが、答えだった。亜紀は自分で並べた二つのことが、正しかったことを、志賀の沈黙で知った。
二人で一つの探偵は、完成していた。声も、姿も、匂いも。名前を失ってから、ずっと空けてきた右に、亜紀は座った。だが、完成したがゆえに、片方が消えていく。亜紀が濃くなった、その分、志賀が薄くなる。
*
亜紀は、志賀の輪郭を見た。
薄くなっていく、その輪郭を。網が解けて、亜紀の像も薄かった。だが、二人の薄さは違った。亜紀は、明日また濃くなる。志賀は、戻らない。
亜紀は伸ばしかけた手を、もう一度見た。
志賀の輪郭へ伸ばしかけて、止めた手。亜紀はなぜ止めたのか、自分で分かっていた。触れて、志賀の薄さを確かめれば、あるいは押し戻せれば、と思った。だが、触れれば、また志賀を戻すことになる気がした。触れることも、志賀を薄くする気がした。だから、止めた。
あたしが、いなくなれば、と亜紀は思った。
亜紀はその考えを、胸の中に置いた。あたしが濃くなるのをやめれば。座るのをやめれば。そっちは、薄くならずに済むのかな。……座れるようになった自分が、座るのをやめる。その考えを、亜紀は志賀に言わなかった。まだ。
亜紀は自分の手を見た。座れるようになった手。濃くなった手。志賀が薄くなった分だけ、濃くなった手。亜紀はその手を、引いた。膝の上に。組んで。それから、志賀を見た。
「さく」亜紀は言った。
「なんだ」
「あたし」亜紀は言った。
亜紀はそこで言葉を切った。あたしが戻り切らなければ、と言おうとした。あたしがここで止まれば、と。だが、言わなかった。まだ、言わなかった。胸の中に置いたまま、亜紀はその先を飲み込んだ。
「ううん」亜紀は言った。「なんでもない」
だが、その横顔に、初めて座った夜とは違う何かが差していた。あの夜、亜紀は志賀の輪郭を見て黙り、何か言いかけてやめた。あのときは萌芽だった。今夜、亜紀はそれを、言葉の一歩手前まで進めていた。座れるようになった自分が座るのをやめる、その考えを、亜紀は自分で選びかけていた。
*
網が、解けた。
亜紀の像が薄くなった。ベンチの右半分が、また空いた空気に戻った。志賀はその右を見た。亜紀の姿は、もうそこになかった。だが、声はまだ脇にあった。文字起こしの脇へ、亜紀の声が戻っていた。
亜紀は言った。脇から。「聞いていい?」
「なんだ」
「あたしを戻すの」亜紀は言った。「やめたら、そっち、戻る?」
志賀は黙った。
「わからない」
「わからないんだ」
「わからない」志賀は言った。「リグは、計算し切ってる。だが、俺には、わからない。……戻すのをやめたら、どうなるか。……誰も、言わない」
「そっか」
亜紀は、脇から、しばらく黙った。
亜紀は言った。「あたし、座れて、よかったって、言ったよね。この前。右、あったかいって」
「言った」
「あれ」亜紀は言った。「今も、そう思ってる。座れて、よかった。……でも」
亜紀は、そこで、黙った。
「でも、そっちが薄くなるなら」亜紀は言った。「あたし、座らない方が、よかったのかな」
志賀は答えなかった。
「あたしが座った分」亜紀は言った。「そっちが、薄くなった。……あたしを戻すほど、そっちが、消える。……そういうこと?」
志賀は応答欄を、ポケットの中で感じた。だが、開かなかった。亜紀の声を、脇で聞いていた。亜紀は自分で、そこまで来ていた。誰にも教えられず。志賀はそれを遮れなかった。
*
志賀は、川沿いに、一人で立っていた。
いや、一人ではなかった。亜紀の声が脇にあった。像は消えたが、声はまだそこにあった。志賀はその声と、川の向こうを見た。橋本町の灯り。前の夜まで、志賀の右に亜紀が座って、一緒に見た灯り。今夜、その右は空いていた。だが、亜紀の声は、脇にあった。
「さく」亜紀は言った。脇から。
「なんだ」
亜紀は、黙った。
志賀は待った。亜紀が何を言うのか。像は消え、声だけが脇にあった。初めて座った夜、志賀の輪郭を見て黙り、その次の夜、座れてよかった、と言った、あの声。今夜、その声は、自分で収支を並べていた。誰にも教えられず。隣で毎晩見てきたものを、自分で並べて。
志賀は、亜紀が気づいたことを、知った。
「さく」亜紀は言った。脇から。声が、静かだった。
「あたしを戻すほど、さくが消える」——亜紀が、初めて自分で、気づいてしまった。
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